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東頼数(????-????)

 郡上東氏九代。八代・東下野守常縁の子。官途は左近将監。号は素光。はじめ「縁数」を称し、文明16(1484)年頃以降、「頼数」と改めたようである。【このページの当主の時系列】

■東氏想像系図■

 東益之―+―氏数――――――元胤――――+―氏胤
(下野守)|(下総守)   (三郎)   |(宮内少輔)
     |               |
     |               +―尚胤――――素山
     |                (下総守) (寿昌院)
     |
     |       +―頼数    +―常慶――――常堯
     |       |(左近将監) |(下野守) (七郎)
     |       |       |
     +―常縁――――+―常和――――+―素経
     |(下野守)  |(下野守)   (最勝院)
     |       | 
     +―正宗龍統  +―胤氏    
      (建仁寺住持)|(最勝院素純) 
             |
             +―常庵龍崇
              (建仁寺住持)

 父・常縁が将軍・足利義政に仕えると縁数も幕府に出仕したと思われる。そして寛正5(1464)年12月、義政の弟・足利義視が還俗して家督候補者となると、縁数は義視に近侍することになった。

 しかし、寛正6(1465)年11月23日、義政に嫡男・足利義尚が生まれると、義政と義視との関係が微妙になった。義政は妻の日野富子の要求に折れて、実子の義尚を後継者に指名し、義視には再び出家を命じた。これに義視は怒り、応仁元(1467)年8月、大内政弘が入京すると義視は伊勢へ逃れた。縁数もこれに従ったと思われる。

 幕府の内部では、義政・義尚を推す山名宗全入道らと義視を推す細川勝元らの二派に分かれ、応仁元(1467)年5月に、山名宗全・斯波義廉・畠山義就ら(=西軍)が挙兵して、細川勝元(=東軍)邸を襲い、「応仁の乱」が勃発した。

 戦いが広がることを憂えた義政は、義視の怒りを解こうと、翌年5月、義視に山城・近江・伊勢の寺社本所領の半済を与え、義視を京都に召喚した。しかし、11月、再び義政と義視は不和となり、義視は身の危険を感じて比叡山へ逃れ、細川勝元と結んで義政と対立した。縁数も義視に随って入山し、剃髪した(『東氏代々集』)

  今出川殿の坂本へ落ちたまふ時、御供の人皆かしらおろしける、その人数にて
 
 霜もまた をかぬおとろの黒髪を みたれたる世に はらひてそ見る   平縁数

 一方、義政は義視が謀反を起こしたとして、12月、義視一党の官位官職を剥奪し、義視追討令を発した。このような中で、翌年4月、縁数は義視のもとを離れて下総国で合戦中の父・常縁のもとに駆けつけている。このとき常縁は義政の命によって下総古河公方・足利成氏と合戦していた。文明元(1469)年4月21日、常縁が京都へ召還されたとき、縁数は下総国の守りとして残された。(『鎌倉大草子』)

 ・・・比年二月二日よりかく申かはしける間、達上聞ければ御免許あり、
 下総の国には子息縁数をとヾめ、四月廿一日東野州は上洛して、
 五月十二日に持是院妙椿に対面して、本領を請取打入ければ、・・・

 文明16(1484)年3月、父・常縁が亡くなると、美濃に戻って家督を継承したのだろう。翌文明17(1485)年6月17日、東氏に代々伝わってきた藤原俊成女筆の『古今和歌集』「老母」から与えられ、長滝寺白山権現に寄進して、東氏と歌道の隆盛を祈願している。この時の署名は「右近将監平頼数」とある。「縁数」から「頼数」に名が改められているのは、郡上東氏の家督を継ぎ、美濃守護・土岐成頼から偏諱を受けたことによるものかもしれない。

 この年の秋、常縁と同門の堯恵が篠脇を訪れた。頼数は堯恵を伴って領内を巡検するなど接待をつとめ、翌文明18(1486)年5月まで美濃に滞在している(『北国紀行』)。堯恵の旅は、美濃から北陸を通り、鎌倉、三浦半島までの長いものであったが、この旅は常縁の子たちに古今伝授を授けるための旅であったことが証明されており、郡上で頼数へ古今伝授したのち、堯恵は歌を詠みながら美濃から北陸、そして長享元(1486)年2月、武蔵鳥越から相模鎌倉へ、そして芦名(横須賀市芦名)の東常和(頼数弟)を訪ねている。三浦半島でも5月末までの四か月ほど滞在しており、古今伝授の講義をしていたと考えられる(『北国紀行』)

 文あきらけき年の十七の秋、みのの国平頼数しる所の山亭に下り蘇息せしに、秋風の催す比都を思ひ出侍て、
 
  雲路こす都は西のをとは山せきのこなたも秋かせそ吹
 
 かくて明るとしの十八のさ月の末に、飛騨の山路をしのぎ、あづまの方へをもむき侍りぬ、・・・
 
                       ・・・
 
 二月の初、鳥越のおきな艤して角田川にうかびぬ、東岸は下総、西岸はむさしのにつヾけり、
 
                       ・・・
 
 廿日過る比、鎌倉山をたどり行に、山径の柴の戸に一宵の春のあらしを枕とせり、・・・
 
                       ・・・
 
 比浦のあしなといふ所の磯の上に平常和東下野守常縁二男侍り、こヽにかさなれる岩を枕としておほくの浪のこゑをきヽあかす、
 
  難波なるあしなはきけともみす三浦かさきの浪の下草
 
 やよひ半になりぬ、常和にいざなはれて、扁舟に浦づたひし、又かまくらにいたり、建長円覚両寺巡見して、・・・
 
                       ・・・
 
 是より三浦が崎にかへりて又姑洗の過るほどなるに、常和と同じく孤舟に棹さして江嶋へ詣で侍り、・・・
 
                       ・・・
 
 五月の末、伊豆の海よりかさなれる山湧々として、ふじの空までもひとつうみのやうにみえ侍、・・・

●二条流歌道の略系譜

二条為世―+―後宇多天皇 +―経賢―――堯尋――堯孝―+―東常縁――――飯尾宗祇―+―三条西実隆――東素経
     |       |             |             |
     +―二条為通  +―二条良基(摂関家)   +―堯恵―――+―東頼数  +―東素純
     |       |             |      |
     +―頓阿――――+―足利尊氏        +―一条兼良 +―東常和――――東氏胤
                           |
                           +―東元胤

 文明18(1486)年2月19日、「東左近将監頼数」が年始御礼として「東山様(足利義政)」に太刀と馬一匹を送っている(『親郷日記』)

 同年9月12日、将軍・義尚(義煕に改名)が近江の六角高頼を攻めるため、直々に出陣。これに「東三郎」が供奉していることが見え(『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』)、彼はおそらく頼数の従兄弟にあたる東三郎元胤であろうと思われる。

 長享元(1487)年12月14日『蔭涼軒日録』の記述によれば、正宗龍統が蔭涼軒を訪ねて、「美濃国下田郷(郡上市美並町)」の代官職の事について話しているが(長享元(1487)年12月14日『蔭涼軒日録』)、この下田郷は「我俗姪東之三郎本領相隣」とある。当時、下田郷は粥川氏の所領であったと思われ、東氏の所領とは隣りあっていたことがうかがえる。この「我俗姪東之三郎」は元胤と思われる。このころには元胤が家督だったことになる。また、こののち頼数の具体的な活躍を見ることはできなくなる。

 長享3(1489)年正月15日、「東将監」三条西実隆の邸を訪ねているが(『実隆公記』)、この「東将監」はおそらく弟の常和だろう。元胤が文明18年時点で東家を継いでいると思われることからも、頼数は文明18(1486)年2月から長享元(1487)年12月までの間に亡くなったのかも知れない。

 長享三年正月十五日
 
 常光院堯咸、高島、東将監等称礼来、・・・  

 系譜に拠れば頼数は天文12(1543)年1月21日に亡くなったと伝わる。法名は寶慈院明行常意

●頼数について●

書名 胤綱(=益之) 縁数 氏胤(≠胤氏)
『千葉大系図』 胤綱=「素珊縁数=「素光氏胤=「素純
『系図簒要』 胤綱=益之=「素明縁数=「?」 胤氏=「素純
『松羅館本千葉系図』 胤綱=益之=「素明縁数=「素光氏胤=「素珊
胤氏=「素純

・宮内少輔縁数の没年=天文12(1543)年1月21日と伝えられる(法名:寶慈院明行常意)。
・兵庫助常和の没年=天文13(1544)年1月21日に89歳で卒す(法名:尊勝院常照心月)。
・下野守氏胤の没年=天文16(1547)年1月21日に69歳で卒す(法名:聖慶院知寶常光)。
→いずれも「天文」10年代の「1月21日」に亡くなっている。違和感を感じる。


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