ちょうほ
張歩


※青州(斉)の地に割拠した群雄。


 姓は張。名は歩。字は文公。生没年は、AC 年〜32年。琅邪は不其の出身の人。
 漢王朝復興の諸勢力が決起すると、それに呼応する様に、張歩も数千人を呼び集めて決起して、周辺近隣に有る複数の県城を攻め降し、自ら五威将軍と名乗り、故郷の琅邪を中心として割拠した。
 この頃には”樊重”が率いる大肜軍。”樊崇”が率いる尤来軍(後の赤眉軍の前身の一派でも有った)。”重異”率いる”大彤”軍(こちらは降伏後、首領の重異を始め、その勢力が張歩軍に組み込まれた様子)等の、十万を越す大軍の農民造反団等も周辺で活動して居たが、彼らとも戦い、大いに此れを破る等の武勇も大変な物だった。
 その後、緑林軍の更始帝が、魏郡の”王閎”に、『張歩を琅邪太守の官職に封する。』と命令する為に遣わして来たが、張歩は更始帝の漢に服属する気はさらさら無く、王閎の入領を拒んだ。
 これに対して報復として、周辺の余剰兵力を集めて王閎が領内に侵攻して来たが、これを見事撃退した。
 そしてこの頃、同時期に近隣に勢力を持って居た、群雄の梁王”劉永”は、自分は更始帝の任命を以って現在の地位に有るのだが、その更始帝の下に付いている。と言う状況に不満を持ち、密かに完全独立を目論んで居た。そこで、東隣の張歩の兵力の精強なのを見て、それと同盟・利用して、独立勢力と成ろうとした。そして、朝廷(更始漢王朝)との間を取り持つと言う事で誼を作った。この執成しに拠り、張歩は輔漢大将軍・忠節侯を拝命し、青・徐の二州を監督して、その中で張歩の命令に従わない者を、征伐出来る権限を得られる為、其の爵位を、今後の勢力拡大の為の大義名分として、遂にこれを受けた。
 これにより、劇の地を、兵力の本拠として集め、共に挙兵に従った弟三人を、それぞれ将軍や太守等に任じて、また周辺各地の太山・東莢・城陽・膠東・北海・濟南・齊の諸郡に配下の将軍を遣わし、皆此れを降した。
 こうして、張歩の勢力は日に日に盛んに成って行ったが、この状況を見た、以前侵攻して討伐を試みた王閎は、状況の好転を図る為に、話し合いで説得して決着を付けようと試み、張歩の方でも、以前彼から受けた理不尽な侵攻に対して、主張する気で居たので、お互いの利害が一致して会談の場を持つ事と成った。
 だが張歩は会談が自領で行うのを利用して、兵に会場を取り囲ませ、半ば脅迫を掛ける様な状況に追い込んだが、それでも臆する事無く、自分に対して筋を通した説得をして来た王閎に対し感じる所が有り、自分の非を認めて謝り、改めて歓迎の宴を持って持て成した。しかも一角の人物と見込んで、彼を自分の領地での参謀的役割を担って貰おうと、以後、自領の琅邪郡内の政治を悉く彼に任せ、掌握させる事とした。
 月日は流れて建武三(AC27)年、この頃には劉秀が更始漢から独立し、河北で勢力を持って居たが、その配下で光祿大夫の”伏隆”が、節を持って使者として齊に遣わされて来た。
 そして伏隆は張歩を拜して、張歩を東莢太守に任命したい。と言う劉秀の意向を伝えた。
 この劉秀が張歩に接触を図ろうとして、伏隆を劇の地に派遣して居ると言う情報を掴んだ、梁王・”劉永”は、それに対抗する様に、張歩を齊王に冊立したい。と言う意向を伝える使者を送って来た。
 そして張歩は両方の条件を比較検討した所、太守と王では、当然、王の方が身分が上と成る為、此処に劉永と結び、王位冊立を受け、齊王を拝命し即位する事にした。これにより反対勢力で有る劉秀の使者、伏隆を、殺してしまった。
 是の時、劉秀は、北方は漁陽の”彭寵”を憂いとして、南方は梁王朝の劉永と淮南王(楚)の”李憲”の征伐の準備に追われていた。故に張歩は齊の地を結集させて、領内の十二余りの郡の統治に専念する事が出来て居たのである。
 そして同盟国の梁の当主、劉永が死んでしまうと言う事態に及ぶと、張歩は劉永の子供の”劉紆”を、新たに盟主そして立て、皇帝に即位させて、自らは定漢公としてこれを補佐し、斉国でも文武百官を置き、国の体裁を取ろうと一時は考えたが、参謀の王閎に大義名分を欠いていると説得されて、この一連の計画を中止させた。
 建武五(AC29)年に成り、劉秀が遂に張歩を攻め様として居る。と言う情報を掴むと、配下の将軍を配して守備軍を駐屯させたが、冬に成って、東漢の”耿弇”に攻められると、次々に軍を破られ、主要都市の臨淄の城まで陥落させられてしまった。
 しかし張歩は、耿弇の軍隊が少数で、遠方よりの遠征の為疲弊して居るのでは?と読み、一気に攻撃を加えれば勝つ事は容易であろうと言う認識で、配下の兵を引き連れて敵が籠もる臨淄城に攻め入ったが、大敗してしまい、そのまま劇の城まで退却する羽目と成った。
 そして遂に、敵本隊の劉秀が自ら軍を率いて劇城へ進軍して来たので、張歩は更に軍を退いて平壽の城に籠もった。そこへ、以前から援軍を要請して居た”蘇茂”が、一万余りの、配下の将兵を引き連れ、救援に馳せ参じて此れを救った。
 蘇茂は張歩の軍中に着陣すると、張歩を詰る様に曰く…「 南陽の兵は天下でも精強な軍として有名で有る。群雄の”延岑”は、その南陽の軍隊を率いて劉秀軍に善戰する程の人物であった。が、今回の斉討伐軍の総大将で有る耿弇は、この延岑を敗走させた程の名将で有ったのに、大王(張歩)は何故この軍に軽軽しく攻撃を仕掛けてしまわれたのか ? しかも、この戦いが始まる前に、既に私に援軍の要請までされて居たでは無いか!!ならば、貴方も彼が強敵だと言う認識を持って居た筈なのに、何故私の援軍の到着まで待たれなかったのか!!?」と…
 これに対し張歩は「そなたの言う通り、私は本当に恥ずかしい… 申し訳無い。もう、そなたに申し開きのし様も御座らぬ 」と自らの失態に悔いた。
 劉秀軍の方でも、張歩軍と蘇茂軍が結んでしまうのは、攻めるに得策とは考えず、二人の仲を裂く一計を案じ、使者を遣わしてこう告げさせた。
 『張歩・蘇茂の両人へ、どちらかがどちらかを斬って、その首を持参して私に降る成らば、その降った者は、今までの所業の罪は問わずに、我が王朝で列侯に封じるで有ろう事を約束しよう 』と、これを知った張歩は、自らの身の安全の為に、遂に蘇茂を斬ってしまった。その首を奉じて使者を立て、全軍をもって漢に降った。
 これにより、張歩の三人の弟達はおのおの任地で獄に繋がれたが、結局、皆赦免された。
 張歩は約束通り列侯として安丘侯に封じられて、その後は一族と共に、都の洛陽で暮らした。
 後日談として、建武八(AC32)年の夏。張歩は妻子を引き連れて洛陽から臨淮へ脱出して、此処で弟の張弘と張藍と共に、旧配下の者達を再び集めて、船に乗って海上に出て再び独立を図ろうとしたが、琅邪太守の”陳俊”に、この動きを察知されて追撃して来た軍に、これらは皆斬られてしまった。
 こうして、群雄張歩の、波乱の一生は閉じたのである。
 彼の一生は、群雄としての終わりの局面で、救援に参じて来てくれた蘇茂を裏切って斬る等、決して英雄然とした物では無いのだが、動乱に乗じて自らも一旗挙げ様として、群雄に伸し上がったり、劣勢で大軍を破ったりと、豪傑では有ると思う。だからこそ王閎の様な人物も、彼と行動を共にしようと思った筈だし、時代の群雄に数えられる存在に成り得たのだと考える。彼に取って不幸だったのは、同時期に劉秀と言う。中国史上指折りの英雄と、同じ時代を生き、天下を巡って争ってしまった事だろう。

故事成語

 無し。
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