|
元朝の11代目にして最後の皇帝。順帝。生没年1220〜70年:8代皇帝・明宗の長子にもかかわらず、生母の身分の低さと派閥抗争のあおりを受け、幼年期を高麗・次いで広西に移されて過ごし、権臣に擁立されていた叔父・文宗、弟・寧宗が相次いで没した為、1333年に文宗皇后より迎えられて即位した。 治世前半は権臣の抗争、親政後は漢人の反抗に苦しむ中で、漢文化尊重の方針を執り、遼・金・宋の国史編纂の完成や、王蒙ら元末四大画家の活躍で元代の文化最盛期を築いた。 トゴン=ティムール自身も、広西で漢文の教育を受けており、書道に秀でて居たという。 治世後半は、黒死病(ペスト)・黄河氾濫等の天災により治安の悪化等に見舞われ、これに対して、現実政治の乱脈から逃避して、ラマ教に溺れ、無為無策だった為、1351年の紅巾の乱を招いた。 中央政府と前線の方針不一致も有って、反乱鎮圧の効果を挙げられないうちに、紅巾側の一部将、”朱元璋”が江南を制圧、彼が起こした北伐軍に対して成す術も無く、1368年に大都を放棄して、上都、次いで応昌府に逃亡、この地で窮死した。 廟号は恵宗とされたが、モンゴルが大都を追われた時点で元朝の滅亡とする明朝側は、「天命に順じた」の意味で、順帝の廟号を送っており、人名事典等では後者の方で表記される事が多くなっている。 亡国の君主の常として、元王朝最長のトゴン=ティムールの治世に対する評価は、ラマ教への極度な傾倒に因る財政の逼迫。皇太子派との対立で国内の勢力が分裂。等に因って厳しい物が有るが、彼の即位前から、権臣抗争で元の政府の乱れは深刻に成って居た所へ、運悪く彼の治世中に起きた天災による、治安悪化が一気に国家崩壊を促した感も有り、一切をトゴン=ティムール個人の資質に帰するのは、やや酷かもしれない。と管理人の個人的評です。 トゴン=ティムール自身は穏便な性格で、漢文化を、度が過ぎる程尊重した。と言う、良くも悪くも、モンゴル人らしからぬ皇帝だったのであり、当時、彼を南宋の皇帝の末裔(落胤)とする俗説は、こうした彼の人成りから派生したと言えよう。 |