−* LOCUS OF LOVE *− −Vol.2−
図書館で、思いの外、時間を食わせてしまったお陰で、僕は夕飯すらろくに食べる間もなく、予備校へ向った。夕立の後の、心地よい風に吹かれながら、僕はまた、彼女とあの虹の事を思い出していた。
一生涯で、最大級の虹を幸いにも見る事が出来た人間は、僕だけではなかった。
「しゅーん、夕方の虹、見た?スッゴかったねえ。超、BIGだったでしょ。明日、いい事ある前兆、って気、しない?」
メゾ・ソプラノの澄んだ声を響かせながら、橘明日香は僕が彼女の為に陣取っておいた席に腰を下ろした。
「明日の模試の予想問題もらったら、バックれない?弥生んとこ、一緒に行こうよ 。明日のオーディションの激励に!あの子、緊張しまくりで、きっと顔、引きつって るだろうからさ。」
シルバーのメタル・フレームを薬指で持ち上げながら、彼女は屈託なく笑った。きれいに揃った白い歯を覗かせながら、彼女は話を続ける。
「弥生って、バレエの才能、十分あるのにさ、本番に弱いんだよね。普段、あんなに 度胸よくって、元気な子が、なーんでバレエに限っては緊張すんだろうね。ながーい 付き合いだけど、どうもそこントコ、私には未だに理解出来ない・・。」
一体、橘明日香は、自分がどれ程の美貌の持ち主であるのか、分かっているのだろう か? 眼鏡の中の、透明感のある涼しい目、高さはそれ程でもないが、キチンと筋の 通った鼻、薄めの唇に、ニキビの跡すら見当たらない白い肌・・・。
「止めとくよ。」
「えっ?なんで?」
僕の返事が、予想外だったらしく、彼女は眉間にうっすらと二筋の皺を寄せた。
「僕が行く必要、特にないじゃん・・・。」
(そう、僕が彼女を激励しにいく必要なんて、別にないんだ・・・。)
自分の言葉を肯定すべく、もう一人の僕が心の中で呟く。
「どうしてよお、いこうよ!弥生、駿が来るの、絶対待ってるって!」
橘明日香は、そう言って、両手で僕の左腕を掴んだ。
授業開始のベルが鳴り、予備校職員が明日の模試の予想問題を配り始めた。 きっ と、あと2〜3分したら、この予備校きっての名物教師、「タンジェント」がやって 来るハズだ。
「ホラ!駿、行こう!」
橘明日香は、予備校職員から3教科分の予想問題を、僕の分まで抜き取ると、さっさと自分のデイ・バックに押し込んでしまった。
「Let’s go!」
僕は、明日香に引きずられるような形で、ヨロめきながら、教室を出た。
10mほど廊下を走ったところで、タンジェントとすれ違った。
初老の紳士は、丁度「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のドク博士のような、白 髪のもじゃもじゃ頭をしていた。
「君たちは、どこへいくのかね。」
「ちょっとそこまで!」
追いかけてこられるハズもない事を知っている明日香は、タンジェントに愛想笑いを 浮かべて会釈した。
でも、彼女の手は、僕の左腕をギュッと掴んだきり、その力を緩めようとはしない。
僕らはまだほんのりと薄明るい空の下、弥生がまだそこにいるであろうダンス・スタジオに向っていた。明日香の髪から、ほんのりとシトラス系の香りが漂って来る。僕は、引きずられるように走りながら、心の中で、繰り返し呟いていた。
(僕が行く必要はないんだ。)
その時、腹の虫がゴオッツと鳴った。僕は慌てて、明日香の顔を見た。彼女は、走る速度も落とさずに、その頬を紅潮させて、いかにも嬉しそうに振り返り、こう言った。
「弥生んとこの近くのコンビニ、寄って行こうね。私も、コロッケ揚げパン食べたか ったんだ!」
(橘明日香とコロッケ揚げパン・・・。)
ゴオオッ・・・。
コンビニに着くまでの間、僕は合計4回も腹の虫を鳴らしてしまった。僕は、この時 、一緒にいる女性が橘明日香であることに感謝した事は言うまでもない。
|