
お断り:このページでは、サハリンの日本時代のことが主題ですので、あえて日本名を先に書き、カッコでロシア名を書くことを原則としました。
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2009年8月11日(火)~8月13日(木)に、成田発のウラジオストク航空のチャーター機(火曜日、木曜日のみ運航、最近一般客も搭乗できるようになったようだ)で樺太(サハリン)の豊原(ユジノサハリンスク)を往復してきた。
* 往(11日) : ウラジオストク航空 8816便(XF8816) 15:55 発(日本時間) 所要時間 2時間 時差
2時間 19:55着(現地時間)
* 復(13日) : ウラジオストク航空 8815便(XF8815) 13:25 発(現地時間) 所要時間 2時間 時差
2時間 13:25着(日本時間)
そして、2009年8月12日(水)。数年来の念願の地であった「生まれ故郷」の真岡(ホルムスク)と広地(プラウダ)を訪ねてきた。
生前、その多くを語らなかった父母や、そしていまだに多くを語ろうとしない兄姉の戦争体験を聞いてはいたものの、それは断片的であり想像の域を出ることができなかった。是非、現地を踏み、当時乳呑み児の私がどのような所に生まれ、育ったのか、そしてまた、父母や兄姉の味わった戦争体験を少しでも「断片」ではなく「面」にできたら・・・・、「共有」できたら・・・・との思いがあったから。
2泊3日の今回の旅は、(有)ツーリスト シアターに、日本語ガイドとチャーター車等の、旅のすべてを手配してもらった。
なお、「ロシア・ルーブル」には、成田で交換していった。レートは1p≒3.54円であった。
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往路の 機内食 |
成田から丁度2時間の飛行時間。時差も丁度2時間の樺太(サハリン)。日本時間16時50分ごろに、機内食が配られた。胃袋にとっては、やや早めの夕食になる。でも、意外に美味しかった。 このあと予期せぬことを体験する。それは、ロシア語と英語の併記された「アンケート」が配付され、記入を求められた。「あなたは21日前からどこにいましたか」、「ロシアの滞在先は」等々の10項目ほどの質問があった。どうやら「新型インフルエンザ」対策らしい。それを裏付ける動きが、「機内での赤外線を使った検温」、空港ターミナルでの係官全員のマスク姿、そして、入国審査後に検疫官による「問診と検温」、「アンケートの回収」であった。 日本が5月ごろに見せていた光景を、樺太(サハリン)で体験させられたのには、少し驚き、気を引き締めた。 |
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「ロシア入出国カード」の見本(旅行業者から送られたもの。一部墨塗りをした) | カメラとビデオを持参していたので、「税関申告書」も記入をした。事前では2枚に同じことを書かねばと思って臨んだが、現場の係官の指示で1枚のみ記入し、それを提出して、入国審査に向かった。 この見本の朱線部分に気を遣って記入をした。この記入に当たっては、多くのウェブページも見させていただいたが、特に「Visa number」欄の記入例は2つあった。この見本の例のような番号もビザにはあったが、現地の係官から、「ビザの右上の(私の場合は)計9桁の数字」を記入するように指摘を受け、現場で書き直した。 この「入出国カード」は機内で配られ、同じ内容を左(入国カード)と右(出国カード)に記入して「パスポート」と「ビザ(シール式で、すでにパスポートに貼付されていた)」を係官に提出して、左右共に入国スタンプを押してもい、右の「出国カード」は以後パスポートと一緒に、大切に携帯することになった。まあ、何とか樺太(サハリン)の地を踏むことができた。でも、出迎えてくれたガイドと運転手を30~40分も待たせてしまった。 |
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旧熊笹峠から 真岡方面を見る |
旧熊笹峠は、1945(昭和20)年8月20日、旧ソ連軍の侵攻を受けての激戦地である。今も、日本関係者の多くの遺骨が眠っている。豊原(ユジノサハリンスク)から走ること約1時間30分。ロシアでも「ネズミ捕り」というのがあることを教えてくれるような制服姿の警察官を幾度か見た。 でも、その場所は決まっているらしいのか、どの車も速度を抑えてその現場を通り抜けているようであった。 峠には、ソ連の「戦勝記念碑」がつくられていた。そして、ガイドブックによれば、日本軍のトーチカがあるようなので探してみたが、見付けることはできなかった。どうやら、生い茂る山野草のなかのようである。 ただ、一帯には、樺太の山野草が、短い「夏」の貴重な太陽の陽を一杯に浴びていたが、同時に、「寒さ」を感じさせる風も吹き抜けていた。 |
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旧真岡女学校方面を見る | 60余年ぶりの真岡には、旧熊笹峠から下ること約10分ほど。まず、姉の母校となる真岡女学校跡と真岡第二小学校跡を訪ねる。当時の写真で見るような建物はすでになく、徐々にロシア風の建物になってきているようであるが、まだ、薄汚れた古い建物も見受けられた。 この一帯は、ほぼ完全に「ロシア」の建物になっており、日本の時代のものを見つけることはむずかしかった。時間が流れていることを感じさせられた。 旧真岡第二小は、現在は船員学校になっているようではあったが、夏休みと言うことでか、大変静かであった。時折、ロシア婦人が、怪訝そうな目つきで傍を通り過ぎていった。 ガイドは、「自分も真岡生まれで、この下の線路沿いに生家があった」旨を話してくれた。 |
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フェリーターミナルから 段丘を 見る |
現ホルムスクのメインストリート、ソビエツカヤ通りにあるフェリーターミナルの2階入り口から段丘を見る。 目の前に5階前後の建物があり、段丘の全体を見渡すことは出来なかったが、もし見えるとすれば、旧真岡神社跡とか、真岡第一小学校跡が見えるものと思う。 このフェリーターミナルは、真岡港の一画にあり、沿海州のワニノを結ぶ鉄道連絡船(列車ごと積み込む)も発着するターミナルとのこと1階には船に乗ると思える人々や、観光客で賑わっているように見えたが、外階段を使って直接2階へ案内された。 2階はレストランになっていたが、駐車場にはあれほど多くの車と人であったにもかかわらず、ガランとし、我々だけであった。トイレは自由に使わせてもらえた。ここの窓からは、フェリーターミナルの裏手が見え、錆びの目立つ数本の鉄路とそれを跨ぎ船とを結んでいるであろう跨線橋、そこを歩く何人かの人、そして空き地に停められた車を眺めながら、料理を待った。港の傍にいることを感じる光景ではなかったことを覚えている。 |
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広地に向かうためフェリーターミナルの駐車場を出る | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() レストランでは「ジャルコーエ」(ジャガイモや肉をつぼに入れて焼いた料理)等々をいただく【画面左】。いずれの料理も美味しかったが、量が多く、残してしまったことは悔やまれる。また、ガイドが日本語でこちらの希望を聞いてくださったが、具体的なロシア料理を知らないのでおまかせした。ガイドが料理の説明をしてはくださったが、頭に残らず、何と言うロシア料理を食べたのかはまったく分からないのが心残り。 |
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旧真岡駅近くから 春風山方面を見る |
真岡一校・四校の会の平成18年発行の『樺太公立真岡尋常高等小学校 創立百周年記念文集 「春風山の曙(あけ)の雲」』の中の幾人かの手記では、激戦前の平和な時も、また激戦さなかでも、真岡ではこの春風山の緑が人々の生活を静かに見守っていたことを教えてくれている。 ただ、ここではっきりと「春風山」と断定できるだけのものはない。古い写真の面影を車中から確かめようとしたが、段丘のロシアの建物が視界をさえぎり、この判断が正しいかどうかの自信は持てない。この山の形状から、たぶん「春風山」であろうと言うことで、納得する。 もう、この辺りの段丘には日本時代の建造物を探すことはむずかしかった。そうであろう。ソ連軍侵攻時に、街は火の海になったとも聞くので。 |
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広地橋 (昭和16年建造) |
真岡から距離にして約12km。真岡を抜ける辺りは、まだ道路は路面が剥がれ掛けてきてはいたが、舗装されていた。でも、すぐに砂利道となり、対向車も見えないくらいの砂埃の中を走った。対向車はこの間で、6~7台ぐらいであった。 走ること約20分で広地に着いた。1945年8月21日にソ連軍の侵攻を受けて、40余名の犠牲者を出している。 サハリンが「外国人立入禁止」の規制が解かれた1989年に慰霊を兼ねて行かれた人の手記によれば、このときには、「広地橋」の文字がかすかにではあるが読めたようだ。でも今回は、まったくその文字の刻みすら確認することはできなかった。ただ「橋」自身は当時からのものが今でも活躍していた。 |
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広地のメインストリートにある レーニン像と広場 |
ソ連時代には、どの都市にも「レーニン広場」や「レーニン通り」があり、「レーニン像」が立っていた。ソ連崩壊後は、こうした共産党色の強い名称が別の名に改められたり、「レーニン像」も撤去された所も多いと聞いたが、豊原(ユジノサハリンスク)も、真岡(ホルムスク)も、広地(プラウダ)にも、まだ残っており、道行く人を見下ろしていた。5~6階建の集合住宅も数棟建っており、昼ごろであったからか、婦人や子供たちの生活の営みを感じた。 多分、夕方には、真岡方面に働きに出ていた男性たちも帰って来て、家族としての生活を楽しんでいるものと想像した。 |
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旧広地小学校跡と 三角山を見る |
現地時間の13時ごろに着く。夏休みで、自宅周辺で元気に遊ぶ子ども達や、放し飼いになっている数匹の犬とも目を合わせた。でも、この辺鄙とも言える広地(プラウダ)までやって来たイポーニェッツ(日本人)を怪訝な目で見るのは仕方がないことであろう。そして、目にした数人の男児たちが、おもちゃのピストルを手にして遊んでいたのには少し驚きもした。 この地で、1948(昭和23)年6月までを過ごし、函館へ引揚げた。幼子の私には、まったく記憶はないが、父母や兄姉から聞いた三角山は柔らかい緑に包まれ、間宮(タタール)海峡の海の青もきれいに目に映った。しかし、厳しい「寒さ」を迎えるのは、まもなくであろうとも思う。その意味では、今日は、青空もあり、温かさもあり、短い夏の中では最高の日和であろうとも思った。 |
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旧広地小学校跡近くから、広地市街と三角山を見る | 青空と秋を感じさせるような爽やかな風が吹いていた。一部、60余年前の日本の建物も残っていたが、街の大半の建物はすでに「ロシア」のものに姿を替えてきていた。 日本時代では、この辺りは、鮭や鰊の工場等があったと聞く。今では、どのようなロシア人の生活が営まれているのであろうか。ガイドの説明では、サハリンも経済不況の荒波を受けており、ロシア本土へ帰っていく人も多いとか。 |
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広地の真岡寄りの踏み切り | 日本時代には、この踏切の手前の右手に郵便局があったようだが、今回はこの踏切の周辺にはあまり建物は確認できなかった。 踏み切りの整備をしているらしい一人の大柄なロシア人が、我々の車を見詰めていた。 朝のホテル出発時に、ガイドに、「写真を撮ってはいけないところは・・・」と聞いておいた。返事では、「ほとんどないが、駅や鉄道施設、空港等である」との話しであったので、あまり気にしないでカメラを向けさせてもらった。 広地で、64年前からの建物は、漁業組合跡の建物ぐらいであった。 |
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旧王子製紙真岡工場の大煙突の辺りから段丘北側を見る |
広地より、往路と同じ道を20分ほどで、真岡に戻ってきた。それにしても、真岡~広地間は、大半が未舗装の道であった。凸凹を避けながら、車は左に、右にと、それでも、あまり減速するでもないから身体は大きく揺れて、後方には猛烈な砂埃を残しながら往復して来た。当然、時折すれ違う対向車の砂けむりにも負けることなく車は先を急いでくれた。 「ビザ」に記載された場所にしか行くことができないので致し方ないが、時間が許せば「旧豊真線」(現在は廃線)の宝台のループ橋辺りまで行ってみたかったが、今回はあきらめることにする。旧王子製紙真岡工場の跡に案内してもらう。 まったくの廃墟ではなく、何をしているかは車中からは分からなかったが、従業員の車や従業員が工場のところどころにいて、何らかの作業をしていた。煙突は現在は使われていないようだが、冬場の給湯のためにボイラーだけがまだ使われているようなことがガイドブックには記載されていた。 |
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旧真岡駅の南にある跨線橋から 駅方向を見る。 |
上野駅・小樽駅を模して造られた真岡駅は、1992年の秋に取り壊されたようで、今は、「南駅」となっているし、駅舎は見当らなかった。ここに立派な駅舎があったことを知らなければ、一瞬のうちに駅前を通過してしまいそうでもあった。跨線橋の北側の段丘には「ロシア」の建物が建っていた。 しかし、この南側には、日本時代の名残りともいえる「木造平屋建て」の、古い、壊れかけの家が多数見られた。これが、旧王子製紙の社宅であったろうと想像できた。この旧社宅と思われる建物で、ロシアの人がどのような生活をしているのかは具体的にはつかめなかったが、まったくの空き家ではないようにも見受けられた。ロシアの格差も激しいものがあるのかな・・・・とも感じとれた。 |
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鎮魂の碑 1995.8 建立 |
「ここに眠る諸霊を鎮め 平和と友好を祈念し、真岡町関係者有志が望郷の想いをこめて この碑を建立した 真岡町関係者有志一同」との碑文が刻まれていた。 1945(昭和20)年8月20日。ソ連の艦砲射撃から、大勢の人々が命を落とすことになった。あの「9人の電話交換嬢」の自決があったのも、この真岡である。 改めて、多くの犠牲者の方々の冥福を祈り、平和な国際社会が築かれることを願いながら手を合わせてくる。 |
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真岡第四小学校跡を訪ねて | 王子製紙が拡大し、従業員も増え、その子供たちを受け入れるために、1935(昭和10)年に、第一小学校から分かれて新設されたのが第四小学校である。 地図上では、「鎮魂」の碑から南へおよそ1kmで第四小学校跡に着く。この道中に平屋建ての建物が多く見られた。どうやら旧王子製紙の社員住宅であったもののようである。 旧真岡駅の跨線橋から南にはこのような日本の名残りを思わせる建物が多く見受けられた。洗濯物が干してあったり、野菜類が作られ、生活の匂いは伺えた。 |
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真岡第四小学校跡から山側を見る | ガイドの案内で真岡第四小学校跡に来たが、事前に頭に入れた思いと重ならないところもあった。1945(昭和20)年8月20日のソ連の侵攻から逃れるため、父母や兄姉が逃げ惑った山や、沢も、これだと断定できるものは何ら分からない。でも、いずれにしても父母や兄姉が、また王子製紙等の従業員家族、真岡の市民が大勢逃げ惑ったのは、この辺りであったことは間違いあるまい。 父は当時のことを書き遺している。「・・・・平穏な人生は一瞬にして崩壊した。・・・・熱い握り飯を押入れに隠れさせた子ども達に握らせ、畳をもたせかけて少しでも弾丸の来るのを防ごうとしながらも家の前の道を見ては人々の動きを見、また押入れに戻ったが、矢張り逃げ出すのが一番安全と決意し残りのお握りをポケットに入れ妻が三歳の子どもを背負のも待ち切れず、裏口から出て山の方に登った・・・・妻達はまだ来ない・・・・銃砲の音はひっきりなしに聞こえてくる。・・・・山の上からもソ聯の声が聞こえてくるようで、横にそれて草の中にうずくまってしまった。家内達はまだ見えない。でも気になるので見ているとそばを気付かずに過ぎていく。でも ”おい、ここだ” と言う一声がでない・・・・」(子どもの名前部分等を省略)と。 64年前の、父母と兄姉の悲惨な体験、光景を想う。今日、御巣鷹の尾根には、24年の歳月が流れる。過ぎし日を想ういろいろの人あり か。 |
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真岡市役所前のレーニン広場とレーニン像 | 旧い地図と比べてみると、市役所はどうやら「旧真岡中学校」跡に建っているようだ。この市役所の裏にグランドがあることが新しい地図では分かるが、このグランドは、旧真岡中学校の運動場であったと思われる。 市役所前が広いレーニン広場になっているが、車も人もこの広さの中では目立たなかった。広さと、そろそろ出てきた疲れもあって、レーニン像周辺の探索はしなかった。今から思えば、心残りでもある。 広場の近くには、大きな集合住宅が見えていた。しかし、よく見れば建設途中で中断されたたままの姿のようである。ガイドが言うには、ロシアもこの世界的不況のあおりを受けており、このように建設途中で止まったままというのは珍しくないとのことでもあった。 |
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旧真岡神社上の展望の利くところから北側の真岡市街を見る | 眼下やや左手に、フェリーターミナルが見えた。ほぼ正面には真岡港の2本の突堤が見え、その右手にプリモールスキー公園が見えていた。タタール(間宮)海峡は、穏やかにその青さを見せていた。 ソ連軍に捕らえられた日本人が連れていかれ、収容された海岸沿いの「倉庫」群のそれらしいものはまったく見当らなかった。64年の時の流れを感じた。今は、この辺りの市街地は完全に「ロシア」になっている。 遠くには蘭泊辺りの海岸線も見えているものと思う。我々を包んだ風は、秋の近いことを感じさせるものがあった。海の青さも、風も、それが生み出す音も、人々の動きも、短い夏を大いに楽しんでいるようでもあった。 ※高台から見た真岡(ホルムスク)の動画 ©Taguchi〈南から北へレンズを振ったもの〉を載せています。 |
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旧真岡神社上の展望の利くところから南側の真岡市街を見る | 眼を南に転じたら、春風山や、旧王子製紙の煙突や、その向こうには西能登呂灯台が見えていた。第一小学校跡らしきところには、ロシアの高層住宅がびっしりと軒を連ねていた。以前は、樺太第2の都市と言われたが、現在は、第3番目の都市とのこと。すっかり、「ロシア」に変容していた。外で元気に、無邪気に遊ぶロシアの男児たちは、その生活に”ロシア”がうかがわれ、安心しきっている。 旧真岡神社跡には、サハリン船舶会社の社屋が建っていた。この社屋に至る、長い石段は日本時代のままとのことであった。また、旧真岡病院跡辺りには、海員会館が建てられ、その2階が市立博物館になっていたが、工事中で閉館中と言うことが分かり、立ち寄ることをあきらめた。 この一帯も目に焼き付けておきたかったが、車は走り抜けてしまった。心残りではあるが、あきらめよう。 |
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真岡から帰途につき 再度旧熊笹峠をめざす |
16時ごろ帰途につく。来た道を、豊原(ユジノサハリンスク)へ戻ることになる。悲劇の起きた真岡郵便局は今はなく、フェリーターミナルを少し過ぎて通りがやや左に折れるところの右手であると、ガイドは指差してくれた。 真岡は、その名前の通り、「おか」すなわち隆起運動によって形成された「海岸段丘」の上に築かれた街である。ロシア名の「ホルムスク」も「小丘」にちなんでいる。 ![]() 峠では、バイパス工事がこの短い夏の貴重な晴れ間と時間を使いながらおこなわれていた。その峠の付近には、地層の印象的な露頭が続いていた。 |
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豊原まで28kmの道路標識を見る | 地図上では、豊原(ユジノサハリンスク)から真岡(ホルムスク)までは、約90Kmか。我が車の運転手に全幅の信頼を置いて、車の揺れるがままに身体をゆだねた。舗装はなされていたが、その補修はこの夏の時期しかできないのであろう。 車の揺れは、手にしたデジタルカメラの画像を、「観るに耐える」ものにしてくれたものは少なかった。 17時40分ごろには、ホテルに到着した。ここ数年、「是非、訪ねてみたい」との強い思いを抱いていたところへ行って来た事がまだ信じられなかったが、真岡と広地をこの脳裏に刻んできたことへの満足感はあった。ただ、時間が経った今では、「あれを見るのを忘れた」とか「あそこを確認してくれば良かった」との、自省の念に駆られている。 |
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旧樺太庁博物館を利用したサハリン州立郷土史博物館 | まだ18時ごろは明るい。ホテルのフロント嬢に「美味しいロシア料理の店を・・・」と尋ねて、教えてくれた店に、買い物を兼ねて出掛ける。途中、土産物店で土産を買い、目的の料理店を探す。しかし、残念。どうやら定休日であったようで、店内の明かりは暗いままであった。 あきらめて、次の行き先も具体的にならないまま、安全と思える通りを歩く。「サハリン州立美術館」の前の大通りを歩いているらしく「チェーホフの像」を通りの反対側に見た。次に、「ユジノサハリンスク駅」前のレーニン広場で「レーニン像」を見て、ホテルに向かう通りを歩いた。旧豊原は、札幌を模して街づくりをしているとのことで、碁盤の目条になっている。でも、疲れもあったためか、なかなかホテルまでの道のりは長かった。 |
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ロシア正教会を少し斜め横から撮る | ロシア正教会を正面から撮った写真はガイドブックにもあるので、あえて、斜め横から撮ってみた。でもロシアの木々が視界を少し遮ってしまった。 でも、このロシア正教会は、「ガガーリン」ホテルの眼と鼻の先にあった。 結局、今日の夕食も2時間のユジノサハリンスク散策後に、ホテルの2階の日本料理店「わさび」で摂った。でも、迎えてくれた「わさび」の女性スタッフは昨日とは違っていた。 |
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土産を買ったホテルの近くの土産物店ゲルメス・ルーシ | ホテルから3~4分のところの土産物店で、土産を探す。サハリンの地を踏む前に、幾多のウェブページで情報を仕入れてはいた。「英語が通じない」との情報から、最悪の場合は「アチ゛ン アチ゛ン(1つ 1つ)」と「スパスィーバ(ありがとう)」の言葉を・・・と言い聞かせて臨んだが、意外にも「英語」はホテルでも、土産物店でも、空港でも、不自由することなく何とか通じたようであった。また、土産物店では片言の日本語も通じそうであった。 ユジノサハリンスクを含みロシアの地では、信号機のない横断歩道を渡る時には、はっきりとその意思表示を運転手に示す必要があるように思えた。でも、ほとんどのケースでは、先方が停まってくれて横断をさせてくれた。 |
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旧豊原公園(ガガーリン文化公園)の子供鉄道 | 11時35分の迎えの約束まで、1時間ほどの公園散策をする。雨上がりの公園と言うこともあって、草木の緑が映えていた。 ガガーリンホテルの隣りが、公園の入り口の一つになっていた。少し赤味を帯びてきたナナカマドと白樺の木々のトンネルを抜けて公園の奥に入った。子供鉄道の始発は、こちらの予定時間よりも遅かったので、乗るのをあきらめて公園を半周ほどしてあとにすることにした。正面の入り口には、ガガーリンの像があった。 2泊3日の旅であったが、樺太(サハリン)はすっかりロシアになっていた。この旅で、そこに暮らしているロシア人を見て感じたことは、樺太(サハリン)はもちろんのこと、歯舞・色丹・国後・択捉などの北方四島も、もはや完全にロシアになっており、日本に戻ることはあるまいとの強い思いをさせられた。ロシアは、旧日本領の南樺太と、さらには北方四島にも着々と支配を強化しており、そこに住んでいるロシア人の心や、意識には、樺太は当然として、さらには北方四島をも、自分たちの領土であるとの気持ちを持っているのでは・・・・とのことを直感として知らされた。 |
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ユジノサハリンスク空港ターミナルビルの正面 | 入国時に1枚しか提出しなかった「税関申告書」の、改めての提出もなく、出国審査もスムーズにいった。こうなれば、あれほどの緊張が何だったのかと思わされた。こうなれば、「ロシア」と言う国が「意外に近い国」に感じたのが不思議である。ガイドブックには、時によりシステムが変わるとか、係官によっては・・・と言うことあるようだが、これに該当したのかも。 ガイドは、ターミナルの出国ゲート口から出国手続きを見守ってくれていた。セキュリティーチェック、待合室は2階にある。その階段を上がるとき、大きく手を振ってくださった。彼についての詳細は分からないが、日本人であると思う。彼に感謝しながら、また彼の健康を願いながら、こちらも手を振って別れた。彼との別れの涙が雨を呼んだ。待合室では、気屯(スミルヌィフ)まで列車の旅を楽しんで来たと言う男性の体験談を聞かせてもらった。いろいろの「樺太(サハリン)紀行」があるものだと思った。 現地時間13時25分発8815便は、雨の中を離陸した。でも、雲上は青い空。暑い太陽の光陽を受けた。 |
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復路の 機内食 |
現地時間14時50分ごろ、機内食が手元に届いた。ホッとしたこともあって食は進んだ。美味しかった。 成田には、予定時間(日本時間13時25分)ごろには着いた。乗客は2台のバスに揺られて入国ゲートの建物に横付けされた。成田、いや日本の蒸し暑さを強く感じた。 出発の日の11日(火)は、台風9号の影響と、思いもかけない朝5時過ぎの駿河湾を震源とする地震に慌てさせられたが、帰国した13日(木)は、天気も安定し、成田近くの田圃の緑、竹やぶの緑に、日本の良さを思った。 日本まで運んでくれた飛行機は、数時間後の、日本時間16時30分ごろには、サハリンへ折り返すのであろう。 「生まれ故郷」の樺太(サハリン)の真岡(ホルムスク)・広地(プラウダ)を訪ねてきたが、改めて日本も、世界も「平和」を大切にして欲しいと願う旅でもあった。 そして、まだ父母・兄姉の生活史には残る本斗(ネべリスク)周辺を、後日機会があれば是非訪ねてみたい。 |