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コラム


・ 『歴史考察』
このコーナーでは、北海道各地の歴史を紐解き、どのように現代の礎となったのかをまとめようと思います。
調べ進めるあいだ、確かに「北海道の歴史は浅いなぁ」と感じたり、それでも急激な発展のため「凝縮された歴史だったんだ」と感じたり。
戦国時代にも、幕府の時代になっても日本の中心部とは太く関わることはなく、明治維新をきっかけに開拓の進んだ北海道。 だからこそ歴史は明確に語り継がれ、財産として各地に残っているのかもしれません。

ただし、北海道の歴史を考える際、絶対に忘れてはいけないのがアイヌのことです。
アイヌは文字を持たず、和人(現在で言うところの日本人)により歴史を語り継ぐことができなかった民族ですので、今となってはそのルーツや生活文化についてを知ることは難しく、正確な情報を得るには専門の研究家に頼るしかないと思います。(それでもいずれは別にまとめようと思っていますが)

さて、北海道各地の歴史は、江戸幕府によって[蝦夷地奉行]が置かれた現在の函館と、「明治維新と[開拓史]」によって本格的に開墾の始まった函館以外とでは年代にかなりのひらきがあります。
また、およそ10世紀までの文献に書かれた「蝦夷」については、単に北海道を指す言葉ではない(古くは北越、奥羽以北を指していた)ため、北海道について書かれたものなのかどうか判断が難しいこともあります。
そこで、自分で年表を作成する過程で「ここからが本当に北海道の開拓が始まったんだ」と感じたあたりまでを『開拓以前』とし、それ以降は順に各地の歴史をまとめたページにしていこうと思います。
その「ここから」は[伊能忠敬(いのうただたか]と[間宮林蔵(まみやりんぞう]、そして[松浦武四郎(まつうらたけしろう)]が北海道に関わり始めた頃です。

※文中の年月日は、旧暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日としたことから、明治5年以前は旧暦のままの表現としています。「太陽暦だと何年何月です」という注記もそれほど必要ではないと思いますので。
※年表中、””で囲まれた文は北海道に関わらず日本全体の出来事です。



考察地一覧

開拓以前
第1話 札幌(第3章まで執筆済み)
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旭山記念公園から見た札幌
・ 開拓以前
さて、北海道に人が居住していたことを示す遺跡からの推測では、北海道に人が住み始めたのは旧石器時代だとされています。 旧石器時代といえばまだ氷河期(と言っても、西日本が北海道くらいの気候だった時期)のこと。
最も古い部類とされる遺跡は、千歳市祝梅(しゅくばい)の[三角山遺跡]で2万1千年前。
また上士幌(かみしほろ)町の[嶋木遺跡]は1万9千年前とされています。
この間だけでも約2千年、20世紀分の隔たりがあることからも[三角山遺跡]の古さには驚きです。
各地の遺跡を年代順にまとめるとこうなります(大規模または興味を惹くものを抜粋しました)。

21,000年前、三角山遺跡(千歳市) 北海道最古。
19,000年前、嶋木遺跡(上士幌町)
14,000年前、大正3遺跡(帯広市) 北海道最古の土器。
 9,000〜6,000年前、住吉町遺跡(函館市)、鳴川(なるかわ)遺跡(七飯町)
 7,000年前、下頃辺(したころべ)遺跡(浦幌町)
 6,000年前、美々(びび)貝塚(千歳市)
 3,500年前、忍路(おしょろ)環状列石(小樽市)
 1,500〜2,000年前、フゴッペ洞窟の壁画(余市町)
 1,600年前、手宮洞窟(小樽市)
 1,400〜1,200年前、江別古墳群(江別市) 日本最北、18基の円墳群。

ここまでの年代は遺跡の調査でわかったものなので、ピンポイントではない(西暦何年といった正確さはない)にしろ的確な年代が示されています。
最後に挙げた[江別古墳群]が作られた頃、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷地を平定したという記録が残っています。 当時の「蝦夷(えぞ、えみし、えびすなどと呼ばれていた)」は東北地方も含んだ呼称だったのですが、江別の古墳が東北地方の古墳と形式が類似している点をあげてもこの平定された蝦夷地に北海道が含まれていたことの確率は高いのかもしれませんが、それは北海道のごく一部だったと思います(または単に相手にするような豪族が東北以北にはいなかったのか)。
この頃から文献上でも北海道に和人が足を踏み入れたことを示す記載が見られ始めます。
 801年(延暦20)坂上田村麻呂、[蝦夷地]を平定。
1191年(建久 2)漂人(ただよいびと、ひょうじん)が知内(しりうち)町に漂着。
1432年(永亨 4)南部氏(なんぶし)との戦いにに敗れた安東氏(あんどうし)が津軽から一時[蝦夷地]に逃れる。
1550年()松前の蛎崎李広、瀬田内の首長ハシタイン(道南西部の首長)、知内の首長チコモタイン(道南東部の首長)が会談、和人地を上ノ国から知内のラインより南として合意し和睦。
1590年(天正18)蠣崎氏(かきざきうじ)が豊臣秀吉に拝謁(はいえつ)し、安東氏に代わって蝦夷支配の承認を得る。
1599年(慶長 4)蠣崎氏が松前氏 (まつまえし)に改姓。
1600年(慶長 5)”関が原の戦い”
1603年(慶長 8)”徳川家康が江戸幕府を開く”
1785年(天明 5)老中田沼意次(たぬまおきつぐ)の命によって調査団が蝦夷地へ入る。
1799年(寛政11)幕府が[東蝦夷地]の直轄を決め、間宮林蔵(茨城県伊奈町出身)が蝦夷地入り。蝦夷地東部を踏査(とうさ)。
1800年(寛政12)伊能忠敬(千葉県出身)が蝦夷地入り。[箱館](函館市)を起点とした測量を開始する。
1801年(寛政13)大野村(大野町)で伊能忠敬と間宮林蔵が出会う。
1802年(享和 2)[箱館]に[蝦夷地奉行]が置かれる。同年、[蝦夷地奉行]から[箱館奉行]に改称。
1803年(享和 3)[箱館奉行所]が竣工。
1807年(文化 4)[箱館奉行]を[松前奉行]と改称。幕府が全蝦夷地を直轄し松前藩を奥州梁川(おうしゅうやながわ)に移封。
1809年(文化 6)[樺太]の呼称を[北蝦夷]と正式に定める。
1810年(文化 7)間宮林蔵が15ヶ月間の探検で[間宮海峡]の発見し、樺太が島であることを確証。
1817年(文化14)伊能忠敬と間宮林蔵が蝦夷地全図を完成させる。
1821年(文政 4)幕府が松前藩に蝦夷地の支配を許可する。
1845年(弘化 2)松浦武四郎(まつうらたけしろう。三重県出身)が初めて蝦夷地に渡り[東蝦夷地]を探検。
1854年(安政元)嘉永7年11月に改元。北海道で唯一、日本で最後の日本式城郭でなる[松前城]が完成。

間宮林蔵像 次第に幕府との関わりも太くなっていく蝦夷。
この200年間で蝦夷は「中央から見えにくい土地」から「北方の重要地」に変化していったように思えます。
始めはアイヌとの共存とし蝦夷の一部を和人地としていましたが、樺太から渡った元(中国)とアイヌの争いやアイヌと和人の争いなどが続き、次第にアイヌの勢力地へ和人の進行が始まります。
また、日本全国を歩いて測量し地図を作成した伊能忠敬が蝦夷に入り、間宮林蔵の力を借りて蝦夷の地図を完成させました。
北海道の歴史において最も重要なこととして、松浦武四郎が蝦夷に入ったことも見逃せません。 彼は[北海道]の名付け親として、また明治以降は開拓判官(かいたくはんがん)として北海道とても繋がりの深い人物です。
それにしても[松前城]は日本最後の日本式城郭として生まれ、日本最初の洋式城郭である[五稜郭]と共に日本最後の内戦でその役目を終えるという興味深いお城で、今では見渡す限りの桜が有名になりました。
現在の[松前城]は1949年(昭和24)に火事で焼失したあと、復元された城郭(内部の展示は貧祖でみすぼらしいもの)となっています。
[松前城]完成の翌年、札幌にも重要な人物たちが訪れることとなるのですが、それは ・ 札幌編でお伝えします。
1856年(安政 3)松浦武四郎が箱館から蝦夷に再上陸。
1857年(安政 4)松浦武四郎が5回目の探検で天塩川源流近くに至る。(天塩川には”北海道命名の地”碑があります)
1859年(安政 6)“安政の大獄”。函館開港。蝦夷が再び幕府の直轄となる。
1860年(万延元)安政7年3月に改元。”桜田門外の変”。
1861年(文久元)万延2年2月に改元。忍路で環状列石が発見される。
1862年(文久 2)松浦武四郎の『手塩日誌』発刊。龍馬がお龍と知り合う(個人的に載せたかった事項)。
1863年(文久 3)岡本監輔(おかもとけんすけ。徳島県出身)が樺太探検に出発。
1864年(元治元)文久4年2月に改元。日本初の洋式城郭[五稜郭]が完成。
1865年(慶応元)元治2年4月に改元。岡本監輔が樺太一周に成功。

この時代になると、ある程度短い期間で北海道に関する出来事が起きています。
とは言ってもまだ函館だけが繁栄している状況で、幕府の流れは全て函館に集中していた状態。 つまり、道南以北はアイヌの勢力が勝っていた時代です。
札幌、旭川、帯広、釧路といった都市はやはり[開拓使]以降の発展となります。

さて、ここで日本は大きな転機を迎えます。
徳川慶喜による大政奉還、王政復古、明治維新です。
やはりこの出来事は日本だけではなく北海道にとっても大きかった。
坂本竜馬が北海道の重要性(ロシアの侵攻に対する防備)を説いたのもこの頃です。
そして明治維新で戦犯と判断された人物や、明治維新による混乱の世を捨てて希望を求めた人たちの移住が始まるのです。
1867年。
この年を境に北海道は文明がその勢力を広げていきます。
ということで年表も怒涛のごとく展開。
1867年(慶応 3)”大政奉還”。箱館奉行の小出秀実(こいでひでざね。初代五稜郭城番)がロシアと『樺太における日露両国民雑居仮規則』を締結。
1868年(明治元)慶応4年9月に改元。”明治維新”。江戸から東京(府)へ。[箱館戦争]開戦。
1869年(明治 2)[箱館戦争]終結。東京芝の増上寺に[開拓史]設置。蝦夷地から北海道へ改称。箱館から函館へ改称。オタルナイからを小樽へ改称。
1871年(明治 4)[開拓史]を札幌に移設。
1872年(明治 5)”太陽暦の採用”。開拓使付属船で旗章として青地に赤色の五稜星が用いられる。
1873年(明治 6)[開拓史]札幌本府(札幌本庁舎)落成。[島松駅逓]開設。
1874年(明治 7)[屯田兵制度]制定。琴似屯田兵村に初の[屯田兵]が入村。松浦武四郎が[開拓史]を辞任。
1875年(明治 8)『樺太千島交換条約』により、樺太がロシア領に。
1876年(明治 9)日本初の近代的大学[札幌農学校]開校。[札幌開拓使麦酒醸造所]開業。月寒に陸軍第七師団独立歩兵大隊(後の歩兵第二十五連隊)設置。
1877年(明治10)冷製『札幌ビール』発売。
1878年(明治11)[札幌農学校演武場](札幌時計台)落成。
1879年(明治12)幌内炭鉱開鉱。[札幌農学校演武場](札幌時計台)にタワークロック(塔時計)が納入される。開拓使札幌本庁舎が焼失。
1880年(明治13)手宮(小樽市)-札幌間に日本で3番目の鉄道開通。
1882年(明治15)[開拓史]制度廃止。札幌・函館・根室の3県化。手宮-幌内開通(小樽-札幌-岩見沢-三笠-幌内)。

激動の15年間。
この間、北海道はどんどん自然を失い、一気に人口が増えていきます。
年表にはありませんが、1871年に薄野遊郭(現在のすすきの)ができたことでもそのにぎわいが想像できます。
(その当時の札幌の人口は600人程度の記録ですが、それは札幌村としてであり、現在の札幌市とした範囲では計上されていませんでした。 たとえば、同年に白石村(白石区)にも600人程度の移住があったことがわかっているので、相当数の人が札幌近郊に住んでいたようです。)
人々は未開の地を開削し、畑を作り、冬を乗り越えて根付いていったのです。

ここで注目したいのは[屯田兵]、[札幌農学校]、そして手宮-札幌間の鉄道です。
[屯田兵]については別にまとめる予定です。
[札幌農学校]についてはあまりにも多くの関連事項があるのでここでは書けませんし、特にまとめて別のコーナーにする予定もないので、ここで少しだけ触れることにします。
まず、誰もが知っている初代教頭のクラーク博士。最近では有名なあのセリフも、本意は違ったということがわかりつつありますが、彼の残したものは(カレーも含め)多大です。
またその卒業者にも偉大な人物が多く、誰でも知っている人物であれば(お札になった)新渡戸稲造(にとべいなぞう)等がいます。
さらに、農業はもちろんのこと、酪農や土木といった分野でも日本の草分けを輩出。
北海道だけではなく日本においても非常に意味のある学校だったのです。

手宮・札幌間の鉄道は海路を運ばれた物資を小樽へ荷揚げし、札幌へと運び入れるための役割を果たし、同時に小樽の発展にも影響を与えました。
この鉄道跡地は後に函館から札幌へ続く国道の一部にもなり、後に幌内まで延長されたことで昭和における石炭輸送という大役を担いました。

[屯田兵]の入植、道路や鉄道の整備が整い、ここからいっきに北海道全土が開墾されていきます。
先にも書きましたが明治維新の政治犯を含む囚人達の力も大いに役立ちました。
特に、札幌から旭川を経由してオホーツクへと抜ける主要道は囚人によるものです。
さらに、廃藩置県で職に溢れた浪人が自給自足を求めて入植したり、開拓を目的とした団体(会社)の設立・入植も目立ちました。
(北海道の地名にはアイヌ語だけではなく、入植者の思いの込められたものが多く存在します。札幌だけでも白石区(白石藩)や手稲前
田(加賀藩前田家)に由来するものや、隣市の北広島市(広島県)など多くの地名に残っています。)
さてここからは次第に北海道各地がそれぞれの個性を生かした発展を遂げていきます。
ここからもさらに北海道の歴史としてはおもしろいところ。
北海道全体の流れや近隣との接点なども考慮に入れて、それぞれの都市についてまとめて行きたいと思います。
●ちょっと雑談
北海道の地名について触れたので、少しおまけです。
北海道にはアイヌ語をそのまま残した地名が多く存在します。
アイヌ語の特徴としては、その土地がどんな状態かを説明する言葉を地名としたことにあります。
ですので、同じ発音が要所に見られます。
頻繁に聞く地名を例にしてみると
「ペッ」:川。
「ナイ」:沢。
「ポロ」:大きな。
「コッ」:跡、くぽみ。
など。
また、多くの意味を持たせた語として
「シリ」:地、山、見える空間。
なども多く使われます。
ですので、地名を聞いてだいたいそこがどのような場所だったのかがわかることが多いのです。
(これは自然界すべてに神が存在するという考えも深く影響しているのでしょう)
ところが、アイヌ語の発音はとても難しく、それゆえ聞き取りも難しかったものと思われます。
札幌にしても「サッポロペッ」なのか「サリホロペッ」なのかの正確な伝承がないため、由来が確定されていないのもこのためです。
アイヌ語の解説書を持ち歩いて北海道を旅するのも新たな発見があって面白いものです。
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