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|千葉宗家|トップページへ|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|東氏歴代当主|下総東氏歴代当主| 海上八郎公胤の嫡子。官途は筑後守。法名は芳桂(『鹿島大禰宜系図』)。 応永23(1416)年2月18日、「平憲胤」と「東左馬助胤家 宏照」が東庄玉子大明神(東大社)の玉体(神像)安置のための宝函と社殿の修理を行っている。憲胤は「沙弥良悦」とともに「結縁衆惣大行事」としてこれらを取り仕切り、神職を差配した様子が伺える。一方、東胤家は「供僧一分阿闍梨源豪」とともに、僧侶や「当政所家吉」などを取り仕切り、「惣庄内郷々助成合力諸人等各々」と政治的な活動が伺える(『飯田家文書』)。 彼のころから鎌倉公方の奉公衆をつとめるようになったようで、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」では上杉氏憲入道禅秀が鎌倉公方・足利持氏を攻めた際には、禅秀に味方して鎌倉米町表に陣取った千葉大介満胤ら八千騎の千葉一族とは袂を分かち、子の海上信濃守頼胤とともに持氏方についた(『鎌倉大草紙』)。
●上杉禅秀方についた千葉一族(『鎌倉大草紙』)
御所が破られ、扇谷弾正少弼氏定が負傷、上杉上野介と疋田右京進らが討死を遂げると、持氏の馬廻の「梶原但馬守、海上筑後守、同信濃守、椎津出羽守、園田四郎、飯田小次郎」以下、三十騎余が化粧坂(気生坂)を上って、ここでもさらに防戦したが、梶原但馬守と椎津出羽守が討死し、「飯田、海上、園田四郎」も負傷して無量寺まで退却したという。このとき持氏は、関東管領・上杉憲基の佐助屋敷に逃れていたが、ここも禅秀方の兵に攻められ、持氏は憲基に守られながら極楽寺口から鎌倉を脱出し、小田原、箱根を経て駿河の今川上総介範政のもとに逃れた。その後、憲胤らがどうなったかは不明だが、持氏の鎌倉奪還後にふたたび奉公衆として活躍をしたのかもしれない。ただ、その後の文書から見ると憲胤の基盤はやはり海上庄周辺だったようである。 応永33(1426)年8月22日、香取郡の大慈恩寺についての鎌倉奉行人「前備中守満康(町野満康か)」の奉書が認められて「海上筑後守」「国分三河守」へ送られた。応永28(1421)年1月7日に起こった大慈恩寺の「回禄(火災)」のために、大慈恩寺に伝わっていた大須賀胤氏入道信蓮以来の寄進状や寺領安堵状など一切が焼失してしまったことにつき、改めて実際に大慈恩寺がこれらの文書の通りの土地を支配しているか、年貢高や安堵状などの有無を調べて起請文に認めて提出すべきことが命じられた。 これ以降、海上筑後守の名は文書から見えなくなる。没年不明。 海上筑後守憲胤の子か。官途は信濃守。「胤栄」との説もあるが疑問。『鎌倉年中行事』によれば、「御所奉行人」八人のうちの一人に「海上信濃守」と記載があることから、彼は鎌倉府の奉行人だったことがわかる。 ●『鎌倉年中行事』御所奉行人数八人
応永23(1416)年12月12日、「上杉禅秀の乱」で海上筑後守・海上信濃守は足利持氏方に味方して敗れた(『鎌倉大草紙』)。この「海上筑後守・同信濃守」はおそらく海上筑後守憲胤・海上信濃守頼胤と思われ、化粧坂に登って禅秀方と交戦。持氏の側近である梶原但馬守・椎津出羽守が討死をとげ、海上氏は負傷して無量寺に退却したという。 永享8(1436)年5月26日、「前信濃守頼胤」は鶴岡八幡宮に「下野国佐野庄内富地郷半分」を武運長久、寿命長延、子孫繁栄、そしておそらく病身だった頼胤の「除病延命」を願い寄進した(『前信濃守頼胤寄進状』)。また、「佐野荘之内」の「藤郷」を「うなかみ寄進」とあるほか(『鶴岡八幡宮神領事』:『鎌倉御所奉行・奉公人に関する考察』湯山学氏)、のちに海上氏の旧領で鎌倉公方・足利成氏が近臣・印東下野守に勲功として与えられた「下野国天命」も佐野庄内であることなどから、海上氏は佐野庄内にいくつか所領を得ていたことがうかがえる。
その後、健康を取り戻したのか、頼胤は「結城合戦」に幕府軍として参戦した。嘉吉元(1441)年4月12日、「海上信濃守」が「結城合戦」に参陣していることが『房総里見誌』の中に見える。結城合戦は、足利持氏の遺児・足利春王丸と安王丸を擁した下総結城城主・結城中務大夫氏朝が幕府勢と戦った戦いである。幕府と対立していた鎌倉公方・足利持氏が上杉氏や幕府軍に敗れて永享11(1439)年2月、鎌倉の永安寺にて自害した。その後、日光山に逃れていた持氏の二人の遺児・足利春王丸と安王丸の兄弟が、持氏の与党だった下総結城城主・結城中務大夫氏朝を頼って結城城に入った。これに各地の持氏党が呼応して合戦となった。 約一年間、幕府の大軍を防ぎ続けてきた結城氏朝、持朝らであったが、嘉吉元(1441)年4月16日、ついに結城城は陥落して氏朝らは討たれた。このとき頼胤らは春王丸、安王丸を「陸奥の方へ落とせばや」と思いつつも、春王丸・安王丸は寄手に捕らえられて、京都に送る途上の美濃国垂井で処刑されてしまった(『千葉実記』)。 この戦いで持氏一党は粛清されてしまうが、持氏の遺児が一人、京都の土岐家に預けられていた。彼は春王丸、安王丸の弟に当たり、永寿王丸といった。父・持氏が自害したときはわずか1歳であり、殺されずに捕らえられて京都に送られ、それから九年間を京都で暮らしていた。そして文安6(1449)年正月に赦され、新たな鎌倉公方として鎌倉へ下り、将軍・足利義成(のち義政)の一字を与えられ て「足利成氏」と名乗った。彼は人生のほとんどを京都の将軍家の傍近くで暮らしていたにもかかわらず、父・持氏から受け継いだ反骨の血は薄まることなく、父の仇である関東管領・上杉憲実の一族を敵視し、享徳3(1454)年、憲実の子で関東管領・上杉憲忠を殺害した。成氏17歳のときであった。 某年9月17日、成氏は「海上信濃入道跡」の下野国天命を近臣・印東下野守に与えている(『足利成氏書状』:「古河市史」所収)。この文書の発給時期は不明だが、頼胤が亡くなったあと、すでに鎌倉公方のもとを離れていた海上氏の他国の所領は闕所として処理され、印東氏へ与えられたのだろう。 頼胤がいつ亡くなったのかは不明だが、文安3(1446)年、円福寺に奉納された銅筒の銘に「大旦那海上殿」として「平胤栄」「胤義」「隆近」「胤春」「龍女」とあり、彼らが頼胤の子だとすると、このころには亡くなっていたのだろう。 「胤義」については、応永23(1416)年4月18日に、頼胤の父・海上筑後守憲胤が東大社神殿を新築した際にともに加わった「東左馬助胤家」の婿養子「東左馬助胤義(原氏の出身と伝える『続群書類従』)」のことか。海上筑後守家と東氏(のちの鹿島社禰宜家の東氏)との関わりは、大永6(1526)年の「常燈寺棟札」にある「海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」を見ても親密であったことがうかがえる。「胤春」については不明。
海上家当主。父は海上芳桂か。官途名は筑後守? 法名は芳翁(『続群書類従所収』)、性宗(『千学集抜粋』)。父母ともに不明だが『鹿島大禰宜系図』(『続群書類従所収』)によれば憲胤の跡を継いだ人物として「筑後守 法名芳翁、七十人力、祖父憲胤跡相続、芳桂子」とあり、海上信濃守頼胤の子で、祖父の海上筑後守憲胤の跡を継いだ人物とも思われるが、詳細は不明。本庄伊賀守胤定は彼の子か?(『千学集抜粋』) 文安3(1446)年、円福寺に奉納された銅筒の銘に「大旦那海上殿」として「平胤栄」「胤義」「隆近」「胤春」「龍女」とある。「胤栄」はおそらく海上胤栄と思われるが系譜上での位置づけは伝わらない。「胤春」についても不明だが、「胤義」については、応永23(1416)年4月18日に祖父・海上筑後守憲胤が東大社神殿を新築した際にともに加わっていた「東左馬助胤家」の婿養子「東左馬助胤義」のことか(『鹿島大禰宜系図』)。海上筑後守家と東氏(のちの鹿島社禰宜家の東氏)との関わりは、大永6(1526)年の「常燈寺棟札」にある「海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」を見ても親密であったことがうかがえる。 海上家当主。父母ともに不明。官途は備中守。法名は桃陰(『鹿島大禰宜系図』)。下総国飯沼城主。『鹿島大禰宜系図』(『続群書類従所収』)によれば「芳翁一男、備中守」とあり、文安3(1446)年に海上山円福寺に銅筒を奉納した「海上殿平胤栄」の子? 鎌倉西御門に屋敷があったとも伝えられており、家老として榎戸太郎左衛門、木内刑部胤宗がいたという(『大武鑑』)。西御門屋敷はすでに廃寺となってしまったが太平寺という千葉氏ゆかりの尼寺に接し、八雲神社が鎮座するという(『中島城主海上筑後守胤秀公に纏わる系譜』阿部明氏)。
文明11(1479)年正月18日、武蔵国の上杉家家宰・太田道灌は、古河公方・足利成氏と結んで上杉家と戦っていた下総最大の敵対勢力・千葉介孝胤を追討するべく、孝胤と対立する武蔵石浜城主・千葉介自胤(武蔵千葉氏)と弟・太田図書助資忠を下総国に攻め込ませた。太田勢は迎え撃った千葉介孝胤の軍勢を相馬郡境根(柏市酒井根)で破り、原氏・木内氏といった千葉家臣を多数討ち取った。
千葉介孝胤は本拠地・本佐倉城(印旛郡酒々井町)の前衛である臼井城(佐倉市臼井田)まで逃れたが、千葉介自胤・太田資忠の軍勢が臼井城を包囲し、長期戦となった。しかし、この臼井城は堅城のうえに名将として知られた臼井俊胤が守っていてなかなか落とせず、道灌は弟・資忠を臼井城攻めの大将とし、千葉介自胤には上総国真理谷・長南を攻めさせ、7月5日、上総武田氏を降伏させた。その後、自胤はさらに下総国飯沼まで攻めのぼり、城主・海上師胤を降伏させたという(『千葉伝考記』『鎌倉大草紙』)。
しかし、この伝承は時間的に無理であることのほか、『鎌倉大草紙』の作者が参考にしたであろう『太田道灌状』の記述には、自胤が上総武田氏・海上備中守を「降伏させた」とは一言も述べられていない。かえって自胤は臼井城下に長滞陣していて、寄手の中から帰国してしまう者が出始め、自胤は彼らに陣へ戻るよう説得したものの失敗し、大将の太田資忠をはじめ、多数の戦死者を出して、自胤は武蔵へ帰国することになったと記されている。 こののち、敗退したはずの千葉介自胤のもとに「海上備中守」「武田上総介(信隆か)」「武田参河入道(信興入道道鑑)」らが帰服した。海上備中守がなぜ自胤に通じたかは不明。武田参河入道は子息・式部丞(信嗣?)を国元に残してみずからは自胤とともに武蔵国へと赴いた。『鎌倉大草紙』の作者はこの部分の記述を誤解して記述したものだろう。武蔵石浜へ移った武田三河守信興入道は金龍山浅草寺を再建(『後土御門天皇綸旨』)し、その後ふたたび上総長南城に戻った。 時期は不明だが、「海上桃陰」の子「宮寿丸」が殺害され弟の胤貞(正翁)が跡を継いだという(『鹿島大禰宜系図』)。師胤の没年は不明。
海上筑後守芳翁(海上殿胤栄のことか?)の次男。法名は正翁。弟に又六(引摂寺主僧・憲通律師)という男子がいた。妹(寶壽院住尼僧)は「小見河江」とあることから、小見川粟飯原氏に嫁いだと思われる(『鹿島大禰宜系図』)。 越中国の曹洞宗寺院・光厳寺の住持だった東海宗洋和尚は、「壬子春」すなわち明応元(1492)年の春に「平胤貞公高館」に数日逗留したことが『光厳東海和尚録』(『富山県史』史料編中世所収)に記載されている。 ●『光厳東海和尚録』(『富山県史』史料編中世所収)
ここで「海上再敲平氏家」とあることから、東海和尚は胤貞の屋敷に何度か訪れていた様子が伺える。 また、長享2(1488)年5月には、上野国新田郡の金山城主だった横瀬信濃守国繁が六十四歳で亡くなったことに対して、哀悼の文を作っている。横瀬国繁は太田道灌とも交流を持った歌人で、飯尾宗祇や猪苗代兼載が編纂した『新撰菟玖波集』にも連歌が載せられている人物であり、東海和尚は国繁と文化的な交流をしていたのだろう。 その四年後、明応元(1492)年には下総国の海上胤貞の屋敷を訪れ、さらに「丙辰夏孟之上澣」つまり、胤貞の屋敷を訪れた四年後の明応5(1496)年4月上旬には常陸国の「源持知(茂木筑後守持知)」の館を訪ねている。また年代は不明だが、武蔵国行田城主だった故・成田顕泰(宗成居士)との交流もうかがえる。成田顕泰は足利政知から越中国富山に所領を賜り、東海和尚が住持を務める光厳寺の開基となった(『光厳東海和尚録』)。 海上筑後守芳翁(海上殿胤栄のことか?)の四男。官途名は前和泉守。姉に寶壽院住尼僧、兄に師胤、胤貞、憲通律師がいた(『鹿島大禰宜系図』)。 明応9(1500)年6月28日、三崎庄堀内枝岡野台村(銚子市岡野台)の堀内妙見社の再興を行った人物として「大檀那前和泉守助秀」が見える。 「父子三人米井ヲイテ打死」とあり、子の孝秀、忠秀とともに米野井で討死したと思われる。 ●明応9(1500)年6月28日『堀内妙見造営棟札』(『澤井家文書』:海上町史史料篇 所収)
海上和泉守助秀の長男。通称は不明。弟に海上忠秀がいた(『鹿島大禰宜系図』)。通称は藤七郎か(『堀内妙見造営棟札』)? 彼は海上氏の家督を継ぐ前に父・助秀、弟の忠秀とともに米野井城の戦いで討死した。 海上孝秀の子。官途名は筑後守。 父の孝秀、祖父・海上和泉守助秀らが米野井城で討死したため、祖父・助秀の海上家家督を直に相続した(『鹿島大禰宜系図』)。大永3(1523)年1月14日、「筑後守持秀」が飯沼山圓福寺に寄進した(『筑後守持秀文書』)。 大永5(1525)年10月には「宮内新四郎」の元服についての文書を発給している「宗秀」という人物があるが(『猿田神社史料集』)、「宗秀(1525)」=「蔵人佑■秀(1526)」=「海上蔵人尉宗秀(1541)」か。宗秀の系譜上での位置づけは不明だが、持秀の一族か。 大永6(1526)年11月8日の『常燈寺棟札』の中に、「大檀那前筑後守持秀」「蔵人佑■秀」という名が見える。また、11月20日の常燈寺の棟札にも「大檀那海上殿平持秀」「東殿勝繁」「宮内少輔久繁」との名がある。 天文4(1535)年1月13日、「筑後守持秀」は圓福寺の別当職・弘恵僧都へ宛てて、寺領の境や諸公事などにつき「前代之掟」を守ることを指示している(『筑後守持秀文書』)。 天文10(1541)年2月1日の三崎庄海上堀内妙見の再興に際しての棟札に、大檀那として「前筑後守持秀」が見え、「奥方子息二男」と「家臣四人」が馬を奉納している(『筑後守持秀棟札』)。続いて3月21日に奉納した棟札にも「平藤七郎秀親」「次男八郎」「大檀那前筑後守持秀」「東常陸守勝察(勝繁か)」「海上蔵人尉宗秀」「海上大炊頭信秀」と見える(『筑後守持秀棟札』)。 「平藤七郎秀親」「次男八郎」は、2月1日棟札の「子息二男」に相当する人物か。系譜では持秀には「持繁」という子がいる(『鹿島大禰宜系図』)が、彼らのどちらかに当たるのかもしれない。「平藤七郎」については、この棟札の四十年ほど前の明応9(1500)年6月28日に、海上助秀が妙見社に奉納した棟札にも「平藤七」が見えるが(『堀内妙見造営棟札』)、世代的には一、二世代の開きがあると思われる。一方、弘治4(1558)年6月17日、常陸国鹿島の根本寺に寺領を寄進した「海上藤七郎治繁」という人物がいるが(『根本寺文書』)、海上藤七郎秀親との関係は不明。 東勝繁は大永6(1526)年の常燈寺の棟札にも持秀とともに名を見せる人物であるが、勝繁の父・東六郎胤重が飯田城(小見川町岡飯田)を出奔したのち、持秀の大叔父に当たる引摂寺憲通律師が東氏の系図を預かり、胤重出奔から十四年後、勝繁が成長すると東氏の系譜を彼に相続した経緯がある。海上家と東家は深い繋がりを持ち続けていた。宗秀、信秀の系譜上の位置づけは不明。 天文11(1542)年3月7日、圓福寺へ寄進した土地の細かい坪書を圓福寺へしたためている(『持秀寄進状』)。こののち持秀の名は文書から見えなくなる。 ●大永3(1523)年1月14日『筑後守持秀文書』(『円福寺文書』)
●天文4(1535)年1月13日『筑後守持秀文書』(『円福寺文書』)
●天文10(1541)年2月1日『前筑後守持秀棟札』(『澤井家文書』:『猿田神社史料集』)
●天文10(1541)年3月21日『前筑後守持秀棟札』(『下総旧事考』:『猿田神社史料集』)
●天文11(1542)年3月7日『持秀寄進状』(『円福寺文書』)
海上筑後守持秀の子。官途名は筑後守。内室は妙孝禅尼。中島城主。 天正12(1584)年3月5日に亡くなったとされる(『向後家位牌銘』)。 一方、弘治4(1558)年6月17日、「海上藤七郎治繁」が常陸国の根本寺に対して土地を寄進しているが、この治繁がいかなる人物かは不明。 海上筑後守胤秀の長男。通称は重朗。官途名は筑後守。 元亀3(1572)年、正恒は三方ガ原の戦いに武田方として参戦した。しかし、天正元(1573)年3月、武田勝頼が天目山の戦いに自刃して果てると下総国に帰国したという(『小長谷家文書』)。 永禄中と思われる5月17日、「海上中務少輔」「石毛大和守」の両名へ宛てて、長尾景虎が上田庄塩沢に出陣したものの、越後国に不穏の動きのために引き返して行ったことを伝えてる書状が発給されている(『原文書』)。さらに永禄8(1565)年5月1日の同文書にも「海上中務少輔」の名をうかがうことができる。この「中務少輔」が正恒のことなのか、「蔵人胤保」のことなのかは不明。 天正6(1578)年7月14日に亡くなった。法名は浄照院常光。 海上筑後守胤秀の子(養嗣子か?)。幼名は千葉熊代丸か。通称は蔵人、山城守。中島海上氏最後の当主。 千葉介胤富は、かつて「海上九郎」を称して海上氏を継ぎ、森山城主として東総の守りについていた。しかし、弘治3(1557)年8月7日、にわかに弟の千葉新介親胤が暗殺されたことから、急遽、千葉家の家督を継ぐこととなった。おそらくこのとき、海上氏の家督として「千葉熊代丸」を望む旨を古河公方・足利義氏に伝えており、某年8月22日、胤富からの願いに対して足利義氏から「千葉熊代丸殿」へ宛てた書状が遣わされた(『足利義氏書状』)。足利義氏が古河公方であった期間は弘治元(1555)年~天正10(1582)年であり、この間の発給文書となるが、おそらく胤富が千葉宗家を継いだことにより、海上氏の家督を定める必要があったと思われる。 天正7(1579)年正月9日、千葉介邦胤より「山城守」の受領名を与えられた(『千葉介邦胤官途状』)。 年月未詳4日、大須賀孫次郎(と思われる)が千葉介邦胤に勘気を蒙っていたことに対して、「大右馬助殿(大須賀右馬助殿)」へ宛てて、「屋形様が孫次郎に腹を立てておられたのは、やむをえないと思われ、そのことに付き、原若狭守・海保丹波守へも断ってあるので、こうなってしまったからには、互いによく御談合され、屋形様の御意に背かぬよう、ひとえにお願い申し上げる」という文書を発給している(『海上胤保書状』)。ここに見える「孫次郎」は、天正15(1587)年12月28日に北条氏政より大須賀尾張守へ発給した文書に見える「御息孫二郎殿」と同一人物か? 天正15(1587)年12月12日『北条氏政書状写』や天正15(1587)年12月28日『北条氏政書状』によれば、森山衆は豊臣勢から攻撃に備えて、氏政の命を受けて小田原への参陣を命じられ、その際に森山表の兵力が損なわれるため、老練の原若狭守親幹に命じて海上山城守とよく相談して守備するように命じている。 天正17(1589)年(己丑)8月24日、北条氏政から原若狭守親幹に宛てた『北条氏政書状』によると、木が必要な際は小田原まで許可を取るよう命じ、さらに徴収した年貢米についても、使用の際には小田原へ許可を取り、印判の書状を用いるよう命じている。 天正18(1590)年の小田原合戦では小田原城に森山衆を率いて入城した「海上山城守」が見えることから(『大須賀家系図』)、海上山城守は小田原の役で活躍したのかもしれない。しかし、本拠地であった森山城は徳川勢によって落城。その後の山城守の動向は不明。一説によれば胤保は天正16(1588)年3月5日に亡くなったともいわれている(『飯田家蔵過去帳』)。 海上家の居城であった中島城は昭和51年ごろから土砂採掘によって破壊が始まり、平成2年には大手門跡の土塁や枡形虎口の跡も破壊されてしまっている。
●某年9月23日『千葉介胤富書状』(『原文書』)
●某年9月23日『千葉介胤富書状』(『原文書』)
●某年10月2日『千葉介胤富書状』(『原文書』)
●天正3年(?)7月17日『千葉介胤富判物』(『原文書』:『千葉県史料』)
●天正7(1579)年正月9日『千葉介邦胤官途状』(東京都立中央図書館蔵『下総崎房秋葉孫兵衛旧蔵模写文書集』)
●天正15(1587)年12月12日『北条氏政書状写』(『下総旧事八』)
●天正15(1587)年12月28日『北条氏政書状』(『原文書』千葉市立郷土博物館所蔵)
●天正17(1589)年8月24日『北条氏政書状』(『原文書』千葉市立郷土博物館所蔵)
海上筑後守胤秀の養子。父は千葉介邦胤。母は北条氏政娘。通称は加曾利権介。 千葉の東隣、加曾利郷に育ち、加曾利権介と称したという。その後、石毛加賀守助朝の二男・石毛東兵衛常行を連れて海上郡三崎庄吉野里(倉橋村)へ移り、石毛常行は胤衡によく忠節を尽くしたという。 胤衡の嫡子(実は養子)の石毛工馬胤人は元和5(1619)年正月に亡くなってしまったため、二男の神左衛門胤兼が継いだ。三男・左金吾信胤はのちに出家して吉野山宝寿院の中興開山となり覚性阿闍梨となった。覚性阿闍梨は延宝3(1675)年に亡くなった。 胤衡の子孫は倉橋村(海上郡海上町倉橋)に住み、倉橋千葉家として現在に至っている。
◆弘治年以来の海上氏関係◆
→千葉介常胤-東胤頼―重胤――――+―海上胤方―+―阿玉胤景―+―海上教胤
―旗本海上氏略系図―
→海上胤保==良胤============胤房――――――胤貞――――通胤
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