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| 黒船の来た町 |
| 今、京急快速特急は、久里浜へ着こうとしている。 金沢文庫を過ぎた頃、垂れ込めていた重い雲が切れて海が見えて来た。遙か遠く、海の青、空の青の間に真白い積乱雲が横に広がっている。まるで氷山の崖だ。西日を受けて、白い雲がきらめいていた。横須賀は千葉とは違う景色をしている。 一月十三日(日)突然、京成電車にのって…出発してしまった。千葉を出たのが、午後二時に近かった。衝動的に物を買うことはよく経験するが、…それほど大袈裟ではないが、衝動的に旅に立った。 嘉永六年六月 (1853年)蒸気船四隻を率いてペリ ーが浦賀へやって来た。この場所が、その後14年間の激動、明治維新へと続く発火点である。 その幕末発火点へ私は出掛けた。勝海舟、坂本竜馬、久坂玄端、佐久間象山と同じ場所で黒船を見たい…、文明への憧れを彼らと共にしたいと思った。 夕闇迫った四時三十分、久里浜の駅前で、タクシーに乗り込んだ。タクシーの運転士(京急中央、菱沼サン)に、幕末の黒船関係の史跡を巡りたいと言う。この人も 歴史に興味を持つ人だったので、話が弾んだ。 ・愛后山公園・(あたごやまこうえん) まず、ここへタクシーをやってもらった。狭い道をくねくねと上って行った。タクシーは途中までしか行けないと言うので、下りて歩いた。 江戸時代からの道、この舗装されていない狭い道を駆け上った。途中、犬を散歩させている男性に聞いた。 「公園ありますか。ペリーが来た時、黒船を見た」 「坂を上って、左側へおりると公園です。すぐですよ」 もう空は黄昏れて暗くなっていたが、砂利道を急いで歩いた。坂を上りきったら、アレェ…何にも海は見えない。言われた通り左側へ少し下りると、その公園からは浦賀湾が一望に見渡せた。夕方の海の空と溶け合うさまは、薄ぼんやり靄がかかり、ウーンとうならせるものがある。 好奇心旺盛な志士たちは、江戸から浦賀へ六十、七十キロの道のりをものともせず、一昼夜かけて黒船見学に来た。現代人と違って健脚である。 蒸気船四隻は、三本マストに大きな煙突から黒煙を上げ、浦賀の海に浮かんでいた。当時の日本では見かけない大型の船である。 彼らの驚きを現代に置き換えたら、人工衛星が四機がまえぶれもなく代々木公園へ下りてきたようなものだろう。何をしに来たのか…その技術力の差に恐怖を抱いただろう。 江戸300年は戦いはなかったから、侍たちは戦国そのまま甲冑で身を固めていた。警備を命ぜられた武士たちは、紅毛碧眼の男たちが攻めてくると、かがり火を焚いて黒船に敵愾心を燃やしていた。黒船の旗艦は、夜九時になると就寝合図に空砲をドーンと撃った。標的になってはと慌ててかかり火を消した…。監視している幕府側のあわてぶりが伝えられている。 夕暮れて来た浦賀水道の光景を見ていると、歴史の流れをひしひしと感じる。 黒船の船員たちは、酒を飲んでビンを海に捨てた。ビンは浜に打ち寄せられて来る。その当時、ガラスのビン、ギヤマンは日本では高価な物だったから、アメリカの謀略と思った。役人たちは、拾ったビンを回収して、穴を掘って埋めたそうだ。 海に近い町民は、大八車に家財道具を積み込んで、浦賀から逃げ出し、右往左往し…幕府もペリーの開国の要請を何とか誤魔化し、アメリカへ帰ってもらいたいだけで、一時しのぎしか考えていなかった。今も昔も、日本の対外政策のあやふやなところは、似ている。相も変わらず、外交音痴は先祖代々、受け継いでいるようだ。 ・灯 明 堂・(とうみょうどう) 閉鎖された住友ドックを左に見ながら、灯明堂へタクシーを走らせた。かつては、船舶の建造、修理を行っていた広い敷地が無人のまま放置されている。大企業といえども、時の流れに抗することはできない。夕暮れの中に、栄光の後の枯れ尾花だ。 需要のない所に企業なし…ではあるが、海運はもう日本には必要ないのか。 灯明堂(昔の灯台)の敷地は、きれいに整備されていた。朽ち果てていた石垣も積み直し、その上に和式の灯明、灯台が造られていた。最新の灯台とは違う、ほのかな優しい光が海に向かって光っていた。その灯明台と海岸の周りは、石の歩道が続いていた。絶好の散歩道だ。 このあたりは釣りのメッカだ。夕暮れても釣り人が釣りをしている。メバル、キスなどが釣れる。 灯明台のすぐ裏側の土の盛り上がったところ、ここが幕末、新政府軍が幕府の残党を処刑した場所だと、タクシーの菱沼サンが話してくれた。明治新政府は、幕軍反抗分子をここに隔離して、裁判にかけることもなく首を切った。その場所がここだと言うのである。数多の人骨が埋まって盛り上がっている。久比里(くびり)。これは字はちがっても…クビキリ…から由来していると、教えてくれた。 日が落ちて暗くなると、盛り土の中から、幕軍の怨み声が聞こえそうである。なかなかの雰囲気がある。ここは夕刻に訪れるべきだろう。 ペリー上陸記念塔 やっと、横須賀市民が一番力入れているメモリアル公園に来た。明るいともっとよく見えただろう。伊藤博文侯の揮毫による大記念碑が立っている。約十メートルはある。 『北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑』 (ほくべいがっしゅうこく・すいしていとく・ペリー・じょうりく・きねんひ) ここが、ペリーが三百五十余名の武装兵を従え、浦賀奉行戸田伊豆守(幕府の代表)と会見し、アメリカ大統領の親書を渡した場所である。日米和親条約を結ぶ第一歩になったわけである。戦時中はこの大き碑は倒されていたらしいが、戦後建てられた。 ・幕末の群像・ 横須賀には、自然のまま、江戸時代のまま道が残っている。そんなところ、実に楽しい。狭い道…こんな所を幕末の志士たち、幕府の役人たちが通っただろうと、未だ思いを馳せることが出来た。遊廓のあとの建物、そのまま普通に使われている。史跡がゴロゴロしている。 黒船に驚く、二本差しを腰にした幕府の役人達。明治の夜明けを待ち焦がれ、浦賀湾まで駆けつける若い志士達。西洋文明を複雑な気持ちで憧れる若い侍や浪人。その姿や光景が、史跡めぐりをしている間は、ここそこにはっきり見えていた。 ペリーの記念碑を過ぎて、明るい通りへ出てくると、浪人、侍、志士らの群像の影は薄くなり、かなたへと去って行った。幕末の彼らは、明るい夜の照明は似合わないのか。いつの間にか、いなくなった。 ・旅の終わりに・ 再び、久里浜の駅、出発点へ戻った。 駅前デパートのウイングには、人いきれがする。活気がある。商品の展示は、あか抜けて東京もここ久里浜も同じ。興味を引く物へ、人は目を向ける。需要のあるところに商売が成り立つ。 人は、面白いこと、楽しいこと、美味しいもの、楽なことへ流れて行く。史跡のようなもの、ベツに何の興味もない、今の人には何の関係もない。これは仕方のないことか。 浦賀は、百五十年前日本の歴史が大回転をした地。 浦賀には、単に現代人が興味や安逸だけに流されないヘソを持っている。不動の座標軸がある。心の中に浦賀を持て。歴史は自分の立脚する足元をみる尺度、それを無視したら、愚行を繰り返してしまう。 それより駅前デパートのウインドーを見て回ったほうが、たのしいジャン! …というのが現代若者の風潮なのか。これは欲望であり、煩悩だ。若い人達は、その欲望や煩悩、それらを自己の生き方の中にどう調和させていくか、それが大きな問題だ。 半日の旅は、ここで終わる。 ・ ('91.1.16) ・中東危機、タイムリミットの日 目次へ |