-*LOCUS OF LOVE*-

【佐伯家早春物語 ’98】


 
 2月も半ば過ぎ。
‘たちばな酒造’の土蔵でストーブを囲み、コーヒーを飲みながら談笑しているのは佐伯弥生と橘亨だ。

「♪愛し合って信じあってぇ〜抱きしめあって眠ぅってー単純であた〜たかぁいー恋ならよ〜かぁったァ〜・・・♪・・・おい、なにぼーっとしてんだよっ!弥生が『久しぶりに亨の弾き語り聴きたいわぁ』っつ〜から歌ってんだぞ」
「ん?あ・・・ごめん。あれ?亨、何歌ってたの?今・・・。Bon Jovi?違う、日本語だったね・・・」
「あんなぁ・・・。お前さっきからヘンだぞ。ま、メグが歩き出しのチョロで毎日追っかけるだけでタイヘンなのはわかるけどよ。他にもなんか気になることあんじゃねぇ?」
「『他にも?』他にもってなによ。これと言って・・・特にないよ。何にもない。なさ過ぎる・・・」
「はっは〜、何にもねぇのが気にイラネェんだな?」
「そんなことないよ。家内安泰で何よりでしょ」
「マジかよ。不満そうな顔してるぜ。駿は気づかねぇのかな、嫁さんの顔まいんち見てるくせによ」
「見てないよ」
「はあ?」
「・・・見られてない」
「何だそれ!」
「ホントだもん。見られてないよ、私。駿はメグしか見てない。メグを抱いてる私は駿の目に入らない。いいのよ、それで。娘にやきもち妬いてもしょうがないもんね」
「バカ言ってんじゃねえよ。駿が弥生を見てない訳ねぇって」
「・・・うん、ごめん。つまんないこと愚痴ちゃったね。白酒取りに来ただけなのに、ここに来るとつい調子に乗って長居しちゃうから・・・。そろそろ帰るね」
「おい、『つまんないこと』じゃねぇだろ。余計な世話好きの俺だから言うんだけどよ、お前らメグのこと以外にもちゃんと話してんだろうな?」
「例えばなぁに?メグ以外の話って」
「おいおい、『なぁに?』って・・・お前ら夫婦の話題だよ。いろいろあんだろ。・・・あ、思い出した!ちゃんと駿に言ったのか?バレエ教室のこと。そろそろ始めてぇんだろ」
「ああ、うん。亨、もう明日香から聞いたんだ」
「とっくの昔に聞いてるよ」
「そう・・・」
「なぁんだよ、はっきりしねぇな。らしくねぇぞ」
「メグを産んでスグの頃言ったのよ、駿に。その時は、貧血症がひどくなければ1年くらい経ったら始めてもいいって・・・」
「だからもうそろそろいいんじゃん。貧血症の方は大分いいんだろ?」
「うん、お蔭様で。でもね・・・言いづらいの」
「駿にか?なんで!?」
「だって・・・あんまりさ、仕事とか・・・して欲しくなさそうなんだもん。働かないでメグをしっかりみてて欲しい、って・・・きっとそう思ってるのよ。口には出さないけど、わかるもん。私だって、あの子が3歳になるまでは、お義母さんに任せないで自分の手できちんと育てよう、って思ってるしね。それでも・・・バレエは始めたいのよね、今スグにでも。・・・ね?矛盾してるでしょ。自分でちゃんと答え出せてないの。だから・・・余計駿に言い出せない」
「そのままそっくり駿に言えばいいじゃん。相談すればいいんだよ。あいつ、ボンボンだから鈍いトコあんだろ。弥生のそういう複雑な心境をね、はっきり言ってやった方がいいって。なんでひとりで悩んでんだよ。バッカだよなぁ。どうしてダンナに気ぃ遣ってんだかわっかんねぇよ、俺には」
「駿に気を遣ってるって意識はないのよ。でもそうかなぁ・・・。そうなのかもね・・・。お義父さんやお義母さんに気を遣ってるから、駿にもなんとなくそういう態度になっちゃってるのかもしれないな。どうしても、駿と私だけの問題じゃ済まないことが多いもん。いろいろ考えちゃうのよ。メグのことは勿論だけど、例えばね、これからお教室を始めるとなったらフロアも用意しなきゃいけなくなるでしょ。そういうのもお父様にお話しなきゃいけないし・・・」
「だから、言って造ってもらえよ。どの道、そろそろじいさまの建てたあの洋館潰すんだろ。いつだったか駿言ってたぞ、建て替えるって。そん時ついでに造ってもらえばいいじゃん」
「簡単に言わないでよ。確かに建て替えの話は聞いてるけど、まだ全然具体的じゃないわ」
「だから、さっさと具体的に動け、って駿に言えばいいんだよ。弥生が言えそうもねぇなら、俺言おっか」
「ち、ちょっと止めてよ!私が亨をけしかけたと思われちゃうでしょ」
「駿にか?ふっ・・・大丈夫だって。上手く言ってやるよ」
「いいってば。亨、余計なこと言わないでね。私、もう少し考えて・・・まとまったらちゃんと自分で駿に言うから」
「まとまんの?」
「そんなの・・・わかんないよ、まだ」
「頼りねぇな」
「ちょっとヤダ!外、暗くなっちゃったんじゃない?ここ、光入らないからわかんないのよね。帰るわ。ごめんね、遅くまで。白酒ありがと。メグの初節句、明日香と来てね。待ってるから」
「あいよ。いいから慌てて転ぶなよ」
「明日香じゃないから大丈夫よ!」
「言ってくれるよな。ま、確かにそうだ」
(あっははははは・・・・)
 二人は揃って戸外に出た。
 寒さも大分和らぎ、日を追う毎に日没の時刻も遅くなってきてはいるが、夕陽を望む時間に吹く風はまだまだ冷たい。弥生は首をすくめながらショールを羽織った。
「じゃ、明日香によろしくね。最近タイミング悪くてなかなか会えないから・・・次は電話してから来るわ」
「ああ、そうだな。今日弥生が来る、ってわかってりゃ、組合のかったるい‘観梅の会’なんてアイツ行かなかったぜ」
「お付き合いだもの、組合の行事は行かなきゃならないでしょ。亨が行きたがらないから明日香が仕方なく行ってるのよ。そのへんわかってる?お婿さん!」
「・・・っせ〜なあ。わかってるよ。だけどな、アイツの方がおっさん連中に評判いいだろ。俺が行くと、逆にがっかりされるんだな、これが。所詮しがない婿さんだ」
「何言ってるの!本音じゃデキルお婿さんだと思ってるくせに!」
「あたりき・・・って、おい、立ち話はもういいから早くメグんとこ帰ってやれよ」
「あ、そうよ。嫌ねぇ、亨が悪いのよ。話振るから!」
「そうやって・・・あいよ。悪者になってやるよ」
「フフフフ・・・・。サンキュ」
「駿によろしくな。ひとりで悩んでないであいつに言えよ。ちゃんとわかってくれるから」
「うん、ありがと。・・・じゃね!」
「ああ、気を付けて」
 夕闇の中、住宅街に向かって坂を登っていく弥生を、亨はしばらく見送っていた。

 弥生が二階の一室に駆け込むと、駿はソファーでくつろぎながら医療専門誌を開いていた。早坂家に婿に入った信(まこと)が使用していた部屋だ。ここは現在二階をプライベートスペースとして分け与えられている駿と弥生、そして萌のリビングになっている。
「駿?!早かったのね。ごめんなさい、遅くなって。亨と話し込んじゃって・・・。ホラ、白酒頼んでおいたでしょう。なかなか取りに行けなくて、今日やっと・・・・。メグはまだお父様のところ?連れてこなきゃ。ね、久しぶりにメグをお風呂に入れてくれない?早く帰ってきた時しか一緒に入れないでしょ・・・」
「あ、風呂ならさっき親父が入れてたよ」
「え?私・・・お父様に頼んでないわ」
「メグのバスタイムくらい、頼まれなくたって親父はわかってるよ。弥生が留守だったから、気を利かせたつもりなんだろ」
「・・・そうね」
「気に入らないの?」
「・・・そんなことないわよ。・・・お礼言って・・・メグ連れてくる」
「もう少し預けてやったら?親父のヤツ、おふくろとふたりして喜んで面倒みてるようだから。たまにはいいじゃん。あんまり母親べったりだと、親父たちになつかなくなるだろ。同居してるのにそいつはまずいよ」
「・・・。」
 不満そうな顔をして黙り込む弥生を見て、寝そべっていた駿はようやく身体を起こし、雑誌を閉じた。
「どうしたんだよ」
「・・・わかんない、駿の考えてること。私に、きちんとメグをみてて欲しいって、そう思ってるんじゃなかったの?」
「思ってるよ」
「じゃ、どうして・・・」
「だから『たまには』って言ってるだろ。同じ屋根の下で暮らしてるんだ。いっぱい甘えていいんだよ。メグを預かれば親たちも嬉しいし、お前の身体だって多少休まるだろ。気分転換にもなるだろうし・・・」
「私は母親よ。メグの面倒をみてて気分転換したいなんて・・・そんなこと思わないわよ!」
「思わなくたって人間気分転換は必要なんだよ。特に弥生なんか、自分ではストレスに気づかないタイプだろ」
「そんな・・・人の性格決め付けないでよ。なによ、たまに早く帰って来たと思ったら親の肩持って、私にお説教?」
「・・・説教じゃないだろ。何でそうとるんだよ」
「私は私なりにこの家で一生懸命やってるの!」
「んなことわかってるよ」
「わかってないじゃない!駿は簡単に『親に甘えろ』って言うけどそうはいかないわ。家に戻ってるのにメグを預けたままで・・・お父様たちはそれでも喜んでいて下さるのかしら。『どうして迎えに来ないのか』って、そうは思われない?どこまで親に甘えていいのか・・・私にはわからない!」
「俺が言ってるのは、たまにメグを親に預けた時くらいはゆっくりしろ、ってことだよ。毎日家ん中で親に気ぃ遣ってるのに、外に出てまで余計な気を揉む必要はない。羽を休めろ、って言ってるんだ」
「そんなこと出来ないわよ。メグを預けて外出したら、‘今頃どうしてるかな?’って・・・いつだって気にかけるのが母親でしょう!ちゃんと食事摂ってるか、具合悪くしてないか、気になるわよ!早く帰ってあげなきゃ、って・・・そう思うのがどうしていけないの?あなたこそ、よくメグを預けたままで平気でいられるわね。私は・・・あなたが忙しくていつも疲れてるのは知ってるし、神経を使う仕事だから安らぐ時間が必要なのもわかってるつもりよ。でも、今夜みたいな日は滅多にないから、メグとスキンシップをたくさんとって欲しいって、そう思ったの。親子3人だけの時間も大切にしたいわ!」
「・・・。」
 駿は瞳を潤ませて語る弥生の剣幕に圧倒され、言葉を失った。
「・・・ごめんなさい。勝手なこと言って・・・」
「いや、思ってることは言えよ。俺に言っても、どうにもならないこともあるだろうけど、弥生の考えてることはアタマに入れときたいから」
「駿・・・」
「ここで、あの親たちと暮らすことが大変なのはわかってる。お前の実家が近い分、余計近所の評判も気になるんだろ?瑞生さん・・・いや、誰にも心配かけたくない、ってそう思うから、弥生は頑張り過ぎちゃうんだ。違うか?」
「・・・うん」
「家ン中のこと、何でもかんでも引き受けなくっていいんだぞ。お前は無理してでも全部こなそうとするから負担になるんだ。『出来ません』って、親父たちに言っちゃっていいんだよ。そうは言いたくないんだろうけど・・・だけど弥生がヘンに意地張って身体壊したら、俺とメグが困るんだ」
「・・・。」
「親子3人の時間は・・・確かにそうだね。俺も必要だと思うよ。だけど、今の勤務形態じゃ、意識しないとなかなか作れない。・・・心がけるよ」
「駿・・・」
「メグは俺が連れてくる。・・・それより腹ぺこなんだけど」
「あ、はい。下拵えは出来てるの。急いで用意します」
 肯いて、部屋を出て行く駿を、弥生はちょっぴり後ろめたい思いで見送った。
(絶対に言い過ぎちゃったわ。ごめんね、駿・・・)


−数日後−
「もしもし、弥生?今晩は。ごめんねぇ、こんな時間に・・・」
「ううん、大丈夫よ。明日香?この前白酒ありがとね」
「いいえ、どういたしまして。かえって留守してて悪かったわね。それより・・・駿帰ってる?」
「ううん、まだだけど?」
「あ、そう・・・マダかぁ。・・・ね、今日の勤務は?」
「日勤だけど・・・たまに急患もあるし・・・時間通りに終わらない日がほとんどよ」
「そっか。そういう時、連絡入るの?『遅くなる』って」
「いろいろよ。入る時もあるし、入らない時も・・・。なあに?どうしてそんなこと聞くの?」
「ん?ううん、別に・・・。あ、お節句さ、何人くらい呼ぶの?佐伯家親族勢揃い?そうだったら緊張しそうだからさぁ・・・」
「ううん、内祝いだからほんとうの身内だけよ。皆、明日香が知ってる人たちだから安心して。おめかしもしなくていいからね。普段着で来て」
「あー、それ聞いて安心した。ねぇ、ご馳走作るんでしょ。早目に行って手伝うよ。って言っても、私は料理は苦手だから・・・メグと由紀夫ちゃんのベビーシッター引き受けるわ」
「ふふふふ・・・ありがとう。助かるわ。駿は一応お休みだけど、いつ呼び出されるかわからないから、あてにならないのよ」
「わかってるよ。亨も出動させるからさ」
「うん、さんきゅ。亨に・・・この前ね・・・」
「あ・・・聞いた」
「そう。よろしくね。いろいろ相談に乗ってくれたから。お蔭様で駿に・・・ちょっと言い過ぎちゃったんだけど・・・」
「言ったの?バレエ教室の事」
「ううん、そうじゃなくて、普段の生活の事を少し・・・」
「そっか。でも駿、ちゃんと聞いてくれたんでしょ」
「うん」
「良かったね。じゃあ・・・あたしが心配する事もないか・・・」
「・・・なに?」
「あ・・・ううん。いいよ。あんたたち二人が上手くいってるんならそれでいいの。じゃぁね、おやすみ」
「ね、ちょっと・・・明日香?あ・・・」
 既に電話は切れていた。
(なんだろう・・・)
 弥生は、思わせぶりに慌てて受話器を置いた明日香が気になった。
「ただいま」
 受話器を耳にあてたまま、ぼんやりしている弥生の前に駿が現れた。
「あ、お帰りなさい。玄関のベル鳴らさなかったの?気づかなかったわ」
「うん。遅いから、もう弥生休んでると思ってた。・・・電話?誰、今頃。・・・明日香か?」
「ピンポ〜ン」
「はっははは・・・。なんだって?」
「お節句、早目に来てベビーシッターするって。それより私に隠し事ありそうで・・・ちょっと気になる」
「明日香が?」
「うん。・・・あ、そうそう、あなたに何か用事あるみたいだった」
「ふうん、なんだろ。・・・今切ったところなんだろ。ちょっとかけといて。着替えてくるから」
「あ、はい」
 弥生はまだ手元にある受話器で、短縮【*01】を呼び出した。しかし、呼鈴が10回を越えても、誰も出ない。
(どうしたんだろ。お風呂かな?)
 諦めてoffにしようとした時、スウェット姿の駿が戻ってきた。黙って弥生から受話器を受け取り、右耳にあてる。
「あ、もしもし?明日香?」
「・・・明日香出たの?」
 駿の隣で弥生がささやく。肯く駿に微笑みを見せて、弥生は遅い夕食の準備に向かった。

「なんだよ明日香」
「なによ!『なんだよ』はないでしょう!人がお風呂入ろうとしてる時に電話してきてぇ。慌ててまた服着たんだからね」
「なんだ、着ちゃったのか。ヌードのままでいいのに」
「バカ言うんじゃないわよ!時期をよく考えなさいよ!おまけにこんな深夜で。いっくら暖房つけてたって、ハダカで電話できる訳ないでしょ!」
「亨が喜ぶだろうと思ってさ・・・」
「あのバカはとっくに寝てるわよ。早寝早起き。婿の鏡だよ。あっははは・・・」
「ふっ・・・。お前仕込んでんだろ」
「まあね・・・。駿は?今帰って来たの?」
「ああ」
「毎度お疲れだね。ご苦労さん」
「どうも」
「あ・・・近くに弥生いる?」
「ん?いや、いないよ。今、下のキッチンに降りてった」
「「そっ、良かった」
「なんで?」
「ヤバイ話だから。ホントは直に会って話さなきゃいけないと思ってたんだけど・・・。駿、貧乏医者で忙しいから、なかなかつかまらないじゃない」
「言ってくれるよな」
「あっははは・・・。おおっと、呑気に笑ってる場合じゃないわ。・・・ちょっと駿!さっきまで一緒だった女誰よ!」
「・・・。」
「なんで黙ってんのよ!答えなさいよ!」
「・・・明日香、俺をどこで見た?」
「銀杏坂で信号待ちしてたでしょ。私、駿のボルボの右につけたのよ。途中までマド開けて・・・声掛けようとしてビビったんだから!助手席の女、弥生じゃないんだもん!」
「・・・それで明日香は‘ヤバイ’って思ったわけか」
「あたり前でしょう!何開き直ってんのよ!」
「・・・誰だかわかんなかったの?」
「え?」
「助手席の女」
「・・・私が知ってる女?」
「ああ」
「・・・誰よ!」
「・・・亨には話した?」
「言う訳ないでしょ!言ってたら、今頃駿、ぶん殴られてるわよ」
「ふっ・・・かもな」
「誰なのよ!」
「・・・弥生に黙ってられる?」
「ち、ちょっと駿!あんた・・・」
「いいから!黙ってられる?弥生には内緒にする、って約束してくれたら言うよ」
「・・・自信ないけど・・・わかった。黙ってる。でも駿・・・」
「黙ってるな!絶対だぞ。亨には機会みて・・・俺が自分で話すから」
「・・・わかった。う〜、亨にも黙ってるの辛いな・・・でも、約束する。で?誰よ!」
「・・・真子」
「えっ?!」
「茎立真子だよ。覚えてるだろ」
「・・・高3のとき、クリスマス・イブに弥生の横っ面張ったオンナ?」
「そ」
「どうしてあのオンナと駿が今更・・・。ちょっとぉ!」
「そろそろ弥生が上がってきそうだから切るぞ。改めてこっちから連絡するよ。今夜真子と一緒だったって、絶対弥生に言うなよ!」
 その時、廊下には既に弥生の姿があった。
 駿の最後の一言を耳にしてしまった弥生は、夕食を載せたトレーを持ったまま、その場にしばらく立ち尽くした。トレーを落とさずにいられたことと、その後駿に平静を装えたことは奇跡である。


−翌日−
 弥生は久しぶりに萌を連れて早坂家を訪れた。
「あらぁ、いらっしゃい。あんたから顔見せるなんて珍しいじゃない。はろ〜、メグ。お節句だねぇ。お雛様みたいにかっわいいお顔してぇ。いいなぁ、女の子。うちの由紀夫は腕白だよぉ。毎日戦争。つかまり立ち出来るようになったもんだから、机の上な〜んも置けないわよ。引き出しも片っ端から開けちゃうから、仕方なく全部ガムテープで塞いだわ。・・・ほーら、ウワサをすれば・・・由紀夫君登場だよ。ハイハイ早いんだわ、とてつもなく。ほらぁ、落ちちゃうぞぉ、ストップぅ・・・」
 瑞生は玄関に現れた由紀夫を慌てて抱き上げた。
「ふふふ・・・。お姉ちゃんは男の子で良かったのよ。・・・ね、うちの桃の木。蕾の小枝分けてくれる?雛壇に飾りたいの。・・・ほら見て、メグ。由紀夫君、こんにちは」
「あ、そっか。いいよ。佐伯の庭に桃の木ないのかぁ。・・・ほらほら、ドア開けっ放しじゃ寒いから。とにかくあがんなさいよ。ゆっくりしていけるんでしょ」
 瑞生は弥生を手招いた。
「うん、お邪魔します。・・・あ、お姉ちゃんこれ、おみやげ。チーズシフォン」
 リビングに辿り着くと、弥生はお得意のケーキを差し出した。
「やったぁ、サンキュー。お茶入れるね。紅茶にしようか。・・・ほーら、由紀夫はそっちで遊んでなさい。メグは?」
 由紀夫はフロアに下ろされるやいなや、おもちゃの転がる隣室に這っていく。
「あ、いいわ。眠そうだからこのまま抱いてる」
 弥生はダイニングの椅子に腰掛けて、膝を上下しながら萌の背中をリズミカルに叩いている。
「ほんとだ。お指のおしゃぶり始まったね・・・」
 瑞生はサイドボードからシンプルな白いカップとソーサーを取り出した。そして、弥生が学生時代お気に入りだったトリコロール調の真新しいランチョンマットも忘れずにセットした。
「あ、トリコロール。懐かしーい。私が好きだったの覚えててくれたの?」
「忘れる訳ないよ、あの頃の事は・・・。若かったよね、あたしたち。ま、今もお互い性格は大して変わらないけど」
「ふふふ・・・うん」
「それにしても、あーんたエライねぇ。メグいるのにお菓子まで作って」
「メグがいるからこそおやつも手作りしてるのよ。添加物はなるべく摂らせたくないでしょ。・・・な〜んてね。エラそうに言ってみたかっただけ。そんなに気にしてる訳じゃないわ。たまに、メグをお父様たちに預けるんだけど・・・その間、私が用意しておく食べ物以外にもメグに与えてるみたい。そういうことでいちいち神経質になるのもどうかと思うから黙ってるけど・・・」
「ふうん、細かい事いろいろありそうだね。やっぱり同居って大変?あんた私に愚痴こぼさないからさ、逆に心配なんだ。駿君とはうまくいってるの?」
「・・・なんで?」
「ん?だって、肝心なのは夫婦仲でしょ。周りがどうあれ、夫婦の信頼関係さえしっかりしてればやっていけるんじゃないかなぁ。同居してない私が言っても説得力ないけどね。・・・あんたには悪いと思ってるんだ。ホントだったら、佐伯の親と暮らさなきゃいけないのは私でしょ。信さん長男だし」
「長男も次男もないよ。それに信さんは早坂を継いでくれたんだもん。私は実家安泰で嬉しいよ。由紀夫っていう跡取りもいるし・・・」
「そお?あんたにそう言ってもらえると嬉しいけどね・・・。ね、悩んでる事あったら何でも相談に乗るよ。お父様とは上手くやってる?佐伯の親は、私にとっても親なんだから。なにかあったら言ってよ」
「・・・うん、ありがと」
「駿君に言いづらい事もあるでしょ?いつでも遠慮せずに私のところ来なさいよ。お姉ちゃんはずっとあんたの母親役もしてきたんだからね。頼って頂戴よ」
「うん。・・・お姉ちゃんは?信さんと上手くいってるの?」
「うち?うちは夫婦団結して由紀夫相手にバトルよ。協力し合わないとこっちは食事すらありつけないもの。ひとりが食べてる間に、もうひとりが由紀夫の相手してるのよ」
「あっはははは・・・。それは大変ね。だけど、うちも外食の時はそうよ。味わってる余裕なんてないわよね。でも信さん、結構帰り早いのね。由紀夫が起きている間に帰ってこれるんだ」
「うん、大学にいるから・・・。駿君は・・・相変わらず不規則?」
「うん・・・もう慣れたけどね。一緒に暮らし始めた頃は大変だった。メグの授乳もあったし、昼だか夜だかわかんなくなるほど毎日ぼーっとしてたわ。佐伯の家にもなかなか馴染めなかった・・・ホラ、私たち核家族で、おじいちゃんやおばあちゃんのいる暮らし経験してないじゃない。嫁って、普段義理の親にどう接してるものなのか・・・そういうの判らないし・・・お父様やお母様の前ではいつもおろおろしてた。いまだにそうだな・・・。初めてメグ連れてあのお屋敷に行った時のことも、忘れられないの。ちょこちょこ駿の部屋にフリーパスで上がり込んでた学生時代もあったのに、あの時だけは敷居が高く見えて・・・」
「やっと思い出話になったか・・・」
「え?」
「初めてだもん、そんな話あんたから聞くの。・・・私、自分がお産と育児でアタマいっぱいだったから、気にかけてても、あんたになーんにもしてあげられなかった・・・。あの家に入って、あんたあっという間に痩せたでしょ。由紀夫のお宮参りの時、随分やつれた顔してたから、大変なんだろうな、って思った。スグに駿君がね・・・気づいたんだろうね。あんたを見てる私の顔が心配そうだって。『お姉さん、弥生は大丈夫ですから』って、真剣な顔して私に言ったの。あの時初めて『お姉さん』って呼ばれたのよ。・・・嬉しかったよ。それで、ああもうあんたのことは駿君に任せよう、って・・・」
「駿、お姉ちゃんにそんなこと言ってたんだ」
「そうよ。あんたのこと大事なんだね。ちゃんと見ててくれてるんだよ。しっかりついていきなさいね」
「・・・うん」
「あ・・・メグ寝たね」
 中指と薬指を咥えたまま、萌は弥生の腕の中であどけない寝顔を見せていた。
(お姉ちゃんには・・・やっぱり言えない・・・。ね、萌・・・)


 萌の初節句を祝う当日、佐伯家に駿の姿はなかった。
「っちはっす。案の定いねぇの?駿のヤツ」
 キッチンでてきぱきと動き回る弥生の元に、亨が現れた。
「あ、亨。ありがとね、来てくれて・・・」
「どうなってんだよ、オタクのご主人。かわいい一人娘の節句も祝えねぇのかよ」
「さぁ、どうなってんでしょ。何考えてるのか、私にもわからないわ。・・・はい、案の定いない主人の代わりに味見して!」
 弥生は吸い物を少々小皿にすくい取り、ニコリともせず亨に差し出した。言われるままに、亨は汁を飲み干す。
「・・・うめえ」
「さんきゅ」
 弥生は亨の手から素早く皿を取り返し、今度は冷蔵庫に向かう。
「おい、怒ってんのか?しゃ〜ないだろ。駿は医者なんだから・・・」
「怒ってないわよ。それに、駿が貧乏暇なしの医者なのもわかってる」
「弥生・・・。何イラついてんだよ」
「忙しいからよ!・・・あ、ごめん。亨、ここにいると、私にアゴで使われちゃうわよ」 
「いいよ。使われてやるよ、駿の代わりに・・・。何すんだ?俺、こう見えてもデコレーションのセンスばっちりなんだぜ」
「亨・・・」
「ば〜か。そういうそんけ〜の目で見んなよ。テレんだろうが」
「ふっふふふふ・・・。ありがと。じゃぁ・・・悪いわね。食器棚の一番下。いっちばん大きなオーバル皿出してくれる?センスが一目瞭然のオードブル盛り付けて貰おうかしら」
「おっしゃー、任しとけ!」
(あっはははは・・・)
「ね、亨・・・」
「あ?」
「明日香から・・・なんか聞いてる?」
「あ?なんかって何?」
 亨はクラッカーにカッテージチーズを真剣にトッピングしている最中だ。
「最近明日香と・・・私たちの話・・・した?」
「お前らの?そうだなぁ・・・。毎日ちょこちょこ出てくるけど・・・。あ、そうそ、まだ駿に言ってねぇんだって?バレエ教室のこと。いつ言うんだよ!」
「・・・うん。良く考えたら・・・やっぱりまだそれどころじゃないの。精神的に余裕ない。だからスタジオにね、踊りたくなったら、メグ連れて行こうと思ってるの。外に出れば気晴らしにもなるし・・・。まずは自分の身体馴らさないとね」
「そっか。うん、弥生がそう思うんならいいけどよ。・・・っとよしっ、あとはなにがあんだ?生ハムとキャビア・・・。やっぱ‘佐伯家’だよな。ウチとは食材が違う。ダメだよ!ダンナを『貧乏暇なしの医者』なんて言っては!」
「だって、明日香によく言われるんだモン」
「ぬぁんだって?ウチのカミサンが言ってんのか。そいつはスマンね。よ〜っく叱っとくから」
(あっははははは・・・)
「あー、おかしい。包丁持ってるんだからあんまり笑わせないでよ!手元狂っちゃうでしょ。・・・けど、いいなぁ、明日香は。亨みたいな楽しい人が旦那様で。ね・・・亨は・・・明日香に隠し事ある?」
「え?隠し事?ヘソクリとか?」
「あっはははは・・・。ヘソクリしてるの?」
「そりゃしてるでしょ。しがない婿さんだぜ!いつ放り出されるかわかんねぇもん」
「ふふふふ・・・。あとは?」
「あとは・・・なんだろうなぁ。車ン中のエロ本はこの前バレたし・・・。明日香のヤツ、トランクのスペアタイヤまでチェック入れんだぜ。驚いたね!」
「あっははは・・・。そんなところに隠す亨も亨だけど、見つけ出す明日香も明日香だわ」
「・・だろ。アイツが嫁さんじゃぁ、な〜んも隠し事なんか出来ねぇよ、ったく・・・。あ、ヘソクリのこと、内緒だぞ!こいつはとっておきに隠してあんだから、場所はいくら弥生でも教えねぇ」
「はいはい、聞きませんよ・・・。そうかぁ、お嫁さんなんだね・・・」
 弥生はやっと亨と並んで、酢飯に先ほどまで煮詰めていた具を混ぜ始めた。あたりに甘辛い醤油と酢飯の甘酸っぱい匂いが同時にたちこめる。
「おー、旨そうな匂い。久しぶりだな、‘早坂家のちらし寿司’・・・で?『お嫁さん』がなんだよ」
「ダンナ様に隠し事されるお嫁さんって、お嫁さん本人にも問題がある、ってことよね」
「・・・っだよ。まぁった引っかかんなぁ。誰の事だよ!‘自分’なんて言うんじゃねぇだろうな」
「・・・。」
 キャビアをチーズの上に零さぬよう盛っている亨は、ふと弥生の視線を感じた。見上げると、曇り顔の彼女と目が合った。
「おい、勘弁してくれよ。何黙ってんだよ!」
「ね、亨・・・。もしも・・・もしもよ?!駿が私に隠し事してて・・・それ、亨耳にしてたら・・・お願いだから教えてね」
 弥生の目に涙が溜まり始めていた。
「弥生、お前・・・。何泣いてんだよ、バカだなぁ。駿が弥生に、何隠してるっつーんだよ。俺にはなんも思いあたんねぇぞ。くそ忙しいのに浮気なんてしてる訳ねぇし・・・」
「・・・。」
 弥生の持つしゃもじが動かない。
「マジかよぉ。ばっかだなぁ。浮気の心配してんのか?駿はそんな暇あったらかわいい娘構ってる方が好き、ってタイプだろうが!絶対してねぇって!」
「亨・・・ほんとにそう思う?」
「お前、駿信じらんねぇのかよ!」
「・・・信じてるよ。でも・・・確かめるの怖くて・・・。これじゃ、信じてる、って言えないかな・・・情けないね。でももし・・・駿が浮気を否定しなかったらどうしよう、って・・・。私たち、どうなっちゃうのかな、って・・・。怖いよ、亨・・・」
 ひとつまばたきした拍子に、涙がこぼれた。

−その晩− 
 ベビー・ベッドの傍らで、萌の寝顔を覗き込んでいる駿がいた。隣のダブルベッドには弥生が横たわっている。
「駿・・・?」
 弥生は駿の後ろ姿を見つけて起き上がった。
「あ、起こしちゃった?寝てていいよ。今夜はもう飯いらないから」
「眠ってた訳じゃないの。身体が少しだるくて・・・ただ横になってただけ」
 すぐさま医者の顔に戻った駿はベッドサイドに腰掛け、自分と弥生の額を合わせた。それから頸腺を触診する。
「めまいは?・・・熱はないね。リンパ腺も腫れてないし・・・。疲れたんだろ。このまま先に休んでいいよ。俺は・・・持ち帰った仕事があるんだ。部屋にいる」
「うん」
「今日はお前ひとりに任せて悪かったな」
 駿の手はまだ弥生の両肩に載せられている。
「ううん。皆さんにたくさんお祝いしていただいたのよ。亨と明日香がいろいろ手伝ってくれて、随分助かったわ。お陰で、お父様とお母様にも『楽しいお節句でしたね』って、誉めていただけたの」
「そう・・・よかったね。じゃ、ゆっくりお休み」
 枕元の灯りを遮っていた駿が、立ち上がろうとして少し身体の位置をずらすと、やけに蒼白い顔の弥生が照らし出された。
「気分悪くない?ほら、横になった方がいいよ」
 駿は弥生を促し、ブランケットをそっと彼女の胸まで掛けた。
「もう少しだけ・・・話・・・してもいい?」
「うん。なに?」
「・・・やっぱりいいわ。今夜はもう・・・休みます」
「うん、その方がいい。おやすみ」
「おやすみなさい」
 軽く弥生と唇を合わせると、駿は寝室から出ていった。残された暗闇の中で、熱く滲んでくる目を、弥生は固く閉じた。


 -数日後-
 2時間という待ち時間を辛抱強くクリアして、亨はやっと整形外科の診察室に通された。
「なんだよ亨。あ、この前はいろいろ世話かけたみたいで・・・助かったよ。ちょうど良かった。今日、お前と連絡とるつもりでいたから。で、どうした、捻挫でもしたのか?」
「はい、佐伯先生。神社の石段を踏み外しました」
「ば〜っか!そんな古いネタには驚かねぇぞ。どうしたんだよ」
「外来終わったら、ちょっと顔貸せ」
「なんだよ」
「いいから貸せっつってんだよ!」
「診察室でなに鼻息荒くしてんだよ。・・・なんだかわかんねぇけど、湿布薬でも出しとくか?」
「ああ、頼むよ。消毒液と絆創膏もな。ただし、それ全部使うのは佐伯先生だぜ」
「・・・。」
 穏やかに応対していた駿の表情が硬くなった。


(ピンポーン)
「はーい」
「ただいま」
「お帰りなさい、早かったのね。残念!萌、たった今眠ったところなのよ・・・」
 そう言いながら玄関を開けた途端、弥生は絶句した。
「・・・駿?!その顔・・・」
 駿の右頬が、赤紫に腫れ上がっていた。口元も赤く爛れている。
「・・・。」
 駿は弥生をかわし、無言で階段を上っていく。
「・・・うそ・・・。ね、誰に・・・。ねぇ、待ってよ、駿!」
 駿の後を追い、弥生も二階に駆け上った。
「・・・。」
 無言で部屋着に着替える駿を、弥生も黙って見守っていた。じわじわと、弥生は涙目になっていく。
「タオル・・・冷やしてくるわ」
 張り詰めた空気にいたたまれず、口を開いた。
「大したことない。腫れは今夜中に退くから」
 そう言って、着替えを終えた駿はリビングに向かう。前を通り越された弥生は慌てて駿に続く。
「ね・・・誰?相手は誰なの?・・・お願い、教えて・・・」
 弥生は溢れてきた涙を拭いながら、駿の背中に話し掛けている。
「・・・亨・・・亨じゃないわよね?ちがう・・・絶対違う・・・駿、お願いよ、『違う』って答えて!」
 節句の日、レタスをちぎりながら言った亨の言葉を弥生は思い出していた。
『駿がマジで浮気なんかする訳ねぇ。してたら俺は間違いなくあいつをぶん殴るよ。・・・大丈夫、そんなこたぁねえから。な、弥生。安心してろ』
「ねぇ、駿!どうして黙ってるの?」
 リビングに入るなり、駿が振り返った。
「相手が亨だったら、お前はどうするんだ」
 愁う瞳と、悲しいくらい静かな口調だった。
「・・・。」
 見詰め合ったまま、沈黙が続いた。顔の腫れも手伝って、別人のように見える駿。弥生は凍り付いたように動かなくなった。あまりの衝撃に、涙さえ止まってしまったようだ。
 しばらくして、駿はソファの新聞を掴むと、弥生を一瞥もせず、ドアノブに手をかけた。
「待って!」
 弥生の祈りは幸いにも声になった。
「嫌よこのままじゃ・・・。応えるから・・・行かないで・・・。私は・・・あなたを殴った相手がたとえ亨でも、それでも・・・それでもあなたについていきたい」
「・・・。」
「あなたに愛されてるって・・・私、自惚れてるかもしれないけど・・・信じてるもの」
 ゆっくりと、駿が振り返る。弥生は衝動的に彼の胸に飛び込んだ。そっと、駿の両手が彼女の肩を包み込む。
「・・・それ聞いて、ほっとしたよ。・・・弥生はそれくらい自信持ってていいんだ。間違いなく、俺に愛されてるから・・・」
「駿・・・」
「それだけは、信じてて欲しい」
「・・・後悔してたの。この前言い争って・・・あなたが少し遠くに行っちゃった気がした。だからまた・・・気まずくなるのが嫌で、なかなか言い出せなくて・・・。でも、私たち夫婦の問題は、自分たちで解決していかなきゃいけない。そうわかってるのに・・・亨に元気付けてもらいたくて・・・」
「・・・うん。あいつ・・・いきなり殴ってきたよ。『弥生を不安にさせるようなこと、悩ませるようなことするな』って」
「そんな・・・いきなり?!」
 弥生が痛々しい駿の顔を見上げる。
「ああ。けど、俺は確かに弥生を不安にさせてたらしいから・・・。この家での暮らしに、まだ戸惑ってるのはわかってたけど・・・まさか俺が・・俺自身がお前を不安にさせてるなんて・・・気づかなかった。だから・・・亨に殴られて当然だったんだ」
「駿」
「明日香との電話・・・聞いてたの?」
「・・・真子って人と一緒だったってこと、あなたが明日香に口止めしてて・・・立ち聞きしてたのに黙ってた」
「・・・それで“浮気かも”って?」
「うん」
「ふっ・・・おまえが家にいるのに、明日香に口止めなんてした俺がバカなんだな。・・・“真子”は“茎立真子”だよ」
「えっ?」
「な、・・・弥生はほんとに俺についてくる?」
 駿のバンビアイが、弥生の顔を覗き込む。
「・・・ええ」
「あれ?返事に少し間があったなぁ」
「ついてくわよ。でも・・・」
「『でも・・・』でも、ってことは?」
「隠し事はしないで欲しいの」
「・・・そうだね、悪かったよ。・・・真子に仕事頼んだんだ。それであの晩、病院まで訪ねてくれた彼女と打ち合わせした。遅くなったから、彼女を家まで送った。それがすべてだよ。明日香に口止めしたのは・・・その理由は・・・ごめん、出来れば・・・明日まで内緒」
「そんな・・・」
「必ず・・・明日必ず、はっきりさせるから。・・・ひとつだけ言っとくよ。俺もお前を・・・弥生を離す気ないから。それ、あした証明する」
「・・・。」
 駿の真剣なまなざしを浴びて、弥生はそれ以上、何も聞けなくなった。 



 −3月8日(日)大安−
 
 弥生は昨夜、“愛されている”ことは確認できたものの、“内緒”がどうしても気になって、寝つきが悪かった。そのくせ今朝は空が白み始めるともう目が冴えて、いつもの休日のようにゆったりとベッドにまどろんではいられなかった。隣に横たわる駿を覗き、青紫はまだ痛々しいものの、顔の腫れはひいていることにひとまず安堵した。それからベビーベッドに眠る萌のひたいを撫でて微笑み、弥生はひとり、リビングに向かった。

(ピンポーン)
 休日の早朝から玄関の呼鈴が鳴った。間を置いて、内線電話のコールがリビングに響きわたる。何時の間に、ソファでうたた寝をしていた弥生はだるそうに立ち上がった。受話器の向こうは、玄関に応対に出た義母からだった。
「はい、おはようございます。え?あ、はい。わかりました。すぐに参ります」
 階段を下りれば、そこはもう玄関だ。下りる途中で来客の姿を目にした弥生は、一瞬足を止めた。客もまた、弥生の姿に気づき、微笑んだ。
「おはようございます、早坂先輩。大変ご無沙汰しております。・・・あ、もう佐伯さんですね、失礼しました。相変わらずおキレイで、スリムでいらっしゃいますね。お子様がいらっしゃるようにはとても見えませんよ」
「・・・真子・・・茎立さん?!」
「はい。覚えていて下さったんですね。光栄です」
 真子はにこやかに応える。制服のようなピンクのスーツ姿で、髪は耳が見えるほどボーイッシュだ。オードリー・ヘップバーンを思わせる体型も昔のままだ。弥生は驚きつつも気を取り直し、階段を下りていく。
「久しぶりね、どうしたの?あの・・・この前駿・・・主人と・・・」
「あれ?ご存知だったんですか?先輩には内緒だって、佐伯さんおっしゃってたんですけど・・・」
 弥生のためらいがちな言葉とは対照的に、真子はあっけらかんとストレートに応える。
「遅い時間でしたから、家まで送っていただいて助かりました。ご主人様に、どうぞよろしくお伝え下さい」
「え?ええ・・・」
 弥生はチラっと階段を見上げた。
「取りあえず、早坂せ・・・じゃなかった。弥生さん・・・とお呼びしてもよろしいですか?」
「・・・ええ」
「じゃ、改めまして。えっと、そうそ、名刺・・・。わたくし、ブライダルサロン『フェアリ』のトータル・コーディネーター、茎立です。この度は、当店をご利用いただきまして、誠にありがとうございます」
 そう言って、真子はペコリと頭を下げた。弥生は名刺を受け取ったまま呆然としている。
「さ、弥生さん。時間は限られてます。早速お支度しましょ。どちらのお部屋を利用させていただけるんでしょうか。これから衣装やら運び入れますので。本来でしたら当店でトータルにお支度させていただくんですが、佐伯さんがどうしてもご自宅で、とおっしゃいますので・・・。フリープランも当店のモーットーですから・・・」
「ちょっと待って。ね、茎立さん、『支度』って・・・なんの?」
「白無垢ですよ」
「へっ?・・・私が?!」
「ええ、勿論」
「・・・。」
 弥生は開いた口が塞がらない。
「ふふふふ・・・。やっぱり内緒だったんですね、驚かれました?」
「ね・・・駿が・・・あなたにお願いした仕事って・・・」
「はい、今日の佳き日に、晴れてご結婚式、おめでとうございます」
 真子は、今度は深深と頭を下げた。
「・・・ちょっと待ってくれない?本人に確認してくる・・・」
「え?佐伯さん、もうお宅にいらっしゃいませんよね?こちらへお伺いする前に、明日香先輩のお宅でお目にかかりました。お嬢様を抱いていらっしゃいましたよ。後程・・・佐伯さんのお兄様が、こちらに弥生さんをお迎えに上がるそうです。弥生さん?!早くお支度しないと・・・」
 真子の言葉を最後まで聞かず、弥生は二階に駆け上がった。
 勢いよく寝室の戸を引き開けると・・・ダブルベッドとベビーベッド、それぞれに寝ていたはずの駿と萌がいない。カーテンのドレープはきちんとたたまれ、朝陽が射し込む室内は眩しいほど明るい。
「うそでしょう・・・」
 独り言を呟き、弥生はそこにしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「弥生さ〜ん、あのぉ、失礼してお邪魔してもよろしいですか?お二階でよろしいんでしょうかぁ・・・」
 階下からの真子の呼びかけで、やっと我に帰った。
「あ・・・どうぞ。取りあえず・・・茎立さん、上がって頂戴!」
 二階の踊り場から階下を見下ろしそう言うと、弥生はリビングに急いだ。受話器を持ち、短縮【*01】を押す。呼び出し音がもどかしい。5回目で、やっと馴染みの声が出た。
「・・・ね、どういうこと?駿・・・駿出して!いるんでしょ!」
「なに興奮してんのよ!今私も急いで支度してそっち行くから。あんたも取り乱してないで早く支度始めな。式の時間に間に合わなくなるよ!」
「いいから!そんなのいいから・・・お願いよ、駿出して!出してくれないんなら、私がこれからそっちに行くわ」
「何言ってんのよ!もういないわよ。たった今、亨と神社に神酒奉納に行ったトコ。メグは瑞生さんのところよ、安心して」
「ね・・・どういうことなの?」
「だ〜からそういうことよ。詳しい事は行ってから話すってば。がたがた言ってないで、私が行くまでそこにいるオンナ・・・ええっと、真子!真子の言うこと、大人しく聞いてな!急いでるから切るよ!」
「あ・・・ね、ねぇ、明日香!明日香?!」
 切れているのはわかっているのに、弥生は受話器を置くことが出来ずにいた。
「あのぉ・・・」
「へっ?」
 すぐ後ろで声がした。驚いて振り向くと、真子がニヤけている。
「そろそろお支度、始めてもよろしいですか?新婦の弥生さん」
「・・・。」


 境内の梅は満開だった。
 神殿まで続く渡り廊下の途中で、フォーマル・スーツを着た亨と紋付袴姿の駿が立っていた。綿帽子に白無垢姿の弥生は明日香に手を引かれ、ふたりの元にゆっくり歩み寄る。
「・・・化けたね」
「ンンーン」
 亨のセリフに、明日香がひとつ咳払いをする。
「・・ぁんだよ、ったく。わかってるって。・・・弥生、悪かったな。今日がこんな大事な日だとは知らねぇで、昨日駿をこんな顔にしちまって。けどまぁ、あれだ。コイツのツラは普段特級酒だから。これっくらい崩してもまだ一級酒だ。俺は二級酒がいっちゃん旨いと思うけど・・・」
「ンンーン」
「・・・ぁんだよ!いちいちうるせぇな!」
「あんた、反省の色がまるで見えてないじゃない!」
 明日香が亨をたしなめる。
「反省してねぇもん。おまえと駿が俺にいつまでも黙ってるからこんなことになっちまったんだ。ま、このツラで結婚式ってのも、オツなもんだって。絶対忘れねぇだろ。・・・あ、それより弥生、良かったな。昨日設計図も見せてもらったぞ。バレエのフロア、結構広いじゃん・・・」
「おい!」
 今度は駿が亨の言葉を遮った。
「なんだよ。・・・あれ?もしかして、これもまだ弥生には内緒か。あっじゃ、悪ぃ悪ィ。・・・いっぺんに驚いちまうなぁ、弥生。あっはははは・・・」
「ンンーン」
「だから、なぁんだよお前は!さっきから咳払いばっかりしやがって」
「なんでわかんないんだろうねぇ。・・・ホラ、式の前にトイレ行ってこよ。緊張するから」
「俺が緊張するわけねぇだろ。これでもミュージシャンのはしくれだぜ。ステージに立ちゃぁ、目の前客がうようよ・・・」
「いいから!行ってこよ!ホレ!!」
「・・と、痛ぇよ。そう引っ張んな、って。一張羅破けっちまぁ。お前キレイに縫えねぇだろ・・・。おい、わかったから離せって・・・」
 明日香は気を利かせて駿と弥生をふたりきりにしようとしているのに、亨はそのことにまるで気づかない。明日香は留袖姿にもかかわらず、ドタドタ大股に、無理矢理亨を引き連れ、あいの間に戻っていく。騒々しいふたりの足音が遠のき、新郎新婦はやっと二人だけになった。
「・・・化けたね」
「え?」
「ふっ・・・いや、綺麗だよ」
「・・・駿、私こんな・・・こんなに嬉しくて驚いたこと、きっと生まれて初めてよ。おうちのことも全然知らなくて・・・。あんまりおどかさないで。心臓止まりそうよ」
「そいつは困るな。でもほんとにそうなったら、是が非でも蘇生させてもらうよ」
「駿・・・」
「だけどもう“秘密”はないよ。とっておき、亨のヤツ口走って・・・それが今、めちゃくちゃ悔しいんだけど・・・。ホントは今夜設計図見せて、寝る前にもういっぺん驚いてもらおうと思ってた」
「意地悪ね・・・。でも・・・ありがとう」
「一緒に暮らしはじめてから・・・考えてたんだ。家のことも、式のことも。親と『同居する』って弥生が言ってくれたから、俺はその言葉に甘えたけど・・・お前をあの家で生活させるのは失礼だと、ずっと思ってた。短い期間だったけど、由布がいた部屋があるからね。バレエ教室も、何とかしてやりたいって・・・。子供の頃からのお前の夢、奪ったのは俺だから。せめて今見てる夢は・・・叶えてやろうと思った。式も・・・約束したろ。‘落ち着いたら神社で式挙げよう’って。それで今日・・・絶対に今日、弥生に白無垢着せたかった。・・・誕生日おめでとう」
「・・・誕生日?そうだ・・・私今日・・・誕生日・・・」
 声を震わせた後、大粒のひとしずくが花嫁の頬を伝った。

 
 思い出の詰まった社に、心に染み入る時太鼓が鳴り響く。
 これから、この社でまたひとつ、駿と弥生の新たな思い出が刻まれる。
 弥生三月。
 -春がきた-
 神社の杜に棲む春告鳥の初音は、神殿の中で三三九度の杯を交わすふたりの耳にも、きっと届くことだろう。


 

-The end-





感想の書込みフォームはこちら

Khanomへの

「LOCUS OF LOVE」のindexに戻る

annexの表紙に戻る

「ひっぴいはっぴい」