| ◆ 非日常の後の一杯のラーメン ◆ |
鎌倉駅から程近い場所に3軒のラーメン屋がある。 小じんまりした新しい店構えの店内は、きれいで明るい第一印象。 客を少しでも多く詰め込もうと椅子の数を増やすと、窮屈な感じになる。 それだけでなく、店の営業姿勢を垣間見た気がして、余計に居心地が悪くなる。 この店は、カウンターに椅子がゆったりと配置されている。 窮屈さの割に不思議と居心地が良い店がある。 時代物の椅子、変色した壁の染み、カウンターのキズにも味を出す30年超の歴史がある店。 新しい店と古い店の居心地の良さは異質なもの。 新しいから居心地がいいとも、歴史がある古い店だから居心地がいいとも、いちがいに言えない。 店の空間に影響を与える源泉のようなものがある。 それは、プラスに働いたり、マイナスにも作用する。 窮屈さが居心地の良さになる変わり目が、どこにあるのかはっきりと表現できない。 言葉でうまく伝えられない店が醸し出す空間の差・・それは多くの店で体験済みだ。 年齢とともに少しずつ変わる味の好みのように、 居心地の良さを感じる基準も変わるものなのかも知れない。 路地裏の小径を歩いて、ふと感じるもの。 それは、頬を掠めて通り過ぎる風のように捉えにくい。 埋もれていた遺跡が掘り起こされ、白日の下に明らかになる有形の歴史とは違う、 隠れていても、空間が帯びる凛としたもの、そこに宿るある種の重さと深み。 歴史は知るだけでなく、感じることができれば、もっとおもしろくなる気がする。 鎌倉は1年中人が集まる観光地である。 人通りが多い観光地然とした表の顔より、 裏の小径や人跡もまれな山あいの古道がおもしろい。 若いときからその傾向はあったが、これは一つのおやじ現象かもしれない。 ・・とか人に言われるし、自分でもそう思う。 「人の往く裏に路あり花の山」だと思う。 人がめったに来ない裏路だから花が咲く。 人通りの多い踏み固められた路傍に花は咲かない。 かつて小さな蕾を踏みつぶしても、気付かないままに通り過ぎていたのだと思う。 路傍の花が少し気になるようになったということだろうか。 ひっそりとした山路を歩くとき、一人では余計に寂しい。 日が傾くと山の陽は陰るのも早い。そんなとき、しんしんと寂しさが迫ってくることがある。 路連れがいた方がより楽しいと思う。 しかし、山の景色を楽しめないこともある。 余計な事柄に気持ちが向いてしまうと、山を静かに感じとる集中力が鈍るのだ。 自分と微妙に趣味がずれていると相手に気を使ったりして、 結局何しに行ったのかわからなくなることがある。 連れ合いを誘うと、山歩きなんてとんでもないという反応が返ってくる。 平地を散策するときも、歩くこと自体嫌いなために、長くは持たない。 段々機嫌も悪くなるため、あと20分は歩くだろうと思うときは、 「もう少しとか、あと10分くらいかな」とか言ったりして、 歩いてもらわなければならないので結構たいへんだ。 そのたびに、私の信用はがた落ちになる。 お互いに歳を重ねると、物事にあまり固執しなくなるのか、 忘れっぽくなるのかわからないが(多分両方だろう)、 たまに一緒に歩くと、毎回そんな会話が交わされるようになった。 「あのときは、あと10分だと言って、30分も歩かされた」とか、昔の事を持ち出され、 よく覚えているもんだなあと感心?することもあるが、 「あのときは、10分じゃなく十分(歩く)と言ったんだ」とか言い合ったりして、 「あのときって、どこでだっけ?」と聞いても思い出せないので、お互い話題を変えることになる。 一人の山歩きは、普段は鈍くなった自分の感性が研ぎ澄まされ、 苔むした石仏の表情ひとつに、葉ずれのささやきに、 落ち葉を蹴って逃げる野うさぎの遠ざかる足音に・・ そんな山で感じられる小さな刺激一つひとつに敏感になれる(気がする)。 鎌倉あたりには、武士達の戦乱の歴史を感じさせる山が残っている。 開発ぎりぎりのところで古都保存法が適用されたお陰だ。 今も自然と歴史に触れる身近な山歩きができるのは、幸運なことだと思う。 山は観光地鎌倉とは違った表情を見せる。 どこか血なまぐさく凄惨で、人の喜怒哀楽のうち、怒と哀がより感じられ、 一時の栄華が静かに枯れてゆくような歴史感がある。 観光客で賑わう駅周辺の賑やかさを表の顔とするなら、 山あいで感じるのは裏の顔である。 俗にまみれた生活をして、余計なものを身に付け、 普段の私は必要以上に食べ、飲み過ぎている。 重たい身体と心では山歩きは楽しめないので、 土日は“あまり”食べ物を取らないようにしている。 重たい心身を軽くしようと休日だけのプチ断食を始めたが、効果は劇的ではない。 以来、休日のたびに食べていたカップラーメンは食べなくなった。 始めた頃は食べたいのをがまんしていたが、 今はもう、化調たっぷりの味を食べたいとは思わない。 そんなわけで、「有名店のカップ麺を食べてみた」のページは休止している。 月マイナス2sのゆっくりペースで、皮下脂肪と内臓脂肪を減らして、 最近は、普通のデブがプチデブくらいにはなったかもしれない。 ただし、1杯のラーメンを食べ歩くことは例外にしている。 この楽しみがないと長続きしないからだ。ちなみに酒も飲んでいるし、煙草も止めていない。 休日に、ブラックコーヒーを何杯も飲んで、リュックを背負って家を出る。 山路を歩き始めると、5感が目を覚まし、だんだん研ぎ澄まされてくる。 身に着けた余計な事どもが、静かに洗われてゆくような軽やかな気持ちになる。 歩きながら、つわものどもの歴史なんぞに思いを馳せたり、 柄にもなく、一人で山路を歩くことでだんだんと哲学的になってゆく(気がする)頃に、 品のない大笑いが聞こえてきたり、(山では以外に人の声が通る) 日常の俗っぽい会話を聞かされたりすると、 包まれていた深山の趣が消えて、日常世界に引き戻される(→ TPOにも気を配りましょう!)。 一人歩きの寂しさからか、一緒に笑ってしまうこともあるが、 やはり腹に力は入らない。 日常から離れて山へ向かうときには、一人の山歩きの魅力も捨てがたしというところだ。 歴史の重さに触れて、自分の軽さを感じながら山を下りると、とたんに空腹を感じる。 鎌倉駅あたりでラーメン屋をさがす。 朝から食べず、山を歩きまわり、ようやく午後遅くなって食べた1杯のラーメン。 言葉に出来ない豊かな滋味が身体と心にじんわりしみ渡る。 観光客の少ない鎌倉駅の西側に、楽しく歩けるプロムナードがある。 時代がかった店構えの喫茶店や手芸屋さん、 路地裏に入ると、こだわりが伝わる小さなパン工房、 まもなく取り壊される予定の銭湯があったりする。 板張りの洋館は昔からここにあった診療所、今は歴史的建築物として、 市民のコミュニティーのために転用され、そのまま維持されている。 それがごく自然なことのように思えるのは、住む人たちが、 歴史の重さとか軽さとかを超えて、街並みという身近な景観のレベルにまで配慮しているからだろう。 その旧診療所の角を入っていくと駅裏なのに静かな住宅地の顔になる。 3軒目のラーメン屋が路地の少し奥まったところにある。 鎌倉の裏道のさらに1本入った場所に、しっかりはまったような店構え。 これ以上の味は出せないのではないか・・そんな印象の古い平屋の木造建築。 格子の引き戸はすり減って開けにくいかもしれない。 そんな想像をさせるラーメン屋さん。 前回行ったところ休みだったのでまだ食べたことはない。 今度、どこの山路を彷徨してから、ここに食べに来ようか。 店の歴史と非日常の後のラーメンにどんな滋味を感じるだろう。 |
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