中津川市本町 歴史の鼓動

竪タテ清水町と本町の角、NTTと道路をはさんだ隣に、現在の曽我宅、中津川村の庄屋、肥田家がある。屋号は「田丸屋」。中仙道の町並みの商家には屋号がついていた。 外から見てはそれほど変哲もないが、屋根つき土塀に囲まれた中庭は、苔むし、樹木がうっそうと茂って、昔から手つかずで残っている。広い屋敷は、昭和二十年代、本州製紙の社宅として間貸しされていた。現在も、住んでいる人はいる。歴史的な建造物として、改築はされていないと思われる。 肥田家は、江戸中期、享保三年(1718)から明治五年まで、江戸時代の約150年間、庄屋を勤めていた。「田丸屋」は、大名の参勤交代一行など身分の高い人しか泊まれない宿泊施設であった。 幕末の十代目当主、肥田九印兵衛通光は、中津川村最後の「庄屋」であった。 「濃州徇行記」という十九世紀初め頃の書物に、「庄屋を肥田九郎兵衛と云 其子を仙蔵と云 名は潜 字は淵夫と云 詩画を能す」と書かれている。 通光は、文化十一年(1814)に肥田金右衛門喜盛の子として生まれ、庄屋を勤め、馬風という雅号を持つ俳諧の宗匠である。肥田家は教養の高い家系で、中津川の知識階級の中心的な存在であった。 一方で、反幕府思想であった平田国学の門人でもあり、幕末の世情が混沌としているなか、公の仕事をしながら陰で倒幕活動に協力した。俳句の月次会には 本陣の市岡殷政や山半の間秀矩などとともに、風雅な句会が行われていた。その一方で、明治維新に向かって国事が語られ、その行方を見定めようとしていた。 文久三年(1863)には、市岡、間らと上京し、平田国学同門の士たちと交流する一方で、国事に奔走。翌年の元治元年五月にも上京し、岩倉具視(旧500円札のモデル)の知遇を得ている。 その時に具視が読んだといわれる和歌が、次の歌である。 「美濃路なる 山時鳥おもいきや 遠く都におとつれんとは」 (美濃の田舎にいると思っていた山ほととぎすが、都へ訪れてくれるとは、驚きだ) また同年八月十五日、天狗党(反幕府革命軍)の横田藤四郎祈綱が、庄屋肥田家「田丸屋」へ訪れ肥田九印兵衛通光に会っている。 藤四郎は、天狗党が和田峠で高島藩・松本藩の連合幕府軍と戦い、戦死した横田元綱の父親である。三ヵ月後に息子元綱の首級を託すことになるとは思ってもみなかったことであろう。 肥田九印兵衛通光ら、中津の文化人たちは、幕府に処罰される覚悟で反幕府活動家をかくまう行動をした。 天狗党の横田元綱の塚は、中央道建設の際、国道十九号線実戸クラブの隣りに縮小移動し、今も祀られている。 また、明治維新の年に木曾谷の百姓1,150人余り(現在の人口比からすると一万人規模)が百姓が集結中津川大橋まで来て騒ぐという一揆が起こった。通光は百姓の要求を聞き嘆願書を書いて、尾張藩に早駕籠で駆けつけ、相談し、混乱を収めるために体制側との橋渡しの役割を果たしていた。 島崎藤村「夜明け前」に登場する小野三郎兵衛は、肥田通光のことである。 「菊折って すててまた折る 山路かな」 馬風の句が旭ケ丘に句碑に刻まれている。 ![]() ☆今後とも、励ましクリックよろしくね! 人気blogランキングへ ご感想 お書きください。 |