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高城氏の起こり
高城氏は過去帳によれば「藤原姓」の二階堂氏の流れと伝わっています。もう一説に、原四郎胤高の次男・越前守胤雅から始まる説もあります。家紋は裾黒に井桁。一族には井桁に橘や井桁に九曜も伝わっています。ただ、その出自についてはいろいろ説があり、千葉氏の子孫であるという確かな証拠はありません。 高城氏の名がはじめて「千葉氏の家臣」として確認できるのは、貞治5(1365)年に6歳で千葉介を継いだ竹寿丸(のちの満胤)の家臣のなかにある「高城越前守」です。 高城氏は戦国時代においては千葉家の筆頭家老・原氏の寄騎で、その軍事力を担う重臣でした。原氏には「高城氏」と並ぶ重臣・両酒井氏(東金酒井氏・土気酒井氏)がいて、俗に「原に高城、両酒井」とうたわれました。また、千葉宗家にとっても高城氏は見逃すことのできない勢力であり、千葉介昌胤は妹を高城胤吉の妻としました。胤吉が天文6(1537)年に小金大谷口城を築いた時には昌胤が小金に赴いています。 高城氏はこのころから北条氏の滅亡までの50年間、戦国大名として認知されていたと思われます。その所領は今の流山市から船橋市までに至る広大な所領を有していたうえ、太日川(江戸川)、船橋などの貿易河川を抑え、市川真間(市川市)の貿易港湾都市にも「安堵状」を発給していました。また、関東の日蓮宗大本山である「中山法華経寺」・「真間弘法寺」・「平賀本土寺」をその支配下において、大いに栄えました。 その後、小田原北条氏が下総に勢力を伸ばしてくると、原氏との主従関係から次第に北条氏の他国衆(北条氏の直接支配)の一員となり、天正18(1590)年の小田原の陣では居城・大谷口城を重臣に任せて、みずからは小田原城に入って秀吉の軍勢と戦い、小田原城が開城となることが決まると、浅野長吉(のちの長政)らに攻められていた大谷口に使者を送って開城を命じ、100年の歴史に幕を閉じました。
高城氏の治世
高城(高木)氏の名がはじめて現れるのが、永享4(1432)年の「高木刑部左衛門道清入道」で、その5年後の永享9(1437)年、クリガサワの「高城四郎左衛門清高」(『本土寺過去帳』)です。その後、文明8(1476)年にはマバシの「高城孫八」・アビコの「高城和泉守・彦四郎」が見えます。「クリガサワ」とは松戸市栗ヶ沢、「マバシ」は松戸市馬橋、「アビコ」は我孫子市我孫子のことで、永享年中頃から松戸市周辺に「高城(高木)氏」が拠っていたことがわかります。
文明2(1470)年、「高城某」は城下の日蓮宗の古刹「平賀本土寺」に制札を出しています。その後も高城氏は根木内城を居城としていましたが、この城は守りに適した城ではない上に手狭であったため、亨禄3(1530)年、高城胤吉(下野守)は家老の安蒜浄意入道に命じて、根木内城の西約1.5キロの大谷口(おおやぐち)に、7年の歳月をかけて天文6(1537)年に巨大な城を完成させました。この城は現在のJR東日本常磐線の北小金駅〜新松戸駅までにまたがる巨大なもので、城跡全体が「松戸市大谷口」という地名となっています。 大谷口城の完成に際して、天文6(1537)年9月25日、城主・胤吉の義兄に当たる千葉介昌胤は佐倉城から祝賀のために訪れています。その饗応役は城の縄張りをした安蒜浄意入道。胤吉の妻は千葉介勝胤の娘で、昌胤の妹(桂林尼)にあたります。 高城氏は居城・大谷口城を中心として流山市から我孫子市、沼南町、市川市などに多数の城を構え、太日川(江戸川)の物流の大きな取引港をその支配下に抑えていました。市川市国府台の下、市川真間は中世には入り江が入り込んだ下総有数の貿易港として栄え、真間山弘法寺や中山法華経寺のような日蓮宗寺院に参詣に来る人々の宿所でもあり、経済面や各地の情報収集に長けていたと思われます。また、千葉氏の筆頭家老・原氏の軍事力を担い、俗に「千葉に原、原に高城、両酒井」とうたわれていました。
天文19(1550)年の千葉妙見宮遷宮式の礼では、原式部大輔胤清の「一門」として、両酒井・斉藤・菊間・加藤らとともに馬・太刀を奉納しています。しかし、永禄2(1559)年2月の『北条氏所領役帳』によれば、原胤貞に並んで両酒井氏・高城氏、成田下総守長泰らが北条氏の「他国衆」として登録されており、千葉氏などとは独立した一人の大名(領主)として認められていたことがわかります。 永禄4(1561)年7月、古河公方・足利義氏は古河・関宿の内紛などにより、高城氏の小金城に御移座となったことがきっかけで古河公方との接触を持つようになったようで、天正5(1577)年の新年参賀に高城胤辰(下野守)が古河に赴き、相馬因幡守が公方の代官として 対応している。おなじくこの時の謁見で、胤辰は「下野守」を受領しました。
●高城氏の出自について● ○高城氏の発生○ 高城氏は戦国時代中期頃、原氏の家老としてその名が現れてきました。その後、千葉氏をしのぐ力を持った原氏の軍事力を担う、一個の戦国大名として発展していきます。しかし、その出自についてはまったく不明で、説はこちらにあるようにいくつかあります。 まず、高城氏の名がはじめて現れるのが、『千葉大系図』における千葉介満胤の補佐人となった「高城越前守」です。千葉介満胤は貞治5(1365)年に父の死によってわずか6歳で家督につきました。そして満胤の跡を継いだ千葉介兼胤(1392−1430)の「長臣」として「円城寺・鏑木・牛尾・高城等、余略之」とあります。また、『松羅館本千葉系図』の兼胤の項には「四家老、原・円城寺・牛尾・高城」とあります。 高城(高木)氏の名が公式な文書である『本土寺過去帳』にはじめて現れるのは永享9(1437)年6月19日に没した「高城四郎右エ門清高 永享九 六月 クリカサワ」です。「クリカサワ」とは現在の松戸市栗ヶ沢周辺であり、栗ヶ沢周辺には「高木」という字があったことから、高城氏はもともとこの地を発祥とする地方豪族だったのかも知れません。「高木」という名字を持つ「高木刑部左衛門道清入道」も『本土寺過去帳』に記載されていますが、彼がいつの時代の人物かは不明です。 また、原氏に近い位置に存在した高城氏の記述として、寛正6(1465)年の「山倉高城雅楽助 法名妙助 中野城之落葉ニ路次ニテ死スル処、諸人成仏得道、寛正六乙酉四月 船橋陣ニテ打死」とする記述が見られます。「山倉」とは小弓城から10qほど南にある山倉(市原市山倉)と思われ、現在は「子どもの国」という遊園地があります。そして「中野」は山倉の北東7qにある中野(市原市中野)と考えられ、このころには原氏は上総武田氏との抗争の過程で上総国にまで勢力を伸ばしていたと考えられます。
『快元僧都記』の永正14(1517)年10月15日の項にある、足利義明による小弓城攻撃のとき、原二郎とともに「家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」とあります。『快元僧都記』は天文元(1532)年から天文11(1542)年までの快元僧都が記した日記です。このとき逃れた「下野守」は『小金城主高城家之由来』の伝承によれば、「下野守胤吉」とされています。しかし、ここにすこし矛盾があります。
永正14(1517)年に小弓から逃れたという「高城下野守」が「胤吉(=玄心居士)」であったとすると、天文15(1546)年に没した「高城下野守当地頭 輝叟玄楊」の存在が難しくなります。
つまり、玄心居士=胤吉よりも以前に「下野守」を称して、天文年中まで小金の地頭であった「下野守 玄楊」がいたことになります。そして『胤次提出由緒書』にも同じく「玄楊」「玄心」が書かれ、どちらも「玄楊」「玄心」の順番で書かれています。 もし、この『胤次提出由緒書』『本土寺過去帳』『高城家世譜』が正しいとして言うならば、永正14(1517)年の小弓合戦で逐電した「下野守」は時代的にが「玄心・胤吉」ではなく「玄楊・胤正」であると思われます。さらに、「玄楊」と「玄心」の没年には25年の開きがあり、父子かも知れません。 永正5(1508)年、「下野守(胤正・玄楊)」は根木内城(松戸市根木内)を築き、その祝賀もこめて千葉介勝胤は娘を胤正の子で25歳の「胤吉(玄心)」の妻としたとも考えられます。そして、胤吉の父兄「越前守胤広」「左五右衛門」は原二郎(原胤隆か)の「家郎(家老)」として小弓城に在城していたと思われ、胤吉はその代理として根木内城にあったのかもしれません。 永正14(1517)年、足利義明が小弓に攻めてくると、下野守胤正(玄楊)は根木内城から小弓に救援に駆けつけたと思われます。しかし、胤正がつく前に小弓城は陥落。「高城越前守父子は滅亡、同下野守は逐電」という事になったのではないでしょうか。 その後、胤正の家督を継いだ胤吉は、享禄3(1530)年、根木内城の西にある高台に新城の縄張りを開始し、7年後の天文6(1537)年、下総有数の巨城・小金大谷口城を完成させました。この祝賀のために義兄・千葉介昌胤が小金を訪れました。永禄7(1564)年、北条氏康と里見義弘の間で起こった第二次国府台の戦いでは、一族郎党を率いて従軍。子息・胤辰はじめ、弟・源六郎胤政、四郎右衛門が大いに活躍しました。 ただ、根本的な問題として、「高城越前守胤広」「高城下野守胤正」「高城下野守胤吉」という人物が発給した文書というのは一つも遺されておらず、『小金城主高城家之由来』では「越前守胤雅―越前守胤充―越前守胤行―大隅守胤之」という列になっています。その要約文章はこちら。そして「大隅守胤之(胤晁?)」の弟が「下野守胤吉」とされています。
○諸書に見る小弓落城時の高城氏○
◎『寛政重修諸家譜』は高城清右衛門胤次が旗本に任官しようと、伯父・佐久間安政(賎ヶ岳で活躍した佐久間盛政の弟)の推挙で提出した文書をもととしているため、この『胤次文書』とほぼ同様の内容となっている。 ●上記の諸書から考えた系図●
高城治部少輔胤忠―高城越前守胤広―+―左五右衛門 +―治部少輔胤辰(辰千代丸・下野守)
という感じになります。下野守胤吉は『高城家世譜』によれば「永禄八年乙丑六月十二日逝」とされ、『下総旧事考』では、子は胤辰・胤政・胤知の3人の子があり、末子・胤知は出家して東禪寺7代貫首・団蓮社照誉遊嶽了学大和尚となり、寛永9(1632)年1月、武蔵芝の増上寺にて僧正となっています。増上寺の開祖・酉誉聖聡上人は千葉介氏胤の子であり、東禅寺ものちに増上寺の末寺となっていることから、知己があったとも考えられます。ただ、照誉上人は「兄」に当たる胤辰よりも4年前に生まれており、庶長子だった可能性があります。
また、この提出書類には「胤辰」と「胤時」が父子のように書かれ(実際は同一人物か)ているうえ、「藤原胤辰」の項目には「生国紀伊熊野ヒヒ」とあり、のちに訂正されていることがわかります。 その胤辰は天正9(1581)年9月に真間山弘法寺(市川市市川真間)に対して書状を発給しており、『本土寺過去帳』の16日の項に「関相玄酬居士 高城下野守 天正十壬午十二月」とあることから、その活躍時期から見て「胤辰」を指していると思われます。胤次提出の文書内にある「胤時祖父高城下野守 玄酬」とあるのは、法名から見て「胤辰」の事であると思われ、「胤時=胤辰」となります。それを裏付けるような位牌も遺され、「浄幽院殿関相玄酬大居士 高城下野守胤辰」とあります。 つまり、胤次は生まれる前に亡くなった祖父「下野守タネトキ」を聞いたまま「下野守胤時」だと勝手に思いこんでしまい、架空の人物「胤時」を作り出してしまいました。そして、「下野守胤辰」はその父親であろうと推測して系図を作って提出したと思われます。
→貞治4(1365)年正月、千葉介氏胤が美濃国で亡くなると、6歳の嫡男・竹寿丸(満胤)が跡を継ぎました。足利義詮はこれに対して、先例によって一族家臣から補佐役を選ばせました。その中の「家臣」の末尾に高城越前守という人物がいます(『千葉大系図』)。この越前守が満胤の孫・越前守胤雅(満胤の子・原四郎胤高の二男)を指しているとすれば、孫が幼い祖父の後見人となっているわけで、時代的に絶対的な無理があります。 ★『小金城主高城家之由来』(『八木原文書』)による高城氏発生の由緒★ 千葉新介宗胤が建武2(1335)年に近江三井寺でおいて討ち死にし、嫡男・大隅守胤貞は九州千葉氏の祖となり、二男・新介高胤は父が戦死した後も南朝に味方して活躍したとあります。しかし九州南朝の棟梁的存在であった菊池氏が足利尊氏に敗れると、胤貞は尾張において没落し、三河に逃れました。新介高胤は正治3年【貞治3(1364)年の誤りか】になって嫡男・式部大輔親胤を連れて佐倉の千葉介兼胤を頼り、兼胤も哀れに感じて高胤を臼井城主として立てさせました。 一方、二男の高城越前守胤雅は、南朝側の武将として楠木氏の旗下にあり、紀州新宮で南朝側の反撃の時を待っていました。しかし、楠木や新田勢が滅んでしまったため、ついに正長元(1428)年、嫡子・辰千代と二男・介二郎、一族郎党をともなって臼井の父兄のもとへ戻り、千葉胤直と康胤の争いでは原氏に荷担して活躍。その功績によって千葉領分地の生実城に移りました。 高城氏は日を追って繁栄し、「原ニ増高城」と言われるようになります。辰千代は武蔵国石浜にあって越前守を受領して「胤充」を称し、介二郎は椎名に住んで椎名を称し、日向守を受領。「胤俊」を名乗り、のちに「安蒜」氏を称しました。 胤充の長子・辰千代は越前守胤行といい、生実城にあって原式部大輔に属しました。胤行には二人の子があり、長男は大隅守胤之、二男は下野守胤吉といいました。このころ、京都の将軍家の力は諸大名を抑えることができないほど衰えていました。そして中央では山名宗全と細川勝元との争いが大きくなり、全国に飛び火して「応仁の大乱」が起こりました。 明応年中(1492−1501)伊勢新九郎氏茂が足利茶々丸の籠る堀越城を乗っ取り、北条に改姓。伊豆・相模・武蔵に勢力を伸ばし、氏綱が相続し、同じ平氏ということで千葉氏とよしみを通じました。そんなころ、古河公方高基の弟・左馬頭義明は性質姦悪で狼志虎踞の心ありとして高基から久我を追われて奥州を流浪し、里見義弘がこれを招いて御所として北条氏と争いました。
足利義明はまず生実城に攻め込み、これを迎え討った「高城越前守」は生実城に籠って討ち死にしました。この戦いで生実に篭城した武将は、高城越前守胤行・嫡子大隅守胤晁(晁=朝)・同下野守、一族高城丹後守・安蒜日向守・同介二郎、座間信濃守・血矢二郎右衛門(遠江守)・田嶋刑部少輔・藤ヶ谷修理介・秋山久左衛門・吉野・高橋・戸部・池田・匝瑳・矢口・花島・鈴木・伊東氏らで、高城越前守・大隅守ほか、多数が討ち死にしました。下野守胤吉はこの戦いで外に討って出ていましたが、わずか50騎にも足らず、城が落ちたことを聞くと涙を振るって「もはやこれまで。父や兄と同地で死んで、九泉の下で倶せん」と敵陣に突入しようとしたところ、安蒜日向守が「生きて仇を報ずるこそ孝行の第一」と諌めたため、敵陣の一方を破って臼井の原式部大輔のもとへ逃れて蟄居しました。 永正3(1506)年、下野守胤吉は一族近臣百人を引き連れ、原氏の所領・小金栗ヶ沢へ移り、千葉氏代々の妙見社を奉って勧進し、匝瑳・海上・戸辺・新井・相馬・日暮・斉藤・渋谷・佐々・綿貫・和田・大井・梅澤・林・吉田・花島ら諸将から足軽に至るまでの家臣たちと主従の盟約を交わしました。
永正5(1508)年で胤吉25歳の時、根木内城に一城を構えて移りました。そして栗ヶ沢の金竜山広徳寺開基として大路和尚を招き、高城氏の菩提寺としました。また、根木内には栄秀法印を招き、真言宗・遠矢山大勝院の開基としました。根木内城が完成したことで千葉介勝胤は大いに喜んで娘を高城胤吉に娶せて一族に列せさせ、勝胤の吹挙によって従五位下・朝散太夫に任じられました。その後、胤吉は父や兄の仇を報ずるため、北条氏綱と結んで国府台に出陣してきた足利義明の軍勢と合戦に及び、嫡男・治部少輔胤辰、二男・源六郎、四郎右衛門、一族・高木丹後守らとともに父兄の仇を報じました。 享禄3(1530)年、胤辰は根木内城の西・20余町にある交通に便利である上、守りにも非常に適した高台に新城を築くことを決め、阿彦丹後入道浄意に縄張りを命じて小金大谷口城を築城させました。これを築いたとき、根木内にあった遠矢山大勝院を城の鬼門に移築し、菩提寺である金竜山広徳寺を栗ヶ沢から金杉村に移しました。 ここまでが、高城氏の発生と初期における活躍を記した部分の要約です。ただ、この文書には根本的な誤り、つまり、九州千葉氏は一貫して足利方であるのに、この文書では南朝方として話が進められていきます。これはどこかで系図が混乱して伝えられたと思われます。胤吉以降は、実在が認められる高城氏の「歴史」となっていきますので、ここでは省略します。下の「高城氏の動向」は『小金城主高城家之由来』などに見える「九州高木氏」「九州千葉氏の動向」「熊野との関わり」などについて述べます。
千葉新介胤宗の子・新介高胤の二男・胤雅が「肥前国高城城主」となって高城を称したとあります。肥前国高城城とは佐賀郡高木城のことか?しかし、肥前を四分する巨大な勢力を持っていた千葉氏とは血縁的に全く関わりのない「高木氏」がいました。 永享6(1434)年、少弐氏と「旧好の輩」だった「高木胤秋」がいました。そののち、天文20(1551)年、肥前国の大名、龍造寺隆信の家督相続に関して、その宿老だった土橋栄益は龍造寺鑑兼を推してに謀叛しましたが、これに応じた武将の中に「高木鑑房」「高木胤家」「高木胤秀」がいました。 この「高木氏」は与止日女神社と関わりのあった佐賀郡の旧族で、「太宰権帥藤原隆家(道長の従弟)」の末裔と伝えられ、南北朝時代の後期に二つの流れに分かれました。天文20(1551)年の土橋の謀叛に荷担した「高木鑑房」は東高木氏の惣領で、天文17(1548)年頃まで浪々の身だったといわれます。はじめ大友義鑑の偏諱を受けて「鑑兼」を称しましたが、龍造寺氏にも「鑑兼」がいたことから「鑑房」に改めました。一方、「高木胤秀」は西高木氏の惣領で、胤家の嫡男。永享年中の「高木胤秋」の子孫か関わりのあった一族と思われます。ただ、この一族が下総高木氏とかかわりがあるのかは不明です。 『小金城主高城家之由来』によれば、「千葉新介胤宗」は建武2(1335)年、南朝側に荷担して近江国三井寺で討ち死にしたとあります。胤宗の嫡子・大隅守胤貞は「九州千葉 三州戸田千田之祖」「中山息日祐開基」と書かれていることから、この文書に書かれている「千葉新介胤宗」とは九州千葉氏の祖である「千葉介宗胤」と同一人物であろうとおもわれます。つまり、「宗胤」「胤宗」と、それぞれの子・「胤貞」「貞胤」、その子「高胤(二人とも同名)」で混乱がおこったとも考えられます。九州千葉氏が一貫して足利方であったのに対して、下総の千葉氏は南朝方の武将として活躍しています。そのころの千葉氏の系図はこちら。
これについては様々な説があります。下に挙げるのは没年と関わりある宗胤についての記述です
『小金城主高城家之由来』によれば、「千葉新介胤宗」は建武2(1335)年、南朝側に荷担して近江国三井寺で討ち死にしたとあります。しかし、九州千葉氏は一貫して足利尊氏に荷担していたと思われ、三井寺で戦死(対足利一族・細川定禅)するとは思われません。 また、「肥前国千葉大隅守」は、建武3(1336)年3月、尊氏の弟・直義の先陣として九州の多々良浜で南朝の菊池軍を壊滅させており、菊池方の部将・阿蘇大宮司の三兄弟は、肥後国阿蘇へ逃走途中、胤貞の領地・小城郡で大宮司八郎惟直、弟の次郎大夫惟成の二人が討死し、末弟・惟澄だけは、傷を受けながら14人を斬って阿蘇へと逃れたといいます。惟澄はこれ以降も南朝側として活躍し、阿蘇一族の「阿蘇孫熊丸」は多々良浜の戦いの翌月である4月5日、尊氏に降伏して「阿蘇社大宮司職」と所領安堵の下文を受けています(『阿蘇文書』)。 また、摂津国での新田・楠木勢との戦いにも「千葉大隅守胤貞」が軍忠抽んでて活躍したといいます。さらに同年10月の越前国木の芽峠の戦いで、斯波高経の軍に従って新田勢の千葉介貞胤を囲んで降伏させています。つまり、宗胤の子・大隅守胤貞は全面的に足利方に味方をしているわけで、『小金城主高城家之由来』のように、大隅守胤貞が菊池肥後守武光に荷担して足利勢と争ったという事はまったくなかったと思われます。 しかし、建武3(1336)年1月13日に園城寺で戦死した「千葉新介」もいました。12代千葉介貞胤の嫡男・千葉新介高胤です。千葉介貞胤は新田義貞に従って活躍した南朝の武将であり、嫡男・高胤は園城寺でついに戦死しました。 「新介高胤」と『小金城主高城家之由来』の「新介胤宗」、『松羅館本千葉系図』の「千葉太郎新介宗胤」はすべて「近江園城寺(三井寺)」で戦死しており、これらが「新介」で混同されたと思われます。『小金城主高城家之由来』の「新介胤宗」は「新介宗胤」と同一人物を指していることはすでに書いているので、建武年中に南朝に属した「千葉新介」は「新介高胤」のみになり、園城寺で戦死したのは、南朝に荷担した下総千葉介貞胤の嫡男・「新介高胤」であったと思われます。 しかし、肥前国の『岩蔵寺過去帳』には、小城郡代々の地頭として「…宗胤、明恵後室尼、胤貞、高胤、胤平…」とあることから、九州千葉氏にも同年代に「高胤」がいたと思われます。つまり、系図や由緒を書くときに高胤同士での混乱がおこり、その混乱が南北朝時代に九州千葉氏が南朝に荷担したと取り違えられて伝えられた思われます。
【九州千葉氏】
『小金城主高城家之由来』については南朝側(千葉介胤宗―千葉介貞胤―新介高胤)と北朝側(千葉新介宗胤―千葉大隅守胤貞―千葉孫二郎高胤)の相互の混乱や「新介」同士の混乱など、元号の矛盾など誤謬と思われる部分も多いのですが、そのなかで時代背景をベースに見てみます。 まず、『千葉大系図』における満胤の後見人の末席に「高城越前守」がいます。満胤が活躍した時期は貞治5年〜応永33年(1365〜1426)です。しかし、『小金城主高城家之由来』によれば、胤雅は正長元(1428)年まで「紀州新宮山中之孤城」にあったとされ、満胤の死後に下総へ来たことになります。もしこれの通りだとすれば、満胤の後見人「高城越前守」と『小金城主高城家之由来』の「越前守胤雅」はまったくの別人ということになります。 そして、『高城家略傳』では、治部少輔胤忠は寛正元(1460)年庚辰歳に紀伊国熊野新宮から下総国栗ヶ沢に下ってきたとされています。しかし、高木(高城)氏の名がはじめて現れたのは、『小金城主高城家之由来』の「越前守胤雅」が下ってきたという正長元(1428)年あたりからで、『本土寺過去帳』によれば永享9(1437)年に「高城四郎右エ門清高」が見えます。このころから「高木(高城)氏」の活躍が見られるようになります。 紀州熊野と高城氏との関わりではじめて文章で見えるのは、『小金城主高城家之由来』に見える「拠紀州新宮山中之孤城」というもので、『高城家略伝』では「寛正元年庚辰歳、従紀州熊野新宮引率功臣、安蒜・鈴木・座間・田嶋・血矢・池田・田口之七騎…」とあります。 高城氏の重臣たちは、鈴木・田嶋・座間など、家紋に「稲」紋が用いられている家が多く、熊野との関わり合いを感じることができます。また、熊野新宮実報院の米良家に伝わる『米良家文書』には、熊野社との師壇関係を示す文書が残され、ここの「下総国」の筆頭に「一、小金領」と記されており、深い関わりがあったと考えられます。 ★高城氏略系図★(『小金城主高城家之由来』)
千葉新介胤宗―+―大隅守胤貞――日祐
★『小金城主高城家之由来』 通称は『八木原文書』。高城氏の宗族・安蒜丹後入道浄意の子孫である八木原五右衛門が正保3(1646)年正月に記したものを、延享元(1744)年10月に八木原順介が書き写したもの。
→高城氏は原氏との関わりが深く、系図上も兄弟とされています。また、高城氏と木内氏との関係、木内氏と原氏の所領の関係、小金近辺に住んでいた匝瑳氏がいることから、木内氏が関わっているのかも知れません。 @原氏と木内氏の所領について →高城氏が発生した頃の原氏の所領は香取郡千田郷周辺であったと思われ、木内氏はそれに隣接する香取郡米野井蛇峰山(山田町米野井)に建武3(1336)年から居住していました。康正元(1455)年、当主・木内左衛門尉胤儀は馬加康胤・原胤房の謀叛に抵抗して自害しました。馬加・原の軍勢に追われた千葉介胤直は香取郡志摩城に逃れて自害しました。このときに円城寺尚任・池田胤相・円城寺因幡守・木内左衛門尉(胤儀)・高田胤行・大野小五郎(妙光)らがともに自害しましたが、円城寺・木内両氏はともに原氏と所領を接しており、原氏と円城寺・木内氏はもともと抗争があったとも思われます。また、池田豊後守胤相は木内一族であり、「高田中務大輔胤行」については不明です。 A匝瑳氏と飯高氏・椎名氏 →文治年間(1185−90)、椎名胤光は匝瑳氏に代わって匝瑳南条に入り、柴崎城(光町虫生字古城)を居城としました。また、旧領主であった匝瑳常広の三男・政胤は匝瑳郡北条庄飯高郷に飯高城(八日市場市飯高字神の前)を築いて飯高を称して、椎名氏と争いました。 その後、飯高氏は匝瑳庄から追い出され、政胤の4代の孫・飯高泰高は香取郡山倉郷に山倉城(山田町山倉字土道)を築城して移り住みました。このとき、椎名氏の中からも逃れでて飯高氏とともに移った者もいたかも知れません。泰高は応永24(1417)年に起こった「上杉禅秀の乱」の翌年、家臣・榛谷重氏が禅秀の残党が起こした「上総本一揆」に加担したため、幕府側の押田氏・府馬氏に山倉城を攻撃され、城を府馬氏に明け渡しています。 康正2(1456)年になって『本土寺過去帳』に「匝瑳新兵衛妙新」という匝瑳氏の名がはじめてあらわれます。前年に香取郡を戦場とした原氏と千葉氏との争いが関わっているかも知れません。その後は匝瑳妙秀入道(将監)・匝瑳隼人佑(高田道胤入道)・匝瑳妙勘(勘解由)・匝瑳道高禅門(勘解由)・匝瑳蓮頂(将監入道)・匝瑳与五郎(妙向禅門)・匝瑳肥前守・匝瑳大隅守(信利?)などが見えます。 B木内氏と高城氏 →『本土寺過去帳』の21日の項に「木内下野守 福徳元辛卯六月」が見えます。しかし東国元号「福徳元年(1491)」は「辛卯」ではなく「辛亥」ですので、誤記か。 『本土寺過去帳』の某年17日の項には「高暹尼 木内下野守母儀 蓮上坊ヲバ」とあります。これも年代はわかりませんが、「高暹尼」が上記の「下野守」の母だった可能性はあります。また「蓮上坊」という人物の「ヲバ(伯母・叔母)」であることもわかります。では、「蓮上坊」とはいかなる人物だったのでしょう。 『本土寺過去帳』の21日の項に、「木内下野守」とならんで「高城孫八 同八丙申三月 蓮上坊弟マハシ」とあります。これは文明8(1476)年の事で、「マハシ(松戸市馬橋)」の「高城孫八」は「蓮上坊の弟」であることがわかります。これらを系図で表すと、
木内某
という具合になります。また、木内氏の一族には「弥富(佐倉市岩富)」に拠った一族がいて、彼らは千葉宗家の直臣になっていたと思われます。明応5(1496)年6月26日、佐倉中城において「木内孫三郎殿」が横作内源五次郎とともに「被誅」とあります。弥富の木内氏として文禄3(1594)年正月23日に没した「木内周防守」がいました。また、高城氏の拠った松戸市周辺は木内氏と同族の風早氏の旧領であった場所で、何らかの関わりがあったのかも知れません。これらを見ると、木内氏と高城氏との間に何らかの関わりがあったと思われます。 C高城氏と弥富原氏の関係 高城氏と弥富原氏との関わりとも見える記述として、『本土寺過去帳』に「妙蓮尼 己巳十月 ナツカリ 日悟伯母」とあります。「日悟」とは弥富原氏の「ヤトミ原出雲守日悟」と思われ、「ナツカリ」は「流山市名都借」に相当し、高城氏の本城・大谷口城下です。「己巳」とは、永禄12(1569)年のことと思われ、永禄年以前に高城氏と弥富原氏は縁戚関係にあったことが察せられます。また日悟の伯父・弥富原朗暁は「原出雲守」を称しており、八幡庄中山周辺にいたと思われる「中山殿」ともよばれた「原出雲守胤宣」とも関わりがあるのかもしれません。 「妙蓮尼」は「日悟」の父方・母方のどちらの伯母であるのかは、「妙蓮尼」の記述だけではわかりませんが、同じく『本土寺過去帳』の天正9(1581)年に「遠浦印公尊位 名都借広受寺−日悟母方伯父」という記述があり、これらから察すると、ともに「名都借」にあって、「遠浦印公」と「妙蓮尼」は兄弟であり、それぞれ日悟の母方の伯母・伯父であると考えられます。つまり、弥富原氏は高城氏(もしくはその周辺)と縁戚関係を持ち、本土寺とも関わりを持っていたと考えられます。 さらに、『本土寺過去帳』の中には「桐谷」にいたと思われる原氏が記されています。「桐谷」は現在の流山市桐ヶ谷の事と思われ、高城氏の支城・花輪城に隣接しています。文明4(1472)年正月、「桐谷駿河殿」の子息「原五郎殿」が16歳で没しているとあります。また、「原右衛門佐永岳」は某年5月25日に没したようで、そこにも「桐谷」の地名が見えます。 この「永岳」は「岳」という一字がつくことから見て、臼井の原宗家(@胤親=貞岳、A胤房=勝岳、B胤隆=全岳、C胤清=超岳、D胤貞=震岳、E胤栄=弘岳)に比較的近い存在と思われます。
+―原出雲守朗暁
D安蒜氏の祖とされる高城日向守胤俊 →はじめ「椎名」を名乗ったとされます。通称は介二郎。のち安蒜を称しました。永正14(1518)年の足利義明による小弓城攻撃のときには「安蒜日向守」という人物が高城下野守胤吉の命で小弓城救援に出陣していますが、彼の子孫でしょう。天文9(1540)年に大谷口城を築いた安蒜淨意(丹後入道)も彼の子孫です。
→高城氏はその出自が謎に包まれた一族です。ただ、『千葉大系図』には千葉介満胤の後見人・重臣として書かれていました。 ●千葉介満胤の家臣●
この太字で書かれた武士たちは、いずれも常陸国の名字を持つ人物で、「行方」は常陸国行方郡の常陸大掾家の一族と思われ、「麻生」「島崎」は、行方郡にあった内海の港(津)である「麻生津・島崎津」を取り仕切った常陸大掾家一族とおもわれます。「龍崎」は下総国下河辺庄龍崎の豪族であったと思われます。 さらに、高城氏と常陸大掾家一族の関わりを示す文書が『芹沢文書』にのこされています。芹沢氏は行方郡の常陸大掾氏の一族で、「高城下野守胤忠」から「芹沢殿」に出されたこの書状は、胤忠からの挨拶などが述べられています。これが出された年代は不詳ですが、『戦国遺文』によれば、天文15(1546)年とあります。 常陸にゆかりの人物たちのあとに「高城越前守」とあるうえ、常陸大掾家の一族・多気氏の庶流である芹沢氏と先代からのつきあいがあったことから、ふるくは常陸に住んでいたとも考えられます。
北条氏が滅びると、秀吉は北条氏の旧領・関東を家康に与えました。その所領は武蔵・相模・下総・上総・伊豆・上野の6カ国260万石におよんでいます。関東に入った家康は、まず本拠地を太日川の河口に広がる広大な湿地帯、江戸村に定め、関東各地に家臣団を配分するため、家老の榊原式部大輔康政に命じて彼らの知行割を作成させました。 家康はかつて征服した信濃・甲斐の武田家旧臣、駿河の今川家旧臣を積極的に家臣としており、北条氏の遺臣に対しても同じ姿勢で臨みました。こうして在郷武士たちの反乱を未然に食い止め、北の佐竹氏・宇都宮氏などの侵略を想定して、譜代の大身武将を領地の外輪に配置して警戒させました。ただ、千葉氏についてはどういったわけか、家康は召抱えようとしませんでした。 家康は天正18(1590)年12月、高城氏の旧城地・小金3万石に5男の武田信吉を配置しました。武田信吉は穴山信君の養女(秋山幸)を母として天正11(1583)年9月11日、遠州浜松に生まれました。幼名は万千代。穴山信君が天正10年に暗殺され、武田氏の血脈が絶えたため、穴山武田氏とゆかりのこの万千代を名門武田氏の後継ぎとし、穴山信君の妻・見性院(武田信玄の次女)が養育の任に当たりました。そして元服の時に武田氏の通字「信」を与えて「武田信義」と名乗らせ、武田氏の遺臣を家臣として、名実ともに武田氏の当主としました。信義はのちに「信吉」と名を改めています。
信吉の母・秋山幸(於都摩の方)は永禄11(1568)年に武田信玄の家臣・秋山虎康の娘として生まれました。虎康は武田24将の1人、秋山伯耆守信友の甥にあたります。武田氏が滅ぶと、穴山信君は14歳になった幸を養女として引き取り、家康に側女として仕えさせました。幸は養父・信君の居城「下山城」にちなんで「下山殿」とよばれたり、「於都摩の方」、「秋山夫人」と呼ばれました。翌天正13(1583)年、駿河で万千代が産まれると、家康は武田氏にゆかりのこの子に武田氏の名跡を継がせることとし、信玄の次女を養母として育てさせ、元服時に武田信吉と名乗らせました。 於都摩の方は信吉とともに天正18(1590)年12月に小金3万石に封じられた翌年の天正19(1591)年10月6日、24歳にして亡くなりました。彼女の墓地は松戸市小金殿平賀の日蓮宗の大本山・本土寺にあります。現在は寺内に丁重にまつられていますが、江戸初期までは寺域の外に小さな石碑の墓所が作られ、墓の上に「日上之松」と呼ばれる松が植えられていました。「日上」とは於都摩の方の法名です。
松戸周辺は寛永10(1633)年ころから武田信吉の縁故(武田信吉は元水戸城主)か、水戸徳川家の御鷹場預所となり、徳川光圀(水戸黄門)もたびたび訪れました。あるとき、光圀は「日上の松」を見て、伯父・信吉の生母の亡骸が眠っている場所であると知ると、本土寺本堂の東側に於都摩の方の新たな墓を作らせ、松の根本を人夫20人と掘り返して遺骨の捜索しましたが、ついに見つけることはできず、やむなく松のふもとの土をすくって桶に入れ、これを於都摩の方として新墓へ埋葬しました。貞享6(1684)年、日上没後93年目でした。 また、彼女の父・秋山虎康もまたここ本土寺に葬られています。現在も一般墓地の奥にひときわ大きくそびえたつ墓石群があり「慶長七年」の没年が見え、本土寺で最も古い墓石とされます。 信吉も産まれながらに病弱であり、小金から下総国佐倉に移され、関ヶ原の戦いでは異母弟の松平忠輝とともに江戸城留守居を務めました。そして戦後の慶長7(1602)年11月、佐倉から常陸国水戸20万石に移封されました。しかし、それもつかの間、翌慶長8(1503)年に21歳の若さで没しました。法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。信吉の遺臣はそのまま水戸家の家臣となりました。 ○高城氏のその後○ 胤吉は永禄7(1564)年1月2日の第二次国府台の合戦に一族郎党を率いて参戦し、その恩賞として北條氏康から「葛西・亀井戸・牛島・堀切・小曾根・新堀・飯島・行徳・舟橋」を知行されました。また、天正7(1579)年2月9日には遠山甲斐守・遠山菊千代・高城下野守らに対して葛西堤を造ることを命じていることから、高城氏は江戸衆(遠山甲斐守政景は江戸衆筆頭)と密接な関係があったと思われます。しかし天正10年には葛西・行徳・亀井戸・牛島など、江戸川西部は岩槻の支配下になったようで、高城氏の名は見えなくなります。 千葉家の筆頭家老の原氏は、このころ、宗家に優る軍事力を持ち、室町後期には高城氏は原氏の家老として軍事的に支えていました。このときの下総の情勢を風刺した狂歌に「千葉に原 原に高城 両酒井」というものがあり、千葉氏を支えているのは原氏であり、その原氏を支えているのは高城氏と両酒井(土気・東金)であるという意味です。のち、小田原北条氏は千葉氏とともに、高城氏・酒井氏などを北条家直々の他国衆として独立を認めていたと思われます。 以降、高城氏は天正18(1590)年5月の小田原合戦まで栄え、小田原合戦では胤則と源次郎の父子が小田原城に籠り、湯本口を固めました。しかし、小田原落城も時間の問題となったとき、胤則は居城・大谷口城での留守を守って頑張っていた吉野・安蒜・高野氏らに開城を示唆する密書を送り、大谷口城50年の歴史に幕を閉じました。
その後、胤則は蒲生氏郷にお預けとなり、蒲生家にいる胤則に宛てて、旧家臣たちが身の振り方の相談する手紙が届けられていたようで、胤則はそれに対して「おまえたちの嘆かわしい状況を聞き及んで、自分のことで苦労をかける。こうなっては、百姓となるにしても、いずれの家に仕官するにしても妻や子を大事にすることが肝心だ。しかし本当におまえたちの嘆かわしい様子には涙するばかりだ」との返書を送りました。この書状には旧家臣たちを思いやる気持ちが記されています。しかし、結局彼らはだれも仕官せず、江戸時代を通じて高城氏と関わりを持ち続けました。江戸時代になっても、高城氏は旧家臣たちに「官途状」を発給していることは、のちに高城氏が立身したとき、家臣として迎える予定があったのかも知れません。 慶長9(1604)年8月、胤則は33歳の若さで病死してしまい、嫡子の胤次(のち重胤)はわずか3歳だったために仕官することもできずに、親戚の佐久間安次(重胤の母は柴田勝家の養女で、安次は勝家の姉の子)に厄介になっていたと思われます。 元和2(1616)年6月、16歳になった重胤は高城氏の由緒書きを提出、佐久間安次の推挙で江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に拝謁を許され、200俵取りの禄米旗本となり、麻布市兵衛町に屋敷を賜りました。そして2年後の元和4(1618)年12月、御書院番士になり、寛永10(1634)年に200石の領地を持った知行取りの旗本に出世しました。 胤則の孫・清右衛門清胤は元禄7(1695)年、父・貞胤の遺蹟を継いで700石の領地を賜りました。清胤の屋敷には旧家臣の子孫が小金からたびたび出入りしていたようです。高城氏はその後も加増を重ね、天保年間の胤親は、旧大谷口城下に知行を持つ1500石の旗本にまで立身していました。
天保10(1839)年4月、胤親は遠祖・源次郎胤則の供養のため江戸から大谷口に出発しました。4月7日早朝6時、麻布屋敷を出立して千住の先で昼食、江戸川を渡って松戸に到着しました。松戸では戦国大名・高城氏にゆかりの風早神社に詣でて、金百疋を奉納。拝殿前にある樫の巨木「なんじゃもんじゃ(水戸黄門が命名)」を見学して、夕方4時に小金大谷口城下金杉村の菩提寺・金龍山広徳寺に到着しました。この日は広徳寺に宿泊し、翌日は朝から広徳寺と慶林寺(胤則の祖母・桂林尼の菩提寺)で法事を行い、旧家臣の末裔・安蒜五右衛門らの案内で大谷口城のあとを見学しています。この日は宿所の広徳寺にたくさんの人が挨拶に訪れていたようで、旧家臣の末裔たちも数多くいたと思われます。高城氏は戦国期から幕末まで、地元に根付き、地元に愛された領主だったことがうかがえます。その翌日、胤親は麻布屋敷に帰っていきました。 小金大谷口城の本城の真下にある「平戸弁天」は、JR北小金駅から西に少し歩いたところにあり、別名「いぼ弁天」ともよばれています。この弁天様には言い伝えがあります。 元禄7(1694)年、高城氏の旧臣で小金に土着していた日暮玄蕃の一人娘は絶世の美女でしたが、目の下にいぼがあって、これを苦にして寝込んでしまいました。彼女の母親が願掛けをしたところ、夢の中で「大谷口城の下の弁天祠によく頼むがよい」というお告げがあり、母親は21日の間、弁天堂からわき出る水でいぼを洗ったところ、次第に小さくなり、消えてしまいました。これを喜んだ日暮玄蕃は弁天堂を建て替えてこれをまつりました。現在の御堂は、昭和34(1961)年に改築されたものです。 |ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|高城氏の歴代| Copyright(C)1997-2001 S-Shibata. All rights
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