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| 旅のはじまり |
片田舎(岐阜県中津川市)から昭和三十三年四月に上京して来た。 夕方のラッシュ時間は過ぎていた。東京にはラッシュがあることすら、その時は気づいてはいなかった。驚いたことは、電車の中では皆新聞を広げ、大きな活字を読んでいることだった。 『何か大事件があったんだな…』俺は不安になった。しかし不思議と言えば、読んでいる人達がわりと平静であった。後にになって分かったことは、それは地方にはないイエローペーパー、大都市中心に発行されるいわゆる夕刊紙であった。ポット出の十八才が知らないのは当たり前である。 さて、私は『七時、トウキョウ駅ツク、迎エタノム』と、文京区動坂の叔母の家に養子に入っている兄貴に電報打ってあるから、東京駅へ着けば迎えに来ているものと信じていた。が、ホームに一向に兄貴らしい男はいないし、人込みでも何となく探せば見当たるだろう…と、山手線のホームへと移動した。田舎の感覚で、駅の構内を探せば見つかるという思いがしていたが、東京の人人人人…人人人人…田舎の駅の人の数とは桁違い。 人人人人…人人人人…ウーン…これじゃあ、わからんぞ…。 初めてこの東京の怖さを思い知った。 その時は、まだまだその辺に兄貴いるだろうと、信じていた。このまま田端へ直行すればいいやろう…。そんな気がしていた。 電車の中で中吊り広告を見る余裕があり、資生堂の化粧品を使うと、『早稲田や慶応ボーイ並に(もてる)』というキャッチコピーが、でかでかと出ていた。このキャッチコピーが、東京へ来たその日に俺の心を支配して、一年後に大学へ入ったのが早稲田だった。 今、この時、俺は東京の足場となる人々と初めて接触する段となって、迷子となったのだから困った状態なのである。 エッ…、俺、どうしたらいいのか… 夜八時過ぎ、九時になって田端の駅へ降り立った時、夕飯も食っていないのに、行くべき場所はない。電話番号も聞いていない。とんでもない、上京の仕方をしてしまった。そこで、初めてコレハ大変、大いに焦ったのである。 こんな不用心な上京、今ならとても出来ないだろう…若かった。 叔母の名前『斉藤キン』としか分かっていない。田端駅の売店のおばさんに「電話番号は『104』で聞く」という事、東京に来た早々におそわった。それが十八歳の東京仕込み第一号の知識だ。『斉藤キン』の叔母の名の電話はないと、電話局のお姉さんはつれない返事です。死んだ亭主は電話を『斉藤芳子』娘のものにしていた。これは後から、わかった。 今なら、田舎の親父へ電話して番号を聞けば簡単だろうが、その当時は田舎へ長距離電話を掛けるとなると、半日か一日仕事の感覚だったから、思いもつかない。正直なところ。 しかたない…交番へ行って聞くか… 電話ボックスから出てくると、大学生の兄が立っていた。『後ろ姿が似ているから…』と思って待っていたと言う。兄弟だから、後ろ姿だけでもわかっのだろう。また、兄は四年以上もう東京にいるから、困ったらどういう所へ駆け寄るか…分かって、電話ボックスに注目していたという。それに、半分伸びかかった髪の毛は、田舎の高校の卒業生…と分かってしまう。 そうそう、田端の切り通しの石崖の途中で、『あらッ、どこへ…』と妙令の女性が声を掛けてきた。その当時兄貴と付き合っていた彼女だった。この女性の歳は、兄貴と同じ歳だったが、悪くはない感じだった。しかし、贅沢こいて、ふっちまやがって… 兄弟並んで、真っ直ぐの道を動坂まで歩いて、叔母の家へ着いた。そこで、「ボウ」呼ばれる死んだ親父がお針子さんに生ませた小学5年の坊主を初めて見た。飯を食わせてもらい、寝る段になって窓のない三畳の間へ案内された。田舎の感覚からすると、狭苦しいところへ押し込められたと思った。 こうして、上京初日、あやうく迷子で、春先の一日警察のお世話になって、一夜過ごさなければならない程、きわどい上京初日、昭和三十三年の四月二十日の夜は更けて行った。 『人生の旅』の出発点は、こんな具合だった。 そして、三十有余年たち、きょうもこうして…「行きかう人もまた旅人、漂泊の思い止まず…道祖神の招きにあいて、取るもの手につかず……」駆けつけて来たのである。 平成2年1月 目次へ |