中津川市本町 歴史の鼓動

市岡家は、中津川宿本陣を江戸時代300年間、勤めた。 市岡は、中津川のなかでも最も古い系譜の家である。その系譜のなかの記録には、和銅六年(713)に東山道の警備のために前山の麓にある「督ノ城トクノジョウ」に移るよう勅命を賜った、とある。 幕末に国事に奔走したのが市岡長右衛門殷政である。 殷政は文化十年(1813)に下伊奈郡座光寺村の庄屋北原信雄の七男として生まれた。中津川市岡家には殷政の兄政武が養子として入っていたが、政武が病気がちであったことから、政武の養子として市岡家に入った。 実父北原信雄は漢学の素養に特に秀でた人であった。殷政も幼少の頃から父に学んだ。 成人後、中津川宿で間半兵衛秀矩に漢学を教えている。その秀矩とともに平田国学の門人として京都に度々出かけ、長州藩や公家の邸に出入りし、王政復古による祭政一致の政体の実現に奔走した。 文久二年(1862)長州藩が公武一和から尊王攘夷へと大きく舵を切った「中津川会議」を画策したのは、間秀矩や市岡殷政であると言われている。 慶応四年(1868)、官軍の関東への進軍には先導役を勤め、 「測らざりき我輩生きてこの盛事を見んとは」 とその感想を誇らしげに述べています。 | ||
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