▲鎌倉に十二所(じゅうにそう)という地名がある。鎌倉と六浦を結ぶ金沢街道はこの静かな山里を通る。▲山は西に鎌倉、東に金沢、南に逗子の市境をゆったりと結ぶ位置にある。南の逗子側にある尾根路は旧日本軍が使った池子弾薬庫跡、現在は米海軍池子住宅地区に接する。▲皮肉なことに、昔から軍事関連施設があったために、いまだ、人を寄せ付けない豊かな自然を一部に残し、静寂という表現がけっして大げさに聞こえない山が残る。▲鎌倉時代に開かれた朝夷奈の切通しを歩くと、野武士が今にも現れ、大きな荷物を背負い六浦から鎌倉を目指した行商人が前から歩いてきそうな雰囲気。▲道の片隅にぽつんと置かれた苔むした石仏、切通しの岩肌に鬱蒼と群生するシダ類、大刀洗川の清水の音・・深山幽谷の趣。鎌倉時代の空気を吸いながら歩いているような気さえしてくる。

ル│ト
 前半
 [ 京急金沢八景駅 ]
 →  [ 十二所神社バス停 ] → [ 1 十二所神社 ]  → 
 [ 2 梶原太刀洗水 ] →  [ 3 小滝 ]  → [ 4 朝夷奈峠 ] → 
 後半 
 [ 5 熊野神社 ]  → [ 6 十二所果樹園(冨士見野)」 → [ 7 池子の森尾根 ] →
 [ 8 久木神社 ] → [ JR逗子駅・京急新逗子駅 ]
      
  三浦半島 
 10低山彷徨 
1 朝夷奈峠/鎌倉十二所から池子の森へ(前半)
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鎌倉十二所
京急金沢八景駅を降り、国道16号に出て「鎌倉駅行」のバスに乗る。
六浦を抜け、横横道路の朝比奈インターと交差する辺りから山の峠道へ入り、くねくねと登っていく。
「鎌倉霊園」を通り過ぎ、「十二所神社前」で下車。20
分ほどの乗車時間。
地名の12という数字には何か由来がありそうだ。
鎌倉の東端にある里は、六浦から鎌倉へ抜ける山道が鎌倉に入り最初に現れる家並み。
周囲を山に囲まれ、朝比奈の山から流れ出た滑川が脇を流れる。
かつての山里の雰囲気を残した静かな場所である。
十二所神社
金沢街道から参道が少し奥まった場所に続いている。10段ほどの石段を登ると小さな社殿がぽつんと建っている。
イチョウの古木と杉木立、山里の鎮守の雰囲気を残す明るい境内、女性ハイカーがお弁当を広げていた。

1万分の1地形図(逗子)を広げると、境内横から鎌倉浄妙寺を抜け、天台山、太平山(天園)へと山路が続いている。山に付けられた各方面からの脇道は、古都鎌倉の一部分として、時代を超えて人々の足で踏み固められたもの。歴史を背景を持つ鎌倉の山路にもこれから足を伸ばしたい。
朝夷奈切通し
十二所神社から滑川に沿って並ぶ静かな家並みを抜け、泉橋を渡ると家並みが途切れていよいよ山路となる。
ゆるやかに登る山路は垂直に岩肌を見せる岩壁に挟まれて、山を切って開いた切り通しの雰囲気を出す。
木々の枝が空を遮り、シダ類が脇に群生する鬱蒼とした切り通しには、金沢街道を走る車の騒音は聞こえてこない。
大刀洗川の清水の小さなせせらぎを聞きながら山路をゆっくり登る。
梶原大刀洗水
陽がほとんど射さない切通しに湿気を帯びたヒンヤリした風がかすかに通り抜ける。人が誰も通らない山路を歩いていて、誰かが急に現れるのではないかとふと考えるのはこんな瞬間だ。
鎌倉武士が乗る馬のひづめの音が聞こえてきそうな雰囲気。
垂直の岩肌をくりぬいた祠があった。風化した石仏に花が添えられている。室町時代から切通しの往来を見てきた石仏だ。
梶原大刀洗水は、湧き出た岩清水を竹筒に集めて大刀洗川に落ちていた。

頼朝の許可を得た梶原景時が、上総介千葉広常の屋敷に行き急襲。その帰りにこの水で、刀に付いた血糊を洗ったことがこの名の由来だという。

千葉広常は房総半島で一番の大軍を擁した実力者だった。その力を借りて鎌倉入りを果たした頼朝が、こうも簡単に暗殺を許したのは、その疑い深い性格ゆえだろうか。鎌倉幕府を開いた功労者を何人もその命令によって抹殺している。頼朝の矛先は、その後、大功労者である弟の義経へ向けられることになる。
小滝
朝比奈の山の滴を集めた梶原大刀洗水の先に落下2mほどの小さな滝がある。その横には「朝夷奈切通」の碑が建っている。

水量は少ないが、滝の水音を聞きながら、良く分からない碑に彫られた文字を眺めていると、深山幽谷にいるような気になってくる。その形容は大げさではないと思う。水音と野鳥の声と自分の足音しか聞こえないこの山路は、三浦半島の秘境である。
朝夷奈峠
峠を切り開いたのは、北条泰時だという(1241年)。広く海に面していた六浦は、峠を越えて直接鎌倉とつながり、鎌倉の外海として栄えた。


峠の名の由来に、北条氏に滅ぼされた和田義盛の子・義秀が朝夷奈という名字を名乗り、六浦に地縁があったことから鎌倉・六浦間の切通しがそう呼ばれたという説がある。
開いたという人物の名をとって北条峠と呼ばれなかったのは、愚直な東国武士だった父・和田義盛が北条氏の策略にはまって滅ぼされた歴史を知る人々が、三浦一族びいきにそう呼んだためかもしれない。
切り立った崖の岩肌に等身大の断崖仏が彫られていた。いつの時代のものだろうか。
2003.10.5

低山彷徨 後半へ

この山路が、鎌倉時代から最近まで(100年前頃までか?)、六浦と鎌倉を結ぶ主要道だった。
峠から金沢(朝比奈町)へ下りる路があるが、右側の熊野神社へと続く山路に入ると、崖に挟まれた鬱蒼とした切通しから杉木立の間を往く開けた山路へと変わった。