【千葉氏】 【相馬氏】【武石氏(2)】【大須賀氏】【国分氏】【東氏】【円城寺氏】 〔ご協力・ご参考〕
千葉常胤の三男・胤盛(三郎)が、下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区武石)を領して武石を名乗ったのが始まり。千葉六党(千葉・相馬・武石・大須賀・国分・東氏)のうち、頼朝の挙兵以前に苗字地を持っていたのは、武石胤盛・多部田胤信(のち大須賀)・国分胤通であった。このうち、国分胤通以外は、すべて千葉郡内の地名を称しており、千葉氏の権力は千葉郡内に限られていたと考えられる。国分胤通にかぎっては、「下総権介」という父・千葉介常胤の代官の立場で、八幡庄内国分を領し、国衙に出仕もしながら、官牧の支配を行っていたか。 胤盛は木曾義仲との戦いの中で、樋口兼光と戦った「粟津の戦い」で活躍したとされる。ただ、『吾妻鑑』には武石胤盛の名はほとんど現れない。千葉庄内に本貫地を持っていたのは武石胤盛のほかに椎名胤光(常胤の弟)もあるが、彼も『吾妻鑑』には出てきておらず、彼らはもっぱら本国・千葉庄の守りをしていたのかもしれない。 胤盛の父・千葉介常胤は、奥州藤原氏との戦いの功績によって奥州の所領を頼朝から賜ったが、胤盛はほかの兄弟とともに参戦しており、常胤は頼朝から賜った所領のうち、「伊具・亘理・宇多郡」の地頭職が胤盛へ分与されたとされる。目立った活躍がなかった胤盛に広大な所領が譲られていることなどから、胤盛は目立たないにせよ、千葉氏にとって大きな功績を立てていたか? ●千葉介常胤が子供たちに分与した所領
千葉介常胤―+―千葉胤正
胤盛は建保3(1215)年6月13日に70歳で亡くなったとされるが、『吾妻鏡』で胤盛の名が最後にあらわれるのが建久2(1191)年正月1日の、千葉介常胤の垸飯(おうばん。饗応のこと)で、ここから胤盛が亡くなったとされる建保3年まで、胤盛に関する記録はない。さらに武石氏自体も建久2(1191)年から寛元3(1245)年まで50年もの間、記述がない。これは胤盛が隠居、もしくは亡くなったのち、嫡子・胤重が病弱であったため、胤重の子が現れるまで記述がなされなかったのかもしれない。
胤盛は観音菩薩を崇拝していた。武石氏の本城・武石城は現在の千葉市武石町権現腰にあり、ここには観音菩薩と胤盛の亡母を祀ったといわれる三会寺真蔵院がある。胤盛の母は秩父重弘の中娘で、千葉新介胤正・相馬師常・武石胤盛・大須賀胤信・国分胤通・東胤頼ら千葉六党の祖の母であり、建久5(1195)年に胤盛が母の菩提を弔って建立したと伝えられる「武石の板碑」が残されている。しかし、この板碑は永仁2(1294)年、武石城と南に隣接する須賀原の愛宕山に造立された七枚の板碑(秩父緑泥岩)の一つで、胤盛の母親の菩提を弔う意味で建立されたことがわかっている。時代的に胤盛の曾孫にあたる武石宗胤(左衛門尉)の建立か?真蔵院に移されたのは、江戸時代の宝暦3(1753)年である。 その嫡男・武石胤重は実朝の側近として幕府に仕えていたが、病弱であったためその活躍はほとんどなく、戦争には子供たち(広胤・朝胤・胤氏・五郎)を代理として参加させ、嫡男・武石広胤(小次郎)は承久の乱で功があった。三男・武石朝胤(三郎)は左衛門尉に叙せられて幕府に仕え、子・武石長胤(新左衛門)は九条頼経から宗尊親王までの三代の側近として仕えた。子孫は下総武石氏の祖となる。胤重の四男・武石胤氏は千葉介胤綱の娘を妻とし、その子・武石宗胤が曽祖父・胤盛が賜った奥州三郡に下っていった。胤氏は正和3(1312)年7月3日、64歳で亡くなる。最上の写真は「光明山胤重寺」といい、千葉市内にある胤重を祀っている古刹で、寺の瓦には千葉氏の紋所「月星」が燦然と輝く。後ろにみえる森は千葉氏ゆかりの千葉猪鼻城址である。寺の隣には県立中央図書館がある。 ●武石氏略系図
千葉介常胤 +―千葉介胤正 +―広胤――――――胤村
武石氏は鎌倉時代から近江佐々木氏(宇多源氏)との縁組みをもっていたようで、神奈川県箱根・長野県小県郡長門町大門の法篋印塔には「佐々木氏女」とともに「武石宗胤」の名が見れる。武石宗胤の妻は「佐々木近江守源氏信女」であり、彼ら夫婦の建立したものであろうか。それから同じく上田市武石(美ヶ原高原美術館がある所)の小沢根の子壇峯神社境内にある笹焼社には「月星」紋(千葉一族の紋)が見え、そのうしろには「武石平胤盛」の名と「月星」紋がついた石塔が現存している。また、付近には武石山妙見寺があり、「妙見」と名のつく地名が検地帳に見る事ができる。これらから、武石氏は信濃国小県郡などに地頭職を持っていたのだろうか。しかし、15世紀に入るとこの地には大井氏が入封し、武石氏は姿を消した。武石宗胤の子・武石胤継(孫四郎左衛門尉/治胤)は父の遺領・亘理郡などを継いで元弘元(1331)年2月6日、60歳で亡くなった。 その奥州亘理郡を根城として発展していったのが武石氏の子孫・亘理氏である。亘理氏は、奥州武石氏当主の武石広胤が足利尊氏に仕えて、同三郡を安堵された後に亘理と称した。しかし、その子・亘理行胤は伊達家の麾下に入っている。子孫は伊達家から養子をむかえ、慶長年中に「伊達」の姓と「竹に雀」紋を拝領し、伊達一門となって幕末まで八千石の涌谷領主として続いた。伊達騒動のときの伊達藩家老・伊達安芸宗重はこの子孫である。 一方、下総国に残った武石氏は千葉一族として一勢力を持っていた。武石胤秀(日向守)は足利持氏に従って永享の乱で討死している。その子孫・武石蔵人胤親は国府台の戦いで親北条派の千葉宗家に背いて足利義明に従った。9月8日(天文7年か)の『源義明感状』には、「当国の侍は義がない中で、(北条方の)千葉一家に背いてきたその志は悦ばしい限りだ。来月20日には里見義尭が生実に参るから、その節にはこちらへ参られるように」とあり、胤親を快く思っている様子がわかる。しかしその10月20日を前にして、天文7(1538)年10月7日におこった国府台の戦いで北条軍によって胤親は討ち取られている。 胤親の嫡男・武石胤康は浪人して、稲毛浅間神社(千葉市稲毛)神主・布施遠江守正基の婿養子となり、布施氏を継いだ。ここに下総武石氏は滅ぶ事になる。その子・布施正光(修理)は祖父の正基を烏帽子親として元服している。彼は永禄7(1564)年1月8日の第二次国府台合戦で北条側の部将・佐貫伊賀守を馬上から射落としたものの、戦死してしまったため、弟の武石弥三郎は千葉氏の筆頭家老・原胤栄(式部大夫)のとりなしで布施平三を称して兄の領地を継いだ。この布施氏の末裔は現在も続いている。 ●安房武石氏 下総武石氏の一族と思われる武石有胤は里見義堯の「四天王」として天文7(1538)年の国府台の戦いに従軍し、戦死した。有胤の子・山城は里見義康に仕え、天正19(1591)年に丸本郷(丸山町)の代官となった。その子・勝左衛門は、義康百人衆の一人で、里見氏改易後は帰農した。 →千葉介常胤−武石胤盛−…11代…−有胤(里見四天王)−山城守(安房郡丸山丸代官)−勝三郎(里見百人衆) ●薩摩武石氏 薩摩国に移り住んだ武石氏があった。文永5(1568)年、武石胤吉(左京亮)なる人物が大隈国へ移り住み、その後は島津家に仕えたという。このころ千葉新介宗胤は元寇への対応のために九州へ下向し、下総国からも数多くの郎従を引き連れていった。のち、肥前千葉家の家臣として活躍した岩部氏、仁戸田氏、円城寺氏らはこの時下総から下向した一族の末裔と思われる。この中に武石氏もあったのかもしれない。 宗胤は幕府の奏請によって大隈守に任官し、大隈国の裁判などを取り扱っていることから、武石氏の大隈移住という伝承はこれに基づいているのかもしれない。武石氏は現在の志布志町、福山町に多く残っている。
武石氏初代当主。父は千葉介常胤。母は秩父重弘の娘。通称は三郎、官途は左衛門尉。 千葉介常胤の子供のうち、平安時代末期にすでに在地領主として派遣されていた者は、三男・胤盛(武石)、四男・胤信(多部田)、五男・胤通(国分)で、嫡男・胤正、次男・師常、六男・胤頼は「千葉」を称していた。
・千葉太郎胤正
『吾妻鏡』によれば、治承4(1180)年9月17日、胤盛は父・千葉介常胤や兄弟とともに下総国国府で頼朝に参会したとされており、これが胤盛の初見となる。 寿永元(1182)年8月12日、頼朝の嫡子・頼家が生まれた際の御七夜の儀は千葉介常胤が沙汰することとなり、胤盛は弟・多部田胤信とともに庭に献上の馬を曳いてきた。このときの様子は「兄弟皆容儀神妙の壮士なり。武衛殊に感ぜしめたまふ」と『吾妻鏡』に記載されている。 胤盛にはどういったわけか、その後の目立った活躍は見られず、平家との戦いにも名を見せていない。次に胤盛の名が見えるのは奥州平泉の藤原泰衡との戦いで、文治5(1189)年8月12日、父・常胤や兄弟たちとともに多賀城で頼朝と参会した。 進軍した頼朝勢は、8月22日午後四時ごろ、霧雨の降りしきる平泉に入った。しかし、泰衡はすでに平泉を逐電したあとであった。頼朝が見た平泉は、数日前までの栄華はすべて灰燼となりはて、燃え残った柱から煙をくすぶらせる家々、雨霞の街には人の気配もなく、奥州藤原氏四代の栄華の象徴でもあった伽羅の御所もその塁蹟を遺すのみの死の街であった。夜に入っても荒野には霧雨が音もなく降り続き、秋風は飄々と陣幕をはためかせていた。 8月25日、衣河館で胤盛の弟・東胤頼が泰衡の外祖父・藤原基成(前民部少輔)を捕らえた。基成は捕らわれたとき、鎧もつけずに悠々と碁を打っていたという。基成はかつての「平治の乱」の首謀者・藤原信頼(左衛門督)の実弟で、連座して陸奥国に流されていた人物である。赦免されたのちも京都に帰らずに平泉に残った。 9月3日、頼朝のもとに泰衡の首が届けられた。彼を討ったのは泰衡の年来の郎党・河田次郎であり、頼朝は彼を主殺しの大罪人として斬首した。 9月20日、平泉において論功行賞が行われ、千葉介常胤は陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。常胤はのちに六人の子息にこれらを分与し、胤盛は「伊具・亘理・行方郡」三郡内の村々の地頭職が与えられたようである。 建久2(1191)年元旦、千葉介常胤は椀飯振舞を勤仕した。実は、頼朝はこの前年11月に京都において大納言・右近衛大将に任じられたが、12月4日にこれら一切を辞して12月29日に鎌倉に戻ってきており、常胤は「前右近衛大将家」初の椀飯を勤めることになったのは、頼朝の信任が大変篤かったことがうかがえる。このとき、胤盛は砂金を献上している。 ●健久2(1191)年正月1日:椀飯の献上
椀飯に列席した人物のうち、境常秀・寺尾業遠は常胤の直系の孫だが、臼井常忠、天羽直常は上総氏系の武士であり、とくに天羽直常は上総介広常の甥である。彼らが常胤に従って椀飯に参じているのは、すでに彼ら旧上総平氏系豪族が常胤の支配下にあったことがうかがえる。 胤盛は建保3(1215)年6月13日に70歳で没したという。一説には61歳。
胤盛は観音菩薩を崇拝しており、武石氏の館があったと伝わる武石館は現在の千葉市武石町権現腰にあり、ここには観音菩薩と胤盛の亡母を祀った「三会山真蔵院」がある。 真蔵院には、建久5(1195)年に胤盛が母の菩提を弔って建立したと伝えられる「武石の板碑」が残されている。この板碑は永仁2(1294)年、武石館の南に隣接する須賀原の愛宕山に造立された七枚の板碑(秩父緑泥岩)の一つで、胤盛の母親の菩提を弔う意味で建立されたことがわかっている。時代的に胤盛の曾孫にあたる武石宗胤(左衛門尉)の建立か? なお、真蔵院に板碑が移されたのは、江戸時代の宝暦3(1753)年である。 武石氏二代当主。通称は次郎。官途は左衛門尉。 建久6(1195)年5月20日の天王寺参詣には先陣の隨兵に「千葉三郎次郎」として名が見える。 ●天王寺参詣供奉人交名(『吾妻鏡』建久六年五月廿日条)
嘉禄3(1227)年に鋳造された亘理郡の松島五大堂の鐘銘に「曰理郡地頭武石二郎胤重 嘉禄三年丁亥被鋳改畢」とあり、胤重は亘理郡地頭職にあったことがうかがえる。また、「武石入道胤盛」と「同七郎胤重」が紀伊国の熊野神社の御師との間に「師壇」の契約を交わしていたことが見えるが(『紀伊国古文書』国文学資料館蔵:紀伊国和歌山本居家旧蔵紀伊続風土記編纂史料)、ここの「七郎胤重」は「二郎胤重」の誤りか。 武石氏三代当主。通称は小次郎。官途は左衛門尉。 武石氏四代当主。通称は次郎。官途は左衛門尉。 建長4(1252)年4月1日、片瀬川の宿に着御した関東下向の新将軍・宗尊親王(三品。嵯峨天皇二宮)の御迎えの御家人として、隨兵に叔父の武石三郎朝胤と並んで「武石次郎」の名が見える。
武石氏三代当主(武石氏の惣領家ではないが、胤盛から数えて三代目ということで、便宜上三代目とする。以下同)。通称は四郎。官途は左衛門尉。妻は千葉介胤綱娘。 建長2(1250)年8月18日、由比ヶ浜で行われた犬追物で御所からの行列中、将軍家の側に供奉した「武石四郎」の名が見える。これが胤氏の初見である。 ●由比ヶ浜逍遥供奉(『吾妻鏡』建長二年八月十八日条)
建長4(1252)年8月1日、宗尊親王の征夷大将軍宣下に対する鶴岡八幡宮に御拝賀の隨兵交名に「武石四郎胤氏」として名を見せる。 武石氏4代当主。父は武石四郎左衛門尉胤氏。母は千葉介胤綱の娘。通称は弥四郎。官途は左衛門尉。妻は佐々木氏綱(京極氏綱)の娘。佐々木道誉の大叔母にあたる女性。6代将軍・宗尊親王からの偏諱を受けて「宗胤」を称したと思われる。 永仁4(1296)年5月4日、「■円房祐禅」が大願主として相模国箱根山に石塔を奉納しているが、その「結縁衆」として「武石四郎左衛門尉宗胤」「及月光源氏女」「源宗経」らが連署している。武石宗胤の妻は源氏綱(佐々木氏綱)の娘で、その兄弟に「源宗綱(佐々木宗綱)」がいた。宗経と宗綱が同一人物であるとすると、武石宗胤の近親が導師として忍性上人を招いて、供養を行ったか。 ★千葉胤綱周辺の婚姻系図・2 佐々木定綱―佐々木信綱―+―六角泰綱 +―京極満信―――――――京極宗氏――――京極高氏(佐々木道誉) 弘安3(1280)年5月9日、新日吉の小五月会における流鏑馬に、三番手として「武石新左衛門平長胤」の名が見える(『勘仲記』増補史料大成所収)。彼は建長4(1252)年4月1日、関東に下向した新将軍・宗尊親王(嵯峨天皇二宮)を迎え、隨兵として加わった「武石三郎朝胤」の子であり、宗胤の従兄弟にあたる人物である。流鏑馬で実際に射手として武石長胤と組んだ「百間又四郎平信光」は武石氏の郎党か? ●新日吉小五月会の流鏑馬交名(『勘仲記』増補史料大成所収)
武石氏5代当主。父は武石弥四郎左衛門尉宗胤。母は不明。通称は弥四郎。官途は左衛門尉。 武石氏6代当主。父は武石弥四郎左衛門尉胤継。母は不明。通称は弥三郎。官途は従五位下・右京亮。 文保2(1318)年3月12日、鎌倉の葛西ヶ谷にて郎従に討たれた。二十七歳。 武石氏7代当主。父は武石弥四郎左衛門尉胤継。母は不明。妻は国分盛胤娘。通称は四郎。官途は従五位下・石見守。 最後の得宗・北条高時の偏諱を受けて「高広」を称したと思われる。 南朝方の鎮守府将軍・北畠顕家に随い、京都の後醍醐天皇を救うべく多賀城を発った顕家に供奉して足利直義の守る鎌倉を攻め落とし、上方へ向かったが、暦応2(1339)年5月22日、和泉国石津の戦いにて、高師直の軍勢と合戦。高広は43歳で討死を遂げた。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 武石氏の本惣領家か。官途は上総権介。父親・母親・兄弟など一切不明。 胤顕の活躍がはじめて見えるのは、建武元(1334)年12月14日の『津軽降人交名注進状』の名前である。この交名の中で、胤顕は「武石上総権介」として見え、津軽の工藤氏を中心とする反乱の部将であった「金平別当宗祐」「弟子智道」を胤顕の代官が預かっている。すでに建武元年の時点で「上総権介」を名乗っていることは、おそらく鎌倉幕府が存在していた1〜2年前にはすでに上総権介であった可能性があり、系譜に見える「武石四郎高広」よりも官途的に上位にあったことがわかる。 さらに、建武2(1335)年6月3日『陸奥国宣』(『相馬文書』)によれば、陸奥守・北畠顕家は「相馬孫五郎殿(重胤)」に「武石上総権介胤顕」とともに「奥州検断職」として「伊具・日理・宇多。行方等郡、金原保検断事」を沙汰すべしとの国宣を発している。つまり、武石胤顕は奥州検断職に就任していたことがわかる。胤顕とともに検断職を命じられた「相馬孫五郎重胤」が相馬氏の惣領家であることを考えると、この武石胤顕こそが武石氏の惣領家であったと考えられる。また、武石高広が南朝方として討死したと伝えられているのに対し、胤顕は一貫して北朝方に属していたことがわかり、高広が実在の人物であったとすると、胤顕とは対立していたと思われる。
胤顕の事柄については、建武4(1337)年正月の『氏家道誠奉書』(『相馬文書』)に「去々年」に「相馬孫五郎重胤」が北畠顕家と合戦するために鎌倉へ出発する際、亘理郡河名宿において「武石上総権介胤■」と会っていることがうかがえ、このころまで胤顕の活躍が見られる。そしてこのとき、鎌倉に下っていく相馬重胤の軍勢には「武石五郎胤通」という人物が多数の相馬一族とともに加わっており、上総権介胤顕と胤通は親子、または兄弟など比較的近い血縁にある一族であったのかもしれない。しかし、これを最後に「武石上総権介胤顕」の名は見えなくなる。 一方、建武3(1336)年4月16日、相馬孫五郎重胤は鎌倉郊外の片瀬川において、京都から下ってきた北畠顕家の軍勢と戦って敗れ、鎌倉法華堂で自刃して果てた。重胤は建武2(1335)年12月、鎌倉に下る際に、二男・光胤(松犬・弥次郎)を伴っていたが、2月18日、彼を急遽、小高城に戻すこととし、3月3日、光胤は45人の一族らを率いて小高城に着到した。この光胤に従って小高城に戻った人物中に「武石五郎胤通」がある。光胤は小高城に下ると、南朝方勢力から城を守るために城普請を始めるが、4月16日に鎌倉を攻め落とした北畠顕家の軍勢は怒涛の勢いで奥州へ入ってきたため、光胤は防ぎきれないと悟り、5月20日、甥・松鶴丸を養子として所領を譲り、24日の小高城の戦いで光胤以下主だった相馬一族は討死を遂げた。その際、「武石五郎胤通」は松鶴丸とともに城を落ち延びたようで、建武4(1337)年正月の『相馬胤頼着到状』(『相馬文書』)にも、胤頼を支える人物として名が見える。 ●相馬氏略系図 ⇒相馬重胤―+―相馬親胤――相馬胤頼 先にも記したように、建武4(1337)年正月を最後に「武石上総権介胤顕」の名は見えなくなるが、翌2月6日、「武石四郎左衛門入道々倫」という人物が現れる。その子息である「子息左衛門五郎」の軍忠がすばらしいということで、正和年(1312-1317)より武石氏の所領であった亘理郡坂本郷の所領権利を認められている。この「左衛門五郎」がいかなる人物かは不明だが、相馬氏に従って南朝方と戦いを続けていた「武石五郎胤通」かもしれない。 【正和年(1312-1317)より坂本郷知行】 【康永2(1343)年8月3日、坂本郷半分】 観応2(1351)年10月25日、吉良貞家から「武石但馬守」へ宛てて、「船迫合戦」にて「舎兄四郎左衛門尉」が討死を遂げたことについて功績をたたえ、「曰理郡坂本郷」の半分を知行安堵した。この合戦で討死した「四郎左衛門尉」とは、建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』にあらわれる「武石四郎左衛門入道道倫」とは時代的にも明らかな別人であるが、道倫の子なのかもしれない。そうすると「但馬守」はその弟になるが不明。建武4(1337)年2月6日『氏家道誠奉書』の「左衛門五郎」と「但馬守」はもしかしたら同一人物かも。 吉良貞家から武石但馬守へ亘理郡坂本郷内の所領を与えられる七か月ほど前の観応2(1351)年4月9日、幕府は小早川備後守貞平・平賀遠江兵衛蔵人貞宗に、「武石美作四郎胤泰」の領地である安芸国八野郷内に乱入した西條弥六左衛門入道、大多和左衛門太郎を追放し、胤泰へ沙汰するよう命じている。この武石美作四郎胤泰は系譜に記載されていないため、どのような人物かは不明(『萩藩閥閲録』)。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 武石氏8代当主。父は武石四郎高広。母は国分盛胤娘。官途は左兵衛尉・因幡守。 暦応2(1339)年5月、父・高広の討死を受けて家督を継承したと思われ、同年8月、足利尊氏の召しに応じて上洛し、宇多・伊具・亘理の三郡内の所領を安堵されたと伝えられている。おそらくこの時「武石」を改めて「亘理」を称したのだろう。旗紋は「白地に黒丸」と定められた。 永徳元(1381)年4月29日、63歳で亡くなった。 武石氏9代当主。父は亘理因幡守広胤。母は佐竹右馬頭義盛娘。妻は岩城下総守清胤娘。通称は彦四郎。官途は肥前守。 永徳元(1381)年秋、伊達弾正大弼宗遠と刈田において合戦して敗れ、伊達家の麾下に入ったという。 明徳4(1393)年9月20日、51歳で亡くなった。 武石氏10代当主。父は亘理肥前守行胤。母は岩城下総守清胤娘。妻は不明。通称は彦五郎。官途は刑部少輔。 応永19(1412)年3月、国分右馬頭盛経と合戦して討死を遂げた。44歳。 武石氏11代当主。父は亘理刑部少輔重胤。母は不明。妻は山内兵部大輔氏義娘。通称は不明。官途は兵部大輔。 応永23(1416)年9月、父・重胤を討った国分右馬助盛経の屋敷を急襲して、これを討ち取った。 嘉吉元(1441)年12月8日、58歳で亡くなった。 武石氏12代当主。父は亘理兵部大輔胤茂。母は山内兵部大輔氏義娘。通称は彦四郎。官途は肥前守。 文安3(1446)年4月13日、39歳で亡くなった。 武石氏13代当主。父は亘理兵部大輔胤茂。母は山内兵部大輔氏義娘。通称は不明。官途は兵部大輔。先代・茂連の弟。 文安3(1446)年4月、兄の茂連に男子がなかったため、弟の宗清が家督を継承したが、寛正4(1463)年正月21日、異母弟の亘理兵庫允茂元が攻め寄せ、防ぎきれずに自刃を遂げた。48歳。このとき、子の亘理左馬允清胤・亘理彦九郎孝胤もともに自刃を遂げている。 ●亘理家略系譜 山内氏義―――娘 +―茂連 +―清胤 宗清の母は山内兵部大輔氏義の娘である一方、茂元の母は山内氏と敵対していた葦名氏の娘であったことから、山内家と葦名家の抗争が、亘理家の内紛を生んだと考えられている。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 父は亘理兵部大輔宗清。母は不明。通称は彦五郎。官途は左馬允。 寛正4(1463)年正月21日、叔父の亘理兵庫允茂元が父・亘理兵部大輔宗清の館を急襲したため、防ぎきれなかった宗清は自刃を遂げ、清胤も弟・亘理彦九郎孝胤とともに自害した。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 武石氏14代当主。父は亘理兵部大輔胤茂。母は葦名氏娘。通称は彦五郎。官途は兵庫允。十二代・茂連、十三代・宗清の異母弟。 寛正4(1463)年正月21日、義兄で亘理家当主だった亘理兵部大輔宗清の一族を攻め滅ぼし、家督を継いだ。 文明13(1469)年9月20日、61歳で亡くなった。 武石氏15代当主。父は亘理兵庫允茂元。母は不明。通称は彦五郎。官途は因幡守。 永正元(1504)年2月18日、59歳で亡くなった。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 父は亘理因幡守元胤。母は不明。通称は彦五郎。 延徳元(1489)年3月20日、22歳で亡くなった。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 武石氏16代当主。父は亘理因幡守元胤。母は不明。通称は彦七郎。官途は従五位下・右近将監。 兄・亘理彦五郎元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。かつて一度、伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。そして、この宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。 享禄4(1531)年11月4日、60歳で亡くなった。 武石氏17代当主。父は亘理右近大夫宗元。母は不明。初名は元重。通称は彦五郎。官途は従五位下・右近将監・兵庫頭。 宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗と一人娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎(綱宗)と乙松丸(元宗)を養子に迎え、稙宗は涌澤弾正・千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。 しかし亘理彦四郎綱宗は、宗隆の家督を継ぐ前の天文13(1544)年3月25日、天文の大乱の掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。 弘治2(1556)年7月21日、64歳で亡くなった。法名は寛宥院殿仁翁全儀大居士。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
十七代・亘理宗隆養嗣子。父は伊達左京大夫稙宗。母は亘理彦五郎宗隆娘。通称は彦四郎。宗隆には男子がなかったことから、外孫にあたる彦四郎綱宗と乙松丸(元宗)が宗隆の養子となった。 綱宗は、父・伊達稙宗と兄・伊達晴宗の父子争いが発端である「天文の大乱」の動乱に巻き込まれ、天文13(1544)年3月25日の伊達郡穂原掛田の役において18歳で討死を遂げた。法名は浄因清享信士。この合戦で重臣の菱沼弾正時久も討死を遂げた。 母の亘理宗隆娘は天文22(1553)年6月13日に亡くなった。法名は天窓慶普信女。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 武石氏18代当主。父は伊達左京大夫稙宗。母は亘理彦五郎宗隆娘。妻は国分能登守平盛氏娘(月光院)。幼名は乙松丸。官途は従五位下・兵庫頭。入道して元安斎。 ■伊達家から亘理家へ■
実兄・彦四郎綱宗が天文12(1543)年に討死を遂げたため、乙松丸が亘理家を相続し、「亘理元宗」を名乗った。 天文21(1552)年2月、23歳の時、上洛を果たして将軍・足利義輝に拝謁し、白銀五枚を献上。義輝の奏請によって従五位下の官位を賜り、兵庫頭に任じられた。そののち、紀州熊野社に詣でてから奥州に帰国した。蹴鞠が好きだった元宗は、京都に滞在している際に蹴鞠の家である飛鳥井雅教の屋敷にて蹴鞠の会を鑑賞している。 ちょうど同じころ、武田信玄の父・武田信虎が京都に隠棲しており、元宗のもとを訪れた。文武に通じた人物と出会うことができて非常に嬉しいと、信虎は佩刀・綱広を元宗に譲ったという。また、京都の愛宕神社に詣でて感動した元宗は、領内に愛宕祠を建立した。この愛宕祠はのち涌谷伊達家の居城・涌谷城の城東にうつされた。 天文22(1553)年4月15日、先年に京都で出会った飛鳥井雅教が奥州に下り、元宗のもとを訪ねた。この遠路からの賓客に対し、元宗は猩々緋の織物五端をもって饗応し、その帰途には馬二疋と黄金百両を餞別として捧げている。 また、元宗は兄・伊達晴宗や甥・伊達輝宗をよく支え、所領のある宇多郡の統治を固めた。一方、永禄8(1565)年、名取郡沙留川における相馬家との戦いでは一方の大将として活躍し、相馬家侍大将・富田丹波を斬ってその佩刀・角柄生を手に入れたが、一族の坂本木工助俊常が討死を遂げた。 この翌年の永禄9(1566)年、元宗の嫡男・天王丸が13歳にて元服。加冠は元宗の異母兄・伊達晴宗がおこない、亘理源五郎重宗の名乗りが与えられた。のちに伊達政宗の片腕となる亘理美濃守重宗である。 ■竹ニ雀の紋を賜る■ 元亀元(1570)年4月4日、伊達家執政の新田遠江守景綱から伊達家先祖代々の宿老である中野常陸介宗時・牧野弾正忠久仲の謀反の報が輝宗のもとに届けられ、景綱はその謀反に荷担していた嫡子・新田四郎義直をからめとって輝宗に差し出した。輝宗はその忠義に感じ、すでに隠居していた景綱に、新田家居城・館山へ移って家中の指揮をとるよう指示した。 一方、新田義直が捕らえられて謀反が露見したことを知った中野宗時・牧野久仲は、小松(山形県東置賜郡川西町小松)の屋敷を焼き払い、山上にある小松城に立てこもった。 ●牧野・中野・新田家関係略図 牧野宗興――景仲==+―久仲――――美濃――――盛仲 謀反発覚の翌5日、輝宗は自ら兵を率いて出陣。先陣の新田景綱・小梁川安房守宗秀らの猛攻を支えきれずに、中野宗時・牧野久仲は相馬盛胤を頼って南へと遁れた。これを追って亘理元宗・重宗父子の軍勢が刈田郡宮河原に出陣。相馬へ遁れようとする中野・牧野勢を散々に撃ち破ったが、中野・牧野両名は相馬領へ遁れ去って捕らえることはできなかった。この功績によって、元宗は名取郡小川村・笠島村、伊具郡小田村、出羽国長井庄川原村の四村を与えられた。 元亀2(1571)年、相馬家と信夫郡大仏浅川で合戦。元宗も参戦して大功を挙げ、輝宗から伊達家の紋「竹ニ雀」の紋を用いることを許された。この戦いで一族の村岡右近胤信・亘理又七郎盛景が討死してしまった。村岡胤信は元宗の大叔父にあたり、亘理盛景は元宗の母の従兄弟という関係になる。 +―亘理宗元―+―宗隆―――+―娘―――――+―綱宗 相馬盛胤娘 天正年中の最上家との戦いにも留守政景らとともに頻繁に従軍しており、亘理家、留守家などの一族衆は大きく拡大した伊達家にはなくてはならない軍事的要になっていたことがわかる。 ■小狭井・金山・丸森城奪還■
天正9(1581)年4月、伊達輝宗は相馬家に奪われていた小狭井・金山・丸森城を取り戻すべく、坂本に布陣。元宗・重宗父子も従った。 伊達家の出陣を聞いた相馬勢は菅谷に陣を張り、小深田で戦闘になった。これを「小深田合戦」というが、戦いは相馬軍の勝利に終わり、伊達軍は座流川を渡って矢野目城へと引き揚げていった。 しかし、輝宗は相馬家の小狭井城主・佐藤宮内為信を裏切らせることに成功。為信は相馬家の軍監・金沢美濃守以下三十騎をことごとく斬殺して、4月13日、伊達家に降伏した。勢いに乗った輝宗はさらに丸森城と金山城の奪還を目指し、軍勢を二手に分けて出陣した。 一方、相馬側でも丸森城に相馬一門の堀内播磨守胤政とその父で名将の名が高い泉田甲斐守胤清入道雪斎を、金山城には佐藤将監を入れて堅く守ったため、伊達勢は矢野目城へと引き揚げた。 丸森城・金山城が伊達家の手に戻ったのは2年後の天正11(1583)年正月のことであった。天正10(1582)年3月18日、輝宗は元宗を金山攻めの大将に任じ、元宗も金山城に猛攻をかけるが、城主・佐藤将監の強烈な反撃にあって散々に敗れ退却した。 この戦いののち、伊達家・相馬家両者にゆかりの深い三春城主・田村右京大夫清顕が調停に乗り出し、田村一門の田村顕頼入道月斎が義胤のもとに遣わされて伊達家に金山・丸森の二城を返すよう勧め、渋る義胤を説得するべく、天正11(1583)年正月、清顕自らが小高城に赴いて和睦を迫ったために、義胤も受け入れざるをえず、両家の和睦は整い、翌年の政宗家督と同時に丸森・金山城は伊達家へ返された。 ■伊達輝宗の死と奥州諸豪族との戦い■ 天正11(1583)年、元宗の嫡孫・長松丸(のちの伊達定宗)が6歳で伊達家嫡子・伊達政宗に謁見した。政宗は手ずから扇を授け、扇に馬を書いてみよと筆をとらせた。長松丸は扇いっぱいに立派な馬を書き、政宗をして「真に将帥の種なり」と言わしめた。この翌年10月、政宗は輝宗から家督を継承して伊達家当主となる。 天正13(1585)年、政宗は葦名家と手を結んで政宗と対立していた二本松義継や大内定綱・片平親綱兄弟を降伏させたが、二本松義継は政宗へのとりなしのお礼参上と称して輝宗のもとを訪れ、そのまま輝宗を拉致して二本松へ帰ろうとした。これを知った政宗は軍勢を率いて二本松領との境・阿武隈川に義継一行を追い詰めた。数に劣る義継は逃れられないと悟り、輝宗を刺し殺して、みずからも伊達勢によって討ち取られた。この事件を地名・粟之巣(高田原)をとって「粟之巣の変事」という。 政宗は義継の遺体を城下で磔にかけて見せしめとしたが、この行為が奥州諸将を敵に回してしまうことになる。 天正13(1585)10月15日、輝宗の初七日がすんだ政宗は、弔合戦と称して一万五千人の大軍を率いて二本松城へ攻め寄せた。しかし、二本松城は堅固な要害であり、畠山氏の家臣たちは義継の嫡男・畠山国王丸を擁して奥州諸将に援軍を求め、相馬義胤・佐竹義重・葦名義広らが反伊達連合軍として政宗に敵対した。 ◎反伊達連合に属した諸将
盟主的な佐竹義重は、奥州南部の反伊達氏の大名を招集して政宗追討の兵を挙げ、安積郡の政宗の所領を攻略した。そして政宗が二本松城を囲んだ翌日の10月16日、奥州街道と会津街道の交わる前田沢城に3万の軍勢を送り込んだ。これを聞いた政宗は、二本松城周辺に白石宗実らを残し、8千人を率いて岩角城、本宮城へと進み、連合軍に対峙した。
戦いは阿武隈川の支流・瀬戸川にかかる人取橋周辺でおこり、熾烈をきわめる激戦となった。伊達軍8千に対し、連合軍は3万。佐竹義重は主力1万を率いて政宗の本陣に攻め寄せ、人取橋周辺で激戦となった。政宗の本陣は4千名で固められていたが、佐竹勢の突撃の前にもろくも崩れ、政宗は側近の茂庭左月斎の自殺的な突撃の間に本宮城まで退いた。茂庭左月は佐竹勢を食い止めたものの、重い甲冑もつけず、綿帽子をかぶっただけの軽装であり、60騎の家臣とともに戦死を遂げた。73歳。 連合軍の将・葦名義広は1万を率いて、前戦に踊り出た500名の白石宗実勢と戦い、さらに伊達成実と激戦を繰り広げた。葦名勢は、突撃してくる一千名の伊達成実勢を取り囲んで壊滅させ、本宮城まで退却させた。こうして初日の戦いは伊達家の大敗で日暮れとともに終わり、伊達勢は本宮城に追い込まれた。 しかしこの日の夜、佐竹義重の一族・佐竹義昌が下僕に殺されるという事件が起こり、常陸国で敵対する江戸重通が挙兵したこと、さらに安房の里見義頼が常陸へと向かっているという情報がもたらされたため、義重は急遽軍勢をまとめて常陸に帰国したため、連合軍もそれぞれ兵をまとめて引き上げた。このため政宗も軍勢を引き上げていった。これらの戦いを俗に「人取橋の戦い」という。 ■相馬家との戦い■ 天正17(1589)年5月18日、政宗は相馬領の駒ケ嶺城・新地城を攻めるべく、元安斎の嫡男・亘理重宗を先陣として出陣させた。これを知った相馬義胤はみずから出陣。義胤の父・盛胤も援軍として駒ケ嶺城へと向かった。駒ケ嶺城主・藤崎治部丞久長も家臣の村松薩摩・大浦雅楽らを指揮して必死に抵抗したが、相馬本隊が到着する前に力尽き、駒ヶ嶺城は陥落した。城主の藤崎久長は盛胤の陣へ逃れていった。 また、伊達勢は翌19日には新地城も落城させ、新地城主・泉田甲斐守胤清入道雪斎は盛胤の本隊と合流した。しかし、城将・杉目三河は逃れきれずに伊達勢に斬り込んで戦死を遂げた。こうして相馬氏は小狭井(小斎)・丸森・金山・駒ケ嶺・新地といった宇多郡の拠点のほとんどを失うこととなった。そして、重宗はこの駒ケ嶺城・新地城切り取りの功績によって、新たに新地を賜った。 ☆藤崎・杉目家関係図☆
岡田義胤―+―茂胤―→【一門筆頭岡田氏嫡流】 天正18(1590)年7月22日、夫人の国分氏(国分盛氏娘)が亡くなった。法名は月光院。謚は圓鑑普照。
10月の大崎葛西一揆の際、伊達政宗と蒲生氏郷にその追討が命じられたが、61歳の元宗は重宗とともに出陣し、元宗は足に被弾しつつも奮戦した。この当時、元宗は亘理郡内二十ヶ村、伊具郡内六ヶ村、名取郡内一ヶ村を知行していたが、天正19(1591)年の一揆鎮定直後、伊達家が豊臣秀吉の命によって岩出沢周辺へ転封になると、元宗も所領を召し上げとなり、かわって遠田郡涌谷村に所領が与えられ、百々城へ入部した。 亘理家はのち涌谷城へ移り、ここを本拠に江戸時代の涌谷伊達家がうまれる。転封時、元宗は妙見神を亘理から涌谷へ遷し、涌谷妙見社(涌谷町日向町)を建立した。そして菩提寺・円同寺も建立している。 文禄3(1594)年6月19日、涌谷大貫(遠田郡田尻町大貫)において65歳で病没。遺骸は大貫山王山の日枝神社の北麓に葬られたと伝わる。法名は洛浦院泰岳元安大居士。入間田帯刀・大平壱岐の二名が殉死した。 武石氏19代当主。父は亘理兵庫頭元宗。母は国分能登守盛氏の娘(月光院円鑑普照)。妻は相馬彈正大弼盛胤の娘(真如院殿光岳健果)。幼名は王天丸。通称は源五郎・美濃守。官途は従五位下。 永禄9(1566)年、天王丸は13歳で元服。加冠は伯父の伊達晴宗が行い、亘理源五郎重宗と称した。 ■亘理・伊達・相馬家略系図■ +―――――――伊達実元 元亀・天正のはじめまでは、伊達家は最上家との戦いに終始する。天正元(1573)年5月23日、重宗は、最上家から攻め取った楢下に要害を築くために出陣した輝宗から、最上領に通じる篠谷口(宮城県川崎町篠谷)まで出陣するよう命じられ、軍勢を派遣した。 天正2(1574)年8月26日、伊達・最上両家の重臣が対面して和睦についての会談が行われ、9月1日、亘理元宗と氏家尾張守が会談。さらに9月9日にも会談が行われ、閏11月19日、最上義光との和睦が成立し、今後、伊達家は相馬家との戦いに重点が置かれるようになる。
亘理元安斎・重宗親子は、相馬家との宇多郡をめぐる争いで常に先頭に立って活躍したが、重宗は天正6(1578)年以前に相馬盛胤の娘を娶っていることから、天正4(1576)年の田村清顕による伊達・相馬両家の和睦斡旋によって、相馬家から重宗へ娘が嫁いだものかもしれない。亘理家は表向き独立した領主だが、実質的には伊達家の家臣となっており、相馬惣領家の姫君が重宗へ嫁したことは、相馬家側から田村家へ和睦斡旋の打診があったためかもしれない。 天正5(1577)年11月25日、重宗は信夫郡杉目城で病に臥せっていた伊達晴宗入道道祐へ、重臣・坂本伊予を遣わして病気見舞いをしている。しかしこの直後、晴宗入道の容態は悪化し、12月5日、59歳で亡くなった。 いったんは和睦した伊達家と相馬家だったが、その平和も長くは続かず、天正6(1578)年、輝宗は元安斎・重宗親子に相馬領への出陣を命じ、伊具郡で亘理勢・相馬勢が合戦した。 天正9(1581)年の「人取橋の戦い」では父・元宗とともに出陣した。天正10(1582)年、輝宗は相馬家の重臣で、猛将として知られる小狭井城の佐藤宮内為信にたびたび密書を送って寝返りを促し、4月9日、為信は相馬家の軍監・金沢美濃守以下三十騎を斬殺。4月13日に輝宗は小狭井城を手中に収めた。 天正11(1583)年、輝宗はさらに相馬家に奪われていた金山城・丸森城を取り戻すため、小狭井・金山城の間にある明護山に砦を築き、重宗を主将に、佐藤為信・白石宗実・田手宗実の四将を城将として入れた。 天正17(1589)年の宇多郡駒ケ嶺城・新地城をめぐる争いでは先鋒として城に攻めかかった。これに対して、相馬方の駒ヶ嶺城主・藤崎治部久長は家臣の村松薩摩・大浦雅楽らを指揮して必死に伊達勢を防いだが、重宗勢の猛攻によって陥落。久長は相馬盛胤の陣へ逃れた。また、同じく相馬方の新地城も泉田甲斐守胤清入道雪斎・杉目三河が必死に防いだが、内通者によって落城した。こうして、宇多郡北部は亘理家が治めることとなった。
天正18(1590)年5月14日、重宗は相馬家の宇多郡内の本拠地である中村城を攻めるため、相馬家から寝返っていた黒木宗俊(駒ケ峰城主)・佐藤藤右衛門(小狭井城主)を率いて相馬領に侵攻した。しかし、この時点ですでに政宗・義胤は豊臣秀吉の厳命に従って相模国小田原攻めに向かっており、相馬領侵入は5月9日に政宗が会津黒川城を発つ以前に重宗へ指示していたものか。このとき、中村城は義胤の弟で剛勇無双の剛将として知られていた相馬兵部大輔隆胤が守っていた。 5月18日、相馬兵部大輔隆胤はわずかな手勢を率いて中村城外に陣を張り、伊達勢を待ち構えた。そして石上村において、重宗率いる黒木宗俊・国分右衛門尉の軍勢と激突。このとき、相馬家の重臣で黒木城代・門馬上総介貞経が黒木・国分勢を防いでいたが、貞経は伊達勢の矢田但馬の鉄砲に狙撃されて落馬したことから、門馬勢は壊走。貞経は水谷孫右衛門によって救出されたものの陣没した。 隆胤も自ら大なぎなたを振るって奮戦したが、門馬勢が崩れたことによって背後にも敵を受けることとなり、さしもの剛将もやむなく中村城へ向って兵を引いた。しかし隆胤は逃げ回る味方に遮られ、誤って馬を水田に乗り入れて落馬してしまい、襲いかかる重宗の手勢によって討ち取られた。また、隆胤を救おうとした佐藤万七、泉藤六郎、荒藤八郎、佐藤文七郎、佐藤孫兵衛らもことごとく討死を遂げている。 この戦いは亘理勢の手負いも多く、主だった部将31名が討死を遂げた。 ●天正18(1590)年5月18日 石上村・小豆畠の戦いで討死した亘理家家臣 ・山寺蔵人盛純・寺内丹後・小泉主膳繁・米谷下総延常・大塚蔵人・鷲足主水清久 6月24日、政宗は大崎・葛西氏の遺臣がおこした一揆を討つべく出陣。重宗もこれに従い、29日には佐沼城に猛攻撃をかけた。政宗は城内からの矢や弾丸が雨のように降り注ぐ中で指揮をとっていたため、重宗は政宗を諌めて退かせ、重宗が代わって先陣の指揮を執った。そのため左股に矢を受けて負傷している。 7月23日、母の国分能登守盛氏の娘(月光院円鑑普照)が亡くなった。 9月、豊臣秀吉の命によって伊達家の居城が出羽国米沢より、陸奥国玉造郡岩出山へ移されることとなった。そのため、亘理家も旧領召上げ、遠田郡大沢村百々城へ移ることとなり、天正19(1591)年には遠田郡涌谷邑へ入部した。 文禄元(1592)年・慶長2(1597)年の二度の朝鮮の役に際しては、伊達家江戸屋敷の留守居役をつとめ、慶長5(1600)年7月からの関ヶ原の戦いなど一連の戦いでも戦いには参戦せず、実質的な人質として江戸屋敷留守居役を勤めた。 文禄3(1594)年6月19日、父の元安斎元宗が亡くなり、12月、元安斎の遺物である太刀を政宗に献上。政宗は書を贈って元安斎の弔いとした。 慶長5(1600)年、徳川家康は豊臣家に謀反の疑いがあるとして、会津の上杉景勝を討つべく奥州へと出陣した。この隙を突いて、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵。徳川家康の腹心・鳥居又右衛門元忠の守る京都の伏見城を攻め落とした。伊達政宗は徳川家康に味方しており、7月、政宗は上杉領である刈田郡白石城に侵攻した。このとき、白石城主・甘粕備後守景継は会津にいたため、城代の登坂式部が守っていたが、7月24日、重宗の嫡子・亘理源五郎定宗がまっさきに城中へなだれ込んで攻め落とした。重宗が江戸屋敷にあったために代理として定宗が出陣したのだが、この功績が家康の耳に入り、定宗は江戸に呼ばれて賞された。このとき定宗23歳。石田三成の挙兵は失敗に終わり、斬首された。 慶長6(1601)年3月、いまだ大坂城に参じない上杉景勝を討つべく、政宗は重宗・伊達成実にそれぞれ二百騎を与えて出陣するよう命じたが、その間に景勝の使者は駿府の家康のもとを訪れて詫びを入れたことから、この出兵は見送りとなった。 慶長9(1604)年、重宗は栗原郡高清水村に千石の隠居料を与えられて引退。末娘に茂庭又次郎(実は伊達政宗の庶子)を娶わせて亘理家を継がせた。茂庭又次郎は「亘理宗根」を称して栗原郡佐沼邑主となり、涌谷伊達家と親密な関係を築いていくこととなる。一方、重宗の実子である亘理源五郎定宗は、慶長11(1606)年、主君の伊達政宗より「伊達」の氏と「竹雀紋」「竪三引両紋」を下賜され、伊達一門に連なった。これより、涌谷伊達家は藤原姓を称するようになる。 慶長16(1611)年4月7日、妻の相馬氏が亡くなった。宿敵の相馬長門守義胤の妹だったが、天正18(1590)年の相馬兵部大輔隆胤を討ち取ってからは、相馬家と亘理家は絶縁状態となっていた。 宗根に所領を譲ったのち、遠田郡下郡村に移り、元和6(1620)年正月25日、69歳で没した。法名は大運院殿月津雪航大居士。 |
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=武石家略一族系図=

| 坂本氏 | 『佐沼亘理家御系図草案』(享和2年 目々澤新右衛門) 『涌谷伊達家関係資料集』 『平姓千葉一家武石亘理分流坂本氏関係系図並びに史料』 |
| 臼井D-FF氏 | 長野県武石村の武石氏宝塔フォト |
| 『仙台藩史料大成 伊達治家記録 一』 | 監修/平重道 発行/宝文堂 |
| 『亘理家譜』 | 『仙台叢書 第九巻』(平重道 監修 宝文堂) 所収 |
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