池田町と吉井にまたがる丘陵は「湘南山手」住宅になっている。久里浜寄りの丘に「前方後円墳」を復元した小さな公園がある。標高70mの古久里浜湾を眺める丘は見晴らしがいい。横辺30m、高さ3m程の盛土をした1400年前の前方後円墳が復元されている。 |



◆縄文人は、「古久里浜湾」を囲む丘から海を眺めた。◆最後の氷河期が終わると、海進は縄文時代前期(5000〜6000年前)にピークに達し、海は現在の久里浜湾から、平作川に沿って深く進入し衣笠付近まで海に沈んだ。◆「古久里浜湾」の周囲には、三浦半島の人々の歴史が散りばめられいる。*縄文時代、丸木舟で漁をし貝塚を残した。*弥生時代、海の周辺に集落をつくり農耕生活を始めた。*古墳時代、半島に残る3つの前方後円墳を海を望む丘に造った。*平安時代、半島に地歩を固めた三浦氏が本拠地を築いた。海に突き出した出城であった「怒田城」の周りに三浦水軍の基地があった。*17世紀中頃、湿地が広がっていた場所に内川新田を開いた。大雨のたびに平作川が氾濫、大洪水が起きて人々を苦しめたこともあった。◆現在、内川新田は、半島有数の工場地帯になり、丘は切り崩されて変貌している。三浦半島の歴史が刻まれた、この「消えた海」の跡をなぞりながらの「丘ウォーク」。 |
三浦半島に前方後円墳が造られたのは古墳時代の後期、中心地(近畿地方)は、飛鳥時代に入り、新渡来系氏族を巻き込んで権力争いの渦中にあった。三浦半島でも武器が作られ、権力者同士の争いがあったのだろうか?大塚古墳から、刀やナイフ状の刃物などの武具が副葬品として見つかっているという。三浦半島の古墳はいづれも規模が小さく、日本最大の古墳である大阪府堺市の大山古墳と比べると面積は1/200以下。 1400年前、ここから海を眺めて、対岸の谷戸から立ち上るかまどの煙を眺めたのかもしれない。そんな風景を想像して、次に吉井貝塚に向かった。7000年前より古い縄文時代早期に時代を遡る。 <参考> 「三浦半島の古墳」 横須賀市自然・人文博物館発行 教育資料シリーズNo.46 |
