三人の子を残し 再婚

昔の女としては思い切った行動


 母の姉つるさんは、Y君が二歳になるというのに乳を含ませていた。
 5才の私にさえヘンな光景だった。Y君は甘ったれで親から離れようとしなかった。
 
この子がオシマイ子だという気持ちで、いつまでも赤ちゃん扱いをしたかったのだろうか。常識外れのような気がした。

 そのとき、何の相談したのか、子供の関知することではないが、母の体調が思わしくない頃だったから、そんなことだろう。
 お土産に姉にはお雛様、私には胴体が石膏の白馬だった。右前足を上げた立派な馬だった。その脚が折れてしまったが、長く家にあった。

 母の姉は、落合の湯本屋旅館に後妻として嫁いでいた。
 落合駅から踏切渡り、すぐ裏山に旅館はあった。落合ダムができたころに建てられた。玄関はいると、大きな振り子時計が掛かっており、湯本屋という大きな木の看板が掲げてあった。建物は大きいが、そう繁盛している旅館というわけではなさそうだった。

 トイレの履物は、鼻緒がなく足の親指と人差し指で鉄緒をはさんで歩く変わった下駄だった。カランカランとよく響いた。
 二階から降りてくる階段の手すりが丸太のピカピカに磨いてあって滑り台として遊ぶのに最適だった。
 廊下が迷路のように長くて、湯本旅館は子供を喜ばせる場所だった。

 おじさんも再婚であった。
 ヤギのようなひげがあり、ずいぶん年上のようだった。
 高校生のとき落合の友達から聞いた話では、村会議員に立候補して、一人自転車で走り、町角でメガホンもって選挙演説をして歩いたそうだ。支持基盤もなく立候補したから、懸命に街頭演説しても誰も聞いてくれなかったらしい。票が一桁で泡沫候補に終わったらしい。
 この程度の行動をものともしないから、一代で旅館を築き上げてしまったのだろう。

 落合ダムの堤防に桜並木を植えて、春四月はあたり一面満開の桜、ダムには多くのボートが浮かぶ。落合は観光名所になった。当時の人がそう思っても不思議ではない。
 これを機に旅館を作って、宿泊場所に考えてもいい。それを実行した叔父さんも勇気と先見性があったのかもしれない。

 母の姉つるさんも、落合に嫁ぐ前、中津の駒場に子供三人残して出てきている。女二人と男の子一人。
 この事情はよくは知らないが、昔の女としては思い切った行動だ。長女、次女、長男J郎といった。その後、再婚した落合でも四人生んで、末っ子がY君である。

 私は、このJ郎さんの娘さんを二中で教育実習で教えた。利発な子だった。姉の子と同級で、姉の家の近くに住んでいる関係で、家を訪ねた記憶がある。
  J郎さんの気持ちをそのとき、初めて知った。つるさんは、きっと一生知らないままだったろう。知ってもどうすることもできなかったかもしれない。

「二十年経てば、変わる」
 そこには、J郎さんの長い、重い気持ちが伝わってきた。何気ない言葉だったが、私にはよくわかった。

 J郎さんは少年時代、ちょうど野沢商店がもっとも繁盛しているときだった。
 実際、本町通りを歩いて、そこが母の妹、叔母の家と知っていたという。自分は捨てられてしまったのではないか、と感じていた。母の妹の家と知っていても近づけたものではない。
 
 本町を通るたびに、長兄有臣と同じ年だったJ郎さんは、それを痛感していた。J郎さんの話は、母なし子の気持ちを味わったことのない人にはピンと来ないかもしれないが、私にはよくわかった。
 昭和37年、私の教育実習の際の収穫だった。

 繁栄していた野沢商店は、昭和二十年を境に食糧統制と母の死、その上後妻に虐げられ、まったく立場は逆転してしまった。J郎さんの味わった母のいない家庭を身をもって体験していていた。

 J郎さん自身、野沢家の没落は見聞きしているのだろう。
二十年経てば、変わる
 しみじみとJ郎さんは語っていた。

 どんな事情があったのか知らないが、よく思い切って三人の子供を残して家を出たものだ。昔の女性の行動とは思えない。狭い中津で行われたこの行動は特筆できる。

 その罰ではないだろうが、つるさんは60代で脳卒中で倒れた。
 それから、寝たままの暮らしだった。
 私が姉と見舞いに行ったのは、六年生だったと思ったが、東芝に勤めていた長男がテレビを組立て置いてあったから、私は中学生だったかもしれない。

 三人の子持ちだった私の姉は、落合に行くときは、弟の私を連れていくと子供の世話させるのに都合がよかった。

 枕元で姉は、おばさんのしゃべる言葉は聞取りにくかったが、挨拶したり、女同士の話を上手にしていた。姉はおばの中に母を感じていただろう。若いときから母がいないので、近所の叔母さんたちの中でもまれいるから、そういう会話は慣れていた。
 
「しょんべんがしたくなった」
 一時間も話していたら、叔母さんは言った。
 
みんな向こうの部屋に退散した。

「あんなになって、つまらんよ」
 おじさんはひとりごとのように、子供の私にぽつんと言った。それが印象的だった。若い奥さんもらったのにという気持ちがあっての言葉だったろうが、おじさんの妻への愛情に聞こえた。

 歩いてトイレには行けないから、ブリキの便器が枕元に置いてあった。その便器を腰の下入れた。
 おばさんの言ったことを忘れ、子供だった私は部屋のほうへ行った。障子が開いていたので、何げなくのぞくと、今まさに小便が噴出しているときだった。寝たまま女の人が小便する図は、小学生にとってもドキッとする。
 ちょうど、体の上20センチか、30センチ上に噴水のように上がっていた。見てはいけないものを見たような気がした。

 母の血縁は、姉姉母弟弟という構成だったが、私の母は若いうちに亡くなった。一番長生きだったすぐ下の弟がつい最近95歳で亡くなり、全員冥界に入ったことになる。 母の姉弟は男の方が長生きだった。昔の女は苦労がそれだけ多かったとも言える。


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