嵯峨野〜落柿舎〜
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野宮神社から落柿舎(HP)に向かう。


山陰本線の踏切を越える。


落柿舎が見える。


   落柿舎

五月雨や色紙まくれし壁の跡


落柿舎


あまりに人が多くて、入れなかった。

 ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。

 芭蕉も晩年、3度当庵を訪れ、名作『嵯峨日記』を著した。

 庭には去来のよんだ

  柿主や梢はちかきあらし山

の句碑がある。

 去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。

 その句

  鴨なくや弓矢を捨てて十余年

はよく知られている。

 元禄2年(1689年)12月24日、芭蕉は去来と落柿舎で鉢叩きを聞く。

鉢たゝき聞にとて、翁のやどり申されしに、はちたゝきまい(ゐ)らざりければ

箒こせまねてもみせん鉢扣
   去来

   明けてまい(ゐ)りたれば

長嘯の墓もめぐるかはち敲
   翁


長嘯は豊臣秀吉の正室ねねの甥、小浜城主木下若狭守勝俊。

鉢叩き暁方の一声は冬の夜さへも鳴く郭公

 元禄4年(1691年)4月18日から5月4日まで落柿舎に滞在。『嵯峨日記』は、この時の日記。

 元禄7年(1694年)閏5月22日から6月14日まで落柿舎に滞在。

閏5月、浪化は落柿舎で芭蕉に会う。

6月15日、芭蕉は膳所「無名庵」へ。

7月5日に上洛し、中旬に郷里伊賀へ出発する。

 明和7年(1770年)、蝶夢門下の井上重厚が落柿舎再建。

 明和8年(1771年)、加舎白雄は嵯峨を訪れている。

嵯峨一見して、

 嵯峨の秋軒行人も淋しひか

去来の墓へ。