昭和30年代、私はキリスト教青年会YMCAの学生寮にいたから、ナイトクラブのような酒と女のいる場所とは縁がなかった。当時、そういう仲間がいない。
「行ったことないのか。行ってこい。オレが電話しておく」
「中津へ帰ったら行ってみろ」
従兄の正雄さんは、奥さんの姉さんがママをやっている店へ行ってみろ、と盛んに勧めてくれた。これは私のカタブツを直そうとする好意だな、と感じた。
しかし、奥さんの姉さんは、山口組系の中津川組長の奥さんだから、店の雰囲気はおよその見当はついていた。
今はどうか知らないが、たちの悪い人に困っている時は組長に頼むと、誰か配下を寄越して仲介して解決する。そんなこともできたと聞く。警察に頼むより簡単だと言っていた人もいた。
帰省した夏、薄暮のころ、洗いたてのワイシャツで一人で出かけた。
栄町の映画館「日活」の隣りだからすぐわかる、と言われた。確かすぐわかった。「ブラック愛」は案外大きな店構えだった。そのナイトクラブの重いドアを押した。
ドアを開けると、音楽が響いてきた。冷房のスモークが焚かれているような室内だった。カウンターだけに明かりがついている。まだ客が少ない。どうしていいのかわからず、近くのソファ座ってしまった。
よくわからないまま、しばらく待つと、姐さん、つまりママが出勤して来た。
40代だろうが、正雄さんの奥さんの姉さんのはずだが、年下かと思わせる化粧だ。オレみたいな初心なら、いくらでも騙せるだろう。
一応「東京のKさんに紹介されて」と説明すると、ママにカウンター席へ案内された。ボックス席にお金もない若造に座られては商売の邪魔だろう。如才ない接客ではあるが、あまり歓迎されていないものも感じた。
その日はキャンペーン中とかで、カウンターで呑み放題のビールをあてがわれた。話し相手もいないし、場違いな雰囲気に飲み込まれて困った。
カウンターの後ろのボックス席では、薄手の衣装をまとった女の子が若い男を接客していた。
従兄の正雄さんはこの店へよく顔を出している。だから、こういう世界も知っておけ、と勧めてくれたワケがわかったような気がした。
東京から電話と言われて出ると、従兄の正雄さんだった。
「ゆっくりしていけよ」と言われても、尻が落ち着かない。
いつだったか、正雄さんと一緒に寿司屋さんに入ったことがある。
気がつくと、いつの間にか、正雄さんは店の女性と話をして親しくなり、常連のように盛り上がっていた。座を和ませる特技を持っていた。そんなことを思い出した。
そのとき、カウンターの中から、自衛隊の制服を着た青年が出てきた。
お互いに顔を見合わせ「エッ?ヤア」と挨拶した。
今電話が掛かってきた正雄さんの長男C君だった。やっと会話のできる相手を得て、尻が落ち着いた。
自宅の貴金属加工の商売を継ぐ前に、精神を鍛えろという親の意向で自衛隊に入隊して二年目だった。若いわりに、こういう酒の席にはなれているようだった。
二時間ほど経つと、暗さにもなれて、ホールの様子やボックス席の中がやっと見えてきた。
薄手の衣装を着た女の子が若い男の膝の上にまたがっている。
地元中津川出身ホステスでは出来ないだろう。客のお金を引き出すテクニックだろうが、大胆。
そんな分析をして、冷静に見ている自分を感じた。
C君と喋って、タダでビールを飲ませてもらい、二時間。まあ、あまりうろたえたりも、大してしくじったりもせず、帰って来られたかな、と思う。
それから三十年後である。
従兄の正雄さんは、数年前、70代半ばで亡くなった。
葬式のとき「ブラック愛」のママという人を見た。
あのときの妖艶さも、組の姐さんという威光もなかった。店をたたんでしまったせいか、あるいは昼見たせいか。
とにかく時の流れは、すべて流れ去ってしまったようだ。元ママさんは私がビールご馳走になったことなど、微塵も覚えているはずもない。
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