他者への思いやり

  大きな忘れ物 

       
      (我が家の場合)
 寝ついたかな…と思う頃、深夜、突然長女は呼吸困難になった。喘息の発作を起こした。この子の喘息には、小学校に入る前から中学生になる頃まで、いつも心配続きだった。

 喘息特有の呼吸が始まり、ヒューヒューと喉を鳴らし苦しみ始めるのだった。その苦しみが続くと、食べた物はすべて吐き出し、空になった胃に溜まる胃液さえ吐いてしまう。胃液の臭いが漂う。薬を飲ませても戻してしまい、手のほどこしようがない。
 「くるしいッよォ!」
 膝まづいた体勢で細い体を曲げて、ヒューヒューと喉を鳴らし、荒い息遣いの中から長女の叫ぶ声は、親の心を掻きむしる。一晩中その呼吸と叫び声を聞かされ、神経が狂って来そうである。

 辺りの家々は明かりは消え、すべての人が就寝した深夜に、なぜ私たちだけがこんなつらい目に逢わなければならないのか、天を恨みたくなる。健康な子供はスヤスヤと眠っているだろうに、わが娘は呼吸困難の重体に陥っている。
 深夜、千葉市内の深夜診療の病院を求めて走っていく。必死だったからなんとかやり抜いたが、他人のしない経験をさせてもらった。その分、人生に深みがついたような気がする。


       
(養護学校へ編入)
 そのような発作は何回あったか、数えられません。毎週か、10日に一度、数日学校を休んでいた。元気な日でも、いつ発症するか、心配だった。
 その後、中学1年生の一学期、普通学校から四街道の国立(下志津病院)付属の養護学校に編入しました。養護学校は始めての経験だったので、迷いもあった。
 この下志津病院では、私たち親にも、長女にも大きな経験と贈り物を得たと思っている。
 
 

       
(重症身障児の親たちの思いを知る)
 入院当初は、親も子供も、一日も早く元の学校へ戻りたい、早く退院したいと思っていた。
 ヘッドギヤァをつけ首が座らない格好の子供が、院内の廊下を過ぎて行く。車椅子に乗った子供を始めて見る私は、奇異な目を向け、自分たちとは違うと思い、どこかに優越した気持ちがあった。

 喘息児の会の役員になって、初めて重症身障児の親達と一緒になった。子供が重症身障児だからと言っても、親には変わったところがあるわけでない。

 役員のお父さんから筋肉萎縮症(筋ジス)の男の子の話を聞いた。
 この子は、私の長女と同じ中学一年生。小学一年生までは何でもなく、三年生になってから転びやすいくなった、と気づいた。変だと思って病院へ連れて行って調べてもらった。
 「筋肉萎縮症(筋ジス)です」
 医者にいわれた時、妻も私も子供に知られないないよう一週間泣き暮らした。普段通りに学校へ行かせていたが、この子がけなげに生きてがんばっている…ということ、ただそれだけで不憫で、泣けて泣けてと、さりげなく聞かせてくれた。

 この病院に入院させてから、半年に一回、正月と盆には子供を家に連れて帰る。また、休みが明けて家からこの病院へ連れて行こうとすると、「行きたくない」と泣くという。この病気では、寿命は二十歳位までだろう。自分の運命をこの幼さで悟っている。

 めったに外に出られないから、車で連れて戻って来る間、景色のいい場所、海の見えるレストランなどで休憩をとり、ゆっくり心行くまで景色を見せてやってる。ひょっとすると、半年後には…という心が、父にもこの少年にもあるのだろう。そのことがお互いに分かっていながら、父親は黙っており、少年も黙って外を飽きずに見ている。

 『喘息はいい。退院できる希望があるだけでもいい…』
 その話の後に語った一言、お父さんは何気なく発した。別にどうという言葉でもない。何気なく聞いていると、消えてしまいそうな一言であったが、しかし、その言葉は私の頭蓋骨の壁面にぶち当たり、共鳴し続けていた。

 筋ジスの親にしてみれば、永久に取り除くことができない、いつも重い石を腹に抱えていなければならない。なんだかんだ言っても、喘息は一年もたてば退院して出ていっていまう他人、と思える存在なのだ。死に至るまで開放されない子を抱えている親からすれば、喘息の子の親の『空騒ぎ』『おおげさ』は軽い…と、思えるかもしれない。

 いくら今笑っていても、筋ジスは確実に一歩一歩死に近づくから、『死』から離れられない。歩くことがだめになり、立つことも出来なくなり、最後には歯と歯が噛み合わせすら出来なくなって死んでいく、と筋萎縮症の子の父親は、涙も流すことなく平然と話してくれました。

 この筋ジス少年のお父さんが、このように冷静に語ることが出来るようになったのも、どれほど苦しんだ末にここの境地に立ったのか。私は聞いていて、人前にもかかわらず涙を止めることができなかった。想像するに余りある。
 喘息児を家の中に抱え、一週間に一回は危機を迎える阿鼻叫喚から、入院させて他人任せにして一安心していた。その増長慢の心に冷水を掛けられた気がした。

 『退院できる希望があるだけでもいい』
 聞き逃しそうな一言だったのですが、今もその言葉は私の心の内に共鳴し続けている。繰り返し、繰り返し、リフレインしている。その表現は、決してオーバーな言い方ではなく、長女を見舞った後、帰りの電車の中でずっとこの話を考えていた。私には大きな衝撃だった。

 今まで喘息の自分の子を見て「大変だ、どうしょう…」と、世界で一番の不幸を背負い込んだような騒ぎ方をしても、許される気でいた。いつも自分のことばかり考え、いかに他人を思いやる力を失っているか、私は忘れていた。人のつらいこと、苦しいことを聞いたりする機会も少なかった。また、避けようとしがちである。そういうことに無知だったのである。

 人の苦労を思いやる理解力がないと、人生に深みもなく、ネアカ、明るい、笑いだけを求める人生の片側だけを通ってしまう。幸せで、満ち足りた生き方と思っている中に、人は思いやる心の欠如という「大きな忘れ物」をしてしまうのではないか。

       
 (彼らの合唱…)
 養護学校の文化祭で、ストレッチャ−に寝たままで歌う、三人の少年合唱を聴いた。
 澄んだ透明感のある声、世の中にあんなにも美しい声があるのか…私は驚ききだった。
 声を再現できないのが残念だが、健常児では出せない澄んだ声、ハーモニーだった。ウイーン少年合唱団以上だった。世間の人たちにこんな声、ハーモニーがあることを知らせたいと思うほどだ。
 あのきれいな声は、命を懸けて彼らの心情を歌っているのだ、と気付いた時、こらえきれない何か、熱いものが胸に溢れた。 
                                '90.12.8. ・(日本が戦争を始めた日)   
               
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