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■横須賀市池田町(湘南山手住宅地の久里浜寄りの丘)
■京急「新大津駅または北久里浜駅」下車徒歩20分 久里浜駅からバス便あり
大塚台古墳公園


池田町と吉井にまたがる丘陵は「湘南山手」住宅になっている。久里浜寄りの丘に「前方後円墳」を復元した小さな公園がある。標高70mの古久里浜湾を眺める丘は見晴らしがいい。横辺30m、高さ3m程の盛土をした1400年前の前方後円墳が復元されている。

海水が後退してできた古久里浜湾周辺の谷戸に水田を広がり、やがて貧富の差が生じる。
古墳は、三浦半島に権力者が現われたことを物語る。大塚古墳が造られたのは、古墳時代後期の7世紀頃。古久里浜湾の周辺は、この時代の半島の中心地だったらしい。富を得た者が強くなり土地を支配していく。半島の小さな権力者がここから生まれたらしい。

大きい前方後円墳は三浦半島で3基見つかっている。いづれも古久里浜湾の周辺で造られていた。
※他に久里浜と神明町で発見。
前方後円墳が造られた頃
対岸に見える佐原の丘まで海が広がっていた。縄文時代早期、衣笠まで深く入り込んだ海を取り囲む丘で人々の暮らしが始まった。
縄文人の生活跡は、湾を囲む丘からけっこう見つかっている。縄文人は三浦半島の丘に多くの痕跡を残している。弥生時代になると海が後退し、できた谷戸に集落ができ、稲作が始まるが、平地の少ない半島で水田を広げることは難しかったという。

丘に立つと、狭窄ぎみの視野を広げてくれる。
隣接地に、2003年4月、「大塚台小学校」が開校した。眺めのよい丘に立つ小学校はしゃれたマンションのようだ。

【左の写真】
1400年前に作られた三浦半島最大といわれる前方後円墳からの眺め(「古久里浜湾」だった)。左側が「久里浜駅」方面、右側が京急「北久里浜駅」。平作川と横須賀線が平行して走り、久里浜工業団地が広がる。
三浦半島最大の前方後円墳は古久里浜湾を望む丘の上
消えた海・古久里浜湾を眺める 丘ウォーク(前編)

◆縄文人は、「古久里浜湾」を囲む丘から海を眺めた。
◆最後の氷河期が終わると、海進は縄文時代前期(5000〜6000年前)にピークに達し、海は現在の久里浜湾から、平作川に沿って深く進入し衣笠付近まで海に沈んだ。◆「古久里浜湾」の周囲には、三浦半島の人々の歴史が散りばめられいる。*縄文時代、丸木舟で漁をし貝塚を残した。*弥生時代、海の周辺に集落をつくり農耕生活を始めた。*古墳時代、半島に残る3つの前方後円墳を海を望む丘に造った。*平安時代、半島に地歩を固めた三浦氏が本拠地を築いた。海に突き出した出城であった「怒田城」の周りに三浦水軍の基地があった。*17世紀中頃、湿地が広がっていた場所に内川新田を開いた。大雨のたびに平作川が氾濫、大洪水が起きて人々を苦しめたこともあった。◆現在、内川新田は、半島有数の工場地帯になり、丘は切り崩されて変貌している。三浦半島の歴史が刻まれた、この「消えた海」の跡をなぞりながらの「丘ウォーク」。

に吹かれて
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風

三浦半島に前方後円墳が造られたのは古墳時代の後期、中心地(近畿地方)は、飛鳥時代に入り、新渡来系氏族を巻き込んで権力争いの渦中にあった。三浦半島でも武器が作られ、権力者同士の争いがあったのだろうか?大塚古墳から、刀やナイフ状の刃物などの武具が副葬品として見つかっているという。三浦半島の古墳はいづれも規模が小さく、日本最大の古墳である大阪府堺市の大山古墳と比べると面積は1/200以下。

1400年前、ここから海を眺めて、対岸の谷戸から立ち上るかまどの煙を眺めたのかもしれない。そんな風景を想像して、次に吉井貝塚に向かった。7000年前より古い縄文時代早期に時代を遡る。

 <参考>  「三浦半島の古墳」 横須賀市自然・人文博物館発行 教育資料シリーズNo.46

「縄文時代の丘」へ続く坂路
【消えた海・古久里浜湾を眺める 丘ウォーク(前編)】は続きます。
左の煙突は東電久里浜火力発電所

ル│ト
 前編 [ 1 大塚台古墳公園 ]  → [ 2 吉井貝塚遺跡/怒田城址 ] 

 中編 [ 3 八幡神社 ]  → [ 4 久村の水田 ]  → [ 5 慈眼院 ] 
      [ 6 茅山貝塚 ]   →  [ 7 御滝神社 ]