東氏
東胤頼 東重胤  東胤行 [1]東行氏
       
[2]東時常 [3]東氏村 [4]東常顕 [5]東師氏
       
[6]東益之 [7]東氏数 [8]東常縁 [9]東縁数
       
[10]東元胤 [11]東常和 [12]東常慶 [13]東常堯
   
東氏とは
東氏惣領家
郡上東氏の一覧
江戸時代の遠藤家・東家
安東氏世(東益之の子)
東貞常(東時常の子)
東氏胤(東元胤の子)
東尚胤(東元胤の子)
郡上遠藤氏

トップページ東氏 > 東胤行


東胤行(1194-1273)

 東氏三代惣領。東氏二代惣領・東兵衛尉重胤の子。通称は六郎。母は不明(父・重胤の妻は下河辺行綱娘との伝があり、胤行の「行」字がその片諱とすれば、母は下河辺氏かもしれない)。妻は二条権大納言為家娘と伝わっているが不明。兄に治部太夫貞胤があったといい、建保元(1213)年の和田合戦で活躍をしたとされる(『讃岐千葉氏系譜』)。しかし、貞胤の活躍は『吾妻鏡』に見ることはできない。

 胤行も父・重胤同様に歌人として名高く、実朝・頼経・頼嗣・宗尊親王に至る四代の将軍に仕え、和歌という京文化を通じて信頼を一身にあつめた。胤行の名がはじめて『吾妻鏡』にあらわれるのは建保6(1218)年11月27日条で、これ以前にすでに実朝の近侍として出仕をしていたことがうかがえる。建保7(1219)年正月の実朝将軍の暗殺直後に父・重胤が隠居したため、胤行が家督を継いだようである。

 彼が郡上東氏に受け継がれていく歌人としての血を開花させた開かせた人物とも言える。父・重胤同様、歌道に執心して二条為家について和歌を学び、二条流の歌人となった。彼の和歌は勅撰和歌集(天皇の勅命によって編纂される和歌集)に撰ばれている。

●東氏・二条家略系譜

 阿仏尼
  ∥―――――――冷泉為相―+―為秀
  ∥      (権中納言)|(権中納言)
  ∥            |
  ∥            +―娘
  ∥             (久明親王母)
  ∥
  ∥            +―泰行
  ∥            |(図書助)
  ∥            |
  ∥      東胤行―――+―行氏
  ∥     (左衛門尉) |(次郎左衛門尉)
  ∥       ∥    |
 二条為家――――    +―義行
(権大納言)         |(四郎)
  ∥            |
  ∥―――――+      +―娘―――――――男児一人
 宇都宮頼綱娘 |      |(上総泰秀妻)
(左衛門尉)  |      |
        |      +―胤行女
        |      |(『新続古今和歌集』勅撰歌人)
        |      |
        |      +―娘
        |      |(三浦某妻)
        |      |
        |      +―氏村
        |       (下野守)
        |
        +―為氏―――――為世   
        |(権大納言) (権大納言)
        | 
        +―京極為教―――為兼   
         (左兵衛督) (権大納言)

 胤行の子は東図書助泰行東四郎義行東六郎左衛門尉行氏本庄七郎盛胤(養子)・東七郎顕信東右衛門大夫秀氏、そして娘が3人いて、長女は上総泰秀の妻、次女は有名な二条流歌人『新続古今和歌集』「胤行女」として選ばれている。三女は三浦氏(泰村?)の妻となった。秀元は常陸国の大生(大掾?)定清の子で、ゆえあって胤行の養子となったとされる。

 恋しぬといひてもへぬる年月の 命や人にうたがはるらん  中務丞胤行女(『新続古今和歌集』)

 『吾妻鏡』では胤行のことを「千葉介常胤棟葉中、右筆の例を始む、文武兼備の士、殊に至要の趣、頻に御沙汰に及ぶ」(『吾妻鏡』宝治二年九月二十日条)と評している。歌道に非常に興味を示した将軍・実朝は、胤行の父・重胤を重用したが、胤行も若いうちから重胤の薫陶を受けて歌道に長じており、父と同じく実朝の近侍として夜番を勤めている。しかし、建保6(1218)年4月、一族の惣領である千葉介成胤が亡くなったため、胤行はしばらく暇をもらって下総国海上庄に帰国していたようである。しかし、半年を過ぎても鎌倉に帰って来ないために、実朝は11月27日、和歌を送って胤行に帰倉を促した。

●『吾妻鏡』建保6(1218)年11月27日条

 去る比下総の国海上庄に下向す。久しく帰参せざるの間、将軍家御書を遣わさる。

  これ早く参上せしむべきの由なり。この次いでを以て御詠を給う
  こひしともおもはていはヽひさかたの天照る神もそらにしるらん

●『金槐和歌集』

  素暹法師、下総国に侍りし頃のぼるべきよし申し遣わす  鎌倉右大臣

   恋しとも思はでいはば久堅の 天照る神も空にしるらん

    返し                      素暹法師

 浜千鳥八十島かけてすむ千鳥 心ひとつにいかがたのまむ

 また、胤行は父譲りの武勇に優れた武士でもあり、承久の乱(1221年)では郎等を率いて京都で戦い、その恩賞として、上西門院領だった美濃国郡上郡山田庄(岐阜県郡上市一帯)を賜ったという。また、承久3(1222)年に賜ったとの説もある。胤行はおそらく譲状として、子息たちに山田庄内の土地を分け与えていたと推測され、そのうち東六郎左衛門尉行氏の子孫が特に繁栄して、のちの郡上東氏の礎を築いたのだろう。一般に美濃山田庄に移住したのは行氏であるとされているが、行氏の兄・四郎義行も所領を有していたようで、おそらく彼の孫と思われる「東有義」という人物が所領を持っていた文書が残されている。

 安貞2(1228)年7月23日、将軍・頼経は三浦駿河前司義村田村山庄(平塚市田村)へ遊覧に出た。このとき供奉した御家人の中に「海上五郎」「東六郎」の名が見える。「海上五郎」は兄の海上五郎胤方「東六郎」はおそらく胤行であろう。

●三浦義村別邸遊覧(『吾妻鏡』安貞二年七月二十三日条)

隨兵左 三浦次郎 結城七郎 城太郎 大須賀左衛門尉 足利五郎 陸奥四郎
隨兵右 長江八郎 上総太郎 小笠原六郎 佐々木太郎左衛門尉 河越次郎 相模四郎
御駕 藤原頼経
御劔 駿河次郎          
御笠 佐原十郎左衛門太郎          
駕籠左 佐原四郎 高井次郎 多々良次郎 印東太郎 遠藤兵衛尉 土肥太郎
稲河十郎 伊佐兵衛尉        
駕籠右 大河戸太郎兵衛尉 下河邊左衛門次郎 梶原三郎 佐貫次郎 波多野小六郎 佐野小五郎
佐々木八郎 春日部太郎 海上五郎 阿保三郎 本間次郎左衛門尉   
御調度懸 長尾三郎          
御後 越後守 駿河守 陸奥五郎 大炊助 相模五郎 周防前司
加賀前司 三條左近大夫 駿河蔵人 左近蔵人 伊賀蔵人 結城左衛門尉
小山五郎 修理亮 白河判官代八郎 佐々木判官 佐々木三郎 長沼四郎左衛門尉
後藤左衛門尉 伊豆左衛門尉 伊東左衛門尉 宇佐美左衛門尉 佐原三郎左衛門尉 宇都宮四郎左衛門尉
伊賀四郎左衛門尉 伊賀六郎左衛門尉 土屋左衛門尉 中條左衛門尉 信濃次郎左衛門尉 籐内左衛門尉
隠岐次郎左衛門尉 狩野籐次兵衛尉 天野次郎左衛門尉 遠山左衛門尉 加藤左衛門尉 江兵衛尉
葛西左衛門尉 相馬五郎 東六郎(胤行) 三浦又太郎 足立三郎 嶋津三郎左衛門尉
遠藤左近将監 海老名籐内左衛門尉 豊嶋太郎 長江四郎 氏家太郎 善太次郎左衛門尉
最末 相模守 武蔵守 相模小太郎      

 同年8月13日に、翌々日に決定している将軍家の鶴岡八幡宮参詣の供奉人が決定した。ほぼ田村山荘供奉人と同様であるが、隨兵に八名が追加とされた。その追加された人物は「相模五郎・小山五・氏家太郎・伊東左衛門尉・葛西左衛門尉・天野次郎左衛門尉・東六郎・足立三郎」である。おそらく東六郎は胤行であろう。

 10月15日には将軍家が「方違」のために小山下野入道生西(小山朝政)の邸へ移った際に供奉している。

 寛喜3(1230)年3月19日、頼経の三崎の磯遊びに随って連歌を詠み、貞永元(1232)年11月29日の永福寺参詣に供奉、雪見の歌会を催した時には「歌に携わる輩」として列した。この時、胤行は「中務丞胤行」とあるので、中務丞に任官していたことがわかる。

 寛喜2(1230)年3月19日、将軍家は三崎の磯に遊覧に出た。ここで催された連歌の会では「両国司、廷尉基綱、散位親行、平胤行」が秀歌を献じた。

 貞永2(1233)年2月7日未の刻(午後2時ごろ)、「東乃中務尉と云武士」が御子左藤原定家の門をたたいた。彼は胤行その人と思われる。胤行は「家長朝臣」の書状を持参していたという。この「家長朝臣」はおそらく定家と親交が深かった歌人・但馬守源家長であろう。胤行は家長とも親交を持ち、その伝で定家に面会しようとしていたことがうかがえる。

 東氏と御子左藤原氏の交流は、東氏の本拠がある下総国三崎庄との関係もあるかもしれない。厳密には、三崎庄は胤行の叔父・海上胤方の一族が地頭職を有した荘園だが、建久10(1199)年4月23日、藤原定家は九条家政所より殿下領である「下総国三崎庄」の預所職に就任し、7月29日、三崎庄預所として藤原定家が就いたことを「地頭等」に知らせるために、雑色光澤を三崎庄に遣わした。このときの「地頭等」は、東重胤(胤行の父)や海上胤方だったのだろう。

 胤行は藤原定家邸内に招き入れられたが、定家は前日から持病の腰痛のために寝込んでおり、面会することができないと返答すると、やむなく胤行は門外に出て帰っていった。胤行は直垂を着ながら車に乗って来ていたという。その直垂という衣装と車という乗り物が、なんとも不釣合いと定家は評しているが、胤行の人物については、手跡や歌の風体が定家の庇護者であった九条大納言兼実と似ていることを聞いており、年老いてからなお彼のような珍重な人物と多く知音になれるか、と日記に記している(『明月記』)

 この記述から、定家はそれまで胤行とは面識がなかったことがうかがえる。胤行がこの時点で孫娘の夫になっているのであれば、当然定家も面識があったと思われることから、もし為家娘が胤行の妻になったのであれば、これよりあとの事となり、この時点ですでに産まれていると思われる東六郎行氏は為家娘の所生ではないことになる。ただ、定家の印象はとてもよく、その後婚姻関係になった可能性は否定できない。ただし、為家の娘の中に東氏に嫁いだとされる女性は系譜に見えない

●『明月記』天福元年二月七日条

七日
…未時許、東乃中務尉と云武士来門前、付家長朝臣書状、自昨日腰損不動身、不能対面之由示之、自門外帰、着直垂云々、乗車其衣与乗物不相応歟、或説云、其手跡歌風体奉似九條大納言云々、当世好士耄及而猶在世珍重知音多出来歟、可従漁父之悔哉否

 文暦2(1235)年1月26日、頼経は方違えのために周防前司藤原親実の大蔵屋敷に入御した。この日は庚申の夜でもあったため、徹夜の歌会が催された。当時の貴族は、庚申の夜に寝ると体内から「虫」が抜け出して天に昇り、天帝にその人の行いを告げ口すると信じていたため、徹夜で催し物を行う風習があった。この歌会で頼経は「竹間鶯」「寄松祝」を題とした二首の和歌を詠んだが、その際に「東六郎行胤」が懐紙を進めた。この「東六郎行胤」海上弥次郎胤方の子・船木六郎行胤か。または胤行の誤記か。

―宝治合戦―

 宝治元(1247)年6月5日、御家人の長老・三浦泰村が安達景盛入道の奇襲に敗れた戦い。胤行の遠縁にあたる上総権介秀胤(三浦泰村の妹婿)も加担していたとされ、時頼は下総の御家人である胤行大須賀胤氏秀胤追討を命じた。秀胤はまだ若い千葉介頼胤に代わって千葉一族を統率する長老でもあり、先年までは幕府の評定衆を務めるほどの人物であった。古くからの在庁系御家人である三浦氏・千葉氏は、北条氏と肩を並べる勢力をもっており、秀胤を一族である東氏・大須賀氏をして討たせるという事は、あきらかに千葉一党の勢力をそがせる意味があったと考えられる。このころには胤行はすでに出家して「素暹」を号していた。

 千葉介常胤―+―胤正――+―成胤――+―時胤―――――頼胤
(千葉介)  |(千葉介)|(千葉介)|(千葉介)  (千葉介)
       |     |     |
       |     |     +―泰胤―――――千田尼
       |     |      (次郎)   (北条時頼後室)
       |     |
       |     +―常秀――+―秀胤―――+―時秀
       |      (兵衛尉)|(上総権介)|(式部丞)
       |           |      |
       |           +―埴生時常 +―政秀
       |            (次郎)  |(修理亮)
       |                  |
       |                  +―泰秀
       |                   (五郎左衛門尉)
       |                    ∥――――――――男子
       |                    ∥
       +―東胤頼―――重胤――――胤行―――+―
        (六郎大夫)(兵衛尉) (左衛門尉)|
                          |
                          +―泰行
                          |(図書助)
                          |
                          +―行氏
                          |(左衛門尉)
                          |
                          +―氏村
                           (左衛門尉)

 実は胤行は、秀胤とは遠い一族である以上に、秀胤の子・五郎左衛門尉泰秀に娘を嫁がせている近い親戚でもあったのである。しかし、幕府の命令は絶対であり、胤行・大須賀胤氏は上総一ノ宮にあった秀胤の館に軍勢を向けた。彼らの軍勢が向かっていることを聞いた秀胤は覚悟を決め、東・大須賀勢が館を取り囲むと、形ばかりの矢合わせを演じたのち、館の周りに積み上げた薪に火を放って自刃したのである。

 胤行ら寄手は一気に燃え上がった炎のために館に近づけず、「敢へてかの首を獲る能わずと云々」と、彼らの首をとることはしなかった。この後、鎌倉へ帰還した胤行は幕府に赴き、秀胤の子や孫たちのために助命嘆願を行っている。この嘆願は受け入れられ、胤行には外孫にあたる1歳の男子(泰秀の子)のほか、秀胤の末子(1歳)、修理亮政秀の子息二人(5歳、3歳)、秀胤の弟・埴生次郎時常の子(4歳)が助けられ、胤行に預けられた。

●『吾妻鏡』宝治元年六月十一日条

今日、東入道素暹愁へ申す事あり。これ上総五郎左衛門尉泰秀は素暹が息女を嫁して男子を生む。今年一歳なり。たとひ縁坐に処せらるべしといへども、当時襁褓の内に纏はれ、是非を知るべからざるものか。今度一方の追討使の賞に募り、預り置くべきの由と云々。

●『吾妻鏡』宝治元年六月十七日条

 
上総介が末子一人一歳。同修理亮が子息二人五歳三歳埴生次郎が子息一人四歳。おのおの出で来る。面々に検見を加へられ、人々預かりこれを守護す。

 宝治2(1248)年9月20日、将軍・頼嗣は「東中務入道素暹」へ問状の御教書を送るよう、伊勢前司行綱・大曽祢左衛門尉長泰を奉行として命じました。素暹は「千葉介常胤棟葉の中、右筆の例を始む、文武兼備の士」であるため、「殊に至要の趣」については、将軍家よりの諮問を頻りに受けていたことがうかがえる。その九日後の9月29日、御所において九月を惜しむ詩歌御会が執り行われており、頼嗣が素暹に諮問したのは、この歌会についてであると思われる。

 建長4(1252)年、北条時頼は将軍・頼嗣が自分を除こうとしているとして、時頼は頼嗣を京都に追放してしまった。将軍家の京都送還は頼嗣の父・頼経の代から行われているが、後任の将軍には、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王が迎えられることとなった。これが「皇族将軍(宮将軍)」の始まりであり、将軍は宗尊親王以降、惟康親王久明親王守邦親王と四代にわたって天皇家より迎えられている。

 宗尊親王は二条為家を和歌の師としていた。素暹(胤行)も二条為家から和歌を学んでいたと伝わり、胤行は宗尊親王の同門となる。こういったことからも胤行への宗尊親王の信頼は相当なものがあったのだろう。胤行の歌は『続後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』に見ることができる。

 
  さほしかの入野の薄き霜かれて 手枕さむき 秋の夜の月 (『続古今和歌集』)
  ねぬにみし むかしの夢のなこりとて 老のなみたにのこる月かけ (『続拾遺和歌集』)

 胤行(素暹)は、当時東国に流されていた親鸞上人(法然上人の弟子。浄土真宗の宗祖)に師事し、親鸞の自画像と「南無阿弥陀仏」の名号を賜ったという。その後、「山里」に隠棲するようになったようである。そのころの心情を、

 
  世をのがれて後山里にまかりてよみ侍る歌

  住み馴れし都を何と別れけむ うき世はいずくも我身なりけり 素暹(『続後撰和歌集』)

と詠んでいる。

乗性寺
乗性寺

 この「山里」とは具体的な記述はないが、承久の乱の戦功で賜ったとされる美濃国山田庄か。胤行は正嘉元(1257)年に郡上郡刈安戸谷に念仏道場を建立したという。現在の浄土真宗乗性寺(郡上市美並町白山)である。

 弘長3(1263)年ごろになると、次第に病に伏せることが多くなったようで、鎌倉の将軍・宗尊親王も心配していたが、いよいよ病が重くなっこと伝え聞くと、親王は胤行のもとに歌を届けさせた。これを拝受した胤行は、返歌を詠み、同年7月26日に亡くなったという。享年は85歳といわれているが、85歳だとすれば治承3(1179)年生まれ、つまり父との年齢差がわずか2歳となると矛盾が生じるので、別説の文永10(1273)年10月3日に80歳で亡くなったというのが、事実に近いと思われる。法名は廣慶了空宗源

 
 素暹法師わつらふこと侍りける かきりに聞こえ侍りければつかはしける

  限りとぞ聞くぞ悲しきあだし世の 別はさらぬ習ひなれども  中務卿 宗尊親王

                         かへし  素暹法師

  かくつらき別も知らであだし世の 習ひとばかりなに思ふらん

 いつのころかはわからないが、『沙石集 巻第五末』「和歌ノ人ノ感アル事」条に「東ノ入道」のことが記載されている。九州の大進房という僧侶が悪党(窃盗のこと。後世の悪党と意味が異なる)のために捕らえられて鎌倉に護送され、牢に拘禁された。拘禁されて八年、ある七夕の日に歌を詠んだ。

 
 ぬきかふる袂なければ七夕に しをたれ衣きながらぞかす

 この歌のことを聞いた「東ノ入道(胤行)」は、雅な心を持つ人物と感激し、幕府に申し出て彼を預かり、さらには「メイムコニシテ」とあるように、姪の婿にしたうえに「奥州ニ知ル所ノ代官(奥にあった東氏の知行地の代官)としたと『沙石集』に記載がある。『沙石集』は弘安6(1283)年の成立であり、著者・無住一円は胤行と同時代の人物。当時すでにそういった話が伝わっていたことを示すものであろう。

 もう一点、同じく『沙石集 巻第五末』「連歌事」条に「故東ノ入道」が大病に罹ったときの逸話が伝えられている。胤行は病が重くなったため、年来、歌詠みとして親しくしている人たちを呼んで、最後の歌会を開いて連歌を行った。まず、胤行が、

 あはれげに今いくたびか月をみむ

と発句を詠んだ。「ああ、これから何度月を見ることであろう」という悲観的な歌であるが、さらに実は「幾度」と「行く旅(死出の旅)」、「月」と「月(月数)」とをかけていることに、人々は禁忌を感じた。この時「簾中」が、

 たとへば長き命なりとも

と付け、満座は感歎したという。「簾中」がいかなる人物かはわからないが、和歌に堪能な高貴な女性であろう。なお、このときの胤行の病は快復したという。この説話の中で胤行の「妹ノ若狭局」という女性が登場するが、彼女は東氏の系譜に記載されていない。「局」とあることから、彼女は女房として将軍家に仕えていたと思われる。

●胤行の没年について●

(1)弘長3(1263)年7月26日、享年85歳。→治承3(1179)年生まれ
(2)弘長3(1263)年7月26日、享年91歳。→承安3(1173)年生まれ
(3)文永10(1273)年10月3日、享年80歳。→建久5(1194)年生まれ
(4)文永10(1273)年10月3日、享年81歳。→建久4(1193)年生まれ

ページの最初へトップページへ千葉宗家の目次千葉氏の一族リンク集掲示板

東氏惣領家沼闕東氏上代東氏郡上東氏諸国の東氏

郡上藩主遠藤家三上藩主遠藤家旗本乙原遠藤家旗本和良遠藤家

copyright(c)1997-2009 chiba-ichizoku all rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。