
-*RED−HOT BLUES*-
【The 39th Movement:consolation】
北海道からラベンダー畑の絵葉書が届いた。
透明なフィルムを剥がすとラベンダーの優しい芳香があたり一面に漂った。訪れたこともない写真の中の短い夏に思いを馳せる。
【和さん、お元気ですか?
帰国後は、相も変わらず一日のほとんどを大学の研究室で過ごしています。今日は久しぶりの休暇で、上富良野のラベンダー祭りに来ています。和さんに笑われそうですが、やはり休みでも植物に囲まれていないと落ち付けない性分のようです。
慌しい毎日で、そちらを旅したことさえも、今では夢の中の出来事だったのでは?と、疑うほどです。でも、忘れません。楽しいひとときを共に過ごして下さって、ありがとう。
日本に来る機会があったら、是非お知らせ下さい。君にお見せしたい風景が、こちらにもたくさんあります。
夕日を眺めるたびに、あの日君と見た‘暁’を思い出します。君と出会えて、ほんとうに良かった。 香坂幸広】
「…ヒロ…」
私も今、自宅のベランダで沈む夕日を眺めながら思い出していた。あの日の暁を…。
「ヒロ…」
壮観な景色は豪雨に煙り、もはやなにも見えない。プリンセスはまるで時化(しけ)た大海をさ迷っているようだ。それでもこの目は、ヒロだけは見失わずにその姿をはっきりと捉えていた。
「これはすごいや!かなり痛いですね。こんな雨に打たれるのは生まれて初めてだ!」
恐ろしい灰色の世界で、ヒロの声は信じられないほど弾んでいる。
「ばかなのよ!スコールになんか…打たれるもんじゃないわ!」
雨音に掻き消されないように、ヒロと私は向かい合って大声を張り上げていた。繰り返す稲光に身を縮めながら、その度に目を瞬かせて暗雲を見上げる。
「えっ?」
「こんな痛い雨…誰も好き好んで…ばかじゃなきゃ…バカじゃなきゃ打たれないわっ!」
「あっはははは…そっか。バカか!そうだよな!いいよ、付き合うよ。俺もバカだからっ!」
ヒロが笑顔を見せたその時、まるでわたし達を引き裂くかのように、青い閃光がわずかな間隙を縫って走り抜けた。思わず怯んでしゃがみ込んだ私に、頭上からけたたましい雷鳴が襲いかかる。
バリバリバリバリ・・・。
固く目を閉じ、両手で耳を塞いだ。それでも、余映と残響はいつまでも消えない。大きく揺れたプリンセスに、内臓もグラリと一回転する。吐き気を懸命に押さえ付けていると、私の頭の中はいつしか真っ白になった。
「和さん、大丈夫ですか?…和さん?!和…」
-誰かが私を呼んでいる-
(ヒロ…?!)
バリバリバリバリ・・・。
再び悪夢が蘇る。
デンパサールの暗く低い空の下、立ち上る黒煙に混じる血色の炎…。
「いやぁっ!!!」
フラッシュバックにおののき、かぶりを振って目を見開いた。
「和さん!」
「…ヒロ?!…あなたは…まぼろし・・?!」
「・・・。」
目の前にヒロがいる。耳を押さえつけている私の両手首を、彼は優しく握っている。心配そうな顔をして、私を見つめている…。
「ヒロ…ヒロなのね・・・」
スコールの嵐に浮かぶ彼の顔を見ているうちに、胸の奥底から悔恨の念が湧き上がってきた。
「ねぇヒロ…ヒロ…ヒロ…!。私…『淋しい』って…『会いたい』って・・・言葉にしちゃ…いけなかった…。ごめんなさい!私が…私があなたを殺したのよっ!」
バリバリバリバリ…。
雷鳴が、泣き叫ぶ私を罰するかのように轟く。容赦なく刺し続ける大粒の雨が涙と混じる。その痛みは懺悔する心に深く深くめり込んでいく…。
罪の重さに耐え切れず甲板に伏そうとした私を、ヒロは空かさず抱き起こした。そしてしっかりと、その腕に私を包み込んだ。
「…ヒロ…あたたかい…。やっと…やっと迎えに来てくれたのね」
喜びに打ち震え、されど、もう一度彼の肩越しに許しを乞う。
「私が言ったから…。『会いたい』って、『どうしても会いたい』って言ったから…あの日あなたは…。ほんとうに…ごめんなさい…」
「…和さん…」
どのくらいたったのだろう。…静かだ。雷鳴も雨音も聞こえない。横顔に熱い光を浴びている。…眩しい。稲妻ではない…日の光だ!
(夢から覚めたんだ。でもまだ…あったかい…。…如月さん?!)
脳裏にblue-blackの瞳が浮かんだ。はっとして顔を起こす。
「・・・。」
瞬間言葉を失った。幻ならとうに消えているはずのヒロを、私の目は再び捉えてしまった!全身ぐしょ濡れて、彼は慈しむように私を見ている。
「…ヒロ…」
「和さん…。俺は‘ユキヒロ’です。あなたの‘ヒロ’ではありません。でも、俺でいいなら…あなたにまだ‘ヒロ’が必要なら…俺が…あなたの‘ヒロ’になります」
そう言い切ると、ヒロはゆっくり微笑んで、頷いた。
太陽が西に傾き、その円が地平線に触れる頃。スコールが全てを洗い流し、プリンセスは清々しく威厳を持った大都会にあたたかく迎え入れられた。この国を象徴する煌びやかな寺院が続々とその姿を現わし始めたのだ。大好きな‘暁’も、やがて見えてくるはずだ。
わたし達はまだ甲板にいる。先首に並んで立ち、全身に潮風を受けていた。それでも、お互いの濡れたシャツは素肌に貼り付いたままだ。
「ご存知ですか?旅行者を…愛しちゃいけない、って…」
私の問いにひとつ間をおいて、彼は答えた。
「…わかりますよ。その方が…お互い賢明ですね」
「ユキヒロさん…」
「‘ヒロ’です」
「でも…」
「いいですよ。あなたの‘ヒロ’と、俺とを重ねても…」
「・・・。」
「旅行者だからこそ出来る。…きっと俺も、幻になれるんじゃないかな…」
「あなたも幻?そんなのヒドイわ。…消えてしまうじゃない!」
「嫌ですか?」
「嫌です。もう…火遊びの相手はたくさん…」
「だったら…幻の‘ヒロ’ではなく、俺を…‘ユキヒロ’を愛してください」
「・・・。」
驚いて、ヒロを見た。その視線に気づいたヒロが、私を見返す。
「・・・。」
無言で見詰め合った。ヒロの瞳の奥に、私は安息の色を見た。彼は今、私が長い間求め続けてきたひたむきで優しい眼差しを、惜しげもなく注いでくれている。
その時、
“間もなく右手に‘ワット・アルン’が見えてまいります”
現地語と英語の船内アナウンスが近くのスピーカーから響いた。
「…ほら、あそこ。…‘暁’だわ…」
探し当てた‘暁’を、私は得意げに指さした。
塔の向こうにオレンジ色の夕日。‘暁’を眩しく照らす光は船上のわたし達にも伸びてきている。
「綺麗ですね」
「ええ、とっても」
プリンセスから久しぶりに眺める極上の‘暁’。私は無上の歓びに浸っていた。
「…和さん…」
「・・・。」
それは、ヒロに顔を向けた瞬間に起こった。身体は途端に硬直し、思考回路は完全にショートした。だが、ひとつだけ断言出来る。
記憶に焼き付いていた冷たい‘ヒロ’の唇が、この時ぬくもりを取り戻したのだ!
-To be continued.-
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