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■横須賀市吉井(京急北久里浜駅と久里浜駅の間、線路のすぐ横の丘)
■京急「久里浜駅」下車徒歩20分
2 吉井貝塚と怒田城
縄文人が暮らした丘と三浦水軍の拠点・怒田(ぬた)城
【消えた海・古久里浜湾を眺める 丘ウォーク】は「中編」へ続きます。
吉井に残る丘に縄文時代の遺跡が残されている。
縄文時代早期(7000年前〜)の古久里浜湾で採った貝や魚を食べ、ゴミ捨である貝塚が残った。
かつて、縄文人は移動しながら狩猟採集生活をしていたと考えられていた。吉井の丘で縄文人たちは、土器を焼き、マガキを採り、シカやイノシシを狩り、その骨を削って釣り針で魚を釣り、アクセサリーでおしゃれを楽しんで暮らしていたという。
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消えた海・古久里浜湾を眺める 丘ウォーク(前編)
吉井の縄文人は、貝に穴を開け、円盤状にしたり、イノシシやサメの牙を加工し組み合わせて、ネックレスやブレスレッドを作り、身を飾っていたおしゃれな人たちだったという。装飾品の材料となる貝(オオツタノノハガイ)が、伊豆諸島や南西諸島産だったり、発見された黒曜石が、伊豆諸島の神津島で産出するものだったり。吉井の縄文人は、信州、伊豆、箱根などの各地域とネットワークを持っていたらしい。
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に吹かれて
湘南山手住宅に変わった丘陵を下り、舟倉あたりを歩きながら「吉井貝塚」の丘をめざす。
この辺り一面に田んぼや畑があったらしいが、今はほとんど見かけない。でも、古久里浜湾が後退してできた谷戸の雰囲気を残している気がする。
目的地の丘はどこにあるのか?
目星を付けてきた訳ではなく、「だいたいコッチだろう」という風に歩くため、目的地にたどり着くまで時間がかかる。道がわからなくて、彷徨することを気にしない方だ。
知らない道に入ってみて、行き止まりで戻ってきたりはしょっちゅう。そんなウォーキングなので、遠回りをしたり、時間も余計かかってしまうが、新しい発見をしたりもする。
今回の吉井貝塚は3回目のチャレンジ。2回とも近くまで来ていながら、丘の登り口がわからなくて引き返している。
標高20mの丘は台地状の原っぱ。
県指定遺跡になっている台地は高低二段になっている。縄文時代早期から中期の土器、石器、骨角器などが多量に出土している。
吉井の山あいの道を歩いていると、開発をまぬがれた山が行く手をさえぎる。
なだらかな山は、真冬でも常緑の照葉樹林が茂り、縄文時代のまんまの山に見えてくる。奥まった山あいに細い坂路がようやく見つかった。路をたどって小山を登ると「吉井貝塚」遺跡がある台地に出た。
この丘で縄文人たちは竪穴住居を造って暮らしていた。貝塚は7000年前(縄文時代早期)のものと4000年前(縄文時代中期)の2つの層に分かれているという。3000年後に再び別の人たちが吉井の丘で暮らした!
食料としたマガキの殻、シカやイノシシの骨、こわれた土器などが谷に捨てられ厚く堆積して、吉井貝塚ができた。気の遠くなるような時間の流れ。
吉井の丘で暮らしていた縄文家族(想像図に古久里浜湾が描かれている)
この丘は京急の線路のすぐ横上にある。
横須賀ドライビングスクールの看板。「吉井貝塚」と同じ時代の縄文人の生活跡は、古久里浜湾をはさんで対岸にも残されている。正面に見える山のどこかに「茅山貝塚」遺跡がある。吉井の丘に暮らしていた家族が丸木舟で対岸に渡り暮らしたのだろうか。
怒田(ぬた)城があった丘
吉井の縄文人の丘に、平安時代末期、三浦半島の豪族(三浦半島の次官=介)となった三浦氏が山城を築く。山城の周囲に、敵の攻撃に備えて空堀が掘られていた。堀を作るとき、縄文貝塚の一部が崩れ、貝を抜き取り泥岩の塊を入れ補強した跡が残っているという。その時代、吉井から舟倉、内川、佐原、森崎、公郷にかけ、古久里浜湾が後退してできた湿地帯が広がっていた。山城の辺りは久里浜湾から入った入り江があって、三浦水軍の舟が浮かんでいた。舟倉の地名は三浦水軍の拠点があったことに由来している。
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三浦氏の主城は衣笠城だ。
縄文時代前期に古久里浜湾が深く入った衣笠あたりから、平作、小矢部にかけて起伏する丘陵にあった城だ。衣笠城は1180年に落城し、ここで当時の三浦一族の長老「三浦大介義明」が89歳の生涯を閉じた。
1180年8月、源頼朝は小田原市の石橋山で決起し、平家方についた「畠山重忠」らに敗れて相模湾を舟で敗走する。頼朝の加勢に向かった三浦軍は酒匂川の氾濫でたどり着くことができず、頼朝が惨敗したことを知って、三浦半島に戻る途中、逗子で畠山重忠軍と出合い、一戦交えてしまう。
平家方と合戦を交えてしまった以上、三浦軍の長である「三浦大介義明」は主城「衣笠城」で「畠山重忠」らの軍勢を迎え撃つことになる。大介義明は89歳、畠山重忠は17歳、重忠にとって母方の祖父が大介義明だった。衣笠城に戻った三浦軍を畠山重忠らの軍勢が追いかけ、衣笠城は数千人の軍勢に取り囲こまれる。
怒田城にまつわる話は、中世の日本史の流れが変わるエポックだったのではないかと思える。もし、大介義明が「衣笠城」ではなく「怒田城」で敵の軍勢を迎えていたなら・・1192年に鎌倉幕府は開かれなかったかもしれない。
頼朝は、挙兵の前に衣笠城の三浦大介義明へ使者をよこした。
伊豆に流されていた頼朝をひそかに支援していた三浦大介義明は、頼朝に三浦一族の命運を賭ける決意を固める。
もともと、次男の三浦義澄が頼朝に挙兵を勧めたといわれている。
平家を敵にまわすことは、当時、国中を敵にまわすようなことだった。
三浦氏の主城である衣笠城で平家方の軍勢を迎え撃つ決意を固めた大介義明に対して、
孫の和田義盛が、「怒田城に移って敵を迎え撃つのが得策である」と異論を唱える。
「馬も人も攻めるのに都合のよい衣笠城より、
古久里浜湾の入り江に面した山城である怒田城の方が、敵も攻めにくい。
城の東の谷に三浦水軍の舟がとめてあり、いざというときに舟で逃げることもできる。」
若い義盛の意見は的を得ていた。
頼朝はすでに石橋山の挙兵で惨敗している。
平家方が勢いに乗り、数千の軍勢で三浦半島に一騎に攻めて来ようとしていた。(三浦の軍勢は数百である。)
大介義明は、勝ち目がないことを悟っていたのかもしれない。
しかし、東国武士としての面子に最後までこだわった。
三浦一族の主城である衣笠城にたてこもり、いさぎよく戦って散ろうという意志は動かなかった。
1180年8月26日、畠山重忠ら平家方の軍勢数千が衣笠城を取り囲んだ。
多勢に無勢であった戦いは翌日に決着が付き、大介義明は自害し衣笠城は陥落する。
大介義明は、前夜、三浦義澄、和田義盛、佐原十郎義連らを城から脱出させていた。
彼ら三浦の軍勢は無事に怒田城にたどり着き、そこから舟で房総をめざした。
小田原の石橋山で惨敗した頼朝も、相模湾へ逃げ、三浦半島をめざしていた。
波間に漂っていた頼朝は、浦賀水道で、三浦水軍と奇跡の合流をすることになる。
時は1180年8月27日、頼朝が鎌倉に幕府を開く12年前のことであった。(NHKの番組風?)
<参考> 「三浦半島記」司馬遼太郎 ・ 「神奈川ぶらりウォーキング・三浦半島編」小林伸男