美女塚から思いを馳せて
断崖から飛び下りた娘の碑

 対馬の南端にあたる岬、つづ岬の見晴らしのいいところに、『美女塚』という碑が立っている。何故ここに『美女』塚が建っているのか。 

 領主に見初められた島の娘はどうしてもその婚姻に気が染まない…とうとう嫁入りの日に、娘は家を抜け出し高い断崖の上から飛び下りた。娘の死を悼んで、村人はこの岬に碑を建てたのである。
 ここの部落の人達は背が高く、女は背が大きくスラッとしている美人が多い。対馬の平均より十cmから十五cm程背が高い。
『ロシア系の人が多いかも…』と案内してくれたタクシー運転手は汗を流しながら説明してくれた。運転手さんはずんぐりむっくり、典型的な古代日本人の体型をしていた。

 ここは、名高い倭寇の根拠地だったのです。
1200年代からずっと倭寇のばっこに朝鮮の国では困りきっていた。資料によると、朝鮮、中国大陸沿岸、あたり一面倭寇の侵略を受けないところがないほどである。そのため、倭寇取締りをする名目で、宗氏が朝鮮の太宗から貿易独占権を与えられ、米穀物が給付された。
 対馬では生産される米、穀物、それと海からの収穫だけで生活は苦しく、島の人口を養うわけには行かないという事情があった。
生きるために、好むと好まざるに係わらず、二十隻から六十隻の船団を組んで朝鮮へ、朝鮮に行けない時は南方へ、ロシアの沿岸へと行っていた。人々を危険な海へ…三ヵ月も半年も戻って来られない危険の旅をしなければ生きて行かれない土地だったのだ。

 始めから好き好んで荒らしているのでなく、貿易を行うというつもりで行く。うまく行かない時は、裸で蛮刀を荒縄で背中にくくりつけた倭寇に変身するのだ。男たちは裸をさらして、儒教で礼儀正しい国に押し入って手当たり次第に奪って来た。

 昔から、戦いに負けた側の人間は拉致され奴隷とされた。男は労働力、女は家庭内の労働力、あるいは性の愛玩物として思われていた。当時の一般的な考えだっただろう。荒らし回った土地土地で、美形の女達をかっさらって来ただろうと想像が付く。
 このような美女を自分の妻にして、次々と子供を生ませてそれが何代にも及び、島に同化して行ったのだろう。七百、八百年を越える昔のこと…。さらわれて行った当時は、家族の悲しみ悔しさなどドラマがあっただろうが、関係者が絶えて伝説のことにかわって行って今、碑の中の話から想像するのみである。

 真夏の海を背景にして浮かんだ島は、贅沢だと叫んでしまう程の美しさだった。入り組んだ島々の入江には、船の安全を守る自然の港がいくつもある。ここが倭寇の根拠地として使われた。

 ここ国境の島は、幕府の意向と朝鮮の意向の狭間に揺れる小さな窓口であり、その宿命の下で、島の先人たちは自主と自立を模索しながら生きてきた。『美女塚』言い伝えの前に来たとき、歴史の事実と風光明媚の地の二つが渾然と一体となって、古のドラマとして彷彿と湧いてきた。
(平成2年8月26日)               


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