−* LOCUS OF LOVE *− −Vol.5−
「あ、じゃあ、明日、がんばって・・・」
普段と変わらない弥生に安心した僕は、この場は早く立ち去った方が無難、と考えた
。ぐずぐずしていると、また明日香に何を言われるかわからない。
「駿・・・。」
「・・・。」
既にダンス・スタジオのドアノブに手をかけていた僕を呼び止めたのは、明日香では
なく何と弥生だった。
それまで平静と見受けられた彼女の表情は、いつの間にか心痛な面もちに変わって
いた。
「弥生・・・」
彼女はすがるような目で僕をじっと見つめている。
(君って人は、どうしていつもそうなんだ。)
彼女はここぞ、という時、決まって僕の前に現れて、ありったけの不安を僕に見せつ
ける。一体君は僕に何を求め、そして何を期待しているのだろう? 今僕が君のため
にしてあげられることは、何一つありはしないのに・・・。
「駿、もう少し、付き合ってくれない?・・・お姉ちゃん、今夜準夜勤で帰り遅いの
。明日香とお夕飯一緒に食べるんだけど、駿もどう?」
弥生は、この春看護学校を出て、今年から大学病院でナースを始めた姉とふたりで暮
らしている。
彼女たちの父親は、アパレル関係の重役で、フランスに単身赴任して既に5年。2年
前に、一緒に暮らしていたおばあちゃんが亡くなって、彼女たちはふたり暮らしにな
った。
母親は・・・父親が海外赴任して間もなく、若い男と駆け落ちしてしまった。その頃
僕たちはまだ中学生で・・・事の詳細はよく解らない。ただ、僕の記憶にある弥生の
お母さんは、確かに美人だった。
母親と生き別れてからだろうか? それまで勝ち気で明るいだけの性格と自他共に
認めていた弥生が僕に弱さを見せるようになったのは・・・。
勿論、当時彼女は思春期の揺れる年頃でもあった訳で、それらが微妙に重なり合って
、性格も次第に変わっていったのだと思う。
でも、彼女が憂いを見せるのは、決まって僕と明日香の前だけであった。
決して・・そう、決して、間違っても好きな男の前では弱さを見せない。昔からの、
明るい弥生だけを見せていた。そんな姿を、はかなくも、健気にも見える自分が、僕
はやるせなかった。
「数学で駿に聞きたいとこあったから、私もそうしてもらえると助かるなあ。」
明日香も弥生の助太刀をする。このふたりは、僕を何だと思っているのだろう? た
だの幼なじみ・・・。そう、僕たちは幼なじみだった。
明日香は由緒ある造り酒屋のお嬢様だった。とはいえ、今は、その造り酒屋も経営
は困難で、職人堅気の父親が、わずか数人の弟子と頑固に伝統の酒を造り続けている
、といった具合だ。母親が日舞と生け花の先生なので、実際はそちらで生計が成り立
っているらしかった。
明日香は小さい頃から勉強が好きだった。特に、数学の応用問題で、答えを導き出す
までの理論は、実にソツなく、答案の書き方にもセンスがあった。
「あ、じゃあ・・・うん、いいよ。」
僕は、曖昧なニュアンスを込めながらも、彼女たちのリクエストに応じた。
さっき食べた焼きそばパンは、明日香の重いバックを運んだ時に、エネルギーとして
既に使い切ってしまっていた。
僕たちは、すっかり暮れた夜の街を、弥生の家に向かって歩いていた。弥生は自転
車を引いている。坂道の多いこの街で、自転車に乗るのは割と困難で、当然、引いて
歩く事の方が多い。 かえって邪魔で面倒なのだが、弥生は「足腰のトレーニングに
なる」、と言って、いつも自転車を利用していた。彼女の自転車には「E.T」の自
転車みたいな四角い籐のカゴが付いていて、そこにはいつも、ミントグリーンのサテ
ンにトゥ・シューズの刺繍が刺してある巾着が入っていた。中身は・・・当然、トゥ
・シューズである。
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