(青だ!)
焦りと不安で打ち沈んでいた僕の心は、目前の信号のカラーに僅かながら勇気づけられた。
山の手の住宅街方面からゆっくり左カーブして、最初の交差点を右に折れると、そこは既に駅前通りである。駅まで続く、直線距離にして約3kmの、その最初の信号が“青”だった。
この信号を青で通過出来れば、ピークの通勤ラッシュから外れた今ならば、終点の駅までいくつか設置されている信号は、まず間違いなく全て“青”のはずだ。
駅前通りに出た途端、カー・ラジオは『The gift of love』を奏で始めた。偶然の成せる業としか思えない。
(弥生・・・・)
【Give me the gift of love.......】と、リピートするBette Midlerの歌声は、今の弥生の気持ちを代弁し、僕に歌いかけているような・・・そんな気がした。同時に、かつて学園祭でこの曲をバックに、まるで妖精のように踊った彼女を思い出した。
プロとして華やかな舞台に立つ彼女を、そういえば僕は一度も拝んではいない。
この冬、もしニューヨークでクララを演じれば、彼女はそれを機に、プロのバレリーナとして名声を得、着実に成功への道を辿ったであろう。一握りの人間にしか叶わない‘夢の実現’を手にすることが出来たであろう。
あの時17の弥生は断腸の思いで決断した。‘果てなき夢’を選択した。心と体に深手までおって・・・・。それでも守り、育て続けた‘夢の蕾’が、7年もの歳月をかけ、やっと開花しようとしていた。にも関わらず、24の彼女は‘夢の実現’をほぼ手中に納めながらも自らそれを放棄した。一体今度はどんな思いで・・・・・。
もしかすると、この先彼女は一生トゥ・シューズを履かないかもしれない。“見果て
ぬ夢”のまま、生涯を終わらせてしまうかもしれない。そしてその確率は、極めて高
い。それら全ての起因は僕にあり、これ以上彼女ひとりに辛苦を味わせる訳には断じ
ていかない。
最後の青信号を通過した。
目の前の駅ビルは地上5階、地下1階の建物で、その外観は明度の高いモカ色の総タイルが張られている。
駅前のロータリーに、一台分の駐車スペースが幸いにも残されていた。
カー・ラジオを止め、サイド・ブレーキを引き、そしてエンジンを切った。重いドアを開けると、晩秋の冷たく乾いた空気が全身に纏わりついてきた。すぐ脇の人工公園から、金木犀の甘く芳しい香りが漂ってくる。
駅ビル脇の駐車場の奥に、ホームの一部が見える。そしてたった今、上り方面から特急電車がその僅かな間隙に顔を出した。果てしなく続くかと思われるほどの長いボディを引き連れて・・・。
弥生が乗車するのは上り特急電車だ。今目にしている下り特急ではない。
しかし僕は、弥生が乗るはずの、同じタイプの特急電車を目にしただけで、そしてまたその出発予定時刻さえとうに過ぎているというのに、何故か緊張感を高めた。
駅ビルはまだ開店時間前のため、残念ながらビル内のエレベーターとエスカレーターが使えない。近道を選んで苦い経験をしたことのある僕は、今回はその選択肢すら与えられていないことに、内心ほっとした。
駅ビル3階に値する改札まで、僕は一気に階段を上り詰めた。現在停車中の下り特急電車から降りて来たらしい乗客達が、続々と改札を抜けてくる。
その改札の頭上に、現在時刻前1時間、後2時間の発車時刻がデジタル掲示されている。次の上り特急電車発車まで・・・・・・あと2分ほどの余裕があった。
その時・・・・・・・。
下り特急電車の発車ベルが改札まで洩れ響いてきた。
(弥生・・・・・)
僕は瞬間、無性に胸騒ぎを覚えた。現実に耳にしている発車のベルが、先程弥生の家で、しかも僕の頭の中で鳴った警鐘と同じ音色に聞こえる!
(・・・・・・ちょっと待てよ?!もしかして・・・・・)
明日香は今朝の電話で確かに“上り特急電車”と言った。少なくとも僕の耳には“上り”と聞こえた。
しかし・・・・・。
(この胸騒ぎはハンパじゃない!)
“上り”と言ったのは、興奮していた明日香の勘違い、もしくは言い間違いではないか?もしかしたら・・・・・そう、もしかしたら弥生は“下り特急電車”に乗車するのかもしれない!
僕は慌ててもう一度時刻表を見上げた。明日香が僕に告げた発車時刻・・・・そして
その特急は・・・・・。
(下りだ!)
「すいません、急ぎます!」
自動改札を避け、一番左手に控えていた鋏を持った駅員に、僕はそう一声かけて改札を駆け抜けた。
ホームに降りる階段は、二手に分かれている。
(進行方向の前方か後方か・・・・どっちだ?指定座席は・・・・・そうだ、前方だ!)
僕は前方向の階段を下りかけた。
(いや、待て。弥生が指定座席を選ぶという確証はない。それに、乗車予定の特急は1本前だったんだ。もし明日香が弥生を引き留めることに成功しているのなら・・・・。たとえ弥生が指定座席を選んだにしても、この特急ではもうそこには座れない。
・・・・ということは自由席。そして妊娠している弥生は必ず禁煙車を選ぶはずだ。自由席の禁煙車は確か・・・・・最後尾だ!)
僕は慌ててUターンし、“下り1番線ホーム後方”に向かう階段を駆け下りた。既に対向して階段を上ってくる客はひとりもいない。
「駿!」
明日香がようやく80M先の階段に僕を捉えた。
「明日香!」
(弥生は?)
弥生が・・・・弥生がいない。
僕が1番線のホームに着地したと同時に、発車のベルが止んだ。そして、無常なホームアナウンスが響く。
[ドアが閉まります。閉まるドアにご注意下さい]
「駿!早くそこから乗りなー!」
80M先から、明日香は僕に叫んだ。
一瞬のためらいもなく、僕は目の前のドアから特急電車に飛び乗った。