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最終的位から譙國夫人とも呼ばれ、こちらの呼称の方が、知名度は高いかも知れません。高涼の洗氏の娘で、この地方南越の有力者、馮宝に嫁ぎ妻(夫人)と成った。 幼少の頃から聡明で、元からこの土地に住んで居なかった馮家と、土着の酋長や豪族の家と積極的な血縁関係を結ぶ等し、また中央の政情をいち早く捉え、常に有利な状況で服属する勢力を見極める等、馮家のこの土地での勢力伸張と、この地方の安定に心を砕き、後の嶺南の馮家の礎を作った。 また、この地方の人々からも絶大な尊崇を集め、聖母として崇められた。 南朝の永定二年(558年)南朝梁の高涼太守だった馮宝の妻洗氏は、新たな南朝の主と成った、陳朝の陳覇先へ、いち早く馮宝の後を継ぎ、馮家の当主と成って居た、子の馮僕を遣わして、陳に入朝させた。 その後、廣州刺史と成って居た欧陽乞が太建元年(569年)に対立する皇族「安成王」が皇帝として即位(宣帝)すると、叛乱を起こした。翌年には陽春太守と成って居た、馮僕を召し出して造反に誘った。馮僕は、母親の洗夫人の元へ使者を出し事の相談をすると、夫人は… 「我は忠貞を重んじて居ました。国へ背くことはできません。」 として、周辺諸酋長を率い兵を挙げて郡境を固め、叛乱に呼応せずに陳王朝への忠誠を貫かせた。これに因り馮僕は、母親の功績で信都侯に封じられ、石龍太守となった。 次に隋が南朝陳を併呑した際にも、いち早く使者を送り、服属した。その後、この地方の有力者、王仲宣が隋に反旗を翻した時も、一族の馮暄・馮盎(共に孫)を遣わし、また自らも武装して騎衞を率い、二十余州を巡撫して、隋の嶺表平定を助けた。 これに因り一族の馮寶には、廣州総管、譙国公を追賜され。洗夫人は譙国夫人として、彼女には危急の際に、部落六州の兵馬を徴発する権限も有る、幕府を開く事も許させた。 また、独弧皇后からも、夫人への首飾りや宴服等を贈られ。夫人は毎年、それまで拝領した沢山の賜下品を庭に並べて子孫へ示し… 「我は、三代主へ仕えたが、いつも忠順一途を忘れなかった。この賜物は、全てその報いだよ。お前達もこれを想って、ただ天子へ赤心を尽くしなさい!」 と言って、一族に諭した。 また、番州総管の趙訥が貪欲で残虐なので、俚や僚が大勢逃亡した際も、都へ使者を派遣して、この有様を書簡で文帝へ伝え、彼が遠人を招懐出来ない事を訴えた。 文帝は趙訥を法に照らして処分し、夫人へ亡命者の招慰を命じた。この事後処理も、夫人は自ら使者と名乗り、詔書を奉じて十余州を回り、上意を宣述して、俚や僚を諭して回った。すると彼等は、次々に降伏して来た。 文帝はこれを嘉し、臨振県を湯沐邑として彼女へ賜り、馮僕を崖州総管、平原公とした。 この様にして、その後の馮家発展の礎を築いた。 余談では有るのだが、洗氏は、自らの乳が六十センチメートル余りで、暑熱の時分には、その乳を肩に担ぎ上げて居たそうである。 |