中津川市本町 歴史の鼓動


 歴史の鼓動


水戸天狗党を歓待する

 元治元年(1864)、水戸前藩主徳川斉昭は尊王攘夷論者であったが、その思想に共鳴する過激派たちを天狗といっていた。

 過激派の中心人物、藤田小四郎らは三月に筑波山で挙兵し、斉昭の子一橋慶喜に尊王攘夷の誠と実行を訴えるために進軍を開始した。その勢およそ千人といわれている。それが天狗党といわれた集団である。

 水戸天狗党は幕末、元治元年(1864)晩秋十一月、塩尻近くの和田峠の下りにかかった所で、下で待ちうけていた松本、高島両藩と大合戦となった。
 
 水戸天狗党は兵員は少なくなかったが、戦闘訓練は少なく、銃器も旧式で劣っており、劣勢であった。その退路は、伊那路から清内路を経て、馬籠宿と落合宿を通り、そして十一月二十七日の昼食が中津川宿であった。

 中津川宿に入った浪士たちはびっくりしました。
 何故かと言えば、これまで通ってきた宿場では、幕府側からのお触れが行き渡っていたから、「天狗党」と聞いて女子供はすべて逃げ出し、宿になった家の者たちも恐怖の色を浮かべていたのである。
 
 それなのに、中津川宿では町人全員が本陣の辺りに集っていた。
 そこでは五平餅が出され、きしめんが用意されていた。五平餅は「御兵もち」、きしめんは「義士めん」と書かれて、住民は歓待した。
「さあ食べて、食べて」
 その声を聞いて、天狗党の面々は感激したと伝えられている。

 不思議に思い、目付役が騎馬で宿内を回って
 「どうして中津川宿の人々は我々を歓待するのか」
 藤田小四郎に尋ねた。
「この人々残らず御同士の方々にて」と答えたという。
 この様子を居あわせた京都呉服商伊勢屋久兵衛が送った手紙に残されている。

 天狗党が中津川宿を通行することは、既に伊那の平田門人から中津の門人に通報されていた。市岡殷政や間秀矩は尾張藩の了解を得て、同じ志をもつ水戸浪士を歓待した。それが住民の歓待になった。

 浪士は捕縛された後、越前で全員処断されたが、その途中で天狗党浪士を歓待したのは中津川宿だけでした。五平餅などで腹を満たした浪士は、それ以上に心が満たされた宿場であったと思ったに違いない。
 尾張藩の後盾を得ていたので、幕府も賊軍である天狗党を歓待した中津川宿を処罰することは出来なかった。
 
 和田峠の戦闘で戦死した天狗党幹部、横田元綱の首級の埋葬を肥田九印兵衛通光らに頼んだ。
 彼ら中津川の文化人たちは、実サント戸に葬った。

 幕府に隠れての行動だったので、江戸時代が続けば、中津の文化人も斬首された人も出たのではないだろうか。

 
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