私の文章論
 文章とは、感激の表れ
 
感激Begeisterung・がなかったら、文章は生きてこないのです。文章を書く人が、書き表す対象に愛情を持たない限り、文章は訴える力を持たないでしょう。各人が温かい情愛の眼差しを持って、対象を見つめる時に、豊かな気持ちが伝わる文章になるのではないでしょうか。人の愛情が通ってこそ、文章は生きて来るのだと思います。
 感激は、自発的であり、創造性を持つものです。また、文章もこちら側の積極的、自発的行動によって創造されるのです。その意味から、対象に対する広義の感激は重要な要素となるのです。
文章を書く立場から、最も大切なことは、この『感激』ということです。以下の論旨は『感激』の概念を基礎に置くものです。
     
(他との区別 観察の重要性)
 文章とは「字句を連ねて、まとまった思想を表現するもの」とふつう言われています。それは、追求する対象を言葉で捉えようとして、そのものの姿、形、内容を字句を連ねて表現しようとするところに生まれるのです。それ故に、文章を書くには、自分が何を書こうとしているのか、はっきりさせなけれはなりません。また、書こうとしているもの、その内容を見届けて行かなけれはならないのです。対象を注意深く観察し、表現することが必要なのです。その結果に対して、自分の手持ちの語彙の中から言葉をあてはめて行かなければならないのです。
 文章はこのように、厳密な観察に基づいて書かれなければならないと思います。一つひとつの対象が他のものから区別され、まさにそのものであることが、分かるように書いて行くことが重要なのです。
例えば、一匹の犬を描こうとすれば、その犬のこまごまとした細部を書きあらわさなければならないのです。この細部をすべて捉えて表して行った時、その犬の全体が表現されるわけです。
そして、文章が書けるかどうかは、この細部が書けるかどうかによって決まるのです。その犬の耳が垂れていれば倒れている耳のことを書き、片方の目が悪ければその片方の目の悪いことを描いて行けばよいのです。見たとおりに、細部を記して行くことは、実際文章にとって、まず第一に大切なことなのです。
しかし、そのような描写方法には限界があります。そのものの細部を一つひとつ丁寧に記せば、何十年かかっても止めを得ないものです。例えば、犬の毛が一本一本どうなっているのかを描いて行くとすれば、千年かけても描ききれないでしょう。
 その限界を打ち破るには、対象の特徴を捕まえなければなりません。犬の特徴を示す細部をそこに探して、これを書き表して行くと言うことです。一つ一つの細部というのでなく、特徴のある細部、これを見届けてこれを選んで書いて行くことになります。
 特徴のある細部は、単独に捉えることはできないのです。特徴というものは、決してその一匹の犬だけで見出せるのではなく、その犬と他の犬との比較によって、初めて明らかとなってくるものです。
 例えば、一匹の犬を見て四本の足があるということをこの犬の特徴として書いた場合、他の全ての犬も足を四本持っているために、その四本の足ということでは他の犬とその犬とみ区別することは出来ないのです。
 文章の中へ特徴という要素を織り込むには、この犬だけにある細部、この犬を他からきわだてている細部を描写しなければならないのです。一つのものの特徴を捉えるためには、そのものと他のものとの相互の関係の中で、そのものを捉えることが必要なのです。
 もの(対象)というものは、相互関係において、初めて捉えられるものであり、その中でのみその対象のみが持っている姿、形、内容が明らかにされるのです。
 文章表現で捉えようとする対象の姿、形、内容は、それの持つ特有の特徴と特徴の持っている意味を明らかにすることにより、はっきりしてくるのです。
 また、対象を取り囲んでいる他のものに、直ちに眼が届くということがなければ、そのものの内容をまた正しく捉えることができないのです。文章を正しく書くためには、一つのものを、それを取り囲む他のものとの広い関係の中で見ていくという、広い視界が必要となってくるのです。広いというだけでなく、他のものとの関係を誤りなく見ていく、科学的な見方が必要となってきます。
 ある程度の時期を隔てて自分の文章を読み返すと、また別な他のものとの関係を見逃している場合もあります。このような場合、改めてそのものの、さらに深い内容を表す文章にしていく作業が、そこから始まると心得なければならないのです。

(イメージの再現)

 次に、問題となるのは、頭の中で正確に再現をするということです。
 文章をもって、ある一軒の店を描こうとする場合は、画家がこの店の前にキャンバスをすえてこの店を見ながら、つまりモデルを前において描くのとは違うのです。一度家に帰って、もう一度頭の中にこの店をありありと思い浮かべながら、それを言葉であるいは文章で捉えて行くということになるのです。
 もちろん、文章もまた対象を眼前において書くことはできます。たとえば、島崎藤村の『千曲川のスケッチ』、正岡子規、高浜虚子、鈴木三重吉の文章のように対象を眼前において書くことにより、対象を正しく描く効果を出すことができます。
 今問題としている観点からしますと、文章はむしろ描こうとする、捉えようとする対象から離れて、いかなる所ででも書けるという特色をもつものなのです。また、文章の便利さが生まれてくるのだと思います。
 ですから、描こうとする対象を頭に思い浮かべるということが、重要なのです。対象から離れて正しく描くためには、頭の中に対象を再現する努力をしなくてはなりません。
 ある一軒の店、たとえば乾物屋を描きだそうとすれば、それは眼前の見えている乾物屋ではないのです。頭の中に浮かべられる乾物屋であり、つまりイメージというものです。文章はこのイメージを言葉でもって捉え、それを紙の上で表現し、描き出すところに生まれてくるのです。

 文章を書く前にイメージを作らなければならないのです。自分の頭の中に描こうとする対象のイメージをいかにして作りだしていくか、ということを考えなければならないのです。
 文章を書くということは、このイメージを深め、あるいは広め、そのイメージによっていろいろな物や人を捉え、考えて行くことだとさえ言えるのです。文章を次から次へと進めて行く力は想像力にあると言っても、ただ単に一度見た一軒の店乾物屋を再び頭の中に再現するというのではないのです。さらに進んで、現在そこにはないものの姿、形を捉えて描き出して行く所にこそ、本当の働きがあるのです。それ故に、文章は言葉をもって、想像力を無限に働かせ、進めて行く所に大きな意味があるのです。原始時代に生きる人間でも、宇宙時代の人間の姿だっても、現在の世界へ持ち込むことが可能なのです。
 次の問題として、どのように想像力を強め、育てるかということがあります。
 まず『頭へ身体中の血液を集める』ことが必要なのです。そして、対象の再現を試み、イメージを作るのです。これにより、文章が書けるか、書けないかが決まります。対象の姿を思い浮かべようとしても、これは簡単に明らかになるものではないのです。ぼんやりとしか思い浮かばないイメージを、ペンをとり、紙を前に置いて、言葉でもって少しずつ捉えて行くと、明らかになって来るのです。最初はぼんやりとしたものも、しだいに確かな像になるのです。そして、光の当たっている部分を糸口として、その明らかとなった姿を文章として行くのです。
 文章として行く過程は、前に述べましたように、その一つ一つが他の部分と違って特徴を持って、その特徴の意味を捉え、言葉で表現して行くということです。
 これが出来たら、この点を足掛かりにして、更に他の部分に入って行くのです。記憶は一点が明らかになると隣接部分、連想可能部分を容易に呼び起こすことが出来るのです。これは、練習を重ねることによって、つまり、文章をたくさん書くということによって習得できるのです。
 頭に浮かぶイメージをそのまま文字に表させなければならないのです。言葉を変えれば、頭に浮かぶ像というものは、ペンを動かす手と切り離されないということです。ペンを持って、頭にある乾物屋の像を追い、言葉に捉えるということを省いては、イメージを明確化することはできないのです。
 像より先に言葉が生まれることもあり、ある時には像が先に生まれることがあります。また、同時に像と言葉が重なりあって生まれる場合もあります。頭の中に浮かべられてい像は、ペン先に浮かべられなければならないのです。これは、筆者と言葉の一体をペンで定着させて行くことなのです。とういことは、手というものが非常に大切だということなのです。文章をたくさん書き、その中で手と頭の関係を自由な敏速なものとして、手でもって像を浮かべ、イマジネーションを押し進めていくことが可能となるのです。その時にこそ、本当の文章が生まれてくるのです。
     
(的確な表現 慣用句の禁止)
 次の問題は、慣用句を使わないということについてです。
 新聞などには『涙ぐましい光景』とか『手に汗にぎる場面』とか『一攫千金を夢見て』というような慣用句がよく使われています。しかし、このような慣用句を使わないところから、文章を始めなけれはないと思います。もちろん、これらの慣用句にしても、最初作られた時には、いろいろな物の特徴を捉えるためにつくり出されたものであって、その特徴を言葉で表現したのです。しかし、いろいろな場面に応用されて使用されるうちに、特定の一つの物事の特徴あ捉えない慣用句になっいるのです。それ故に、慣用句を使っては、物事を的確に表現しえないのです。
 たとえば、『なまぬるい』『なまあったかい』と表現する場合、冷房から外へ出た時感じるもの、湖水の冷たい所からあったかい所へ泳いだ時感じるもの、風呂のなまぬるいもの、それぞれ違うはずです。同じ言葉では表現できない感触の差があるはずです。
 書くということは、この一度体験したことをもう一度体験しなおすということです。
 『なまあったかい』風が吹きつけていたとすれば、その風をもう一度頭の中で見つめ、その時の感じを再現し、その特徴(最も印象的な点)を言葉で捉えて行くところに、書くという仕事があるのです。
 そのように書かれた文章からは、書く人のその事柄の受取り方の違い(筆者の予期しないことまで)が出るだろうし、また客観的状況の違いもおのずとはっきりしてくるのです。そこには、文章の面白みが出てきているのです。
 ところが、慣用句によって表現すると、その物事のおおよその伝達はできるのですが、生き生きと実際にそれのもっている内容を伝えるこどはできないのです。それ故に、まず一切の慣用句を捨てて使わないというところから、出発したいと思うのです。特に、知っている言葉や句は使いやすいし、使いたくなるから、注意したいものです。
 書きながら、『なまあったかい』感触を頭の中で再現していくと、書き手は自分の体験とぴったり重なるものとなるのです。
 『なまあったかい』という言葉ならば、はっきりした形容詞『蒸気を含んだ』とか、『湿気をもって顔を包む』とか、具体的に「なまあったか」さの内容を示す形容詞を選ぶことが、適当と思われます。
 感激の体験をしたような場合には、もはや慣用句をもってしては捉えられないのです。                    
 他の類似した事柄と一緒に表現されるものではないのです。感激は、他のものではない、そのものだから感激した、という性質ですから慣用句は使えないのです。筆者は、その内容について、全力を尽くして捉えようとするのです。また、言葉が書こうとする対象の方から真っ直ぐ出て来ることが多いのです。これまで、そのような場面を描いた文章がほとんどなく、慣用句は文章表現には何ら役に立たない程、弱いということをさらけ出し、書く方にとっては、慣用句で表現しよう、等と考える余裕もないのです。
 つまり、作者が自分の眼で見、耳で聞き、手で触れて確実な感激を表現するのが、最もよい方法であるということです。
 では、慣用句さえ使わなければ、この体験の生き生きとした姿、形、匂い、感触などというものを出すことが可能であるか、という問題がある。
 このような方法をとって、筆を進めて行くと、作者の言葉の中から真実の姿をつきつけて来るのです。そのことの意味は、着実な眼の働きは文字に変わり、その文字は読者の眼を通してて像となり、訴えるということなのです。
 鮮明な体験、感激の体験は使い古された慣用句では、捉えられないのは前に述べた通りです。今までに、誰にも体験されていない新鮮な事柄であることを自覚して、その体験をもう一度頭の中で確かめながら、その体験のイメージから言葉を引き出す、という方法をとらなければならないのです。
 慣用句を使って書くということは、その反対に自分の中にある言葉を対象へ、無理に押しつけているのです。事柄と言葉のズレが出て来ることは、文章上致命的です。意味が曖昧になってしまい、作者の心が伝わらず、文章として、役立たないのです。言葉と事柄とのズレを見破れないようでは、物事を正確に把握して文章を書くことできないのです。
 このように考えて来ると、物を書くということは、他人の言葉や他人の文章、他人の耳、他人の手触り、これらあらゆるものをかき分けて、自分がそのものを見、聞き、触れて、そのものの最も根源のところまで到達する、ということなのです。

(本源的なものを見つめる力を)

 また、文章の中でも感想というものは、一般に体験という支えがないので、慣用句を用いて物事を捉えて行く、という姿勢が出てきがちなのです。それは、よくこなされていず、自分の意見になっていないからであると思います。

 
たとえば、ある瞬間まで同じような条件の中で働いていた人が二人いたとして、一人の人間がトロッコを押したため、前にいたもう一人の人が死んだとします。ここで、カッキリと、死んだ生命と生きた生命とに分けられてしまいます。一方はその人間を死の中へ追いやる立場、一方は死の中にあるのです。死を境として対峙した姿として、日本の労働者の状況が示されている、と考えます。
 このようになって、初めて轢死現場を通過するたびに、霊魂がトロッコを持ち上げやしないかと、不安にさせられると思います。その不安の内容も、資本主義社会における死が不可解な内容を示すものとして、強い力を持って来るのです。
 つまるところ、対象を追い詰めて、本質的なもの、本源的なものを見つめる力として、文章が発展しなければならないと思います。            (終わり)

 昭和三十八年二月十八日改訂終了   "私の文章論”(卒業記念講演)                     


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