『思いやり』は潜在化する
戦争が終ると同時に国土復興キャンペーンをし始めた

 
序論
 駅前を通り掛かると『お願いします。交通遺児に温かい支援を…』と、突然言われて戸惑った経験はありませんか。彼らとしては、『思いやり』をもって精一杯努力しているのは、充分わかるのですが、どういうものか、気まずい思いをしながら避けて通って行ってしまうのです。
 避けて通ったつもりが、物陰から『お願いします。温かい支援を…』と言われて、ドキッとしてしまい…、「私は悪い人間だ!」と自己嫌悪に陥ってしまったりするのです。

 自分の心の奥底を覗いてみると、決してそんな薄情な気持ちではなく、むしろ『思いやり』は溢れる程いっぱいあるのに気付きます。どんなに自分が貧乏しても、人が喜んでくれるなら持っているもの全部あげたい…、みんな等しくありたい…、そんな心なんだけれど、何故その心が素直に表現出来ないのだろうか…考えてしまいました。  
             
 
承論
 明治36年生まれの父が残した記録によると、明治三十年代、盲目のゴゼ様は春と秋になると綺麗な着物を着て村の家々を回り、お供の少女が笊(ザル)を持ってその中に米やお金を入れてもらい…、そうして、盲の人たちは村の人々の『思いやり』に支えられて生活をしていたそうだ。
 また、明治37年、日露戦争の最中、大洪水に見舞われ、我が家も家財道具もろとも流され、村の寺に避難した時、布団、着るもの、食器からあらゆる物がなかったが、村の人たちは悲しみをわがことのように心から同情し、支援してくれた。
 このところが、村の『同族意識』が濃厚であるだけに、都会と違って、引っ越しして立ち上がるまで、親密な援助を数カ月間受けた。と、父の記録にのこっており、晩年はそのころの『思いやり』の濃密な村を懐かしがっているようだった。

 
終論
 かってベトナム戦争に協力していた体制側の放送局が、その戦争が終わったと同時にベトナムの国土復興に協力するキャンペーンをし始めたのは、噴飯物でした。ああいう厚かましいキャンペーンも、嘘も3回言うと本当に聞こえるの類で、結構世間には、平和の活動として受入れられていた。
 その支援が自分の企業の利潤を削って支援するなら、よくやると感心するが、庶民の懐からかすめ取ってまるで放送局の手柄のようにして、「寄付金かくかくしかじか…」といわれた日には、まったく庶民は踏んだり蹴ったり…。
 その時まで、ベトナム戦争に反対したり、王子病院で催涙弾を投げつけられたり…反対運動しても、戦争終わってみれば加担した企業の手玉に取られているのは、一体どういうものだろう。
 こういう企業論理の中で、個人の『思いやり』と言うものは、徐々に心の奥底に潜って行ってしまう…、そういう現実を憂慮している昨今です。
 平成2年4月27日


  
目次へ