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| 義仲を大切にしないと、自分を疎かにすることになる |
源平争乱(1155)に破れた父親は殺され、義仲一才で乳母の夫の里、信濃の木曽にかくまわれ成育された。1180年以仁王の令旨を受けて、二十六才で平氏討伐に兵を起こした。 信濃を制圧し上野(群馬)に入り、越後、北陸道から、越中と加賀の境へ進軍した。平氏と具利加羅峠で対峙した。義仲は、太鼓の響きと共に松明つけた牛の大群で駆け下りて、平氏の大軍を破った。平氏を西国へおい落とした。 中央線木曽福島の駅からあまり遠くない寺興禅寺、その裏にひっそりとした所に義仲とその一族の墓があった。かの英雄の墓としては、惨めな規模だった。敗軍とはいえ、木曽福島から大軍を率いて出た郷土の英雄がこんな扱いでいいのか。 源の嫡流で平氏を倒すために立ち上がって、全国を席巻して京都に入り、歴史を貴族や権力から奪取した功績は大きい。 その功績により、左馬頭、越後守、伊予守となったが、新帝選定で、後白河法王と衝突した。かつ彼は粗野と部下兵士の乱暴、略奪は、貴族と京都の人々の期待を裏切った。 法王は、義仲を退けるため、鎌倉の頼朝と結び、義仲には平氏追討に出征させようとした。西国の平氏も勢いを盛り返し、また東国から頼朝の軍が西上して来て、挟まれる形になった。後白河法王の底意を知った義仲は、1183年11月法王の御所を襲って焼き打ちした。摂政を交代させ、84年1月義仲は、征夷大将軍となった。これが、朝日将軍である。 しかし、彼の出身した木曽福島の田舎で身についたマナー、それが当たり前の行動だったにも係わらず、京都を中心とした礼儀、官位に縛られた人からすれば、とんでもない非礼だったに違いない。とんでもない非礼、それは体制側の見方だろう。 やっと生き延びた義仲のマナーには、タブーがなかっただろう。生存のギリギリを生きてきたものに、官位と礼儀を行うことを生きがいとして来た都会者が、違う人種と思ってもいいが、現代の我々が同じ見方で郷土の英雄を遇してはならない。 わずか二週間後に、範頼、義経軍に宇治瀬田の守りを破られ、北国へ逃れようとしたが、近江粟津の辺りで戦死した。勇婦巴は、この時捕らえられ鎌倉に下り、和田義盛に嫁して朝比奈三郎を生んだという。 義仲の嫡子清水冠者義高は、早くから人質として頼朝の下に送られていたが、義仲滅亡の翌年、頼朝のため殺された。 東京へ初めて出てきた十八の自分を考えた時、東京の言葉を知らず、なおかつ他人の家を尋ねるにも、無断で尋ねたりする。その辺が都会の人からは礼儀を知らないと思われている。しかし、都会に長く住めばそれは分かって来るもの。 地元の出身地の人が義仲をないがしろにすることは、自分の出生を疎かにすることである。人が悪く言っても、自分を大切に守ることだ。この根拠をしっかり守ってやることこそ、大切ではないか。 天に唾するヤツは、天から罰せられる。 |
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