
| 東胤頼 | 東重胤 | 東胤行 | [1]東行氏 |
| [2]東時常 | [3]東氏村 | [4]東常顕 | [5]東師氏 |
| [6]東益之 | [7]東氏数 | [8]東常縁 | [9]東縁数 |
| [10]東元胤 | [11]東常和 | [12]東常慶 | [13]東常堯 |
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・東氏とは ・東氏惣領家 ・郡上東氏の一覧 ・江戸時代の遠藤家・東家 ・安東氏世(東益之の子) ・東貞常(東時常の子) ・東氏胤(東元胤の子) ・東尚胤(東元胤の子) ・郡上遠藤氏 |
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(1405?-1484?)
郡上東氏八代。六代・東下野守益之の子。母は藤原氏。通称は六郎。官位は従五位下。官職は左近将監、下野守。通称「東野州」。号は素伝。
常縁の母については大内義弘の娘という伝えもあるが、常縁の異母弟・正宗龍統が著した『故左金吾兼野州太守平公墳記』に基づくと、母は「藤氏」出身の娘であることがわかる。
| 益之妻 | 子 |
| 【1】初妣(源氏) | 氏数(下総守)・安東氏世(遠江守) |
| 【2】中妣(藤氏) | 男:宗祐(僧)・南叟龍翔(僧)・常縁(下野守)・素徳 女:素順(東林寺三世)・宗雲(東林寺二世)・壽休(早世)・宗林(野田氏光妻)・妙訓(早世)・永昕(早世) |
| 【3】継室(【2】の妹) | 正宗龍統(建仁寺住持)・僧童真超(早世) |
応永12(1405)年1月15日、東益之の子として生まれ、一族の野田氏の家督を継いでいたと伝わる。異母弟の正宗龍統は正長元(1428)年生まれなので、 親子ほどの年の差がある。
文安5(1448)年2月23日、常縁は藤原氏保のために『定家仮名遣』を写して奥書きを添えて与えた。これが歴史文書中の常縁の初見となる。「氏保」がいかなる人物かはわからないが、美濃鷲見氏の鷲見氏保か? または、宝徳2(1450)年3月頃に、「或人の御方」から届けられた歴代勅撰和歌集選者の影絵・和歌を常縁とともに見ている「氏泰」と同一人物かも。文安3(1446)年4月21日の畠山右馬頭入道仙室邸で行われた歌会には、常縁の兄と思われる「藤原氏世」が見え、「藤原氏保=氏泰」は彼の子なのかもしれない。室町時代末期の奉公衆に見える「安東泰職」が氏世の子孫であるとされており、「泰」字が通字として用いられていたのだろう。
文安6(1449)年正月、鎌倉公方・足利持氏の遺児(永寿王丸)が京都の土岐邸から関東へ下されるにあたり、招月庵が歌を詠んだ。このときに関東へ下された永寿王こそ、幕府と対立して関東を暴れまわり、東常縁とも戦うこととなる古河公方・足利成氏である。
3月10日、常縁は兄・氏数と歌の友である招月庵正徹を訪ねて、歌道を学ぶ上で常に見るべきものは「三代集(万葉集、古今集、新古今和歌集)」の他に何があるか尋ねた。このころ、常縁は父兄所縁の正徹(冷泉流)・常光院堯孝法印(二条流)と、二人の名歌人の間を訪ね歩いて学んでいたことがうかがえる(『東野州消息』)。常縁は、正徹の来臨を「光臨」と記し、「比道の眼目にてこそ侍らめ」としていることから尊敬の念を持っていたことが察せられる。ただし、「聊思ひ所の侍るぞなげきなる、これだに侍らずは」という一言が付されるように、常縁には受け入れがたい正徹の歌の性質があったことが窺い知ることができる。
常縁は正徹の歌に対して厳しい見方をすることもあり、10月9日に刑部大輔家歌会で正徹が詠んだ、
という歌について、「更にうらやましくもなき歌なり」と批評している。「主しらぬ」の「主」とはさまざまな意に取ることができ、「主しらぬ」という言葉から「乱世の声」が連想されると、あくまで「私の所存」という形で批判した(『東野州消息』)。
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| 東福寺栗棘庵(招月庵) |
翌宝徳2(1450)年、「入道殿の腫物心許なきとて、招月庵来臨有、旧友なればしゐて見参有」とあることから東家の入道殿、つまり兄・下総入道素欣(氏数)が腫物を病んで、友人の正徹が見舞いに来たことがわかる。翌日、常縁は兄から返礼の遣いを任されて招月庵を訪ねたが、このとき正徹は常縁に『源氏物語』の歌について物語している(『東野州消息』)。
12月2日、常縁は頓阿の正統で『古今集』を歌道の根幹とする堯孝の弟子となり、契約状が常光院へ提出された。常縁は前々から正徹の歌について「聊思ひ所の侍」っている一方で、堯孝の「歌道は天地ひらけしよりの神道なれば、文雅を飾りても真なくばいたづら事なり」という言葉に感銘を受けており、正徹ではなく堯孝に師事したと思われる(『東野州消息』)。
宝徳3(1451)年2月1日、さっそく常縁は堯孝のもとを訪れ、和歌を懐紙に記す際の手順から学びはじめた。これまでも常縁は父・益之や兄の氏数などから歌学を学んでいたと思われるが、二条流の正統歌学を一から学び直すこととしたか。
宝徳4(1452)年正月11日、正徹が将軍・足利義政に謁見。「若君=義尚」の命によって歌を進上した。このあと、伺候していた常縁にも歌を詠むよう指示され、一首詠んでいる(『東野州聞書』)。
2月18日に堯孝が開いた北野天神での歌会では、常縁は兄・安東遠江守氏世、甥の東三郎元胤と同道で出席しした(『東野州聞書』)。元胤は長兄・東下総守氏数の嫡子だが、氏数は宝徳2(1450)年時点で腫物を病んでおり、おそらくは引退して安東氏世・常縁が元胤を補佐する形で伴い、出席したものと思われる。
○東氏略系譜○
東益之―+―氏数―――元胤
(下野守)|(下総守)
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+―安東氏世
|(遠江守)
|
+―常縁
(六郎)
亨徳2(1453)年7月26日、左近将監に任官。翌8月13日、従五位下に叙された。
康正元(1455)年、下総国において千葉大介胤直と原越後守胤房・千葉陸奥守入道常義が合戦を起こしていることを聞いた将軍・義政は、同族の常縁に鎮定を命じ、常縁はさっそく副将として浜式部少輔春利(土岐一族)を同道して下総国へ下向。下総国香取郡東庄の東大社へ参詣して戦勝を祈願した。
献歌を終えた常縁は国分五郎・大須賀左馬助ら下総の千葉一族と合力して、原越後守胤房の本拠である千田庄に馳せ向かい、11月13日、千田庄内で原一族の「原左衛門朗珍」「原右京亮朗峯」を討ち取った。原胤房は千田庄ではもはや支えきれないと、馬加城(花見川区幕張)へ逃走。常縁はこれを追って11月24日に馬加で合戦し、城から討って出た原胤房と東常縁は一両日の戦いを繰り広げ、常縁は原勢を打ち破った。戦いに敗れた胤房は千葉方面へ行方をくらませた。
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| 国府台城 |
しかし翌康正2(1456)年正月、古河公方・足利成氏は武蔵国との国境にあった市川城(市川市国府台)に立て籠っていた千葉実胤・自胤兄弟(千葉大介胤直の甥)を追討するため、簗田出羽守・南図書助らを市川に派遣した。これによって下総の情勢は一転して古河公方側に有利となり、行方をくらませていた原胤房・千葉陸奥入道も簗田勢に属して市川城に攻め寄せた。
このとき常縁も千葉実胤・自胤の救援のために市川城に入っており、寄手の大将から降伏勧告があったが、常縁は歌を詠んで遣わし、これを拒んだ。
しかし、正月19日の合戦で市川城はついに陥落。実胤・自胤兄弟は城下の湊から舟で武蔵国石浜へと逃れたと思われる。一方、常縁ははるか東の東庄近くの匝瑳郡まで逃れ、2月7日、匝瑳郡惣社である匝瑳老尾神社(八日市場市生尾)に阿玉郷(千葉県小見川町)中から三十石を寄進して戦勝祈願をしている。
市川陥落の翌日の20日、成氏は「於下総市河致合戦、悉理運之由」という注進を受け取った(『足利成氏文書』・『東野州聞書』)。
常縁は足利成氏と対立関係にあった上杉氏に援軍の要請をしたのだろう。上杉氏は援軍を下総国に派遣し、常縁・上杉勢は原胤房・千葉陸奥入道を攻めて追い落とし、胤房はふたたび行方をくらませた。しかし、千葉陸奥入道は常縁勢の執拗な追撃を受け、11月1日、上総国村田川において討死した。康胤五十九歳と伝わる。
●将軍側と古河公方側●
| 京将軍家・足利義政側 | 古河公方・足利成氏側 |
| 足利義政 | 足利成氏 |
| 千葉七郎実胤・千葉自胤 | 千葉陸奥入道常義(馬加康胤) |
| 東左近大夫常縁・浜 式部少輔春利 | 原越後守胤房(千葉一族) |
●東常縁と馬加康胤の対立●
| 年月日 | ことがら |
| 康正元(1455)年 | 下総の千葉一族内乱を鎮定するため、東常縁は浜式部少輔春利らをを同道して下総東庄へとくだる。 |
| 康正元(1455)年11月13日 | 常縁は千葉陸奥入道常義の本城・馬加城と原越後守胤房の本城・小弓城を攻め落とす。 |
| 浜式部少輔春利を東金城に駐屯させる。 | |
| 康正2(1456)年1月19日 | 古河公方・足利成氏は簗田氏を国府台城に派遣して千葉実胤・千葉自胤を武蔵へ攻めおとす。
1月19日、実胤方の家老・円城寺若狭守(妙若)が討死。 |
| 康正2(1456)年2月7日 | 匝瑳郡の鎮守・匝瑳老尾神社に阿玉郷の土地を寄進して戦勝祈願をする。 |
| 康正2(1456)年6月12日 | 千葉陸奥入道常義の子・千葉胤持が没する。23歳。 |
| 康正2(1456)年6月14日 | 原越後守胤房、真間山弘法寺領を安堵する。 |
| 康正2(1456)年10月 | 岩橋輔胤、真間山弘法寺領を安堵する。 |
| 康正2(1456)年11月1日 | 上総国村田川での戦いにおいて千葉陸奥入道常義が戦死。59歳。 |
千葉陸奥入道を討ったとはいえ、常縁の兵力は古河公方方に比べると少なく、上杉家も武蔵国内での紛争があったためか援軍を送るゆとりもなくなり、上杉家は幕府に関東への援軍を要求した。幕府はこれに応じ、長禄元(1457)年6月23日、「関東探題」として足利一門・渋川左衛門佐義鏡を武蔵国に派遣して古河公方勢を抑えようと試みたが、関東の諸将は成氏に荷担する者が多く、この状況を嘆いて常縁は歌を詠んだ。
将軍・足利義政はこの関東の状況に、長禄元(1457)年12月19日、天龍寺に出家していた弟の香厳院を還俗させた上、「政」の偏諱と官途を与え、足利左馬頭政知と名乗らせ、鎌倉に派遣した。しかし、関東の情勢は非常に悪化しており、政知は箱根を越えることができず、駿河守護職・今川家の影響力が及ぶ伊豆国堀越に館を構え、地名を取って「堀越公方」と呼ばれた。
●将軍家略系図
日野重光―+―日野重子 +―義勝 +―政資======+―日野内光 +―徳大寺公維
(大納言) |(勝智院) |(征夷大将軍) |(権中納言) |(権大納言)|(内大臣)
| ∥ | | | |
| ∥――――+―義政 | 徳大寺実淳―+―娘 |
| ∥ |(征夷大将軍) | (太政大臣) | ∥――――+―慶子 +―前久―――信尹
| ∥ | | | 久我通言 ∥ |(関白) (関白)
| 足利義教 +―義視 | |(太政大臣) ∥ |
|(征夷大将軍)|(今出川殿) +―勝光――――+―娘 | ∥―――――+―娘
| | |(左大臣) ∥ +―維子 +―稙家 ∥
| +―政知 | ∥ ∥ |(関白) ∥
| (後に堀越公方)+――――富子 ∥ ∥ | ∥
| | (妙善院) ∥ ∥――――+―娘 ∥
| | ∥――――義尚 近衛尚通 (慶寿院) ∥
| | ∥ (9代将軍) (関白) ∥ ∥
| | +―足利義政 ∥―――――+―義輝
+―義資――――――重政―――――+ |(8代将軍) ∥ |(13代将軍)
(権中納言) (左兵衛佐) | | ∥ |
| +―足利政知―――――――――義澄――――――+―義晴 +―義昭
| |(堀越公方) (11代将軍) |(12代将軍) (15代将軍)
| | ∥ |
| +―足利義視 ∥ +―義維――――――義栄
| (今出川殿) ∥ (14代将軍)
| ∥――――義稙 ∥
+――――娘 (10代将軍) ∥
| (妙音院) ∥
| ∥
+―永俊―――――――――――――娘
(広福院) (安養院)
このような情勢の中、京都でも足利義政・日野富子と足利義視(義政弟)が、足利義尚(義政嫡子)の将軍擁立をめぐって争いを起こしていた。義視は出家していたが、寛正5(1464)年、子のない兄・義政の要請によって還俗。「義視」と称して義政の養子となった。しかし翌寛正6(1465)年、義政と日野富子との間に嫡子・義尚が生まれたため、義政は義視にふたたび出家を要求したことから、義視は義政の変節ぶりを怒って出家を断固拒否し、管領・細川勝元と結んで義政に抵抗した。
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| 篠脇城と東氏館跡 |
こうした険悪な雰囲気の中、応仁元(1467)年5月、足利義政・日野富子の意を受けた山名宗全入道(山名持豊)が、管領家の斯波義廉・畠山義就らをともなって細川勝元の屋敷を襲った。これがその後十年にわたって京都を焼け野原にする「応仁の乱」の始まりであった。「応仁の乱」の余波は近畿にとどまらず全国に及び、東氏の本拠地である美濃でも東西にわかれて争いがおこった。
常縁はもともと義政の側近であったことから山名方(西軍)とみなされ、細川勝元(東軍)に味方する美濃守護・土岐成頼は応仁2(1468)年9月、守護代・斎藤持是院法印妙椿に命じて郡上東氏の居城である篠脇城を攻めさせた。このとき篠脇城を守っていたのは常縁の兄で隠居の東下総入道氏数であり、氏数は少ない兵を指揮して斎藤勢と戦ったがついに落城。気良郷へと逃れ、常縁のもとには落城の悲報が届けられると、常縁は父・下野守益之の命日にあわせて心境を歌に詠んだ。「生きているうちにこのような世を見ることになってしまった。父がいた昔が懐かしく思い出されることだ」という意味が込められている。
常縁の副将・浜式部少輔春利は、京都にいる兄・浜豊後守康慶に送る手紙にこの歌を同封した。康慶はこの歌を見て感動し、歌会で常縁の歌として披露したところ、同じく歌人である斎藤妙椿が人伝えにこれを聞き、
と常縁に送り、これをうけた常縁はさっそく歌を十首詠んで妙椿に送った。
妙椿はこれら歌を受けて感動し、
との返歌を常縁に送った。さらに常縁は京都の奉公衆で歌人の浜豊後守慶康に宛てて、
と送ると、浜慶康は
と返歌した。
こうして文明元(1469)年4月21日、常縁は子・東縁数を下総に残し、浜春利を東金城の守りに任せて上洛。京都についた常縁は同年5月12日、斎藤妙椿と会見して篠脇城は返還された(『尊星王院鐘銘』)。このとき、斎藤妙椿から常縁へ一首が贈呈されている。
これに常縁は、
と返歌した。そして、常縁は篠脇城に入ってしばらくしてから、
という歌を浜慶康へと送った。戦乱の世、友人が敵味方に別れて争って所領が荒されたとはいえ、雅心のある妙椿でなかったら城は戻らなかったであろうという、妙椿へ対する感謝の意がこめられた歌であった。慶康はこれをさっそく妙椿に送ると、妙椿も
と返歌を送った。「道ある人」とは歌道に通じた常縁をのことを指し、心やすく帰ってきてくださいと告げている。これら一連の話は、後の世に美談として語られていった。そして、この斉藤妙椿の一族・長井家のもとに転がり込んできた人物に「松波新九郎」がいた。彼はその後、齋藤家の家老・長井家に入って「長井利秀」を称し、さらに長井氏の主家で美濃守護代・斎藤家をも乗っ取って「斎藤山城守秀龍」を称した。のちに「美濃の蝮」と呼ばれた「斎藤山城入道道三」である。
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| 篠脇城ふもとの明建神社 |
常縁は美濃に戻ると、篠脇城と妙見社(明建社)を再建して荒れた所領を急速に復興させた。一連の戦いで、妙見社ならびに尊星王院(別当寺)が燃えてしまったために、鎌倉以来の伝来の書物の大部分がともに焼失してしまい、常縁は再建事業の一環として数多くの歌を書写してこれを納めた。しかし、東氏に伝来した『古今和歌集』だけは焼失を免れたことが文明2(1470)年5月9日に常縁が記した奥書によってわかる。
この翌年の文明3(1471)年、古今集の奥義をもとめて伊豆国三島の陣中に訪ねてきた飯尾宗祇に「古今伝授」を行った。常縁はこのとき「于時左近大夫」とあることから、まだ「左近将監」であったことがわかる。常縁は伝来の『古今和歌集』をもって講義を行い、3月21日に宗祇に「古今伝授」を行った。そして8月には郡上の妙見社前においてもう一度古今伝授がなされており、宗祇は常縁から一度切紙伝授を受けた後、もういちど大坪基清とともに常縁の講義を聴いていることから、宗祇が常縁にもう一度伝受を懇望した結果なのかもしれない。
宗祇が常縁のもとを訪ねた理由としては、京都は応仁の戦乱のために荒廃していたこと、二条流・京極流・冷泉流など歌道を伝える家が衰退してしまったことなどがあげられると思われるが、衰退した歌道の源流を伝えていたのが郡上東氏であったことで、常縁のもとを訪れたのかもしれない。宗祇の熱意に感じた常縁は宗祇に歌道の指導を行うことを決め、このときに詠んだとされる歌が『東常縁集』に掲載されている。
『古今和歌集両度聞書』によれば、宗祇は文明3(1471)年正月28日から4月8日午刻までの71日間、常縁から講釈を受け、その後、6月12日巳刻から7月25日までの43日間、常縁による上総の大坪基清への講義を傍聴している(『古今和歌集全評釈』:竹岡正夫氏著、『中世古今集注釈書解題・三』:片桐洋一氏著)。宗祇が基清への講義を聞いているのは、宗祇が『百人一首抄』の奥書に「予も同聴つかふまつりしを、古今伝授の中ばにて明らかならず侍るを」とあることから、常縁からの古今伝授は「中ば」で、まだ完全なものではなく、もう一度聴きなおしている様子がうかがえる。
このころ常縁は伊豆国堀越へ下っていた足利政知(堀越公方)に協力するべく京都から伊豆に遣わされていたようで、宗祇は三島を訪れて講釈を受けた。宗祇が講義を受けはじめた正月28日にはすでに三島に出陣して古河公方勢への警戒を強めていたと考えられる。2月24日から26日まで、宗祇は三島にて千句を独吟して戦乱の収束を願った。
常縁が宗祇へ古今伝授をした直後の5月8日、常縁の兄・氏数が亡くなった。常縁は氏数の跡を継いだと思われ、氏数の嫡子「藤三郎(東三郎)」こと東中務元胤が奉公衆としての地位を継承したか。一方、常縁は箱根を越えて三島に侵入してきた古河公方勢(小山・結城・千葉ら)への警戒を続けていたと考えられる。堀越公方勢は上杉家から派遣された宇佐美孝忠らの援軍などもあって、古河公方勢を打ち破り、常縁は6月12日から7月25日まで、上総の大坪治部少輔基清(沙弥道教)の「懇望」によって古今集の講義を再度行った。そして8月15日、常縁は宗祇へ「以相伝説々伝授僧宗祇畢 従五位下平常縁」の奥書の書状を発給しており、宗祇への古今伝授が行われたことがわかる。
翌文明4(1472)年2月16日、郡上の牧村にあった尼寺・東林寺住持の「尼宗雲長老」が亡くなった。彼女は常縁の実姉にあたる。
5月3日、宗祇の『古今和歌集両度聞書』の奥書として、
と記しているように、常縁は古今伝授を授けた宗祇を「門弟随一」として大変な信頼を置いている。常縁と宗祇は8月ごろまで『伊勢物語』についてのやり取りを交わしており、この頃まで常縁と宗祇はともに行動していたと考えられる。
宗祇は10月に美濃を訪れ、12月16日から21日の5日間、美濃国川手城内で「美濃千句」を催した。そして文明5(1473)年正月7日、大坪基清に古今伝授が行われたが、この署名として常縁ははじめて「従五位下下野守」を称している。そして4月18日、「八代末葉下野守平常縁」から「古今集之説悉以僧宗祇仁授申畢」とある通り、宗祇への古今伝授が「悉」く終了した。
兄の氏数が亡くなったのが文明3(1471)年、常縁の「下野守」就任は文明4(1472)年以前であると思われ、常縁は氏数の死後まもなく家督を継承したと思われる。
宗祇は文明6(1474)年3月下旬、郡上郡を去って上洛の途についたが、このとき常縁と宗祇は三首の連歌のやり取りを交わしている。
文明12(1480)年5月、常縁は後土御門上皇の勅諚を受けた将軍・足利義尚の御教書に従って上洛。御所にて後土御門上皇に古今集伝授し、さらに勅命によって近衛政家(関白)・三条公敦(内大臣)・足利義尚(将軍)らに講義を行い、京都東山において古今伝授を行った。これを俗に「東山伝授」という。
常縁は文明16(1484)年3月16日に没したという。享年八十。法名は花山員徳元常雅。父・益之が建立した木蛇寺(郡上市大和町牧)に葬られた。没年については明応3(1494)年4月18日に九十四歳で亡くなったという説もあるが、文明18(1486)年7月1日、三条西実隆の邸に飯尾宗祇が訪れたとき、「故藤常縁」とされていることから、この時点ですでに亡くなっていることがわかる。
●東常縁の動向
| 年 | 月日 | 事柄 | 場所 |
| 文安6(1449)年 | 3月10日 | 招月庵を訪問し、常に見て勉強すべきものは三代集のほかに何があるか尋ねる。 | 京都 |
| 7月7日 | 御所(将軍邸か)にて七夕の歌会。常縁の兄・氏世が列席する。 | ||
| 7月22日 | 招月庵正徹が妙行寺辺に旅宿しているところを訪問して、例式歌の事を尋ねる。 | ||
| 7月26日 | 正徹、堀河の東家邸に光臨、物語する。常縁、正徹を「比道の眼目にてこそ侍らめ」と称賛する。 | ||
| 7月末 | 安東氏世、常縁に七夕の歌会について物語する。正徹、或人(具体名不明)が古歌の解釈の違いについて討論。 | ||
| 8月5日 | 或人(具体名不明)がおそらく堀河の東家邸を訪れて、招月庵の歌を語る。 | ||
| 8月7日 | 常光院堯孝、東家邸来訪。常縁、古歌の意について問う。 | ||
| 8月9日 | 常縁、建仁寺常光院を訪問。堯孝の「歌道は天地ひらけしよりの神道なれば、文雅を飾りても真なくばいたづら事なり」という言葉に感銘を受ける。その後、三代集について問う。 帰りに、招月庵正徹のもとを訪れ、式子内親王の御歌の意について問う。 |
||
| 9月3日? | 東林寺の宗雲(常縁実姉)が古歌を語る。 | ||
| 9月16日夜 | 畠山阿波守が光臨。常縁へ古歌について質問し、基之、歌について語る。 | ||
| 9月17日 | 安東遠州氏世、御番として詰めていた際に人から聞いた三井寺持仏院の歌会について語る。 | ||
| 9月18日夜 | 畠山阿波守、常縁とともに招月庵を訪問。 | ||
| 10月4日 | 常縁、常光院を訪ねる。 | ||
| 10月16日 | 常光院堯孝、来臨。 | ||
| 10月22日 | 常縁、畠山基之邸を訪問し、基之。 | ||
| 10月28日 | 常縁、招月庵正徹を訪ねる。 | ||
| 10月中 | 安東遠州氏世、物語する。 | ||
| 宝徳2(1450)年 | 4月1日 | 常縁、今年はじめて招月庵を訪ねる。 | |
| 5月 | 蜷川三郎親元から、親・蜷川新右衛門(智蘊)三回忌のために一品経の勧進を依頼。 | ||
| 6月18日 | 常縁、招月庵を訪問する。 | ||
| 7月頃 | 氏数、腫物を病み、招月庵正徹が見舞いのために来臨。 | ||
| 上の翌日 | 常縁、昨日の返礼として招月庵を訪ねる。 | ||
| 10月 | 常縁、招月庵を訪問。 | ||
| 11月3日 | 常縁、常光院を久々に訪問。 | ||
| 11月7日 | 常縁、使いとして常光院を訪ねる。 | ||
| 12月2日 | 常縁、常光院堯孝の弟子となる。 | ||
| 宝徳3(1451)年 | 2月1日 | 常縁、常光院を訪問。歌の懐紙への書き方を学ぶ。 | |
| 3月1日 | 常縁、常光院にて歌の題について学ぶ。 | ||
| 3月3日 | 常縁、常光院にて勉強か。 | ||
| 10月14日 | 常光院、東家邸に光臨。 | ||
| 10月18日 | 常縁、常光院にて勉強。 | ||
| 宝徳4(1452)年 | 正月11日 | 常縁、幕府に出仕か。 | |
| 2月1日 | 常縁、常光院に質問。 | ||
| 2月16日 | 安東氏世、東家邸を訪問する。 | ||
| 2月18日 | 常光院、北野に参籠。安東氏世・東常縁・東元胤らが従う。元胤、常光院の弟子となる。 | ||
| 7月22日 | 常縁、常光院を訪問して質問。 | ||
| 8月16日 | 常縁、常光院を訪問して質問。 | ||
| 10月19日 | 常縁、常光院を訪問して質問。 | ||
| 亨徳2(1453)年 | 7月26日 | 常縁、左近将監に任官。 | |
| 8月13日 | 常縁、従五位下に叙される。 | ||
| 12月27日 | 常縁、常光院より古今和歌集の古歌を受ける。 | ||
| 康正元(1455)年 | 7月5日 | 常光院堯孝、65歳で寂す。 | |
| 10月頃 | 常縁、下総の千葉一族内乱を鎮定するため、浜春利をを同道して下総東庄へ 下る。 | 下総 | |
| 11月7日 | 常縁、『明疑抄』を書写。 | ||
| 11月13日 | 常縁、馬加康胤の本城・馬加城と原胤房の本城・小弓城を攻め落とす。 | ||
| 康正2(1456)年 | 1月19日 | 古河公方・足利成氏勢によって市川城陥落(市川城合戦)。 常縁、城を逃れて匝瑳郡方面へ退却する。 千葉実胤・千葉自胤、武蔵へ退却。 実胤方の家老・円城寺若狭守(妙若)ら討死。 |
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| 2月7日 | 常縁、匝瑳郡の鎮守・匝瑳老尾神社に阿玉郷の土地を寄進して戦勝祈願をする。 | ||
| 春 | 常縁、鎌倉において『拾遺風躰集』を見、その中に先祖の東素暹の古歌を発見する。 | ||
| 6月12日 | 馬加康胤入道の子・千葉胤持が没する。23歳。 | ||
| 6月14日 | 原越後守胤房、真間山弘法寺領を安堵する。 | ||
| 10月 | 平輔胤(岩橋輔胤)、真間山弘法寺領を安堵する。 | ||
| 11月1日 | 常縁、馬加康胤を攻めて上総国村田川まで追いつめ、討ち取る。 | ||
| 長禄3(1459)年 | 正月9日 | 招月庵正徹、79歳で寂す。 | |
| 寛正2(1461)年 | 7月16日 | 常縁、治承3年に行われた『右大臣家歌会』を「旅宿之徒然之余写留之畢」とある。 | |
| 寛正6(1465)年 | 10月24日 | 常縁、貞和6(1350)年以降に写本された頓阿本の後鳥羽院御口伝を書写。「左近大夫平」の奥書。 | |
| 応仁2(1468)年 | 9月 | 斎藤妙椿、東氏の本拠地・美濃郡上郡篠脇城を攻め取る。 | |
| 文明元(1469)年 | 4月21日 | 常縁、下総を経って京都へ向う。 | |
| 5月12日 | 常縁、妙椿から篠脇城を返還してもらう。 | 京都 | |
| 文明2(1470)年 | 5月9日 | 常縁、美濃郡上郡妙見社の焼け残った『古今和歌集』に奥書き。 | 美濃 |
| 文明3(1471)年 | 正月28日 | 常縁、伊豆国三島の陣中に訪ねてきた飯尾宗祇に古今集の講義をはじめる。 | 伊豆 |
| 3月21日 | 常縁、宗祇に古今伝授。 | ||
| 4月8日 | 常縁、宗祇への古今集講義を終了する。 | ||
| 5月8日 | 氏数、病死する。 | ||
| 6月12日 | 常縁、上総の大坪基清へ古今集講義をはじめる。 | ||
| 7月25日 | 常縁、大坪基清への講義を終える。 | ||
| 8月15日 | 常縁、宗祇へ「以相伝説々伝授僧宗祇畢 従五位下平常縁」の奥書の書状を発給。 | ||
| 文明4(1472)年 | 2月16日 | 常縁の実姉である東林寺住持・尼宗雲長老が亡くなる。 | |
| 5月3日 | 宗祇の『古今和歌集両度聞書』の奥書を書く。宗祇を「門弟随一」とする。 | ||
| 8月 | 常縁、宗祇の所望のため、当流の説を書写して授ける。 | ||
| 10月 | 宗祇、美濃郡上郡に来訪。 | ||
| 12月16日 | 宗祇、美濃川手城内で美濃千句を詠む。 | ||
| 文明5(1473)年 | 正月7日 | 常縁、源基清(大坪基清)に古今集相伝一流の説を授ける。「従五位下下野守平常縁」の署名。 | |
| 4月18日 | 常縁、郡上郡妙見社前にて宗祇に古今伝授。「八代末葉下野守平常縁」の署名。 | ||
| 6月11日 | 常縁の書状が京の蜷川親元のもとに着く。「東下野守常縁書状京着」 | 関東か? | |
| 6月12日 | 常縁の書状を披露。聴松院殿(正月に亡くなった伊勢貞親)の弔いの内容。 | ||
| 6月13日 | 蜷川親元、常縁に返事。 | ||
| 文明6(1474)年 | 3月下旬 | 宗祇、郡上郡から上洛。常縁と贈答歌を交わす。 | |
| 文明7(1475)年 | 常縁、江戸城を訪れて故実を語る。常縁は一時期、武蔵にいたことが伝わり、淵江にいたか? | 武蔵 | |
| 文明9(1477)年 | 5月20日 | 常縁、美濃紙二束を伊勢貞宗へ贈る。 | 美濃か? |
| 文明10(1478)年 | 8月15日 | 常縁、足利義政・足利義尚へ太刀を贈る。 | |
| 文明15(1483)年 | 正月2日 | 常縁、自邸で歌会。 | |
| 文明16(1484)年 | 常縁、亡くなるか。 | ||
| 文明17(1485)年 | 6月17日 | 頼数、老母から与えられた俊成女筆『古今和歌集』を白山長瀧寺に奉納。 | |
| 秋 | 堯恵、美濃国の頼数が知行する山亭に逗留。 | ||
| 文明18(1486)年 | 2月19日 | 頼数、足利義政・義尚に献上品。 |
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「古今伝授」とは延暦5(905)年7月に編纂された最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の解釈や作法など秘事や口伝を、その道に長じた特定の人に伝授することである。平安時代後期、藤原基俊から俊成、定家へと伝えられた古今集の解釈が基本となっていると思われ、これが「古今伝授」として切紙を以って伝授が形式化されたのは、常縁に始まる。
『古今和歌集』の解釈は、和歌の故実(作法・習わし・先例)や解釈などが口伝(口移しで伝えられること)されており、それが基俊、俊成、定家と伝えられてきたものの、その後は二条・冷泉・飛鳥井・六条など、各流派の人たちによってそれぞれに解釈が異なってきたため、解釈に多くの疑問や矛盾が出てその内容が混乱した。それを常縁は文字で形に残しつつ整理しようとした。
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| 篠脇城ふもとの明建神社 |
常縁は、口伝の条目を記した「切紙」に添えて古今集解釈の奥義を伝える「切紙伝授」という伝授の基本形式を作りだし、文明3(1471)年、はじめて飯尾宗祇に伝えられた。宗祇への「古今伝授」は文明3年(1471)の1月から7月にわたって2回行われ、はじめは伊豆国三島社、2回目が美濃国郡上郡明建神社で行われたとされる。宗祇はその後も常縁から教えを受け、「門弟随一」といわれた。そして文明5(1473)年、常縁は宗祇に「古今集の説尽く授け申しおはんぬ」と伝授の完了を伝えた。
その後、宗祇は三条西実隆・牡丹花肖柏らに「古今伝授」した。さらに、三条西実隆から三条西家を通じて細川幽斎に伝えたられたものを「御所伝授(御所伝授)」、牡丹花肖柏へ伝えられたものを「堺伝授」さらに肖柏から饅頭屋宗二に伝えられたものを「奈良伝授」という。公家だけの教養であった和歌も、武家でありながら教養深い一族・東家の影響で武家の間にもひろがり、室町中期の足利義政の時代には武家の必須教養のひとつとなっていった。東常縁→宗祇という「古今伝授」の影響は、のちの戦国大名たちの文化的教養の基本となっていく。
古今伝授は東氏に伝わってきた古今集の解釈、ならびに二条流宗家が作り出した伝来の家伝書と称するもの(『桐火桶』『和歌秘書集坤』『愚秘抄』など)が基本となり、古今集のうち解釈の難しいとされるもの数首が伝授されていったとされる。ただし、この「古今伝授」されることが教養のステータスとなり、和歌の幽玄を匂わす域を「格式」という枠で囲ってしまう弊害を生み出した。一方で、応仁の乱以来廃れてしまっていた和歌という文化にふたたび脚光が浴びせられ、公家だけではなく武家の教養の一つとして広まっていった。
| 構成巻数 | 歌数 | 掲載されている歌を紹介 |
| 仮名序 | やまとうたはひとのこころをたねとしてよろつのことのはとそなれりける | |
| 巻第一 春上 | 68 | 袖ひちてむすひし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ 紀貫之(春二) |
| 巻第二 春下 | 66 | ひさかたの光のとけき春の日にしつ心なく花の散るらむ 紀友則(春八十四) 花の色はうつりにけりないたづらにわか身世にふるなかめせしまに 小野小町(春百十三) |
| 巻第三 夏 | 34 | |
| 巻第四 秋上 | 80 | 秋来ぬと目にはさやかに見えねとも風の音にそ驚かれぬる 藤原敏行(秋百六十九) |
| 巻第五 秋下 | 65 | |
| 巻第六 冬 | 29 | |
| 巻第七 賀 | 22 | |
| 巻第八 離別 | 41 | |
| 巻第九 覊旅 | 16 | |
| 巻第十 物名 | 47 | みよしのの吉野のたきにうかひいつる泡をかたまの木ゆと見つらむ 紀友則 (物名四百三十一) |
| 巻第十一 恋一 | 83 | ほとヽきす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋をするかな よみ人しらす(恋四百六十九) |
| 巻第十二 恋二 | 64 | 思ひつつ寝れはや人のみえつらん夢と知りせはさめさらましを 小野小町(恋五百五十二) うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき 小野小町(恋五百五十三) |
| 巻第十三 恋三 | 61 | |
| 巻第十四 恋四 | 70 | |
| 巻第十五 恋五 | 82 | 月やあらぬ春や昔の春ならぬわか身ひとつはもとの身にして 在原業平(恋七百四十七) |
| 巻第十六 哀傷 | 34 | |
| 巻第十七 雑上 | 70 | |
| 巻第十八 雑下 | 69 | |
| 巻第十九 雑体 | 68 | |
| 巻第二十 大歌所御歌 神あそびうた 東歌 |
32 | |
| 真名序 |
●御子左流歌道略図●

★室町期の有名歌人★
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| 東福寺栗棘庵(招月庵) |
禅僧で冷泉流歌人。備中国小田村出身。名は正清。字は清巌。号は招月庵。応永年のはじめ、冷泉為尹(1361-1417)に冷泉流歌道を学び、冷泉流歌道の名人となった。その後、鎌倉東福寺の書記(徹書記とよばれた)となった。
冷泉流歌道に飽きたらず、二条流・飛鳥井流(いずれも藤原俊成を流祖とする)を学ぶも、それらの流派が源流・御子左流歌道と趣を変えてしまっていることを嘆き、藤原定家の有心歌風に戻るべきだと主張し、余情美のある和歌の研究をした。その講義を受ける人物たちも多く、数多くの公家や文人、豪族たちと交流を持ち、長禄3(1459)年に没した。
著書は『草根集』『正徹物語』がある。『草根集』には正徹と交流をもった人物が記されており、その中には「東益之」「東下総入道素忻」の名が散見される。「東下総入道素忻」は益之の嫡男・東下総守氏数のこと。
常縁は文安年中、正徹の東家来訪を「光臨」、「かやうの金言どもをおもふに有難人なり」「今の世には比道の眼目にてこそ侍らめ」「古歌難義などを申されんは、鏡の如くなるべしと覚えたり」とあるように、正徹の才能を尊敬していた節を見ることができるが、こののち、歌の捉え方の相違が見えてくると、常縁は正徹と距離をとるようになり、暗に批判するようになっていく。
宝徳2(1450)年6月、氏数が腫物を病んだことを聞きつけた正徹は、「旧友」であると京外れの東福寺からわざわざ四条堀河の東邸まで見舞いに駆けつけた。そしてこの翌日、弟・常縁が返礼に招月庵へ赴いている。
冷泉流・清巌正徹と対抗する二条流の大歌人。建仁寺常光院主。二条為世の弟子・頓阿の系統で、常光院堯尋の弟子となった。永享5(1433)年の『新続古今和歌集』の編纂に関しては、和歌所開闔として撰者・飛鳥井雅世(前名・雅清)を補佐した。東常縁は堯孝の弟子となって歌道を修めており、その後は正徹との関係は疎遠となっていく。
宝徳2(1450)年12月2日、東常縁は堯孝門となり、翌宝徳3(1451)年2月18日の常光院堯孝法印が開いた北野天神での歌会では、兄の安東氏世や甥・元胤が出席、元胤も堯孝に弟子入りした(『東野州聞書』)。
連歌師、二条流歌人。出身などは不明。阿波国飯尾出身の人物とも、室町幕府奉行人・飯尾家の一族とも。若くして出家し、和歌を飛鳥井雅親(1421-1494)に、連歌を心敬・宗砌に、そして歌学・古典を東常縁に学んだ。
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| 早雲寺の宗祇供養塔 |
明応4(1495)年6月、大内政弘(宗祇の弟子)の発願で、宗祇が中心となって準勅撰連歌集『新撰菟玖波集』が編纂された。編纂には宗祇のほか、柴屋軒宗長、牡丹花肖柏、猪苗代兼載らが協力して完成させている。句数は約2000。後土御門天皇、心敬、宗砌、大内政弘、専順ら250人の句を集めた「有心正風連歌」の集大成。
明応7(1498)年2月、太政大臣・近衛尚通(1472-1544)に古今伝授を行った。また、三条西実隆にも歌道の講義を行っており、こののち実隆に伝えられた家伝は三条西家を通して宮廷に広まっていき「御所伝授」とよばれる。なお、宗祇から牡丹花肖柏らへの伝授を「堺伝授」という。
著書には『竹林抄』『吾妻問答』『老のすさみ』『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』『筑紫道記』などがあり、『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』は柴屋軒宗長・牡丹花肖柏との連歌で有名。
宗砌(????-1455)
連歌師。但馬国の住人・高山時重。連歌を朝山梵灯庵に、和歌・歌学・古典を清巌正徹に学んだ。清巌正徹は東常縁の兄・氏数との交流が深かったことで知られる。
文安5(1448)年、連歌会所奉行となって「宗匠」の号を与えられた。前関白・一条兼良(1402-1481)と協力して『連歌新式追加今案』を編纂。『新撰菟玖波集』にその歌が選ばれている。著書に『初心求詠集』『花能萬賀記』『密伝抄』がある。
連歌師。父は従一位権大納言・中院通淳(1398?-1451)。和歌を飛鳥井宗雅(雅世の父)に、連歌を飯尾宗祇に学び、宗祇・宗長らとの連歌集『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』は「有心正風連歌」の典型といわれる。
堺で宗祇から古今伝授を受け(「堺伝授」)、のち、奈良の林宗二(饅頭屋宗二)に伝授した。これを「奈良伝授」という。著書に『春夢草』『肖柏口伝(弟子・宗牧が聞き書きした歌学書)』がある。
宗碩(1474-1533)
連歌師。尾張国の人で、飯尾宗祇の門人となった。号は月村斎。異母弟・永閑の生国が能登であった関係で、能登守護・畠山義総と親密で、義総も宗碩を通じて三条西実隆と交流を持っていた。
永正12(1515)年、芥川城で柴屋軒宗長らと連歌の会を催し、翌年には「十花千句」を、大永2(1522)年には伊勢国山田で、細川高国のための連歌会「高国法楽両吟千句」を開催した。著書には『源氏男女装束抄』『佐野のわたり』などがある。
清華家・正親町三条家(藤原北家閑院家)の一流。南北朝末期、正親町三条実継(1314-1388)の次男・公時(1339-1383)が三条家の西に屋敷をかまえて「三条西」を称したことにはじまる家。
三条西家は代々和歌をよくし、実隆は三条西家の五代目にあたる。血縁上では実継の嫡男・三条公豊(1332-1395)の孫にあたる。
実隆は後花園~後柏原天皇の3代に仕えて正二位権大納言に叙任。飯尾宗祇より歌道を学んだ。文亀元(1501)年9月10日、東氏胤(宮内少輔)へ「新古今真名序」を授けたことが『実隆公記』からわかる。文亀2(1502)年6月、『本朝皇胤紹運録』を書写して進上。永正3(1506)年に内大臣となった。
彼は和歌・漢詩・有職故実・書画・和漢学などに通じ、当代随一の学識者であった。連歌師とのかかわり合いもあって、近江などにも出かけている。主な著書として『詠歌大概抄』『装束抄』『再昌集』、実隆の日記『実隆公記』は中世の貴重な資料である。
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「篠脇城」
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| 篠脇城と東家館跡 |
美濃に下った東胤行の孫・東氏村は、本拠地・阿千葉城の南東に位置する砦・篠脇城を拡張して本城とした。これ以降、赤谷山へ移るまで郡上東氏の本拠地となった。
応仁2(1468)年9月、東常縁が下総に下っているときに土岐成頼の守護代・斎藤妙椿に篠脇城を奪われた。城を奪った斎藤妙椿はもともと常縁の歌の友で、ともに足利義政の奉公衆だった。そこで、常縁は妙椿に城の返還を嘆願すると、妙椿は歌を送ってくれたら城を返そうと返事した。さっそく常縁は十首の心情を込めた和歌を送り、妙椿もこれにうたれて城を返還した。
篠脇城は栗巣川に沿って立つ山頂にある。標高は570メートル。「臼目堀」という特殊な堀に囲まれた竪固な山城である。対岸には承久以来七百年の歴史を持つ明建神社が建っていて、妙見神を祀り、盛大な祭りが催される。
城主の東氏は篠脇城の北麓に屋敷を構え、その遺構は昭和55年から行われた発掘で発見された。五百年以上も前の室町期の瀟洒な池泉庭園や館跡がほぼ完全な形で残されており、庭園好きだった東益之(常縁の父)の影響があるのかもしれない。貴重な中世庭園の学術的価値と景観の素晴らしさから昭和62年に国の名勝に指定された。東氏館跡の公園内には古今集に登場する四季の植物が植えられ、景観に華を添えている。
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