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東師氏(1343-1426)

 郡上東氏五代。四代・東下野守常顕の子。官途は下野守、下総守。号は素杲『故左金吾兼野州太守平公墳記』によれば、「応永三十三年、…師氏卒、実八十四歳之冬也」とあり、応永33(1426)年に八十四歳で亡くなったと思われ、逆算して康永2(1343)年生まれとなる。

●『故左金吾兼野州太守平公墳記』を基本とした想像系譜

    +―行氏―――時常―――貞常―――こう====益之
    |
東胤行―+―氏村―――常顕―――師氏―+―泰村
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                   +―江西派公
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                   +―益之――――正宗龍統

 康応2(1390)年3月17日夜、「東下総守殿」「家来」で、恐らく大間見郷松尾城の城主であった「小太郎」という人物が反乱を起こしたため、翌18日に「野田殿」「一族池田将監殿、三木郎衆」を引き連れて松尾城を取り囲み、これを攻め落としたという(『長滝寺引付書』:郡上八幡町史)。ここの「東下総守」は時代的に見て師氏と考えられる。

 師氏は足利義詮・足利義満・足利義持の四代に仕え、明徳3(1392)年8月の義満の相国寺供養の際には「東下総守平師氏」が供奉の三番手についている。その姿は背が高く、鬚が立派な剛勇の武士と伝わる。

●先陣三番:東下総守平師氏
(副添:遠藤修理亮顕基・遠藤新左衛門尉顕保・遠藤郡左衛門大夫顕久・遠藤兵庫助氏遠)

 このとき、師氏に従っていた遠藤一族は東氏の世臣と推測される。「遠藤修理亮顕基」「遠藤新左衛門尉顕保」「遠藤郡左衛門大夫顕久」は師氏の父・常顕から偏諱を受けていると思われ、常顕の代から仕えていたのだろう。「遠藤兵庫助氏遠」は師氏の一字「氏」を賜わっていると思われ、師氏の代から仕えた人物だろう。

 師氏は二条流の歌人としても有名で「素杲」と号した。時の歌人・招月庵清巖正徹は師氏の歌を「理のうへを美しく遊ばしけるとみまゐらせしなり」と評している。

 彼は西行法師の家集『山家集』を愛読し、勅撰集の『新後拾遺和歌集』『新續古今和歌集』に計四首選ばれた。

 なつ山の 青葉にまじりさく花や 春におくるるこつゑ成るらん  師氏(『新續古今和歌集』)

 応永16(1409)年、「東四郎」が病に臥せったたことを聞いた美濃守護・土岐頼益は、9月7日、郡上郡気良(郡上市明宝気良)に侵攻した。しかし、東氏の恩恵を受けていた郡上郡の民衆は、郡内の中野川に砦を築いて土岐勢の侵略を許さず、頼益もついに侵攻をあきらめた(『荘厳講記録』:長瀧寺蔵)。ただし、このころ師氏はすでに出家して「素果 東下野入道を称しているので、この「東四郎」が師氏かは不明。

 依東四郎煩、土岐勢郡内発向、九月七日土岐一門悉気良中保マテ発向、当郡人々、一味同心シテ中野川ニ構要害云々、属無為里帰云々、

 応永33(1426)年10月12日に84歳で没した。法名は松林院暁月常山

 八十ちにおほくあまりてよみ侍りける

 玉の緒の あるへきほとは長らへぬ 今はたのみを 何にかけまし  素杲(『新續古今和歌集』)

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