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姓は陳。名は友定。字は安國。もう一つの名は有定とも言った。 生没年は、AC 〜 1368年。福建は福清の人。雇農であったが、富農の女婿と成った。 その後商売を始めたが、失敗したので、生活を安定させる為、土地の駅卒と成った。 やがて世の中は紅巾の乱が起こり、1352年(至正12年)には、地元福建にも紅巾軍が侵攻して来た。すると陳友定は、地元の地主が組織した募兵に、志願して民兵と成り、賊軍に対抗、紅巾軍に占領された多くの城を落す等して、戦功を立てた。その後も将として徐々に頭角を現わし、遂に福建行省平章に昇進して、福建八城の守将として、福建に割拠する、全国に多く登場した群雄の一人と成った。 その根拠地は閩江に沿った延平(現在の福建省南平)で有る。しかし群雄として割拠はして居る物の、元王朝には恭順の意を表し、毎年大都へ糧食を送って居た。 その後、1365年(至正15年)頃に成ると、北の位置に割拠する”朱元璋”が領地を広げて来て、婺州を占領すると、遂に国境を接する事と成った。 すると二月に、先制をする様に朱元璋領の処州に侵攻をするが、朱元璋軍の将”胡深”に撃退されてしまった。しかし胡深はこの勝利に気を良くして、逆に、更に陳友定の勢力に打撃を与えようと、反撃を加える為、領内に追撃を仕掛けて来た。 この一連の作戦で、朱元璋も本格的に侵攻する気に成り、江西に駐屯する軍を南下させ、胡深の軍に合流させて、本拠地の延平を陥落させようと考えた。 が、胡深はこの勝利間近な状況に気を逸らせたのか、この部隊の進軍の速さが凄過ぎて、足並みが揃わず合流をし損ねた。 そうこうして居る内に、孤軍のみで陳友定領内に深く入り込み過ぎた。 この動きを見た陳友定は、伏兵をして胡深を大いに破り、彼を捕らえ殺した。 この戦いで、朱元璋は福建平定を挫折し、数年の内は、暫く手が出せないと言う状況に陥らさせた。 そして1368年(洪武元年)、朱元璋は周辺の諸群雄を凡そ平らげたので、再び南征軍を編成し、中書省平章の”胡廷瑞”を征南大将軍とし、江西行省左丞の”何文輝”を副将軍として、これを本隊として歩兵・騎兵を率いさせ、江西・杉関を(江西省黎川)を越えて、福建へ南下して来る。”湯和”・”廖永中”には明州(浙江省寧波)から水軍を用い奇襲部隊として福州を衝かれ、”李文忠”は浦城(浙江省浦城)を経て、建寧(福建省建甌)を撹乱の軍として攻められた。 延平の陳友定は善戦したが、福州、建寧を陥されては流石に孤立無援と成り、延平は包囲され、遂に落城した。 この時陳友定は、僚友、一族と訣別の辞を交わし、服毒自殺を図ったが、死にきれず、捕らえられて応天府(南京)に送られ、実見した朱元璋から、数年前の、部下で有る胡深との戦いで、処州に侵攻して胡深を殺害までした罪を責めたが、これに対し、陳友定は声を張り上げてこう言った。 「国敗れて家が滅びれば、死ねば良いのだ!余計な事は言う必要は無い!!」と。 この返答に因って、陳友定は首を刎ねられる事と成り、その生涯を閉じた。 彼は、最終局面で圧倒的不利な状況で有ったが、それでも対朱元璋戦では、彼も、彼の領民達も含めた部下は、善戦したと思われる。 それは、朱元璋が延平を陥すまで四ヶ月を要し、そして陥落させてから福建全域を平定するのに、更に八ヶ月(合計一年二ヶ月)の年月を擁さなくては成らなかった。 それは、彼がそれだけ領民から支持されて居た領主だったのではないだろうか?と、思いたい気持ちです。 故事成語 無し。 故事成語ページに戻る |