東氏
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東氏数(????-1471)

 郡上東氏七代。六代・東下野守益之の嫡男。母は源氏。通称は三郎。官途は左衛門尉、下総守。号は素忻。父・益之(胤綱)と混同される系譜があるが、益之と氏数は父子である。

 応永32(1425)年3月、氏数は冷泉為相が写本した『伊勢物語』を正徹に貸し出している。東氏は冷泉家と同じく藤原定家(御子左流)の血をひいており、武家の東氏に公家の冷泉家本『伊勢物語』が伝わった理由かもしれない。冷泉為相は鎌倉時代初期の公家で、異母兄・二条為氏との間に播磨国細川荘の家領問題があり、京都から鎌倉に下り、幕府問注所での採決を求めた。その後もたびたび鎌倉に下向し、鎌倉藤谷に屋敷を構えて住んだり、娘が将軍・久明親王の妻となるなど、関東との結びつきが大変強く、鎌倉御家人へ歌の教授を行うなど御家人の文化面の教育にも当たっている。義弟である東氏の祖・東中務丞胤行ともどこかで接触があったことが推測できる。

●東家・冷泉家の略系譜

 藤原俊忠―+―俊成―――――定家―――為家――+―二条為氏――――為世――――→<二条流歌道>
(太宰権帥)|(左京大夫) (民部卿)(民部卿)|(御子左大納言)(大納言)
      |                 |
      +―権大僧都禅智          +―京極為教――――為兼――――→<京極流歌道>
       (園城寺僧剛)          |(右衛門督)  (権中納言)
                        |       
                        +―冷泉為相――+―為秀――――→<冷泉流歌道>
                        |(左近衛中将)|(権大納言)
                        |       |
                        +――娘    +―娘
                           ‖      ‖――――――久良親王
                           ‖    将軍・久明親王
                           ‖
                           ‖――――+―行氏――――→<郡上東氏>
                          東胤行   |(左衛門尉)
                         (中務丞)  |
                                +―胤行女
                                 (『新続古今和歌集』に掲載)

●東氏数周辺系図

 

 初妣    +―氏数
  ‖    |(下野守)
  ‖    |
  ‖――――+―安東氏世
  東益之   (遠江守)
 (下野守)
   ‖‖――+―常縁
   ‖‖  |(下野守)
   ‖‖  |
 +――中妣 +―南叟龍翔
 | ‖    (南禅寺)
 | ‖
 | ‖―――――正宗龍統
 +―継室   (建仁寺住持)

 

 氏数には氏世という弟もあったが、氏世は宝徳3(1451)年にはすでに将軍・義政の命で安東氏(赤松伊予に滅ぼされていた)の家督を継いでおり、安東遠江守を称していた。氏世も歌人として著名で、弟の東左近大夫常縁とは親密な交際を続けていた。常縁も氏世に対して敬語を用いており、尊敬に値する人物でもあったのだろう。

 応永19(1412)年8月15日、将軍・足利義持の八幡宮放生会参詣に益之とともに供奉した安東二郎祐氏があり、氏世はこの祐氏の養子となっていたのかもしれない。『永享以来御番衆』詰衆番衆の四番に「安東遠江守」がある。

 永享2(1430)年7月25日、大納言右大将の足利義教の大将拝賀の参内に、「衛府」の士として十名の武士が列しており、そのうち後二列目に「東三郎左衛門尉氏数」の名が見える(『建内記』)。このころ氏数は奉公衆としてもっぱら京都にあったことがうかがえる。

●永享二年七月廿五日条『建内記』より「衛府」

千秋刑部少輔持秀 曾我平次左衛門尉持康 長次郎右衛門尉信平 佐々木塩冶五郎左衛門尉光清 朝日三郎左衛門尉持経
宮下野守元盛 宮次郎左衛門尉氏兼 結城勘解由左衛門尉持藤 東三郎左衛門尉氏数 松田豊前次郎左衛門尉持郷

 永享5(1433)年正月12日の招月庵清巖正徹の歌会では、父の「下野入道素明」とともに「同左衛門尉氏数」の名が見える。父の東下野入道素明は永享元(1429)年2月30日の歌会までは「東下野守益之」として名が見えており(『草根集』)、その後出家して、嫡男の氏数に家督が継承されたと思われる。前述の義教大将拝賀の永享2(1430)年7月25日、氏数が左衛門尉として供奉していることから、益之の出家・隠居は永享元年2月から翌年7月の間であったと思われる。

 十二日 草庵に畠山阿波守、同右馬頭、山名中務大輔、下野入道素明同左衛門尉氏数なとヽもなひて続歌ありし中に・・

 嘉吉元(1441)年4月3日、下野入道素明が高野山麓にて六十六歳の生涯を閉じると、「長子氏数」が使者を派遣して遺骨を受け取り、所縁の深い京都東山の建仁寺と郡上郡牧村の木蛇寺へ分骨した。

 翌嘉吉2(1442)年4月10日、藤原盛隆父追善品経歌「左衛門尉氏数」が歌を二首献歌している。つまりこの年まで氏数は「左衛門尉」であったことがわかる。しかし、翌嘉吉3(1443)年2月10日の前摂関家歌会に公卿に混じって氏数も出席しているが、この時には「前下総守氏数」と記載されている。

 吉野山みねの白雲かすめとも ふるさとさむき春の明ほの  前下総守平氏数 

 文安3(1446)年正月4日、氏数は常光院堯孝のもとを訪れて年賀を祝し、9日には正徹・堯孝らを自邸に招き、歌会を行った (『堯孝法印日記』)

 正月九日
  
 今度、還補真桑庄、稲葉山程近し、仍為逸興如比詠之、但彼行平中納言の古歌は、いなはの国の
 いなは山也、同名たる計におもひよせ侍る、不可有混乱事也・・・
 人数、正徹禅師、下総入道素忻、沙弥常勲、正晃、知蘊、藤原氏世、比他一族等少々、鶴丸、

 嘉吉3(1443)年には「氏数」であるのに対し、文安3(1446)年には「入道」しており、この三年間に出家したことがわかる。また4月21日に畠山右馬頭入道仙室邸で行われた歌会に「下総入道素忻」とともに「藤原氏世」が見え、彼はおそらく安東遠江守氏世であろうと思われる(『堯孝法印日記』)

文安3年
(1446) 
正月9日
氏数邸歌会
正徹禅師、下総入道素忻、沙弥常勲、正晃、知蘊、藤原氏世、比他一族等少々、鶴丸
4月21日
畠山仙室邸
正徹、亭主父子、素忻、智蘊、寿阿

 宝徳元(1449)年2月4日と26日、招月庵清巖正徹を屋敷に招いて歌会を行った(『草根集』)

 二月四日 東下総入道素忻家にて読歌よみしに…
 二月廿六日 東下総入道素忻家にて読歌の有りしによみし中に…

 『永享以来御番衆』の永享以降の番衆四番のなかに「藤下総入道」「藤三郎」という、東氏と思われる人物が列記され、『文安年中御番衆』にも「東下総入道」が記されている。また、時代は不明だが、番衆四番に「東下総守」「東三郎」「安東遠江入道」「東左近大夫」の名が列記された文書も伝わっている(『久下文書』:「東山殿時代大名外様附」今谷明著・「史林」第六十三巻六号)

 このうち「東(藤)下総入道」とは、氏数を指していると思われ、「東(藤)三郎」は嫡男・東三郎元胤と考えられる。このころ三郎元胤はまだ幼少であったのだろう。 「東左近大夫」は名歌人・東左近大夫常縁のことであり、氏数の弟にあたる。

 彼らと並んで「藤民部又三郎」「藤民部兵庫助」という人物名も記載されている。彼らの血統についてはまったく不明ながら、文明12(1480)年頃の御相伴衆走衆の中に、「藤民部中務少輔(政盛)」の名があり、足利義政の東山御移にも付き従っている。ただし、彼らは「藤民部」を名字として用いているようで、東氏と血縁関係にはない(藤民部家について)。

 氏数の歌は永享11(1439)年6月27日に完成した『新続古今和歌集』に下の一首が入選している。

 かへりみる雲のいつこかそれならむ しらす月日のふる里のそら  氏数 

 宝徳元(1449)年2月4日、「東下総入道素忻」の邸で歌会が催された。7月7日、弟・安東遠江守氏世が七夕の会に列して、東左近大夫常縁に物語りしている。しかし翌宝徳2(1450)年6月、氏数は腫物が悪化して床に伏せており、招月庵正徹がこれを見舞っている。この翌日、常縁が使いとして招月庵へ赴いている(『東野州聞書)

 一 入道殿の腫物の心許なきとて招月庵来臨有、旧友なればしゐて見参有、
 一 昨日の礼とて、御使に招月庵へまかる、

 こののち、氏数の主立った活動は見えなくなり、翌宝徳3(1451)年2月18日の常光院堯孝法印が開いた北野天神での歌会では、弟の安東遠江守氏世東左近大夫常縁とともに氏数嫡子・元胤が出席した(『東野州聞書)元胤は叔父の氏世常縁に伴われて参加したと思われる。こののち、元胤も堯孝に弟子入りしている(『東野州聞書)。おそらく氏数は美濃郡上郡へ引退したのだろう。

 一 二月十八日より常光院、北野社に参籠有、氏世元胤同道申て、罷て一座有、
 
   ・・・
 
   ・・・元胤、和歌の道可為弟子之由、契約有・・・

 康正元(1455)年3月、千葉大介胤直千葉介胤宣(幕府・上杉氏側)と馬加陸奥守康胤入道常義(古河公方側)の反目ののち、8月に胤直らが自刃を遂げると、胤直の甥である千葉七郎実胤次郎自胤が上杉氏を頼って馬加康胤と対立した。幕府は実胤自胤を救援すべく、下総東庄を本拠とする東氏に下総下向を命じた。この追討軍の大将に弟・東左近大夫常縁が命じられ、康正2(1456)年より十年にわたって下総を守ることとなった。常縁も招月庵清巖正徹に一時師事して修行していた歌人で、さらに兵法にも長じた武士でもあった。常縁は浜春利(土岐一族?)を副将として下総に下向していった。

尊星王院跡の碑
尊星王院跡の碑

 寛正6(1465)年5月22日、「東下総入道」が幕府へ「真弓皮一箱」を送り、8月25日には「例年」の通り「鮎鮨三桶」を幕府に進上した(『親元日記』)。このころ氏数がどこにいたのかは不明ながら、三年後の応仁2(1468)年、「平宗玄(東下総入道素玄)」が守る美濃篠脇城が、応仁の乱の余波で美濃守護代・斎藤利藤入道怠念(持是院法印妙椿)の攻撃を受けて落城した。この戦いによって妙見社別当寺・尊星王院が焼失、代々の和歌文書などもすべて失なわれてしまった(『尊星王院鐘銘』)

 応仁の乱は大まかにいえば山名宗全(西軍)・細川勝元(東軍)に分かれて全国の大名を二分した戦いだったが、東軍に荷担した郡上東氏を、西軍の土岐氏(=斎藤妙椿)が攻撃した形となった。篠脇城陥落を下総で聞いた常縁はこれを歎き、和歌を詠んで京都へと送った。この和歌がいつしか斎藤妙椿のもとへ届き、感動した妙椿との間で和歌のやり取りが行われ、篠脇城は東氏のもとに返還されることとなった。常縁は文明元(1469)年4月、上洛の途に就いて5月に京都で妙椿と対面。城は正式に東氏へと返された。

 常縁は美濃へ戻ると、焼失した尊星王院(妙見社別当寺)を再興、翌文明2(1470)年5月9日に焼け残った定家本『古今和歌集』「従五位下平常縁」の奥書を残していることから、文明2(1470)年なかばまでは美濃にいたと思われ、入道氏数も篠脇城に戻っていったと思われる。文明3(1471)年正月28日には、常縁はすでに伊豆三島にあるため、美濃篠脇には入道氏数が在城していたか。氏数の嫡子・元胤は、おそらく氏数に代わって在京していたのだろう。

 氏数は文明3(1471)年5月8日没したと伝えられる。


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