
(杉野町の二階家) 明治四十二年、父三十四歳、おれ十歳の頃のことである。手賀野の上の方が開拓されて来ると、田圃に水を取られて我が家の水車が回らなくなってしまった。水車が回らないことは、我が家の一大事であった。製麺も精米も、仕事ができなくなり、困った。死活問題である。 『……しからば、どうする。』 父に教えられた言葉である。ただ悩んでいるだけでは、何も解決はしない。次にどうするか。『打開策を講じなければ、先へ進まない。』と父は言った。 いざと言う時のため資金を蓄えていたので、父と母はこの事態に素早く対処した。ほとんど即金で今の杉野町の水車を買うと、坂本の大工仙助に頼んで隣接して二階家を建てた。この時代、倹約してお金を残すことは最も大切な美徳であり、保険が発達してないから、それは自分を守ることであった。 新築の二階家に引っ越すと、二階がめずらしくて用もないのに階段を上ったり、下りたりして遊んだ。窓を開けると開通したばかりの中央線が近く、噴煙を上げて走る汽車がよく見えた。 家族は、祖母ぎん、父作吉、母りか、長女すずの、長男錠一、次女きん、三女てつ、四女じょう、五女千鶴…合計九名が、この二階建の家に住むことになった。 明治三十七年水害にあって、坂本から手賀野上宿に移転、再び五年後に越さなければならなかったが、母の積極性が幸いしたのか、父の勤勉が実ったのか、商売は時代の波に乗って順調にのびて行った。 杉野町(倉前町)での営業は、人口集中した市街地へ出たこともあって、精米も製麺も手賀野上宿にいた時より客は飛躍的に増えた。日々繁盛して、毎日忙しかった。仕事は父ひとりではこなしきれなくなったので、従業員を使うようになった。 杉野町(倉前町)へ来てから、六女の四季代、七女美世子が生まれて、兄妹は八人になった。当時の社会では誰も多すぎるとは思わなかった。その頃は、上級学校へ進学する者はめずらしいくらいだったから、子供を育てるのに金もかからなかった。 二年間で、二階建の家も手狭になったので、住まいと工場も建て増しをした。その時、奥まった部屋のガラス戸から見える庭を作った。 杉野町に移ってから四年、生まれた者もいたが、死んだ者もいた。 長年おれの心配し続けてくれた祖母ぎんも、新築の二階の部屋で死んだ。父の商売が順調に伸び、父が建てた家で安心して往生できたと思う。 また、妹四女じょうは丈夫な子供だったが、百日咳がこじれ、肺炎を併発して死んだ。家の中は仕事が忙しく皆立ち働いていて、祖母は病気がちで充分面倒を見てやれなくて、気の毒に六歳の命を儚くも失ってしまった。 姉すずのは十七歳の時、坂本にいた頃、製麺の手伝いに来ていた実戸の柘植仙太郎と一緒になることになった。柘植仙太郎、二十二歳。おれより七歳年上だった。 製麺も精米も得意先が増えたので、長女の結婚を機に分割することにした。製麺は仙太郎が担当し、父が精米と米販の米屋を経営することにした。両方とも繁盛していた。 父が四十二歳の時、二階の部屋で『厄払いの祝い』をやったのを覚えている。親戚の人や従業員、それに家族が揃って膳をを囲んだ。 六女の妹四季代、七女美世子は、姉すずのの産んだ忠義、雪紀子と同じ年だった。子供たちも大きくなり、妹四季代、美世子、姪雪紀子・・・・叔母と姪が手をつないでが同じ学校へ行くとういう珍しいことになった。 柘植仙太郎・すずのの姉夫婦は四人(孝子という子が死んでいるので、五人いた)、おれの家の方は両親と七人(四女じょうが死んだ)…これだけが一軒の家に住むのは、いくら大きい家でも、限界になって来た。 |
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(本町の家) 大正二年頃、本町の米屋渡会又一氏が水車付きで店舗を売り出したので、父はこれを買うことにした。価格は五千円だった、と聞いている。当時、米一升十二銭、主婦の日当二十銭だったから、おいそれと右から左へと出せる金額ではなかった。 当時の五千円というのは、今だったら幾ら位の価値のものか、計算してみると…一般の勤労者の月収は二十八円だったから、約百七十八ヵ月分(十五年分)の価格になる。これを現代の月収30万円のサラリーマンに置き換えると、五千三百五十五万円ということになる。この値段の家を中津の町で探すとなると、かなりの物件になるのではなかろうか。 商売は繁盛しているとはいえ、上宿から倉前町へ出て四、五年の間に家を建て、二年後に増築、従業員も増えていたし、家族も多くなっていた。簡単には五千円が工面出来た訳ではない。 坂本に残していた田を売り、銀行からも借りた。この時の銀行からの借入に際しては、近所の有力者が手形の保証人になってくれた。父の米屋としての仕事振りが認められ、応援してもらえたのだと思う。今でも感謝している。 しかし、いくら借入られても、借金は借金であるから、毎月毎月返していかなければならない。ちょうどおれが父の手伝いをし始めた頃だったから、毎月の返済額がかなり大きかったので、父が返済に苦労していたことはよくわかった。 中仙道の宿場の並ぶ目抜き通りに進出出来たのだから、父は得意であったに違いない。一介の小百姓が、二十二歳で養子になり、二十九歳で水害で全財産を失い、手賀野上宿で五年、倉前町で五年…計十七年ほどで、町の老舗と肩を並べるまでになったのだから、内心自信に溢れていたに違いない。 かくして、本町の家が野沢商店の本拠地となり、身内では本家(ほんや)と呼ばれるようになった。そして、数年間は、無事順調に過ぎて行った。 |
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(米騒動のころ) 大正七年七月、新潟県魚津の主婦が騒ぎ出した米騒動は、またたくまに全国へ波及していった。中津の町も、今にも暴動が起こりそうな雲行きになっていた。 米は、日本政府のシベリア出兵に伴って、米問屋の投機買いや地主層の売り惜しみした結果、騰貴したものだった。一升が十二、三銭の米が半年の間に三十銭、四十銭、五十銭…と、激しいインフレになっていった。 第一次世界大戦で、日本の産業は大儲けして成金が続出の好景気だったが、それは大戦の終了と共に終わり、反動で大不況に陥っていた。庶民の生活は、給料は上がらないが物価だけが上がって、苦しい生活を強いられていた。大正三年を基準にしてみると、大正七年の実質賃金は七割程度に落ち込んでいた。生活水準の下落である。特に、主食の米の値上がりがひどかった。昭和五十五年のオイルショックの比ではなかった。 最初に富山県魚津の主婦が米の値上げに蜂起した。米の買占めの実態が新聞などで暴かれ、そのことが報道されると、庶民の怒りが半月ほどの間に全国各地に広がった。各地で暴動が起きた。暴動は一番身近な米屋襲撃することが一番多かった。 大正七年八月十日、名古屋でも鶴舞公園に数万人を越す人々が集まった。群衆を警察が解散させようとしたが、警察力だけでは抑制できないので軍隊の出動を要請して、辛ろうじて群衆を解散させたと、新聞は報じた。その後、正確には八月十四日以降は『米騒動』の報道は一切禁止された。しかし、名古屋の暴動に刺激され、日付ははっきりしないが、中津の町にも暴動の兆しがあった。数百人といわれる群衆が旭が丘公園に集まった。深夜にいたっても、静かな町に鬨の声が響いていた。 『不逞の輩が町の中に入りこんで不祥事が起こす』と、警察官が昼間のうちから巡回して、戸締りを厳重にするよう指導していた。多分本当のところは、一般町民が『米騒動』に同調することになったら、収拾つかなくなることを警察は恐れたのだろう。不急不用の外出を禁じたので、夕方早くから町の中は静かだった。 米屋と言えば、本町の野沢商店と名が知られるようになっていただけに、その静けさは気が気ではなかった。今にも大群衆が暴徒化して、我が家に襲ってくるのではないかと心配だった。 打ち破られそうな扉には釘を打ちつけ、つっかい棒をし、俵や荷物を積み重ねて障害物を築いた。それでもまだ安心出来ず、父や従業員は声をひそめ、外の物音に気を配っていた。みんな一か所に集まり、息をつめて朝の来るのを待っていた。夜が明けて、外で町の人々が起き出して来る音がすると、何やらほっとした思いがした。 第一次世界大戦後、続いてシベリア出兵と日本の出費は多く、農村も地方都市も生活水準は上がらず、米不況は続いていた。一升の米が、半年で三倍も四倍も値上がりしては、普段に米を食べられる家庭は減り、米の売行きは極端にに悪くなった。政府の指示で強制的に一升二十五銭にさせたが、じきにまた五十銭に戻ってしまった。 当時金持ちというのは地主ということになる。金持ちは大抵年貢米が入って来るから、米を買う必要がない。米屋にとって、こういう人はお客にならなかった。土地、田圃を持たない勤労者がお客だったから、勤労者の賃金の目減りは、米の売上に直に響いた。 社会情勢の影響で米の売行き不振で、以前ほどの活況はなかったが、おれは責任のない立場だったから平気だった。父は不安であっただろう。 |
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(改良麦と発展のきっかけ) そんな時(大正八年頃)不況時代に即応する『改良麦』という新製品が新聞に載った。『改良押麦』と言うのは、従来の麦より消化し易く、米に混ぜて炊いても『改良押麦』だけを食べても、抵抗感が少なかった。米に似て食べやすいという評判だった。 米の買えない人が、麦、ひえ、あわを買って行くのを見て、『改良押麦』の機械を購入して押麦を作れば、商売の展望が開けると、父は決断が早かった。お金持ちには米を売り、貧乏人には『改良押麦』を売れば、中津の市場を独占できると考えた。 『改良押麦』を作る機械は、その当時の値段で一万円と言われていた。一万円は、昭和五十二年の価格に換算すると一億〜一億五千万円はするだろうか。個人商店がこれだけの設備をするのだから、父には度胸と商売の自信があったのだろう。また、今商売が順調だからこそ、思い切った大胆な手が打てるということだ。 手元に現金があるわけではないから、丸仙のうどん屋から五千円を借りた。その時、丸仙も父にそれだけの額を貸すだけ儲かっていた。三郷村の小西稔氏のところで三千円借り、自分の金を合わせ、静岡市(水越町)の不二工機へ出掛けた。豊かな時は、豊かな人と知り合えるものだ。 機械を入れるとなると、野沢商店を抜本的に改造して本格的な工場にすることであった。 第一次世界大戦まで、中津の町は生糸の関係工場は大いに賑わっていたが、終戦と同時に不況がやってきた。軍需と輸出に頼っていた分、米屋以上に打撃は大きかった。 そのため、生糸不況で倒産した建物が町のあちこちにあった。勝野製糸が倒産したのもこの頃だ。その中でも一番大きい丸美屋の倉庫を買入れ、解体して運び、注文した機械が到着する前に工場を建て、三階建てとした。表からトロッコで米を運び入れ、精米するためにレールを敷いた。改造を機にボイラーも備えた。 『改良麦』の作り方は、先ず精穀機で原麦をついて、圧鞭機で蒸して平らにする。その工程をすべて自動的に行った。オートマチックの最先端であった。動力は五馬力で、一日の生産能力は約十俵だった。この時から、水車に頼ってきた動力は電気に変わった。 米の価格は相変わらず高騰しており、『改良麦』の名前は浸透してよく売れた。 しかし、毎日十俵生産すると、中津の町だけでは捌き切れないので、父は木曽路から北恵那の付知方面まで従業員と一緒に大八車を引いて売り歩いた。 父は『改良押麦』の機械を購入すると、中津の市場では消化しきれない量が生産されることはわかっていた。野沢商店を中津一番の店、それ以上にすることを考えていた。 当時は、三度三度の食事に白米を出せる家庭は少なく、大抵の家は麦や雑穀を食べていた。だから、歯当たりのよい『改良押麦』の売行きは良かった。 原麦は、広島から四国、九州熊本方面から仕入れた。大麦は、群馬県前橋、埼玉県や茨城県方面から仕入れた。米や雑穀は、台湾や朝鮮、北海道から仕入れていた。 商売が拡張すると、得意先は市内から郊外のかなり離れたところまで配達するようになった。父は、注文取りに行かせる時、その家の米びつに(米がどのくらい残っているのか)いつも頭へ入れて、いつ頃行けば注文が取れるのか、従業員にやかましく仕込んでいた。 米の販売には、仕入れが欠かせない。その米を仕入れるため、従業員の安江と一緒に新潟へ行ったことがある。 仕入れの仕事は昼の内に済んでしまい、夜は手持ち無沙汰になったがおれは見知らぬ町へ行っても…と思っていると、いつのまにか安江はいなくなっていた。そして帰って来たのは、夜が更けてからだった。案の定、遊廓へ行っていたのだった。 昼間の内に目安を付けておき、おれに黙ってその店に行ったのだった。後に満州に渡り、戦後引上げて来て各種の事業を起こした男だけに目端が利いた。 うちの米倉から米一俵盗んで担いで好きな女のところへ行くところを、父に見つかった豪傑な小僧もいた。或いは、倉に入っていた什器類がごっそりなくなっていたとか…。そんな逸話が残っているのも、この頃である。宮町で米屋をしている吉村元蔵さ、中村の成瀬一郎は、この頃の従業員である。 従業員が多くなると、勝世の仕事も大変だった。 一度に三升炊きのかまにあふれるほどのごはんを炊いた。従業員には、ごはんだけはたっぷり食べさせた。口減らしに奉公に出された子たちが多いから、食べることが楽しみだった。茶碗に山盛り三杯も四杯も食べた。米はいくらでもあったから、お代わりは自由だった。 有臣も中学生頃にはこの仲間に入って、飯食い競争して勝った…と、喜んでいたのを覚えている。 この頃から父が考案した(サ)の屋号を使い始め、野沢商店は町の中で屈指の繁盛している店と言われるようになった。従業員も多くなり、野沢商店の最も華やかな時代と言える。 |
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(おれの結婚) 姉のすずのの家庭には、すでに四人の子供がいて賑やかであった。そんな和やかな家庭を見ていると、おれにも嫁がほしいと思うようになった。義兄の柘植仙太郎は父のやっていた製麺所を引継ぎ大々的にやって、繁盛していた。義兄の仙太郎のように一人前に扱われるには、やはり所帯をもたなくては…と思って、父に相談したが、許さなかった。二十歳そこそこでは、早すぎると言って。 おれが仕事で、木曽路方面へ配達で時々見掛ける娘がいた。気性もいいという評判も聞いて、ぜひ嫁にと思うようになった。その娘の名は、宮下勝世…山口村の宮下定六の三女であった。 二十二歳になって、おれが所帯を持ちたいという気持ちが真剣だとわかって、父もようやく腰を上げ、つてを頼って仲介をして貰うことにした。 恋愛結婚など無いに等しい時代、あちこちに縁結びの仲介をする婆さんがいたものだ。父は、おはまさという人に頼んだ。しかし、先方にはすでに先約があると言う話…相手の男は、学校の先生だとか。がっくりした。しかし、よく聞くと、結納まで交わしてはいないのがわかった。父は、仲介のおはまさにかなりの金品を出して話を急がせた。 山口村近辺では、鄙(ひな)にはまれな美しい娘…おれがそう思うのだから、他人だってそう思うに違いない。だから、口約束だけでもと、早い内から話を持っていく者がいても不思議ではない。おれは内心あせっが、ようやく結納を交わすことができたので、安心した。 大正九年、勝世十七歳、おれ二十二歳で結婚した。仲人は、田中桂二郎と妻おやすさであった。 夫婦は、五歳離れているのが一番うまくいくものだ。この夫婦は末長く睦まじくいくに違いないと仲人や来賓に祝福されて新婚旅行に出掛けた。勝世は、汽車に乗っての旅は、物珍しいようだった。口数は多くなく、内気に見えた。そのうちに慣れてくれば、ごく自然に話すようになった。一日中追いまくられていた仕事を離れ、伸び伸びとした一週間ほどを三重県志摩で過ごして来た。 |
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(長男有臣誕生) 結婚して四年ほどは、勝世には妊娠の兆候はなかった。周囲から急かされ始めた矢先、待望のと子供に恵まれることがわかった。その時は、嬉しかった。父も母も、内孫が生まれると判って、大喜びして、勝世を大切にしてくれた。大正十二年のことである。 臨月になると、大家族の中で姑に仕え気の休まる時のない勝世を、早めに山口村の実家に帰してやった。その当時は、妊婦は実家へ帰り、産婆に来てもらって生むのが、ごく自然のことだった。 おれのところへ、『男子誕生』の第一報が届いたのは早朝だった。早速、おれはその日の内に山口村へ出掛けた。 バスを降りると、青空がまぶしかった。一刻も早くと田の畦道に沿って坂を上って行った。勝世の実家の近くまで来ると、突然、白い大きな鳥が足元から飛び立った。突然のことで驚いたが、空を仰いで、舞い上がって行く白い鳥を見送った。それは、息子との初対面を前にして、幸運を呼び込む白い鳥…瑞兆のように見えた。 子供は、おれが予想した通り、山口村系の感じの目鼻立ちをしていた。 野沢の家では、おれが生まれてから、きん、てつ、じょう、千鶴、四季代、美世子…とことごとく女ばかりの女系家族であった。そんな中で、ひょっこり…そんな感じで、男子誕生。作吉→錠一→有臣、長男の長男、直系の孫。そして、周りには、世話焼きの年頃の女が四人も五人も余っているのだから、扱われ方が想像つこうというもの。家業の米屋は順風満帆、経済的にも余裕がある中で、長男有臣は『乳母(おんば)日傘、蝶よ花よ』と事実それに近い扱われ方で育った。 この頃は、長子相続の時代だったから、長男に対する期待が大きく、第二子以下の子供との差が大きかった。第二子以下の子は、粗末な扱いがされても当たり前の風潮だった。特に女は余っているような状態だったから、すぐ下に生まれた長女敦子は、損をしたかもしれない。今思うと、長女が兄を見て羨ましく思っていても意に介しなかった。扱われ方に差があっても仕方ないことと、女に生まれたのが不運だったと皆が思っていた。 |
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(本町の日々) 世相も穏やかになっていた。第一次世界大戦後、大正九年国際連盟ができ、世界全体が平和を謳歌している観があった。世界の五大国のアメリカ、イギリス、フランス、日本が集まって軍縮する方向でワシントン会議で話し合いが持たれていた。 大正十二年、関東大震災が発生したが木曽山脈の麓にある中津の町は、山がちの地盤が固くて地震には強いから、何の被害もなかった。 おれたちは、父母と妹たちの家庭とは別所帯の形をとっていた。 世帯主となり、一家を構えたが、米屋の経営実権は父が握っていた。おれは、父の指揮に従って、補佐していけばよかったから、あまり責任もなく気楽なものだった。 大正末から昭和十年頃までは、何事もなく、まことに我が家も平和であった。おれも、歳を取ることを忘れているほどだった。大正十五年に長女敦子、昭和五年次男徹男、昭和八年三男健作、昭和十年次女世津子…次々と生まれたが、子供を養うことに不安はなかった。父の指示に従って、汗まみれて米俵担ぎ、原麦を機械に掛けて精麦する。そして、精や精麦をお得意先に配達に回っていたが、苦労とは感じなかった。それが、妻子を養い、妹達の生活を守ることであった。家長の父と長男のおれのつとめであると思い、懸命に働いて来た。 正月前になると、呉服屋が長持ち(衣装ケース)に反物をぎっしり詰めて、大八車を引いて来た。反物を広間に並べると、五人の妹たちは正月用の晴れ着にと、ああでもない、こうでもないと鏡の前で半日費やしていた。 岐阜の師範学校に行っている妹のてつが帰ってくると、家中女ばかりで華やかを通り越して、騒がしいばかりだった。
店の発展と共に、妹たちはその恩恵に浴したが、丸仙の姉だけは結婚して外に出たと言うことで恩恵に預からななかった。姉にしてみれば、妹たちが次々と物を買い与えられいるのを見れば面白くなかっただろう。丸仙の家、水車等は、父作吉から分割月賦ではあるが買わされたと言う不満が重なった。 姉が結婚した時と妹たちの時とでは、家の経済状態が違うから、父を責めても仕方ないと思うが、姉は六十歳を越してもこだわっていた。 三女てつは岐阜の師範学校へ行って家にはいないし、四女じょうは幼い内に死んだが、五女千鶴、六女四季代、七女美世子…と、年頃の娘が揃っていた。 父も母も二人とも大柄な人だったので、妹たちもすらっとしていて器量良しと噂される程だった。近所の評判にもなっていた。中学生や高校生の中には、幼い有臣を使って手紙を託して来る者もいた。その当時は、男女交際は不良行為の第一に挙げられていたが、妹の方も気に入った男には、返事を書いて有臣を使って手渡していたそうだ。付け文するほどの勇気のない男は、米を買う振りしてのぞきに来た。店の前を何回も行ったり来たりしているから、その様子で判った。そうすると、従業員がおれに報せに来たものだった。 また、中津の女学校にいっている妹に、上級生からS(シスターの略)妹になって…と手紙が鞄の中にあったりしたとか言っていた。そんな娘時代もあったが、恋愛結婚で嫁入りした妹はいない。母が、探して来た鉄道員や教員と見合いさせた。 |
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(妻勝世のことなど…) 別々に食事をしていたが、父母が健在で同居していたから、妻勝世は気苦労が多かったと思う。おれには血の繋がった母であっても、勝世には姑である。 母りかは、おれが子どもを育てる時には、子どもを生み過ぎて『子どもは、飽きた。面倒見るのはいやだ』と平気で言うような面を持っていた。好き、嫌いと自分の感情を幼い子どもにも出てしまう性格があった。老人になって、一人娘の自分本位で気の強さが、はっきり出て来ていた。 おれは長男だったし、野沢の嗣子だったから、母からは優しさだけしか感じなかった。また、母の気の強さに庇護されている立場だったが、妻の立場は違っていたようだ。おれとしては、困ったことがあれば父母に相談出来たし、両親との間で波風の立つようなことも滅多なかった。おれ自身、外で遊んだり、酒呑んで暴れるようなことをする人間でもないから、妻を心配させるようなことはなかったと思う。 店が繁盛さえしてれば、店の収入は父の収入であると同時におれのものと言う気持ちだったが、妻の立場の勝世の気持ちは違っていた。住まいも、おれの両親や娘たち、舅姑と小姑に取り囲まれていたから、勝世には窮屈だっただろう。妹たちからは『ねえさん』とか『勝世さ』と慕われていたようだった。一番歳の近い三女てつに帰省した時などは、掃除を手伝って貰っていた。しかし、姑と嫁の関係はあまりうまく行っているとは言えなかった。勝世の性分が、もうすこしお世辞を言って、母の機嫌を取るようなところがあったら、後の運命も変わっていただろう。 山口村で育ったことは純粋で正直で真面目なことではあったが、それはひいては世渡りが下手と言うことかもしれない。時には、嫌でも笑ってお世辞を使わなければならない。かといって、勝世がそのことを態度や顔に出していさかいになった訳ではなかった。穏やかな性格だった。そんなところから、未だに子どもたちに慕われていた。丸仙の姉の子どもたち…星子、幸子、則子は、よく遊びに来た。お菓子とてない時代、子どもたちに焼き握り飯、『洋食』のカレーライスを食べさせた。昭和の初め、ようやく田舎にも知られた『洋食』は、ハイカラな食事で子どもたちには人気があった。 子どもたちは、自分の家より本町のおれの家へ来たがり、来ればなかなか帰りたがらず長男の有臣とは兄弟のように遊んでいた。何十年たって今も、有臣と丸仙の姉妹とは兄弟のように話している。なかなか帰ってこない子どもを迎えに、丸仙の義兄仙太郎は来るのだが、上がり込んでちょっと一杯…呑むのは好きなほうだから、ミイラとりがミイラになってしまったものだ。 みんな帰ってしまうと、勝世は食器を片付け明日の支度をした。灰皿の片付けすると、紙巻きタバコの吸殻が残っている時は集め、それをほぐして乾燥させて缶に溜めていた。おれはタバコは好まなかったが、お客がくると、煙管(きせる)で吸う人に供していた。けちだと今なら思うかもしれないが、来客サービスとして喜ばれていた。 姑の母は家事の手際悪いのは嫌いだから、目を光らせていた。そのせいでもないだろうが、鍋や釜の底まで磨き、いつもピカピカ光るほどだった。嫁の勝世の行動には何も言わなかった。まず、合格点を取っていたということだ。 |
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(妹たちの結婚は…) 母は、妹たちが年頃になると縁談が来ても、鉄道員か教師でなければ断ってしまっていた。二十四時間労働の米屋と比べ、亭主が『月給取り』ならば、主婦の座は極めて楽であろう…と思ったとしても不思議ではない。 昭和の初め、中津の町には大企業が優秀な社員をおいているわけもなく、『月給取り』と言えば、鉄道員であった。地元の優秀な子弟が学校を出ると、選りすぐって採用されていた。鉄道が中津まで敷かれて日が浅かったから、町の人達には、国鉄職員の制服はまぶしく見えた。鉄道は国家事業であったたら、働く者にとって生活がもっとも安定すると思われていた。 父も母も、特に母は娘たちの結婚相手として鉄道員を探した。そうして、千鶴の亭主片山、四季代の亭主土方、美代の亭主伊藤…その次の代でも、敦子の亭主楯、数えれば結構いる。この成功例の他に、途中で立ち消えになった話も含めれば、随分話としては多かったはず。母は、自分の体験した苦労を娘にさせたくないとの思いで、娘の縁談を一切取り仕切っていた。父は、仕事に没頭していて傍観していたようなものだった。 |
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(父母、そして隠居のこと) 昭和七年だったと思うが、父作吉は積年の疲労から林病院へ入院した。二、三か月だったが、それ以降、おれの目から見ても父の気力の衰えが見えるようだった。この時、父五十七。おれは、三十三歳。 父に替わって、おれががんばらねばとひそかに決心して、父に病後の養生する意味を込めて、隠居所を作るよう勧めた。父は、まだ隠居するのは早いと渋っていた。五十七歳であっても、世間の老人よりは違う、もっと働けると言っていた。おれに店を任せるのが不安だったと言うのが本音だったのだろう。しかし、おれが、やれる大丈夫だからと説得して、ようやく承知してもらった。 昭和町にある田圃二反を、大地主のマルハチから買い取って宅地にした。 その時から、父は隠居所の設計に夢中になっていた。今まで働きずめだった父が、その熱心さを発揮して考えたものだから、随分凝ったものになった。 敷地全体は三つの部分に分かれていた。京都の金閣寺や古い寺庭を参考に、庭師に注文して巨石を配した池、その周りを囲む樹木などの庭園部分。柿、いちぢく等を植えた果樹園の部分。そして、敷地の外にはいつでも耕作出来る畑を残しておいた。 父の考えとして、心を静める沈思黙考の空間と役に立つ実益部分、二つの機能を持たせた屋敷ということを構想していた。 水は巨石の上から池へ流れ落ち、その水音が縁側から家の中まで響いていた。縁側の隣が、書院となっていた。いわゆる書院造りで、床の間があって、床柱の上から般若の彫り物の面が睨んでいた。その横に、違い棚があった。 全室とも畳であるが、裏の台所の隣の一間だけは板の間だった。その板を外すと地下室に続くセメントの階段になっていた。そこは、緊急時または平時の食糧の備蓄の場所であった。水害の経験した父が、いざと言う時の用心した慎重な考えが反映していた。 『治にあって乱を忘れず』である。 |
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(四つ目川の氾濫) 昭和七年八月二十六日、中津川市の中央を流れる四つ目川が、大氾濫を起こした。危険区域に住む人たち約二千人が、旭が丘の女学校(今の中津高校)へ避難した。 恵那山や前山から流れて来る水は、四つ目川に掛けた木造の橋に立木や岩石を引っ掛けて、脇へ脇へと溢れた。本町は低地だから、溢れた四つ目川の水は、道路から屋敷の中へ浸水してきた。水は、我が家へ入ってきて、止めることも出来ないまま…、家の中央にあった池を瞬く間に溢れさせ、池の鯉が逃げ出して行った。 おれは、まず米が水に漬からないように、従業員に指示して、倉庫の米を工場の二階に運んだ。必死になって米一俵も濡らすまいと頑張った…お蔭で、無事洪水をやり過ごすことが出来た。 水が引いて見ると、逃げた鯉の替わりに見知らぬ鯉が池の中で泳いでいる。余所から逃げて来たのらしかった。これであいこだと、みんなで笑った。 この水害は、中津川市の歴史に残る大被害を引起し、天皇陛下から見舞金の金一封が下賜され、それを基金にして四つ目川の国道沿いに記念碑が建立された。併せて、四つ目川から取水する町営のプールが作られた。 それまでは、子どもの泳ぐ場所と言えば、桃山の後田川にあるお岩さんだった。戦後、各学校にプールが作られるまでは、プールと言えば町営のここだった。 その後、どこの学校にもプールがあるようになって、その使命を終えたということと川からの取水は衛生上好ましくないなどの理由により、今では埋め立てられて税務署になっている。水泳好きのおれには、寂しい気がする。 |
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| (おれの世帯の独立) 隠居所が出来たのが、昭和八年だった。父母はそちらへ移り、未婚だった妹四季代、美世子も一緒に行ったので、本町に残ったのは従業員を除けばおれの家族だけになった。これからは、おれがこの店をしっかり守っていかないと…という不安と感慨が入り交じって暫くは落ち着かなかった。父も心配か、よく顔を出してくれたが、あまり手は出さず助言だけで、おれに任せていた。 引退しても、父は自分の作り上げた店という意識は強いし、おれは二代目…父は売上が溜まると、当座の生活費としてかなりの額を持って行った。父としては、二人の娘と妻の扶養家族がいたから、経済的に無収入というわけにはいかなかった。父が売上を持って行っても扶養家族もいるから仕方ない…と思いつつも、妻勝世は不満だったと思う。 夫が店の全責任を負って働いているのに、隠居した義父がごっそり売上を持って行ってしまうのだから…。金が無ければ、次の仕入れに響いて来る。夫が二代目当主になっても、自分の自由にならない主婦の座であることに腹立たしく感じていた。嫁としてこぼすことも出来なかったが、ただ落合の姉だけにはこぼしていたらしい。 おれは長男だから、当然隠居した父母の生活の面倒を見なければならない。こうして父が売上を持って行ってしまう…形も、父母の扶養なのだ。そう割切って考えればいいと思っていた。それは家督を継いだ者の責任でもあった。 家督を継いだということは、父母の全てを受け継ぐということだった。それは戦前の法律で決まっていた。それが、父からおれに名義を換えないうちに、日本は戦争に負け、法律も変わってしまい、長子相続という制度がなくなってしまった。長男として妹たちへ嫁に出す責任を果たしたのに、得たものは何だったのかと思う。 |
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| (隠居の父と母) 隠居してから、よく父は母に新聞を読んで聞かせていた。 母が読んでもらっていたと言うべきか、そのへんの呼吸はわからないが。その読み方が独特だった。新聞を朗読して聞かせているのだが、文の句読点を無視して、ご詠歌かお経のリズムで読んでいた。孫たちは馬鹿にしたように笑っていたが、父も母も意に介せず、母は満足そうに聞いていた。 ラジオが大正十四年に放送される以前には、アナウンサーがニュースを読むような習慣がなかったから、独特な読み方を考案したのだろう。母は字が読めないのではなく、父に読んでもらうというのが、楽しみだった。それが、夫婦円満の秘訣だったようだ。 |
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| (章末むすび) 仕事は順調であったし、世の中は平和であった。四十になるまで歳を取るのさえ忘れていた。今振り返ると、まったく夢を見ていたかのような気さえする。幸せな時はは短かったように思う。 |
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