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姓は豊臣。名は秀吉。字は藤吉郎。元の姓は木下。その後、羽柴と変遷する。幼名は日吉丸。生没年は、AC1536年〜1598年。日本国尾張の国(現在の愛知県西部)中村出身の人。 この人物は、日本の武士階層で一番身分の低い”足軽”から出世して行き、やがて主君の覇業の跡を受けて、当時戦乱の世で有った、国内の統一を成し遂げ、国の最高権力者”関白”まで上り詰めた。 更に、国内の統一だけに留まらず、当時の東アジアの盟主的国家で有る、明王朝征服をも目論見、隣国李氏朝鮮にまで軍勢を侵攻をさせた人物で有る。 そしてアジア三大出世人の一人にも名を連ね、またこの様に表される程の人物なので、彼には神懸り的な逸話も数多く残されて居る。 尾張の大名”織田信秀”配下の足軽だった”木下弥右衛門”(足を負傷し、百姓と成り結婚)の息子として、母、”なか”との間に、元旦に生まれる。(翌年の二月六日と言う説も有力) 彼の神懸り的エピソードとして、その元旦に生まれた。と言う誕生日も然る事ながら、それよりも、母なかが彼を受胎した日に、日輪が腹中に入り込んだ夢を見たと言う。(これにより、日輪の子。として、幼名は”日吉丸”と名付けられた。) 更に、彼の右手の指は、何と指が六本(親指が二本)有ったと言う。 また、容姿が非常に猿に似ていた為に、周りの同輩や主君信長からは、猿と呼ばれて居た。 その後少年期に、実父が亡くなり、家計の為に母が父の友人”竹阿見”と再婚して、子供を儲けると、義父は実子を可愛がる様に成り、日吉丸は家に居辛く成ったので、武士に仕官する事を目指し、針の行商をしながら、故郷の尾張を離れ、東へ向かった。(この頃、藤吉郎と名乗ったと思われる) その後、織田の隣国の大大名の、”今川義元”の陪臣で有る”松下之綱”に仕官に成功し、小姓として仕える様に成った。機転が利くのでどんどんと優遇されるのだが、外様が優遇されるのを見て、面白く無い、譜代の子息の同輩達に妬まれ、いじめを受けてしまう様に成る。この様子を見ていた松下之綱は、藤吉郎を不憫に思い、幾らかの金を持たせて、故郷に帰す事にした。 これにより、もう一度、地元での仕官の口を探す事に成った。(ちなみに、”松下(加兵衛)之綱”は、秀吉が天下人と成らんとした頃に、旧恩により、秀吉から大名に取り立てられて居る) これで、地元の大名で、織田信秀の跡を継いで居た”織田信長”の足軽として、仕官した。(最近の説では、後述の”川並衆”に出入りして居た秀吉が、信長との折衝役として織田家に出入りして居る内に、信長にその才覚を認められて召抱えられた。と言う物も有る。) そして、織田家でも、役目は端役で有っても、その機転や気配りで、次々と結果を残し、周囲の信頼を勝ち取って行った。 この頃に有るエピソードが、藤吉郎が信長の草履取り(身の回りの世話をする下人)に任命された時に、冬の寒い中、信長が草履を履くと暖かかったので、さてはサルが自分の尻が凍えるのを防ぐ為に、待つ間に自分の草履を尻にしいて居たのでは?と疑い怒ったが、それは信長の足を気遣い、懐で温めていた。と言う事が解り感心した。と言う物や(この有名なエピソードは、作り話で有ろうと言われるが、しかし秀吉が本当に機転・気配りが利いた人。と言う事実が有ったからこそ生まれたエピソードである。) また、城内の薪を管理する役目を仰せつかった時、まず城内の薪を使う使用人達の無駄使いを、過去の帳簿を調べたり、自ら一定期間、実際にその作業をして見て必要な薪の量を突き止め、その節約を徹底させると共に、薪問屋から高額で仕入れて居る無駄を省く為に、領民に、「一定の薪を拾って、城に持参した者には恩賞を出す。」と触れを出すと、領民達が喜んで薪を持参して来たので、支出を前任者の時の数分の一にまで抑える事に成功しました。 更に、嵐が来て居城の城壁が大幅に破損した時、家臣に修復を命じても、一向に作業が捗りませんでした。そこで実績の有った藤吉郎にこの役目を任せて見ると、藤吉郎は普請職人を数組に分けて、工区を組毎に均等に分け、組毎に完成時間が一番早い組に恩賞を出す。として彼らを競争させました。 すると数日で、作業を完成させてしまったのです。 こうして、端役でも実績を残し、少しづつ主君信長の信頼を勝ち取って行きました。 またこの頃(1961年)、生涯の糟糠の妻と成る、織田家家臣、”木下祐久”の娘で、足軽弓隊の組頭”浅野長勝”の養女と成って居た”おね”と結婚した。 多分、同輩の足軽衆からは、彼の才能も知れ渡って来て居ただろうし、その将来性を見越して、組頭の娘を伴侶と出来たのだろう。 ちなみに、この婚儀の媒酌人は、当時信長側近から不手際で降格され、藤吉郎と同格の身分にされて居て、同じ長屋暮らしで家族ぐるみの親友と成り、その後一生の友情を暖め合った、後の加賀百万石の開祖”前田利家”その人で有る。 その後も藤吉郎は、武勲を挙げ続ける。特筆すべきは、墨俣一夜城築城の大手柄だろう。 この頃、主君信長は、尾張国内の統一を完全に終え、隣国の大勢力、今川家の大軍も打ち破り、その配下だった”松平元康(徳川家康)”と同盟を結び、東の憂いの除き、いよいよ北の隣国美濃の国の斎藤家を討とうとしていた。 しかし美濃は河川が多く、攻めるに難所。 そこで川の中州地帯に砦を築き、そこを攻撃の拠点としようと考えて居た。 この作戦で、織田家の名だたる重臣達(柴田勝家・佐久間信盛等)が砦築城を試みたが、悉く失敗。 これにより、この作戦自体が困難を極める事だと思われて居た。 これを引き受けた藤吉郎は、信長の正規軍は殆ど使わず、地理や動向に詳しく、勲功への野心が強い、地元(尾張・美濃周辺を拠点とする)の傭兵野武士集団”川並衆”(前野・蜂須賀党等)を雇って、徹底した下準備をして、段取りを整える方法を採用して、見事短期間で、敵の攻撃をかわしつつ、墨俣に砦を作る事に成功した。 実際には、この砦は一夜で建設された物では無いと思われるが、その凄く鮮やかな手並みから、”一夜城”と言う伝説を生んだのだろう。また、この作戦を切っ掛けに、共に仕事を成した地元野武士集団の棟梁達”蜂須賀(小六)正勝”等を配下とし、この手柄に拠って、織田家の美濃攻略が容易と成り、遂に美濃も版図に納める事に成功した。 そして、織田が美濃を版図に納めたこの頃、藤吉郎は、数年前に斎藤家の本城であった、堅塞、稲葉山城を何と僅か十六人(一説には十七人)で主君から奪い落し、そのまま主君に返して隠遁生活に入ってしまった。と言う伝説を作った稀代の名軍師”竹中(半兵衛)重治”を真心で口説き落とし、自らの参謀にする事に成功する。 また、この頃より、名前も”秀吉”とそれらしく名乗り始めたと言う。 そして織田家は、美濃を版図に加えた事により、一気に天下に名立たる有力な勢力に伸上がり、一気に天下布武の野望も現実味を帯びたので、ちょうど時の足利将軍候補の”足利義昭”(当時は義秋)が頼って来たのに乗じて、彼を擁して京へ上洛。遂に天下捕りへの先鞭を付けた。 秀吉は京都では信長の有能な代官として働き、その後、織田家の仇敵、朝倉家を討伐する戦(信長に権力を握られる事に反発した将軍義昭が、織田との旧怨有る朝倉家を裏で炊き付けた。)が勃発すると従軍、しかし途上、信長の妹お市を越し入れさせて、同盟国で有る筈の浅井家が、朝倉家との古来からの恩顧を重視して、織田家を裏切ってしまい、これにより織田軍は、浅井軍に背後を取られ、挟み撃ちの憂き目的状況に陥りそうに成ったので、急遽退却する事に成った。 しかしこの退却戦は、熾烈を極める戦いに成る事が予想され、特に最後尾で全軍の盾と成らなければ成らない殿軍は、死を覚悟しなければ成らない過酷な物で有った。 この殿軍に、何と秀吉は志願して、自軍に大量の損害を出しながらも、織田軍本体の損害を殆ど出さずに守り切り、尚且つ自らも含め、主立った将兵を皆帰還させる事に成功した。 これにより、秀吉は織田家中から一目置かれる存在と成り、その後の浅井・朝倉連合軍との戦いでも活躍し、特に浅井家の本城、小谷城の攻城戦での活躍は目覚しく、一番に本丸に突入すると同時に、信長の妹、お市の方(とその娘達)救出を果たした。(一説には秀吉はお市の方へ恋慕の情が有ったとされ、織田家中では柴田勝家と並び称された) これにより浅井家と朝倉家は滅亡して、この功により秀吉は旧浅井家の所領、北近江三郡を賜り、長浜城に居城し、織田家中で重きを成す国持ち大名に成った。またこれにより名字も、織田家重臣の柴田勝家・丹羽長秀の二人にあやかり、彼ら以上の大人物と成れる様に、と、彼らの名字から一字づつ拝借して”羽柴”と変え、”羽柴秀吉”と名乗る事にした。 その後も各地の群雄(越後の”上杉謙信”や大和の”松永久秀”)を倒す為に、各地方を転戦しつつ、西国の強国、毛利家(や、それらと結ぶ諸大名)との本格的な戦いを展開する為の、中国地方平定軍の総大将として、播磨(現在の兵庫県南部)へと派遣され、本格的な中国地方経略を始める事と成る。 この頃に、竹中半兵衛の後釜として、播磨の領主”黒田(官兵衛)孝高”を配下とし、軍師とした。また”小西行長”等新たな人材も家臣に加えて居ます。 この地方平定戦の主な戦いとしては、室町幕府の名門、山名氏の鳥取城を攻めた際には、この地方の米の流通地区である、京都で流通する米を買い占めて米相場を高騰させ、鳥取城の備蓄米を利で釣って売却する様に仕向け、備蓄米が枯渇する様にした上で攻め込み、徹底した兵糧攻めを行って落城させた。(この計略は、信長から武士としての品が無い、として後に怒りを買うのだが…) また、毛利氏に滅ぼされた山陰の雄、尼子氏の残党(山中鹿之介を中心とする尼子十勇士)を、尼子復活を援助する。として、反毛利勢力として利用したり、相変わらずの奇抜な作戦で攻略を進めて行った。 中でも凄いのが、備中高松城攻めで行った、水攻めだろう。 これは高松城が盆地の湿地帯に有り、尚且つその盆地の脇に河川が有る事から、その河川の水が盆地に流れ込む様な堤防を作り、盆地を今で言うダムで作った湖の様にしてしまった作戦だろう。 これにより高松城は殆ど水没して、落城寸前!と言う処まで行くのだが、実はこの時、主君信長が、重臣の”明智光秀”の謀反により、本能寺で落命してしまう。 この知らせを聞き、急遽高松城の城主”清水宗治”を自害させる事を条件に、毛利と和睦して、全軍を近畿にとって返させた。(世に言う”中国の大返し”) この素早い対応で、謀反を起こした明智光秀の計算をも狂わせ、周辺に居た織田家臣を糾合して、一気に山崎(天王山)で明智光秀を破り、主君の仇討ちをしてしまった。 また、この事により、各地方へ遠征して身動きが取れなかった各重臣達も出し抜く事と成った。 この事により、その後織田家の今後を重臣で話し合う清洲会議でも、秀吉は主導権を握り、信長の長男”信忠”も信長と共に京都で光秀に討たれて居た為、自分こそ織田家を継ぐに相応しい。と主張する、その直ぐ下の次子”信雄”や、秀吉と共に、光秀を討ち、父親の仇討ちを行った彼こそが!と柴田勝家が推す、三男”信孝”。等の意見を制し、信長の嫡孫である、二歳の三法師(秀信)こそが、血統から言っても相応しい、と主張し、秀吉は幼い主君を補佐する。として、遂に織田家の実権を握る事に成功し、その後、秀吉に反感の気配を見せる柴田勝家等、有力家臣を滅ぼしたり、臣従させて行き、信長の旧領のほぼ全域を掌握するに至った。 その後、本能寺の変時、大阪の堺から難を逃れ、この混乱を利用して勢力を拡大して居た徳川家康を苦戦しつつも降し、紀伊雑賀衆・四国の雄”長宗我部元親”をも降す。この頃、朝廷にも覚え目出たく、遂に朝廷での最高官位、関白にまで任ぜられた。 また、関白は通常摂関家からしか輩出出来ないが、新しくそれに準ずる家名を賜れば問題無い。として、新たに”豊臣”の姓を賜る事にした。これにより、これよりは、”豊臣秀吉”と名乗る事と成った。 その後も、九州の島津征伐や、関東の北条攻め・奥州仕置き等で、遂に、約一世紀半の間、戦乱に明け暮れた日本の天下統一を成し遂げた。 そして、遂に海外覇権拡大の野望へ… やっと、本ページのテーマ内容です。 秀吉は天下統一の覇業を達成した後、唐(から(中国の意))・天竺(インド)も征服(要は世界を征服する。と言う意味)する。として朝鮮半島へ出兵しますが、いつ頃からこの野望(動機)を持ったのか?については諸説有りますが、一番先に見える物としては、秀吉がまだ織田の家臣時代、主君信長に中国攻めの総大将を言い付かり、その進捗状況を報告、褒められた時に、「中国地方のみ成らず、その先の九州は言うに及ばず、更に先の朝鮮・明国も征伐してご覧にいれます。」と言った事が資料に見えます。 また、出兵直前に、愛息の”鶴松”が急死した悲しみを紛らわす為の狂気に囚われて起こした。と言う説も有ります。 先に述べた信長への口上、この時の口上が、果たしてどれ程本気だったかは定かでは無いですが、その後自らが自立し、九州征伐を進める頃に、朝鮮国との国境に有る対馬の領主、宗氏が臣下の礼を採って来た時に、宗氏に隣国の朝鮮国へ臣下の礼を取る様、順撫使の様な仕事を命令して居るので、この時にはかなり現実的に野望の視野に入って居たと考えられます。 当時の日本は、西洋の優れた火器等の最先端技術を導入しつつ、戦国の荒波を勝ち抜いた直後と言う、世界でも比類無き軍事大国と成っていました。 その火器の兵器所持数も、西洋の国々を凌駕する数を誇りました。 この状況に、もしくは秀吉は冷静に我彼の国々を分析して、この野望が現実的な計画で有ると考えて居たとも考えられます。 また、この当時の秀吉の領国経営の方式だと、戦争に勝って、敵から領地を奪い、その土地を家臣への恩賞として与える。と言う図式だった為、家臣達を心服・満足させ続ける為には、常に恩賞で有る敵国の領土が必要な為、際限無く領土拡張戦争を続けて行かなければ成らない矛盾に晒され、またこの事に気付いた秀吉が、その為に起こした。とも言われて居ます。 初め、当初の目論見としては、朝鮮国も今まで戦った諸大名と同じ様な感覚で捉えていた節が有ります。それは秀吉の統一戦を進める方法として、まず敵国と接する前線に当たる大名勢力に、その隣国への降伏勧告をさせ、従わない場合は、その前線の大名を中心に遠征軍を出し降伏、または滅亡させます。これを繰り返して、天下を統一しました。 そして朝鮮国にも同様に、宗氏に命令し、臣下の礼を取らせようとして居た。と言う事実が有ったと言うのが、その根拠です。 これは、命令された”宗義智”と、その仲立ちにたった小西行長が、どだい無理な命令だとして、書状を(天下統一の祝賀使要請と)偽った為に、秀吉周辺だけが朝鮮が降った。と思い込ませただけで、事無きを得ましたが、その後、今度は朝鮮国へ、明国への降伏勧告の使者を出せ、と命令します。 これは勿論通る筈も無く、では明国への出兵。と成り、朝鮮国にも「征明嚮道」(明国を征服するので、道案内・先駆けせよ)として、兵の動員を命令します。しかし、勿論これも断わられ、とにかく、この様な状況で、秀吉の命令で、日本軍は朝鮮国への出兵と成り、遂に秀吉は文禄元(1592)年、『壬辰倭乱』(日本では文禄の役)を起こします。 秀吉は肥前(現在の北九州(市では無い)地域)に、名護屋城を前線基地として築城し、そこに三十万の軍勢を駐屯させて、そこから十五万もの日本の精鋭を出兵させた。 かたや朝鮮国は、建国以来二百年、殆ど動乱と言う動乱も無く、平和裏に過ごして来た国なので、日本軍侵攻の噂は有り、備えは一応して居たが、百戦錬磨の日本軍にとっては付け焼刃でしか無かった。 全軍が南端の都市、釜山城を襲ったので、瞬く間に陥落、その後日本軍は次々と城を落し、一路都漢城を目指し進軍、開戦から僅か半月余りで、都を陥落させてしまいました。 朝鮮国王は明国との国境の街、義州にまで逃れ、日本軍はその後、現地諸将は、当初の計画通り各地域の占領の為に侵攻して行った。 当初は、現地の住民、特に下層民も、平和に胡座をかいた朝鮮王朝の圧政を脱っせると、各都市の役人が避難した後に、略奪や戸籍等を処分したり、日本軍を解放軍として占領を手助けする者も現れ、遂に明国境付近までの、(平安道・忠清道。全羅道を除く)ほぼ朝鮮全域の占領を開戦から数ヶ月で達成する勢いを見せた。 これには日本に居た秀吉も狂喜し、次の明国も何する物ぞ!と、自ら陣頭指揮を取るべく、渡海の準備を進めさせる程だった。 しかし、そんな日本軍有利な状況も此処までで、現地では日本軍による民衆の主権を無視した様な政策(占領直後に検地を行ったり、民衆にいろは言葉(日本語)を強制させる等)、他にも朝鮮人に対する数々の非道(占領地の女性を辱めたり、子供も含め奴隷商人へ売り飛ばす等し、または戦争での実績に首級(生首)を持ってされて居たが、距離も遠く、数も多かったので、代用としてその人の耳や鼻を削いで代わりとした。これにより、殺した人物の素性が判らないのを良い事に、女子供を含む一般民衆を殺して、その耳や鼻を”兵士”として恩賞とする大量殺戮等)も行われ、これにより民族意識の高揚と、祖国奪還の為の義勇軍が各地で決起し始めた。 更に朝鮮国の宗主国で有る明国も、盟主として朝鮮国への援軍派兵を決め、本格的に軍が動員されるや、平壌で明軍に大敗を喫し、この反撃に日本軍を後退させて居た。 そして朝鮮軍として一番活躍が目覚しかったのは、朝鮮水軍を率いる”李舜臣”の活躍であった。彼が日本の本土から来る補給船を次々に撃沈させ、一気に現地の軍は物資不足に陥り、義勇軍の陽動奇襲戦法にも悩まされ、各地の占領も思う様にいかなくなり、前線に出ていた軍を全て中央部まで退却させ、辛うじて首都漢城防衛を果たして居る。と言う危機的状況に陥ってしまった。 これにより、秀吉の渡海も中止され(母のなかが亡くなった。と言う事も有るが)、そして一時は、明・朝鮮連合軍を碧蹄館の会戦で勝利すると言う事も有ったが、現地では(明軍側でも)戦線維持の限界に近く成り、急速に和平への機運が高まり、秀吉もこのまま泥沼に陥るよりも、今のうちに条件の良い和平で手を打った方が得策と考え、宗主国の明と和平交渉に臨む事に成り、その行く末が収まるまで、ほんの少数の残存部隊が海岸沿いの街に残った以外は、休戦として全て一時撤退とさせた。 この和平交渉で、秀吉が構想として居た条件は、以下の通り七か条から成る構想して居た。 一、明国の皇女(公主)を天皇の后妃とする事。 二、勘合貿易を復活させる事。 三、日本・明の大官は友好の誓詞を交換する事。 四、朝鮮へは、都を添えて北部の四道を返還して遣わす事。 五、朝鮮から王子と大臣を人質として差し出す事。 六、生け捕った二王子は、朝鮮へ返還して遣わす事。 七、朝鮮の権臣は、永代違約無き誓詞を差し出す事。 で有った。が、この様な条件は認められる筈も無く、明国は秀吉に対して”日本国王”の位を認めるのみで、それ以外の条件は全て拒絶してきた。これに対し怒った秀吉は、慶長元年(1596年)、再び日本軍の朝鮮半島への出兵を命じ、翌年の二月には、各軍が再度渡海を始めた。これが『丁酉再乱』(日本名、慶長の役)である。 この度の戦いでの、秀吉の方針は、七か条の実現であった。主に四に有る”北部四道を返還する”と言う点で、その逆の南部三道は日本の領土。と言う主張を確固たる物にする為、忠清道・全羅道・慶尚道。の三道確保を至上命題とする方針だった。 なので今回は永久領土の確保を目指し、占領と同時に海岸線に倭城を築城し、拠点を確実に固めていく戦略を採った。また前回に、海戦で苦戦していたが、李舜臣が朝鮮側の権力抗争に巻き込まれ罪を得て失脚して居た事から、後任の”元均”のお陰で戦力が落ちてしまい、撃破する等、幸先は良かったのだが、朝鮮側も、今回の出兵は十分予測していて、各地に守備軍を配置していた。また兵も前回の戦いで戦慣れして精強となり、また義勇軍との連携も密に成る等、更には朝鮮軍(人民)が、”清野待変策”と言う、日本軍侵攻地域の住民や農作物・食料等を、全て近隣の城市内部に避難させて、日本軍に物資を全く与えない戦術を取る等、前回よりも強固と成って居た。 また今回も、宗主国の明国から援軍が到来したり、海戦での大敗を挽回する為に、名将李舜臣が戦線に復帰する等して、初戦の海戦に勝利した幸先は良かったが、彼の復帰それ以後は、倭城の拠点を守る事が主に成り、前回以上に苦戦する様に成った。 更に日本軍内部からも、この戦いの大義の無さや無情さから、朝鮮側に投降する者も多く現われ、彼らは降倭と呼ばれて、朝鮮側に、日本側の最新鋭の火器の操作方法や、製造方法等を伝えた為に、強力な戦力と成って行った。 こんな事から、誰の目にも、この戦いが利を得ないばかりか、苦痛を伴うだけの物でしかない。と言う機運が高まり、それも秀吉自身も半ば感じて居たかの様に、この鬱屈した気分を紛らわすかの様に、戦争中に醍醐の花見等、盛大な催しをして居た。 そして、そんな、果てしない野望を実現する事も無く、自らの急激な老いには勝てず、幼い息子を残し、我が家の行く末を案じながら、波乱の生涯を閉じた。 ちなみに、彼の死を以って、この戦争を行う意義も失い、日本軍が東亜に動乱の先駆けを起こすのみで、次々と本国へ退却して行った。 この退却戦も色々なエピソードが有るのだが、それは他の人物列伝に譲ろうと思う。 秀吉は、幼少の頃、母”なか”の腹中へ、日輪が宿り生まれた。として居るが、この伝説は非常に中国的である印象が強い。 と言うのも、中国の創業の英雄には、この様な伝説が非常に多いからだ。 ひょっとすると、この伝説自体が、秀吉が中国の覇者を目指した時点で、中国の英雄にこの様な伝説や故事が多い事を知っていて、中国的英雄に成る素地を作る為に創作した物では無いか?と考えて見ると非常に面白い。 また秀吉は、亜細亜の三大出世人の一人に数えられて居るが、他の二人は、自らが覇者と成った後、創業の功臣を粛清した事で知られ、晩年に暗い影を落して居るが、秀吉にはそれが大々的には無く、人たらしで天下を獲ったと言う、明るい印象を受けさせる。しかし、他の二人の覇者は、創業の功臣(上層階級)の粛清はしたが、下層民で有る農民等を虐げる事は無く、彼らの生活の安定を第一として居た。しかし秀吉は、印象だけでは一番明るい物を持っていながら、晩年の朝鮮出兵により、朝鮮の一般人民に多大な損害を与えただけで無く、国内の農民の生活も困窮に追い込み、しいては亜細亜の大国、明王朝の財政を逼迫させ、それが後の大増税に繋がり、民衆の大量蜂起の原因と成った事を考えると、自分達と同じ出身身分で有る、罪の無い多くの国々の一般人民を、三人の中で一番困窮に追い込んだのは、彼、秀吉と言う事に成る。 また、功臣を粛清しなかった彼が、後に自らの家を、功臣で有る”徳川家康”に滅ぼされてしまう。と言うのも、歴史の因縁を感じずには居られない。 彼の辞世の句『浪速の事も、夢のまた夢。』と言うのが、彼の一生を表す言葉にも聞こえる。 関白 関白、これは日本国に置いて、天皇を補佐する摂関家で有る藤原氏が、平安時代の、天皇が政治的行動を取らなく成った頃に、それに替わり権勢を誇った時代に出来た官位で有るが、その後秀吉が此れに任じられるに及んで、一時期でも絶大な権力を握った事で、後世では寧ろ豊臣秀吉の方が、関白の代名詞と成っているかも知れません。 他にも、亭主関白と言う言葉が有ったり、歌手さだまさし氏の、関白宣言。と言う曲も有る様に、我が国では、関白と言う言葉は、権力や実力の有る偉い人の、代名詞と成って居ます。 そんな、豊臣秀吉も任官した関白と言う位(言葉)も、中国を発祥とする故事から生まれた言葉なのです。 時は、当HP取り扱い時代では少しズレては居るのですが、文章でその人物が出て来るので取り上げます。その故事成語の人物とは、西漢で市井から皇帝に即位し、名君の誉れ高い”宣帝””劉詢”その人です。 彼は何故市井の身から皇帝と言う身分に成ると言う運命を背負ったのかと言えば、事の発端は、彼の曽祖父で有り、西漢の最盛期を実現させた大帝、武帝”劉徹”の時代に遡ります。 武帝には出来た皇太子が居ましたが、宮廷の奸臣との抗争に巻き込まれて、無実の罪により死罪と成りました。これにより皇太子の血を引く以下の皇太孫を含む一族も皆、死を賜る事態と成ってしま居ます。この時、皇太孫にも赤子の劉詢(この時はまだ病己。改名は即位後。)が既に居ました。一族皆殺しの命令でしたが、流石に赤子を殺すには忍びないと言う事で、罪人と共に牢獄に入れ、奴隷に育てさせ、奴隷として生き長らえる事としたのです。 この後、皇太子の無実は晴れ、劉病己も牢獄を出され、町人として過ごす事と成りますが、武帝崩御後は、既定路線の継続を進めさせる為に、人間的に出来た人物と認められ、だが自我の少ない、まだ幼少の”昭帝”が、後継として指名され即位した事により、彼の存在は忘れ去られました。 その後、昭帝も若年で崩じると、皇位継承者選びが進められる事に成るのですが、この時の朝廷の情勢と言うのが、武帝時代に、匈奴討伐の大遠征で活躍した霍去病将軍の弟の霍光を中心とした霍一族が、幼帝だったのを良い事に、権力闘争をして競争者を追い落として行き、彼らに朝廷が牛耳られて居ました。 此処で、昭帝を継ぐ皇帝候補を霍光が選定するのですが、その候補が地方王時代に、既存のブレーンを持って居たり、独自の政治を行う姿勢を見せたりしたので、霍一族の専横を行うには不都合と成り、却下したり粛清していきました。そんな中、市井の民として育った為、強力な後ろ盾も無く、血統としては武帝からの直系に当たると言う事で、病己が白羽の矢が立てられて、劉詢とそれらしく改名して宣帝が即位しました。 初め霍光は忠臣で有る事を示す為に、形として宣帝に大政奉還しようと上奏しました。 しかし市井の民として辛苦を経験した劉詢は用心深く、独自の政治路線を志向すれば廃絶する事を知って居たので、今まで通り霍光に政治を全て委任する旨を表明しました。この時の劉詢が言った言葉が… 『諸事は皆、先に霍光に関り白し(預かり申し)、然る後に奏御する。』 と言いました。 簡単に言えば、臣下からの提案が朝廷に有った場合は、まず霍光にそれを見て貰い、吟味した上で自分の所に持って来て貰い、そこで初めて自分が決裁をする形で良い。と言う物でした。 (ちなみにこの後、霍光が病死すると、劉詢は気付かれぬ様に密かに霍一族の権力を分散させたり削って行き、一族がその事態に気付いてクーデターを起こそうとした所を、一気に一族を滅ぼしてしまい、その後親政して改革をして、王朝の中興を成した。) この事を踏まえ、日本の平安期に、同じく権力を握った藤原一族が、天皇が上奏を御覧の前に、その全てを見ていた事から、この故事を引用し、朝廷の最高権力位に”天皇が関り白す(預かり申す)者”と言う意味で、官職名を”関白”としたのでした。 故事成語ページに戻る |