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目次

札幌の歴史

・ 原野に人が住み始めた頃
名前の由来として最も有力な説とされて定着しているのが、豊平川を指したアイヌ語の「サッポロペッ=乾いた大きな川」です。 前書きでも触れたように、アイヌ語は口承でしかなく、さらに和人には聞き取りも発音も難しかったと思われるので、残念ながら正確な由来はわかっていません。
しかも豊平川が乾くというのは考えにくいのですが、開拓当時も氾濫を繰り返していたことから、雨季に石狩平野を埋め尽くした川も水かさが減って”乾いた”地面が見え初めたとすると納得できます。

さて、札幌における初めての定住者は1857年だと伝えられています。函館においては五稜郭が着工した年になります。
原始林が空を覆いまだ海路が主体だったため、小樽や銭函、そして千歳方面から調査が進んでいた時代。 太平洋側から日本海側へと抜けるためには勇払(ゆうふつ)川からウトナイ湖、さらに美々(びび)川をさかのぼり美々で陸路となります。 美々からは千歳を抜けることで千歳川へ。千歳川を下ると石狩川へと合流。石狩川をさらに下る必要がありました。
千歳越のルート このルートは[千歳越]と呼ばれていましたが冬季の移動や雪解けの川を移動することは困難が付きまとい、陸路により札幌から銭函へと続く道の開削が始まります。 しかしどうしても越えなくてはいけないのが札幌の部屋にまたがる豊平川。そこで川に船を渡し、その船守と通行人の管理を行うために定住者が必要となりました。
このため、石狩において調査を進めていた調役所の荒井金助(あらいきんすけ)が2名の人物を派遣し、豊平川の両岸に住居を構えさせたのです。

豊平川の船渡し この人物達が札幌初の定住者、[志村鐵一](しむらてついち。信州出身。石狩調役に呼ばれ来道。)と[吉田茂八](よしだもはち。岩手県出身。主人に伴い来道)です。 後にこの陸路は[札幌越新道]と呼ばれ、彼らは「札幌開祖」として歴史に名を刻むことになりました。
なお、[札幌越新道]は銭函と札幌の間は現在の国道5号と、札幌と千歳の間は現在の国道36号とほぼ同じルートとなっています。
(右の画像を選択すると大きな画像が開きます。)

ところでここで言う「開祖」は行政の判断に基づいて行われるのでその根拠はまちまちです。「定住」にしても「家族と住んだ」とか「初めて越冬して暮らした」などいろいろです。
特に札幌は[札幌村]よりも早い開村がいくつかあるのですが、最終的に[札幌村]に合併されたため、[志村鐵一]と[吉田茂八]が「開祖」となっています。

・ 現在の様子
豊平側に船渡しとして定住者が住み始めたのが1857年です。場所はもちろん豊平川の両岸ですが、現在では立派な橋と堤防があり、橋の両元に石碑が建てられていました。
札幌開祖志村鐵一碑 札幌開祖吉田茂八碑 左の画像が豊平区豊平4条1丁目にある[札幌開祖志村鐵一碑]。
右の画像が中央区南5条東4丁目にある[札幌開祖吉田茂八碑]。
[札幌開祖志村鐵一碑]はルネッサンスサッポロホテルと豊平川通のあいだにあり、豊平橋に向かって左側。
[札幌開祖吉田茂八碑]は国道36号を挟み札幌ラ・ベール教会の向かい側の公園内にあります。

それぞれの碑は国道(豊平橋)を斜めに結んだ線上で豊平川に対して斜めの位置にあるが、上に載せた昔の地図でも川に対して直交してはいないので大きく間違ってはいないのでしょう。
「志村さんから吉田さんちを見たら現在はこんな感じ」の画像。
志村さんが見た吉田さん
もちろん当時は立派な堤防も豊平橋もなかったのでしょうけど、お互いの顔の表情がなんとなくわかったのかもしれない・・・。

話しを戻しましょう。
翌年の1858年には石狩から荒井金助も現在の札幌市北区篠路に移り住み[荒井村]を開きます。
これが札幌周辺で始めての”村”ということで、個人的にはここが札幌の幕開けではないかと思います。 この村の設置がきっかけとなったように各地に村を形成するだけの人数が入植し始め、いずれ[札幌村]と合併することで今の札幌となる集落が増え始めます。
さて、[札幌村]の始まりは、1858年に東区の元町あたりへ農家を引き連れた[大友亀太郎](おおともかめたろう。神奈川県出身)が入植しすることで開かれ、当時は[札幌村元村]と呼ばれていました。 [大友亀太郎]は函館において道南の開墾を行なってから札幌へと辿り着いた人物で、伏籠川(ふしこがわ。現在は伏古川と書く)のほとりから開拓を始めます。 そしてアイヌから聞いた「サッポロ」を草木で覆われた土地に命名しました。

[大友亀太郎]は東区に水路を引くため豊平川から水を引き込む「堀」の工事にも取り掛かりました。 この堀は[大友堀]と呼ばれ、後年には拡張されることで創成川の一部となりました。
彼が入植した地には札幌村の役場も置かれさらに発展を続けますが、[開拓史]が設置されると[大友亀太郎]は北海道を後にしてしまい、掘の周辺からは次第に入植者の姿が減り始めます。
そして以後、実質的な札幌の発展は[開拓史]と屯田兵が担うことになるのです。

・ 大友亀太郎と札幌郷土記念館
大友亀太郎像(札幌村郷土記念館) [大友亀太郎]の像は創成側の工事によって札幌村郷土記念館(東区北13条東16丁目)の敷地内に移動。でもある意味「あるべき位置へ戻ってきた」ともいえます。
記念館には札幌の開拓にかかわる資料が驚くほど保存され、驚くほど無造作に置かれています(陳列とは呼べない雑然さ)。
でも、館内の地図から当時の様子が伝わってくることだけでも「来た甲斐があったな」と思えます。



札幌元村の地図 札幌元村の地図には村役場が描かれており、ここがこの記念館です。
また、村役場から南西に伸びる道は現在でも通称「斜通(ななめどおり)」として残されています(狭く不便な道なのに道々なのはこのためです )し、役場近くの「本龍寺」も現存しており、札幌最古の霊場という案内もされています。
この地図が書かれた年代は不明でしたが、左上に「北海高等女学校」という名前が見え、現在の「札幌大谷大学」沿革によれば 『1910年(明治43年)北海高等女学校に組織変更』とあるので1910年以降であることがわかります(学校前の道は現在の東8丁目篠路通)。
現在の地図と見比べると、さらに現在もその面影を見て取ることができます。
上の古地図と現在の地図を比べてみるとさらに面白いです!
その頃の出来事を年代でみると次のようになります。
・ 略年表(札幌以外は余談として記載)
1852年(嘉永5)
早山清太郎(そうやませいたろう。福島県出身)が星置に入り、伐木の下請けをはじめる。

1854年(安政元)
幕府により農夫数名が篠路、発寒、琴似付近へ入る。

1855年(安政2)
吉田茂八(よしだもはち)が石狩調役所に赴く。

1856年(安政3)
余談:厚田から浜益へと濃畫(濃昼?ごきびる?。ゴキンビリ=滝つぼにしぶきが舞う)山道が開く。

1857年(安政4)
札幌越新道(銭函千歳間)の開削が始まる。
荒井金助に招かれた志村鐵一(しむらてついち)が蝦夷地入りし、豊平川の渡し守兼通行屋(後の駅逓)番人として家族3名と右岸に定住をはじめる。
荒井金助の命令で吉田茂八(よしだもはち)が豊平川左岸の渡し守として家族4名と共に定住をはじめる。
発寒(はっさむ。ハチャムペッ=椋鳥(むくどり。方言では桜鳥)の住む川)に大竹慎十郎が入植。永田休蔵、山岡精次郎らも農民と共に遅れて入植。
星置(ほしおき。ホシポキ=崖の下またはウシオキ=滝が並んでいる)に中川金之助、中島彦左衛門らが入植。

1858年(安政5)
荒井金助が篠路に移り[荒井村]を設置。
大友亀太郎(おおともかめたろう)が木古内(きこない。リロナイ=潮の差し入る川)で御手作場(おてさくば。模範となる農場)の開墾を始める。
早山清太郎が石狩平野における初の米作に成功する。
松浦武四郎(まつうらたけしろう)が現在の定山渓(じょうざんけい)で温泉を発見。
余談:荒井金助が厚田領蒙来(あつたりょうもうらい、現在の望来)で石炭油噴出を発見。
余談:滝本金蔵(たきもときんぞう。埼玉県出身)が登別に移り住んで湯元となり登別温泉を開湯。

1860年(安政7)
早山清太郎が[荒井村]に合流。
星置の中島彦左衛門らが篠路の南に移住し、[中島村]と呼ばれるようになる。
余談:箱館で千秋庵総本家が創業。

1864年(文久4、元治元)
小樽に来ていた僧侶美泉常山(みいずみじょうざん)が現在の定山渓で温泉が湧くことを聞く。
余談:[五稜郭]が完成。

1865年(元治2、慶応元)
余談:オタルナイ(砂の中の川)場が村並となる(人口1,143人)。

1866年(慶応2)
大友亀太郎が農家8戸(約30人)を引き連れて札幌の伏籠川ほとりに移住し御手作場を開設。ここを[札幌元村]とした。
美泉常山が定山渓に湯治場を開く。
余談:神奈川県から朝里に建設するニシン番屋へ出稼ぎに来ていた石工が手宮の洞窟に壁画を発見する。

1867年(慶応3)
大友亀太郎が掘割り(大友堀)を完成させる。
余談:箱館奉行の小出秀実が樺太は日本とロシア混在の地とする『日露両国民雑居仮規則』を締結。
余談:大政奉還。

1868年(慶応4、明治元)
余談:旧幕府軍の榎本武揚らが箱館で「蝦夷共和国」を発足。箱館戦争が始まる。
余談:明治維新

札幌に次第に多くの鍬が入り各所に開拓の人々の家が見え始めた頃、函館では新政府軍に抵抗する最後の旧幕府軍が五稜郭でその最後を遂げたんですね。
函館戦争の終結は戊辰戦争の終結を意味し、土方歳三や榎本武揚らの夢は散ってしまいます。
榎本は囚われの身となりますが、後に釈放されると再び北海道へ戻り開拓使に仕えるのですが、このとき榎本はどのような気持ちで北海道の地に足を下ろしたのでしょう。
彼らもまた、北海道(特に函館)の発展に一役かっていたことは間違いはないでしょう。
・ 開拓史の設置
1950年(昭和25)に発行された『札幌村史』というとても興味深い本があります。この本には元村、烈々布(レツレップ)、丘珠などに住む老人と札幌村長が座談会を行なった記録が残っています。 大友亀太郎(おおともかめたろう)が札幌村を”作り出した”1866年(慶応2)から110年あまりで、老人達の親や親類が大友亀太郎と時を同じくして開拓にあたったことが記されているのです。
内容を読むとアイヌと共存(同村内で居住)していたり、昼は鹿が群れ、夜には熊が出没して被害の出たことがわかります。その中でも特に目を引いたのが次の文です。

『「文化年間、近藤重蔵の献策の中に、津石狩(対雁)に大府をおく様に書かれているので、私も春の雪どけ、秋の暴雨にしばしば往来して実地踏査をして見たが、どうも適地とは思はれない。 その辺を詳かにしらべた結果、対雁川(今の豊平川)を三里さかのぼり、札幌樋平(今の豊平)のあたりこそ大府を置くに最も適したところと思うので、対雁の酋長ルピマシケ、札幌の酋長モニキマに再三聞きただした上で申し上げてゐるのである。 首府を札幌に置いたならば、石狩は他日必ず大阪の様に、繁栄するであらうし、十里上流の津石狩は、(京都の)伏見の様な地になり、更に川船三里上つた札幌は帝京の地となるであらう。 そうなつた時、勇払や東海岸は北陸、山陰の両道となり、手宮、高島は、兵庫、神戸両港にたとへる地となるであらう。又札幌から新道を切りひらけば、臼虻田、岩内えもその日の便が出来るし、東川上筋から天塩十勝方面えも何日かで馬で行くことが出来る」と。 そこで奉行は武四郎の意見に基いて、明治二年開拓使をおいて、政務総覧の本府と定めた。十月その任に当つた判官島義勇は着任後幾日もたたぬに、十月雪天を冒して札幌原野に難行し、新府築成の規模を考え、今の創成橋畔に縄張の基点を定めた。 当年の設計図によれば豊平川から円山を見通しに大通を劃し、北に開拓使庁舎を初め諸官衛の敷地を、南に市街地を割当、円山に神社敷地を選定した。』

長いですが、簡単に説明するとこんな感じの内容になります。
『松浦武四郎(まつうらたけしろう)が「対雁(現在の雁木を含む対雁で、豊平川が石狩川に合流する一体)は河川の氾濫が頻繁に起きるので府を置く場所には適していないな。 それよりは豊平川を上った豊平あたりはどうだろう?対雁と札幌に住むアイヌの酋長にも聞いたらそっちの方がいいと言っていたし、札幌に府を置けばいずれ石狩は大阪みたいに繁栄するだろうし、対雁も京都の伏見くらいになる。 そうなると川を上ったあたりは東京並み。千歳方面は北陸や山陰の雰囲気になるし、小樽は神戸のような港町に発展すると思う。中山峠を越えて函館に向かったり途中から岩内に向かえば宅配便もあっというま。 旭川方面にも行くことができるしね。」と言ったから札幌に[開拓史]を置くことになった。その後、島さんが来て雪が降っているのに大友掘りに掛かった橋を基点にして町作りの構想を練った。 それは円山まで大きな通りを作って、その北側に[開拓史]を、南側にみんなの家を作ろうという内容で、全てを見下ろせる丘に札幌神社を置くというものだった。」
になるのですが、それでもちょっと長いですね・・・。
でもこれが全て、今の札幌を形成してしまう原点となったのは言うまでもなく、札幌を知っている人であれば今の地図を頭に思い浮かべられることでしょう。そうして東京に設置されていた開拓史本府が札幌へと移されてくることになります。
開拓史の移動と共に札幌へと渡ったのが開拓史の判官達です。札幌に入った判官の長であった島義勇(しまよしたけ。佐賀県出身)は上述の通り、札幌の町並みを頭に描き、それを実現するべく本府の建設にとりかかります。
しかし島義勇は最後まで見届けることができず札幌を後にするのですが、その原因は寒い中で労働者を確保すべく高い賃金を払いすぎたために公費を無駄遣いしていると判断されたことでした。

島義勇が去った後、新しい主席判官が来ることになるのですが、この頃になると次第に入植者も全国各地から訪れはじめました。
(罷免後の島義勇は秋田の県令を経て佐賀に戻り、士族の不穏を鎮める任にありますが、ここでも苦境の士族に同情し、佐賀の乱に参加してしまいす。 その結果刑死することになるのですが、個人的には儀に熱い人物であったのではないかと思います。)
・ 略年表
1869年(明治2)
東京芝の増上寺に[開拓史]が設置され、島義勇(しまよしたけ)や松浦武四郎らが蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)に任命される。
主席開拓判官の島義勇が札幌へ入り、札幌の区画割りと開拓本府の建設を開始する。また、早山清太郎の助言を受け現在の円山に宮地を決定する。
余談:榎本武揚の降伏勧告を黒田清隆が受け入れ[箱館戦争]終結。五稜郭開場。
余談:渡邉熊四郎が函館で金森森屋洋物店(棒二森屋の前身)を創業。

1870年(明治3)
東京の神祇官から開拓三神の御霊代が札幌まで運ばれ、北5条東1丁目に仮社殿が設置される。
主席開拓判官が島義勇から岩村通俊へ交代となり、岩村通俊が札幌へ入る。
開拓使次官として黒田清隆(くろだきよたか。鹿児島出身)が就く。
山形県からの入植で庚午一の村(苗穂)、庚午二の村(丘珠)、庚午三の村(円山)が開かれる。
新潟県から札幌村に入植。
山形県から南円山地区に入植
[東本願寺]の僧侶、大谷光瑩(おおたにこうえい)らが函館から札幌に入り「管刹」を設立。
[東本願寺]の僧たちが、現在の山鼻から中の沢までの区間を開削し、[本願寺街道]の基礎を作る。
余談:太政官布告第57号(商船規則)で日本国船の国旗が「日の丸」と定められる。

この2年間は「たった2年間」なのですが、札幌の歴史の中で一番立ち会ってみたい時間でもあります。おそらくそれまでは「道」と呼べる道はなかったのではないでしょうか。
志村と吉田が船渡しをしていた札幌越新道も、入植者による村々を繋ぐ道も立派なものではなく草木を踏み倒し、木々や石などを踏み込んだものだったようです。
松浦武四郎も探検家としてではなく、[開拓史]の一員として札幌を訪れていることも面白いエピソードです。 それにしても松浦武四郎という人と北海道の関わりは想像以上に深い(特にアイヌとの関係は計り知れない)のに、なぜお決まりの”銅像”がないのだろう?
北海道内でも数箇所(2箇所?)ほどしかなく、[開拓史]として訪れた札幌でも碑が残るだけのようです。
島義勇は北海道神宮の開拓三神を祭った人物なので神宮内に銅像があるのは当然だと思うのだけど、その後のクラークやらエディウィンなどの外国人でさえあるのに松浦武四郎がないのが残念です。

島判官の像(北海道神宮神門前左手) 北海道神宮の表参道から拝殿へ向かうと手水舎の奥に像があります。 とても大きな像で、そのあげられた左手は本殿を指しているようにも見えます。
でももしかすると本当は円山から札幌の平野を見下ろしているところで、これから姿を見せてくるであろう町並みを想像しているのかもしれませんね。


1870年には[東本願寺]という名前も聞こえてきます。
[東本願寺]の大谷光瑩(法名、現如上人)は明治天皇より賜った1万坪の土地に、札幌では最古とされる「管刹」(1876年に札幌別院と改称。正式名称は真宗大谷派札幌別院)を建立し、北海道の開拓を推進しました。
[東本願寺]の北海道開拓は、幕府寄りであった[東本願寺](徳川家康が本願寺へ京都の土地を寄進したことで誕生)が幕府の崩壊で存続に不安を感じ、朝廷に申し出たのが始まりのようです。 この申し出は「道の開削、農民の移住と農地開墾の促進、定住した農民のアフターケア」が条件で認められ、新道の開削は函館に上陸した直後から伊達市を基点として起工しました。
この新道は、伊達から洞爺を経由し中山峠を越えて札幌の平岸へと通ずる道で、起工からたった1年余りの1871年には開通することになったのです。 これがほぼ現在の国道230号となる[本願寺街道]と呼ばれるようになります。
さて、新道開削とは別に札幌へと移動した班は、前述の「管刹」を建立し、開拓使より与えられた10万坪の土地へ和歌山県から農家の移住を受け入れて開墾にあたります。 さらに新潟県からの移民を加えたこの地域は、翌1871年に「辛未(しんび)一の村」となり発展を続けました。

・ 現在の町並みと比べる
いくつかの資料で読んだのですが、[開拓史]と[東本願寺]の開拓はいわば官と民の隔たりがあったようです。 そのため[東本願寺]の開拓は[開拓史]の開拓範囲外で行わなければならなかったようです。
前出の札幌郷土記念館に『明治4年および5年札幌市街の図』が展示してありました。これを見ると確かに、[開拓史]を含む一体を囲んだ二点鎖線外に[東本願寺]の敷地があてがわれています。 また、面白いことに[開拓史]が計画した道路と[東本願寺]が開削した石山通は若干、南北方向のずれがあります。 さらに[東本願寺]によってもたらせられた移民は[本願寺街道]を元に開拓を進めました。その結果、現在の大通り周辺と石山通([本願寺街道])沿いでは「碁盤の目の角度が若干ずれている」のです。
明治4・5年の札幌 左の画像は選択すると大きな画像となるので見やすいと思います。
赤いラインが[大友堀]で、ここでも[開拓史]の碁盤から斜めに[斜通]が伸びています。[斜通]は碁盤区画前からあったため、今でも道々として保存されています。
さて、左下にあるのが[東本願寺]に割り当てられた土地になります。 これも現在地と一致していますが、現在の地図と見比べてみてください。
現在の地図を開く
どうでしょうか、明治4年ごろの地図にはない[東本願寺]より西の[本願寺街道]が若干角度に違いがあることがわかります。


もっとわかりやすい地図がありました。これは明治20年くらいの地図のようです。
これも選択すると大きな画像が表示されますので、わかりやすいと思います。
どうでしょうか、[開拓史]と[東本願寺]が仲違いしてたのではないか?とすら思えるほど区画のずれがわかります。
その[東本願寺]が作りあげた[本願寺道路]沿いの開墾地にはいずれ屯田兵が入ってきます。そしてそれまで開墾していた農民達は立ち退くことになるのです。
ですので地図には[山鼻屯田兵村]との記載があります。しかしここは紛れもなく、[東本願寺]の光瑩がつれてきた農民達のよる”民”の土地なのです。
・ 開拓史と入植者
・ 略年表
1871年(明治4)
現在の平岸に、南北延長約2.5km幅20m弱の直線道路(原生林を伐倒しただけの道)が完成。
[開拓史]を札幌に移設。
開拓三神の社号を札幌神社とし、円山に移す。
庚午三の村に岩手県と琴似からの移住が加わる。また、庚午三の村は円山村(京都の円山に因む)となる。
庚午一の村と庚午二の村がそれぞれ苗穂村(ナイボ=小さな沢)、丘珠村と改称
尾去別(伊達市)-洞爺-中山峠-平岸天神山麓の本願寺道路(有珠新道、虻田新道)が完成。
東本願寺の僧侶などにより山鼻から八垂別(はったるべつ。ハッタルペッ=渕の多い川)間の新道が開削される。
東本願寺東側に50戸が入植し辛未村となる。
辛未村から12戸が現在の宮の森へ移住し琴似村大字琴似村字十二軒となる。
辛未村から24戸が現在の二十四軒へ移住し琴似村大字琴似村字二十四軒となる。
辛未村から8戸が現在の八軒へ移住し琴似村大字琴似村字八軒となる。
新潟県から森三吉、平野平八郎らがベッカウス(西野二股付近)に移住し、開墾を始める。
岩手県からの移住により、月寒村(チキサプ=火を熾す処)が開村。
月寒川の東側に六軒村(福住)ができる。
現在の伏見に山形県から4戸の農家が入植し四軒村ができる。
サンタルベツ(サンタラッケ=縄で鹿を縛り荷おろしする所。富丘)に「通行屋(駅逓)」を設置。
薄野遊郭(官許遊郭)が区画割り当てされる。
札幌初の公園、偕楽園が設置が設置される。
火防線が設置される(大通り公園の前身)。
大友堀が大幅に改修され、木造の橋が架けられる(創成橋)。
鈴木元右衛門堀(中島公園、菖蒲池のルーツ)が完成。
美泉定山が定山渓温泉の湯元に任命される
余談:戸籍法が公布され、アイヌが「平民」に編入される。アイヌの開墾者に家屋・農具を与える反面、独自の風習を禁じ、日本語を含めた”日本人”への同化を強要。
村の位置関係:この年の主な村を現在の道と川を入れて手書きの地図にしてみました。
村の位置関係
画像を選ぶと大きな画像が開きます。

1872年(明治5)
判官の岩村による御用火事が起きる。
仙台から三木勉らが上手稲へ、佐藤孝郷らが白石村へ入植。
開拓道路(現在の国道12号)から直角に作った横道(現在の米里・行啓通)に沿って東札幌に入植。
平岸村(ピラケシイ=崖を成す川)ができる。
永山武四郎が拓使八等出仕として札幌に赴任。
榎本ら釈放、開拓使に出仕する。
東本願寺道路に設けられた簾舞(ニセイオマップ、ミソマップ(峡谷にある川))通行屋に黒岩清五郎が就任。
札幌最初の消防である中川組が創設する。
余談:今井藤七が創生川畔に小間物商を開業。後の丸井今井
余談:石川県から来道した柴田與次右衛門が柴田酒造店が清酒造りを始め(後の日本清酒(株)) 余談:開拓使付属船の船長だった函館の蛯子末次郎(えびこ・すえじろう)という人が、船の旗章として青地に赤色の五稜星を使用。「北海道船艦旗章」で正式に通達。「此五陵形旗章ノ原因タルヤ、北晨星ヲ象リ、則青色地ニ赤色ヲ點付ス」との公示で開拓史のシンボルが赤い星となる。
余談:太陽暦を採用し明治5年12月3日が明治6年1月1日になる。

1873年(明治6)
開拓史札幌本府(札幌本庁舎)落成。
札幌本道完成。
札幌越新道の延長として銭函小樽間が開通。
島松の駅逓が開設される。
現在の狸小路に商家や飲食店が立ち並びはじめる。
対雁(ついしかり)の住民が移住し雁来村を形成する。
石川県の林顕三ら豊平月寒坂の下付近に入植し、美園の始まりとなる。
中山久蔵が札幌郡月寒村島松(島松1番地)で水稲の試作に成功
月寒から長岡重治(ながおかじゅうじ)が「あしりべつ」へ移住し、清田の始まりとなる。

明治時代が45年間あり、仮に初期・中期・後期とするなら15年区切りにすることができる。
この区切りで明治初期(元年から15年)には、現在の札幌でも主要となる道路、特に国道として扱われるようになる道路がほぼ出揃ってきた印象を受ける。
特に、函館と札幌を結ぶために中山峠を越えた本願寺街道は、札幌から千歳と苫小牧を抜けて室蘭を経由する札幌本道の整備を促進させた(山ルートと海ルート)。
現在の地図上でこれらの道を見てみるとさらに面白いことがわかる。
まずは本願寺街道。
大通り公園の西端から南にある東本願寺。ここを本拠地(起点ではない)に国道230号(石山通)が南へ進み、豊平川手前で右にカーブする。ところがカーブせずに直進する道もあり、これが元の本願寺街道だった。本願寺街道はここで豊平川を渡り(初期には渡し船で)、国道453号へと繋がる。国道453号の石山陸橋から右手(豊平川側)に伸びる平岸通りに乗り入れると、再び230号へと繋がっている。中山峠から来た場合、石山で豊平川を渡らずに真駒内方面へ延びていたらしいので、ほぼこのルートが本願寺街道だったと思われる。
本願寺街道の面白いところは、開拓使とは一線を引いた東本願寺(実際、開拓史は官であり、東本願寺は民)が手がけたことで札幌の区画割には準じていない。つまり、大通り公園と創成川を基準とした碁盤の目とは若干、南北方向の線がずれている。そのため、本願寺街道を基準として開拓された山鼻方面の道と、札幌本府から進められていた開拓の道とは平行・直角には交わらないという顛末になったらしい。
次に平岸街道。
開拓移民を受け入れるために作られたこの道は、豊平4条の5と6の間にある斜めの道ではないかと思っている。この道は豊平9条9で途切れるが、地図上で直線を引けばそのまま453号となる。453号を進むと右手にカーブしているが、ここを直進すると澄川へと進むことができる。
この地図上の直線が開拓当時に作られた2.5kmの直線道だと思います。
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