戦後、中津川市野球事情

三菱の吉田さんはモーションが大きく独特のスタイル


 野球というものを教えてくれたのは、近藤家具(本町)のアキちゃんだった。たった数歳しか違わないなのに、ボールの投げ方、バットの振り方、よく面倒を見てくれた。

 最初は野球といっても布切れのボールと木切れのバットが道具であった。この布切れボールは、芯に木を入れて糸で巻き、次に布で巻き作っていた。軟球が普及するまで、自分たちで作ったボールとバットで遊んでいた。当時スポーツ店では革製ではなく、布製のグローブが多く売られていた。

 蒸気機関車が中央線に走っていた頃、桃山町に機関区の石炭置広場があった。本当は子供が入り込んで遊ぶ場所ではなかったが、子供はお構いなく入り込んでいた。子供が野球するのに丁度いい場所だった。広さから言ってセカンドが作れないから、一塁の次が三塁の三角ベースだった。打球が石炭の山を越えればホームランになった。

 小学6年が一番上で、小2や小3あたりのペイペイは球拾いをやらされたが、それでもたまには打席に立たせてくれた。時にはボールを投げさせて競わせた。

 「ツネはコントロールがいい」
 「イサオは足が早い」と
 小学生が小学生を上手におだてながら教えてくれた。
 そうやって遊びの伝承を受けていた。親切に野球を教えてくれたアキちゃんは、中3卒業した春、落合へ家具配達の途中に交通事故で早逝した。

 大人の野球も盛んだった。
 中津市内の大手の会社はチームを持っていて対抗戦をやっていた。
 その中でも強かったのは三菱の野球部、まるで中津の巨人軍のようなチームだった。これに対抗するのが王子(本州)製紙、あるいは(中津川)機関区チーム。あの頃は北恵那鉄道チームもいた。近江絹糸チームも参加していた。

 試合場所として大抵は二中のグランドを使っていた。
 かなり一塁線に近い場所まで人が寄って見ていた。それは今で言えば、プロ野球を見ている気分であった。

 三菱のピッチャーは近江屋(本町)の背の高い人(吉田さん)、モーションが大きく足をはね上げて、独特のスタイルで投げていた。
 ヒューッ・・・・バシッ
 
その投球は風を切る音がして、キャッチャーのミットに入った。吉田ピッチャーは多くの三振を取って三菱の勝利に貢献していた。

 その腕にほれ込み、読売巨人軍からスカウトされたという噂だった。それはいかに凄腕の投手の証明みたいなものだった。しばらくすると、「二軍暮らしになるから行かなかった」と、噂されていた。

 機関区のチームも特徴があった。
 ピッチャー(栗本さん)は肌の浅黒い人で、剛速球を投げていた。ショート(中村さん)は小柄で陽気な人で、すばしっこいのが印象的だった。

もう一人、中津の野球を盛り上げてくれたのは、アンパイヤー(遊佐さん)だ。

 当時は審判というよりアンパイヤーということが多かった。数年前まではストライクを「一本」、ボールを「ダメ」と言っていた反動か、英語を使うことが多かった。英語コンプレックス故に、野球では英語が妙に多かったように思う。

 その審判は大げさな身振りで
ストライーク!
 と言った。「言った」というより「叫んだ」というほうがよいかもしれない。
 セーフ、アウトのジェスチャーも大げさだった。
 マスクやプロテクターを小道具にして劇をやっているようだった。
 そのアンパイヤーは岐阜タイムス(倉前町)支局の遊佐さんだった。この人によって、中津の野球に華やいだ雰囲気がもたらされていた。

 「オール中津川選抜チーム」がノンプロチームと戦ったことがある。
 
中津の企業チームから優秀な選手を選んで作った「オール中津川選抜チーム」対、名古屋から来たチーム。今でいうノンプロの名鉄だったと思う。

 いかに優秀な選手を集めた「オール中津川選抜チーム」であっても、しょせん田舎チームに過ぎなかった。ノンプロとの対抗戦で実力の差を歴然と見せつけられた。

 あの時は二中のグランドでやったのだが、中津選抜チームが力一杯打っても打球は全然飛ばない。ピッチャーの投球に押されているのだろう。名鉄の選手は軽く打っているのに、打球はボンボン柵越え、桜の木を越えてグランドの外に飛んで、外の打球が消え田んぼに落ちて行った。大人と子供ほどの違いがあった。本場の野球はすごいと思った。

 これでもノンプロの選手、プロではない。これから類推してプロはすごいだろうな、と納得してしまった。
 その年、川上の赤バット、大下の青バットが活躍し、年間ホームラン二十五本でホームラン王だった。

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近藤昭彦
昭和24,5年頃、本町は一中の学区であると決められたが、アキちゃん(※近藤昭彦)は一中には行かないとガンコに突っ張って、坂本中学へ一年行き通した。市が折れて、一中は倉前町からで本町は二中ということになった。
「オレがんばったから、オマエたち二中へ行けるんだ」とアキちゃんはよく言っていた。