
(????-1525)
郡上東氏十一代。父は八代・東下野守常縁。母は不明。官位は従五位下。官途は左近将監・下野守。号は素安。・・・【当主の時系列】。
■東氏想像系図■
東益之―+―氏数――――――元胤――――+―氏胤
(下野守)|(下総守) (三郎) |(宮内少輔)
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| +―尚胤――――素山
| (下総守) (寿昌院)
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| +―頼数 +―常慶――――常堯
| |(左近将監) |(下野守) (七郎)
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+―常縁――――+―常和――――+―素経
|(下野守) |(下野守) (最勝院)
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+―正宗龍統 +―胤氏
(建仁寺住持)|(最勝院素純)
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+―常庵龍崇
(建仁寺住持)
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| 五條天神(上野不忍池前) |
文明16(1484)年3月、父・常縁が亡くなり、兄・東左近将監縁数が家督を継いだ。常和がこのころどこにいたのかは不明だが、のち三条西実隆と交流していることからも、京都にいたのかもしれない。一説には下総国香取郡東庄森山城に入ったとされるが、実際に常和が下総にいた形跡はない。
文明19(1487)年2月当時、常和は相模国芦名(横須賀市芦名)にいた(『北国紀行』)。同地は父・常縁の門人と伝わる三浦陸奥守義同入道道寸の支配領域である(『東家二条家古今伝授之系図』)。父・常縁は堀越公方・足利政知に付いて三嶋に在陣していたことと同様に、常和も関東に下向していたと思われる。
常和は文明19(1487)年2月から5月末までの約三か月間、堯恵(常縁同門)から古今伝受された(『北国紀行』)。堯恵は文明17(1485)年秋から、常縁の子たちに古今伝授するための旅に出ておりこの旅を記した紀行文が『北国紀行』である。京都を発った堯恵は、まず美濃国郡上にいた常和の兄・頼数を訪れて古今伝授し、翌文明18(1486)年5月に美濃を発って東国の常和のもとへ向かった。
長享元(1487)年正月末、堯恵は武蔵野台地の東端・忍岡(台東区上野)に到着し、五條天神を訪れた。現在、五條天神は不忍池のほとりに建っており、上野公園からは花園稲荷を通って境内に入ることができる。もともと五條天神は現在のアメ横入口付近にあったが、関東大震災ののちに現在地に遷座された。その後、湯島を通り、2月初めに武蔵鳥越を訪れ、2月20日、相模鎌倉に到着。そして三浦の芦名(横須賀市芦名)の磯辺で堯恵を待っていた常和と対面した。
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| 光明寺から伊豆と富士を望む |
3月半ば、常和は堯恵を誘って三浦のあたりを舟で遊覧しながら鎌倉を訪れ、建長寺と円覚寺を参詣したのち、桜の花びらで埋まった雪ノ下の苔路を散策し、日が暮れてきたので皆瀬川のほとりの宿で雨をしのいだ。翌日には江ノ島へ詣で、島の西に渚の方まで下り、岩屋の中の垂迹功徳天に詣でて舟で三浦へともどることとなった。
しかし、夕暮れ時になって嵐となり、舟も舷を大波に叩かれ、荒波にもまれてしまったため、光明寺の渚に避難して、その夜も鎌倉で過ごすことになった。結局、一晩中の嵐となった。
翌日、常和と堯恵は鎌倉五山の名刹として知られていた浄妙寺を参詣したが、昔日の面影はなく、境内は荒れて春草におおわれ、堂宇も苔むして朽ち果てていた。この堂宇の中のから白い眉の老人が現れて、常和、堯恵に寺の社祠や伝承について語った。そののち極楽寺を参詣して三浦へと舟を出した。はるか彼方に大島をのぞむ船路だった。
■『北国紀行』
常和が相模国葦名(横須賀市芦名)にいた文明19(1487)年、美濃国郡上では従兄にあたる東三郎元胤(東下総三郎元胤)が継いでいた。同年12月14日『蔭涼軒日録』の記述によれば、建仁寺霊泉院先住の正宗龍統が相国寺鹿苑院蔭涼軒の亀泉集證を訪ねて、「美濃国下田郷(郡上市美並町)」の代官職の事について話しているが(長享元(1487)年12月14日『蔭涼軒日録』)、この下田郷は「我俗姪東之三郎本領相隣」とある。この「我俗姪東之三郎」が元胤と思われるが、元胤は宝徳元(1449)年8月28日に八代将軍・足利義成(のち義政)の初参内に随った帯刀に選ばれており(『經覺私要鈔』)、文明19(1487)年当時ではすでに六十歳に近い高齢であったことになる。
元胤はその後「中務」を称したと思われ、二年後の長享3(1489)年10月26日、正宗は亀泉と清水寺にて茶話しているが、このとき正宗は「濃州知行」の「我俗姪東中務」が「国方(守護・土岐勢か)」から攻められて「生害」に及んだか、と話している(『蔭涼軒日録』延徳元(1489)年10月26日条)が、この「我俗姪東中務」は時期的に元胤のことと思われる。
しかし、それから二年後の延徳3(1491)年8月6月、「東中務」が京都四条道場=金蓮寺か=前(京都市下京区奈良物町か)で被官の遠藤但馬守以下四名を討っており(『蔭涼軒日録』)、元胤は土岐氏との戦いで生き延びていたことがうかがえる。ただ、これ以降「東中務」の名は史書に見えなくなる。
一方、長享3(1489)年正月15日、「東将監」が三条西実隆の邸を訪ねており(『実隆公記』)、おそらくこの「東将監」が常和だろう。
延徳3(1491)年以降、元胤は亡くなったのだろう。東氏の系譜に拠れば明応4(1495)年5月9日に亡くなったとされる。その後は常和が家督を継いだと思われる。
文亀元(1501)年7月11日、「東左近大夫常和」は元胤の子・氏胤へ「切帋(切紙)」によって古今伝授していることが『京大本古今集』の奥書「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」よりうかがえる。郡上ではこのころ常和の子・常慶が生まれていると推測される。常和は郡上、京都、相模を行き来していたのかもしれない。
永正5(1508)年3月、相模国から上洛し、11日、上冷泉為広(民部卿)を通じて三条西実隆を訪ねた。この当時も相模国芦名に居を構えていたことがうかがえる。おそらく、相模国では父の門人・三浦陸奥入道道寸と行動をともにし、軍事的には小田原城の伊勢新九郎入道宗瑞(北条早雲)と戦っていたのだろう。三条西邸では実隆と対面の上、盃を賜り、「嚢祖事」について談じた。「嚢祖」とは胤行入道素暹または常縁のことだろう。父・常縁と同様に関東鎮撫のために下向していたと推測される。
4月30日、常和はふたたび三条西邸を訪問し、百首詠草の添削を依頼した。実隆はそれに合点して奥書を付けて返却している。常和は明後日に下向することを告げており、相国に下向したようだ。
しかし、5月2日は雨だったため下向を延期した。常和は実隆邸を訪れ、出立を延期したことを告げた。実隆は酒席を設けて別れを惜しみ詠草を遣わしている。翌々日の午後に雨は止み、常和は相模に下ったと思われる。以降、常和は郡上にあまり戻ることがなくなったようだ。
常和が下国した当時、相模国では伊勢宗瑞と三浦道寸の間で対立が激しくなっており、永正7(1510)年7月、三浦道寸は伊勢宗瑞方の権現山城を攻め落とすなど、相模国の勢力を拡大した。しかし、伊勢氏側は着実に勢力を固めて三浦勢の疲弊を待つ作戦を取り、永正9(1512)年8月、相模国府中に近い岡崎城が伊勢勢によって陥落。三浦陸奥入道道寸と嫡子・三浦荒次郎義意は三浦半島先端の新井城に籠城して抵抗したが、永正13(1516)年7月11日、城は落ち、三浦入道道寸は自害し、三浦荒次郎義意は討死を遂げた。
永正14(1517)年10月、実隆は「東下野守常和」と歌の贈答をしている(『実隆公記』)ので、三浦入道道寸の滅亡とともに討死は免れたようであるが、三浦氏のもとにあった常和は芦名にいることはできなかったと思われ、かつて父・常縁が下総国で救った千葉介自胤(千葉介胤直の甥)の嫡男・千葉介守胤を頼って武蔵国石浜へ移ったと思われる。
永正16(1519)年9月2日、「千葉介守胤」「同妻」の百首歌合点の依頼と常和の書状が三条西実隆のもとへもたらされた(『再章草』)、このころ常和が武蔵千葉氏の当主・千葉介守胤のもとにあって、守胤とその妻を三条西実隆と結びつけることとなったようである。
○『再昌草』永正16(1519)年9月2日条
武蔵千葉氏と東氏の関係は、守胤の父・千葉介自胤と東常縁がともに下総千葉氏と戦ったころから始まっており、千葉介守胤の伯父・千葉七郎実胤は戦の世に倦み、突然隠居をして美濃へ下って亡くなった。おそらく東氏を頼ったのだろう。
●下総千葉氏、武蔵千葉氏の関係
千葉介氏胤―+―満胤―――+―兼胤―――+―胤直―――+―胤将
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉介) |(千葉新介)
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| | | +―胤宣
| | | (千葉介)
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| | +―胤賢―――+―実胤
| | (中務大輔)|(七郎)
| | |
| +―馬加康胤―+―胤持 +―千葉介自胤―――千葉介守胤
| (陸奥守) | (千葉介) (千葉介)
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| +―女 +―千葉介勝胤――千葉介昌胤
| |(千葉介) (千葉介)
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| +―成戸胤家
| |(成戸殿)
| |
+―馬場重胤―――胤依―――+―金山殿 +―千葉介孝胤―+―少納言殿―――物井右馬助
(八郎) | |(千葉介) (物井殿)
| |
+―公津殿 +―成身院源道―+―光言院源秀
| |(菊間御坊) |
| | |
+―岩橋輔胤―+―椎崎胤次 +―天生院源長
(岩橋殿) (入道道甫)
永正17(1520)年8月4日、建仁寺知足院住持・常庵龍崇(常和弟)が関東からの書状を実隆の館にもたらした。常和が千葉介守胤妻の歌とともに送った書状であろう。9月3日、実隆はこの8月4日の手紙の返事「関東返事東下野守」をしたため、百人一首の歌とともに常庵龍崇へ遣わした。手紙は常庵龍崇から常和のもとに送られたと思われる。
大永3(1523)年9月、武蔵国淵江から「東下総守胤?」なる人物から三条西実隆のもとへ和歌が遣わされた。同時代、東氏の系譜上で見える「下総守」で「胤」のつく人物は「東下総守尚胤」であり、尚胤は常和とともに武蔵国石浜の千葉介守胤のもとにあり、石浜の川を挟んだ北部・淵江村(足立区保木間二丁目)に住んでいたのだろう。三条西実隆は12月10日、歌を返したが、これに対して「求浄斎素安」なる人物から歌が届けられた。この「求浄斎素安」は常和であると思われ、この頃出家し(袖にやつし)たのだろう。
○『再昌草』大永3(1523)年12月10日条詞書
大永5(1525)年9月6日、常庵龍崇が三条西実隆を訪れて、「東下野守」が逝去したことを伝えており、常和はこのころ亡くなったのだろう。
○『実隆公記』大永5(1525)年9月6日条
ただし、常和は天文2(1533)年5月上旬、常縁の家集『常縁集』に付属する形で、東氏歴代が代々歌ってきた和歌を『東家代々首』として編纂し奥書を残した、とされるものが下総の東氏に伝わっているが、このときすでに常和は没していると思われるので矛盾がある。
○『東家代々首』奥書
「二条家冷泉家両家相伝次第」によれば、常和は歌人として著名な木戸三河守孝範の子と思われる「範実」を弟子としている。この相伝次第の系譜から、常和と木戸孝範の娘が結婚して、木戸範実(正吉)が生まれて木戸家を継承したとする説があるが、この『相伝次第』は、あくまで二条為家以来のしきたりを重んじる「二条家」と自由な歌風で革新的な「冷泉家」という、鎌倉時代以来対立してきた二つの流派がひとつになった「歌道の系譜」であって、実際の親子関係を示しているわけではない。従って、正吉は常和の子ではない。
この歌道系譜からうかがえることは、まず正吉は「常和弟子」であり、二条流の歌道を継承したと考えられる。また、「正吉母」は、木戸三河守孝範の妻と思われるが、孝範から冷泉流の歌道を継承したのだろう。つまり木戸正吉は母から冷泉家の家伝を学び、二条流の東下野守常和の弟子となって二条流を修めたということになる。
●『二条家冷泉家両家相伝次第』(『中世歌壇史の研究』所収)
小野宮大納言能実
九代孫 法名素安
堯孝――――――――常縁―――――――常和―――+ 俗名大膳大夫範実
法名素伝 | 木戸
東下野守 +――正吉――――――――――…
| 常和弟子
大納言 従五位上参河守 |
号下冷泉 木戸 正吉母 |
持為――――――――孝範―――――――女――――+
持為弟子
●木戸家略系図
新田氏?―木戸貞範―□□―範懐――孝範―――範実―――+―広田直繁――為繁――――直範
(小府)(三河守)(大膳大夫)|(式部) (左衛門佐)
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+―忠朝――+―重朝
(伊豆守)|(右衛門大夫)
|
+―範秀
(和泉守)
系譜の一つに、東常和の孫に、東六郎幸澄(東六郎兵衛行澄)を載せるものがある。幸澄は明智光秀に仕え、光秀が「本能寺の変」の直前に京都愛宕山で里村紹巴らと詠んだ連歌、所謂「愛宕百韻」に一首見える。
幸澄は天正10(1582)年6月13日、羽柴秀吉との山崎の合戦で四十九歳にて戦死したとも、光秀の命によって戦場を離れ、剃髪して「素縁」と号し、光秀の後生を弔ったとも伝わる(『東家系図』東京大学史料編纂所所収)。
ただし、この系譜は常和を「東太郎 修理亮 法名素円」とし、その子に「常澄 東下野守 法名素純」とあるため、信憑性は疑問。
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| 元号 | 月日 | 名前 | 事柄 | 出典 |
| 宝徳3(1451)年 | 2月18日 | 元胤 | ・・・二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世、元胤同道申て、罷て一座・・・ ・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・ |
『東野州聞書』 |
| 〜17年〜 | ||||
| 応仁2(1468)年 | 11月〜12月 | 平縁数 | 足利義視が義政と不和になって坂本へ落ちた際、剃髪して詠んだ歌の署名。 | 『東家大々集』 |
| 応仁3(1469)年 | 4月 | 東縁数 | 下総の父・東常縁のもとへ駆けつける。 | 『鎌倉大草子』 |
| 応仁4(1470)年 | 4月21日 | 東縁数 | 「下総の国には子息縁数をとヾめ、四月廿一日東野州は上洛して・・・」 | 『鎌倉大草子』 |
| 〜15年〜 | ||||
| 文明17(1485)年 | 6月17日 | 右近将監平頼数 | 東家伝来の藤原俊成女筆『古今和歌集』を「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進。 | 『長瀧寺文書』 |
| 文明17(1485)年 | 秋〜5月 | 平頼数 | 「みのの国平頼数しる所の山亭」に常縁同門の常光院堯恵が訪れ、堯恵に古今伝授を受ける。 | 『北国紀行』 |
| 文明18(1486)年 | 2月〜5月 | 平常和 | 堯恵、相模国芦名の平常和(東下野守常縁二男)と出逢い、古今伝授を始める。 | 『北国紀行』 |
| 〃 | 2月19日 | 東左近将監頼数 | 年始御礼として「東山様」に太刀と馬一匹を送る。 | 『親郷日記』 |
| 〃 | 9月12日 | 東三郎 | 足利義尚の近江出陣に供奉。(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』) | |
| 長享元(1487)年 | 12月14日 | 東之三郎 | 正宗龍統が蔭涼軒に語った言葉の中に、「美濃国下田郷之事、我俗姪東之三郎本領相隣」 | 『蔭涼軒日録』 |
| 長享3(1489)年 | 正月15日 | 東将監 | 三条西実隆を訪問。この「東将監」は「東左近大夫常和」か。 | 『実隆公記』 |
| 〃 | 10月26日 | 東中務 | 正宗龍統が蔭涼軒と語った中に、「我俗姪東中務在濃州知行、自国方攻之、終可及生害乎」 | 『蔭涼軒日録』 |
| 延徳3(1491)年 | 8月6日 | 東中務 | 「東中務被官遠藤但馬守、同名者二人、厩者一人、以上四員、於四条道場前白日討之、蓋以中務命也」 | 『蔭涼軒日録』 |
| 〜10年〜 | ||||
| 文亀元(1501)年 | 7月11日 | 東左近大夫常和 氏胤 |
「東左近大夫常和」から「文亀元年七月十一日代々相伝一流悉以氏胤令伝授同授切帋畢」 | 『京大本古今集』 |
| 永正3(1506)年 | 2月 | 東下総守尚胤 | 「長空慈永大姉卒於栗城北萱之堂、転盻問生七云臨、孝子総州刺史平公尚胤虔就墳院…」 | 『祭慈永大姉文』 |
| 永正5(1508)年 | 3月11日 | 東下野守常和 | 「東下野守常和自相模国上洛、以民部卿挙達来携一桶、対面賜盃、談曩祖事等…」 | 『実隆公記』 |
| 〃 | 4月30日 | 東下野守常和 | 「東下野守平常和、百首歌みせ侍し、合点して返しつかはす奥に書付侍し」 「東下野守平常和来、明後日可下向云々、短冊所望、予書遣之由報了、百首合点遣之…」 |
『再昌草』 『実隆公記』 |
| 〃 | 5月2日 | 東下野守常和 | 「東下野守常和来、勧一盞、遣愚詠、今日可下向之所より」 | 『実隆公記』 |
| 〃 | 7月27日 | 東宮内少輔氏胤 | 三条西実隆の邸にて行われた宗祇七回忌の追善和歌披講の最終日に実隆邸を初訪問。 | 『実隆公記』 |
| 〃 | 8月3日 | 東宮内少輔 | 実隆邸を訪れて「新古今真名序授之了」 | 『実隆公記』 |
| 永正6(1509)年 | 2月29日 | 東宮内少輔師胤 | 師胤から贈られた梅の花と歌一首が三条西家へ届けられる。 | 『再昌草』 |
| 〃 | 3月8日 | 東宮内少輔師胤 | 三条西実隆から師胤に歌が届けられる。 | 『再昌草』 |
| 〜8年〜 | ||||
| 永正14(1517)年 | 10月 | 東下野守 | 実隆と和歌の贈答。 氏数は「千葉介」の妻の熱心な働きかけが見える。 | 『実隆公記』 |
| 永正16(1519)年 | 9月2日 | 千葉介守胤 同妻 東下野守常和 |
「千葉介守胤」「同妻」「常和」の百首歌合点の依頼が三条西実隆のもとへもたらされる。 | 『再章草』 |
| 永正17(1520)年 | 9月3日 | 東下野守 | 関東東氏内の一般代の隠居。ひゃくにんいっしゅお | |
| 大永3(1523)年 | 9月 | 東下総守■胤 | 武蔵国淵江から「東下総守胤?」から三条西実隆のもとへ和歌を記した書状が届く。 | 『再章草』 |
| 大永4(1524)年? | 求浄斎素安 | 9月状の返事を実隆は12月10日に関東に遣わし、それに対する返書。 | 『再章草』 | |
| 大永5(1525)年 | 9月6日 | 東下野守 | 「東下野守逝去由被語、不便々々・・・」 | 『実隆公記』 |
| 永禄元(1558)年? | 6月17日 | 常慶 | 『宝幢坊文書』 | |
| 永禄元(1558)年 | 8月7日 | 東下野守常慶 東七郎常堯 |
『郡上藩家中記録』 | |
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●東氏の家臣●
郡上東氏 遠藤・野田、埴生・粟飯原・土松・日置・尾藤・滝日・和田・餌取・石神・井股・土屋・村上・河合・市村・増田
●諸書の東氏系図
『千葉大系図』
●東胤綱―――常縁―――頼数―――――元胤――――常知――――氏胤―――――尚胤――――常氏―――――常数――
式部少輔 下野守 宮内少輔 下野守 大和守 宮内少輔 下総守 宮内少輔 宮内少輔
素明 素伝 素光 三郎 兵庫頭 素純 素経 素山 素縁
『松羅館本千葉系図』
●東胤綱(益之)――――+―氏数――――+―元胤――――常慶
式部少輔・下総守 | 下野守 | 三郎 下野守
素明 | 宗玄 | 早世す
| |
| +―氏胤
| 中務・宮内少輔
| 素珊
|
+―東常縁―――+―頼数
下野守 | 宮内少輔
素伝 | 素光
|
+―常和―――――胤氏―――――尚胤――――常氏
左近大夫 下総守 宮内少輔
素純 素経 素山
『系図簒要』(官途は代表的なもの)
●東益之(胤綱)――――+―氏数――――+=常縁(養子)――――――+―元胤(元数)―+―常慶
式部少輔 | 下野守 | 下野守 | 下野守 |
素明・乗明 | 素玄 | 書錦居士 | |
| | | +―尚胤――――胤氏
+―野田常縁 +―頼数(常政)―胤氏 | 下総守
宮内少輔 素純 | 素光 素山
|
+―常和―――――――素昌
下野守・歌人
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