−* LOCUS OF LOVE *−   −Vol.8−



 ー弥生に、運命の日がやって来た。ー

「やよいー、いい加減起きなさいよ。もう7時よ」
 もう30分も前からリビングと弥生の部屋を往復しているのは、彼女の姉、瑞生で ある。準夜勤明けの彼女は深夜1時に帰宅していた。
弥生は、あれから少なくとも1時間半後の10時30分には床に就いていた。
 しかし・・・すぐに熟睡出来るはずもなく、隣の家のアフガンハウンド、JOYが 珍しく遠吠えしていたり、こおろぎや鈴虫の鳴き声がいつもの晩より耳に付いたりし て、弥生は瑞生が帰宅した時間を、正確に知っていた。

「7時?・・・」
弥生の頭の中に、リビングの時計の針が7時を指しているイメージが思い浮かんだ。
彼女は夕べ、寝る前に寝坊の許容時間を7時、と決めていた。
「起きる、起きる・・・」
彼女はブランケットを跳ね除けた。

 ダイニングテーブルには、ブリオッシュ1個にハムエッグとグリーンサラダ、いち ごの練乳がけに、アメリカンが、弥生専用のトリコロールストライプのランチョンマ ットに既に用意されていた。それは、運命の日を迎えた妹に対して、夜勤明けの瑞生 が姉として出来るせめてもの心遣いだった。

 夜勤明けには「行ってきます」と姉の部屋に声をかけても、何の応答もないのが普 通だった。弥生は心の中で、姉に感謝していたが、それを口にするのは、この姉妹の 間ではヤボなことだった。

 弥生の計画だと、8時に家を出て、駅に向って自転車を飛ばせば、8時15分発の 上り快速電車に乗れることになっていた。  彼女は決して朝食を抜かない。バレリーナである故のダイエットは当然怠ってはい ないし、食事のバランスをとることは、彼女自身小さい頃から習慣として身について いた。

「お姉ちゃん、今日と明日、お休みだっけ?」
 弥生はブリオッシュをちぎってはアメリカンに1/3だけ浸し、自分の口に運んで いた。
「そうだけど・・・?」
 瑞生はダイニングテーブルではなく、二段下がったリビングのソファーでアメリカ ンを飲んでいた。
「サリーさんのビストロで、チョコレートのフォンダン1ラウンド買っておいてくれ ない?仲間呼んで、打ち上げしたいの。」
  チョコレートのフォンダンというのは、弥生が今究極の味だと思っているチョコレー トケーキの名称だ。彼女はオーディションの応募をした日から、この大好きなチョコ レートケーキを断ち、願をかけていたのだ。
「うん、いいけど・・・私にもおすそ分けしてよ」
「もっちろん!」
 弥生は即答した。
「は、はははは・・・。」

 この姉妹にはパワーがあった。たった二人で暮らす事の寂しさ、切なさ、悲しさ・ ・・それらを全部受け止め合って、助け合い、明日を生きるためのエネルギーを、い つも二人で貯え合っていた。

 8時8分過ぎ。模試の会場に向っていた僕は、通りの向こう側に、颯爽と自転車を 漕ぐ弥生の姿を発見した。
「やよいーっ」
僕は大声で彼女の名を呼んだ。
「・・・。」
弥生は緩い下り坂にも関わらず、ペダルを踏んでいた。あっという間に僕らの距離は 離れていく。
「ばいばーい」
彼女は振り返らなかった。
ただ、右手だけを僕に向けて、緩い左カーブでその姿が見えなくなるまで、彼女はず っとその手を振り続けていてくれた。

 僕はその時、前の晩、明日香が言った言葉を思い出していた。そして、その言葉を かなりの信念で願い、叶えようと思った。

(今日は、きっといいことがある!)        




Vol.9に続く

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