江戸時代の下総相馬氏4

下総相馬氏

○喜連川相馬家○

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 喜連川相馬家は古河公方家に仕えた下総相馬氏の一族である。桃山時代、旧古河公方足利家と旧小弓公方足利家が血縁上ひとつに戻り、封地にちなんで喜連川を姓とした。古河公方に仕えていた相馬家も寛永年中に古河から喜連川へ移り、明治に到るまで喜連川藩の重臣の地位を保ち続けた。

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■古河公方・喜連川家中相馬家■

  【藤ヶ谷城主】
 …―相馬胤吉
  (紀伊守)
 
  【泉城主?】 
 …―相馬因幡守―相馬弾正忠
 
 +―相馬内膳亮
 |                                      
【関係不明】                                   
 |                                      
 +―相馬靱負――相馬胤晴―+―相馬胤道―+―相馬胤将――相馬胤知        +―娘     +―相馬音胤
        (玄蕃)  |(玄蕃)  |(靱負)  (権右衛門)       |       |(隼人)
              |      |        ‖          |       |
              |      +―浅沼吉見   ‖――――相馬定之進―+?―相馬與胤―+=相馬正胤
              |      |(竹五郎)   ‖            (玄蕃允) |(小次郎)
              |      |        ‖                  |
              |      +―娘      ‖                  +―妹
              |        ‖      ‖                    ‖
              |        ‖      ‖                    ‖
              |      【大田原藩士】  ‖                    ‖
              |       鈴木弥市左衛門 ‖                    ‖
              |               ‖                    ‖
              |【久慈郡大子村】       ‖                   【喜連川皆吉家】
              +―皆吉胤明―+―娘    +―妹                  +―皆吉胤誠
               (幽軒)  | ‖    |                    |
                     | ‖    |                    |
                     +=皆吉勝富―+―皆吉胤長――皆吉胤忠――――皆吉胤謙―+―皆吉胤俊
                      (立碩)   (立膽)  (立碩)    (立膽)   (友軒) 


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相馬内膳亮(????-????)

 下総相馬氏一族。永禄9(1566)年3月23日、上杉謙信の軍勢が下総国臼井城を取り囲んで攻め立てた。これは、上杉氏と北条氏との争いの中で、北条氏に加担する千葉介胤富の攻略を意図したものであった。二年前の永禄7(1564)年にも上杉勢は臼井城を攻めたが失敗。今回は結城晴朝の手勢を引き連れての出兵であった。

 しかし今回も落城寸前まで追い詰めたものの、千葉介胤富は北条氏や古河公方からの援軍も得て、上杉勢を再度撃退した。このとき、足利義氏のもとから派遣された援軍の中に相馬某がおり、9月26日、義氏は彼が「今度臼井之地令籠城、抽粉骨走廻之条、神妙之至候」として、「内膳亮」の官途を授けた(『猿島町史 資料編』)

 彼と同時代のことを記載した文書の中に、足利義氏から原木掃部丞へ宛てた感状があり、その感状中に「相馬晴朝」の記述のあるものがあるが、この文書の体裁には疑問が残る(『北区史研究』第二号:「後撰芸葉五」)


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相馬靱負(????-????)

 下総相馬一族。足利義氏に仕えた奉公衆で、某年9月25日、義氏より「靱負」の官途を賜る(『喜連川文書』)。おそらく彼と同一人物と思われる「相馬ゆきへ」が天正10(1582)年正月28日、「石川隠岐守跡」を受け継いでいる(『足利義氏書状写』:「古河市史」)

 古河公方家は天正11(1583)年の足利義氏の死によって断絶。そのため、奉公衆たちは足利義氏の娘・足利氏姫を奉じて足利家の存続を図った。その後、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉のはからいによって、古河公方にとってはかつての宿敵である小弓公方の血を引く足利国朝(下野国喜連川に所領を賜った)と結婚し、喜連川足利家が創設された。国朝が喜連川に所領を与えられたのは、国朝の姉・足利嶋子(月桂院)が秀吉の側室になっていたためという。

 一方、古河公方家の足利氏姫は足利国朝との結婚後も古河の別邸・鴻巣館に移り住み続けており、夫・国朝との同居はなかったようである。夫婦となりながら古河・小弓両公方家の確執は続いていたのだろう。なお、足利国朝の家老として高修理頭、二階堂主計、三浦左京亮などとならんで「相馬靱負」が見え(『大武鑑』)、おそらく義氏に仕えた相馬靱負と同一人物と思われる。ただし、相馬家は喜連川に赴くことはなく、おそらく氏姫の老職として古河にいたものと思われる。

 国朝が文禄2(1593)年に亡くなると、氏姫は国朝の弟・足利頼氏に再嫁することになった。それでも喜連川への移住を拒み続けたが、頼氏との間には二人の子が生まれており、長男の喜連川義親が嫡子とされた。ただ、義親も喜連川へ入部せずに古河に住み、寛永4(1627)年に藩主になることなく病死した。

 その後の靱負の動向は不明。


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相馬胤晴(1587-1663)

 相馬靱負の嫡男。通称は権右衛門、玄蕃。妻は大草四郎右衛門久供娘(古河衆)。 

 寛永7(1630)年、二代藩主・喜連川頼氏が亡くなったため、嫡孫の喜連川尊信(喜連川義親の嫡男)が三代藩主に就いて喜連川へ移った。相馬家は「相馬靱負」「寛永始め古河より来」たとあって(『相馬家系譜』)、尊信に随ってきたことがわかる。胤晴が「靱負」を称したかは記録が残っておらず不明だが、時代としては胤晴の代となる。

 喜連川家中は、旧小弓公方家の家臣衆(上総衆)と旧古河公方家の家臣衆(古河衆)の二つの流れが合わさることになったが、男系の小弓公方系の旧臣層が優遇されていたようで、相馬家は古河衆筆頭の家格(三十石)ながら中老に留まっている。

 喜連川藩相馬家は、ある一説に拠れば、千葉介胤正の十八代の末裔・千葉新介重胤が下総国守谷に移り住んで「相馬」を称し、その子・義胤古河公方足利義氏に仕えたという(『栃木の苗字と家紋 上』)が、時代的に見て重胤と義胤の代が逆で混乱が見られる。

 寛文3(1663)年3月7日に亡くなった。享年七十七。

 妻の大草四郎右衛門娘は宝永5(1708)年9月5日に亡くなった。


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相馬胤道(????-1730)

 相馬権右衛門胤晴の嫡男。通称は玄蕃。母は大草四郎右衛門久供娘(古河衆)。妻は永井喜右衛門娘

 屋敷は喜連川宿の横町南側東から二軒目に間口十四間一尺で建っていた。

 享保15(1730)年6月7日に亡くなった。

 妻の永井氏は宝暦9(1759)年7月23日に亡くなった。

 弟・胤明は母方の皆吉家を相続して、皆吉幽軒を称し、久慈郡大子村に住んだ。


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相馬胤将(????-????)

 相馬玄蕃胤道の嫡男。通称は靱負。母は永井喜右衛門娘。妻は三浦采女康清娘(上総衆)。

 弟は浅沼力右衛門の名跡を継いで浅沼竹五郎(のち吉見)と称した。妹は大田原藩士・鈴木弥市左衛門に嫁いだ。

 妻の三浦氏ははじめ高瀧氏を称しており、上総国市東郡高滝郷(市原市高滝)を本貫とする三浦一族と思われる。


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相馬胤知(????-1767)

 相馬靱負胤将の嫡男。通称は権右衛門、玄蕃(?)。母は三浦采女康清娘(上総衆)。妻は皆吉立碩(皆吉勝富)娘

 宝暦6(1756)年10月、勘定所から「相馬玄蕃殿」へ知行改が渡されており(『相馬家給地取米永書き抜き帳』)、時代的には胤知の代となるか。

 明和4(1767)年正月2日に亡くなった。

 岳父の皆吉立碩は、相馬玄蕃胤道の弟・皆吉幽軒胤明の婿養子で久慈郡大子村の郷医。娘の胤知妻は寛政9(1797)年7月23日に亡くなっている。胤知妻の兄・皆吉立膽胤長は享保18(1733)年生まれで、大子村の郷医として活躍。天明8(1788)年4月15日に亡くなった。享年五十六。


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相馬定之進(????-????)

 相馬権右衛門胤知の嫡男。通称は定之進。母は皆吉立碩(皆吉勝富)娘


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相馬與胤(????-????)

 相馬定之進の子か。通称は玄蕃允、藤内(カ)近習、御側御用人、中老

 天保期、藩主・喜連川煕氏のもと藩政改革が行なわれ、その際に家中の格式も厳しく定められた。喜連川家は足利家の末裔という家柄のため、その家格・規律に対して過度なほど気を配っていた。これに対し、その格式について書き留めた覚書が記された。天保13(1842)年4月、相馬家においても覚書が書かれた(『天保十三年寅年中老給人格式覚』)

 弘化5(1848)年正月の役高帳によれば「相馬玄蕃允」「五拾壱石」を領していた(『弘化五年正月家中役高改め直書』)。これは家中筆頭の上総衆・二階堂出羽(四百石)、次席の逸見丹波(二百二十五石)に次ぐ家中第三位の石高であり、古河衆筆頭でもある。

 嘉永2(1849)年3月19日、藩主・喜連川煕氏より與胤へ、日ごろから演武場会日に不参加の藩士が多いことに落胆し、「家臣は皆是勲功之子孫ニて、某職分行届キ不申候得は、相互ニ 先祖之令名を穢、家法取乱可申戦慄之至ニ候」と嗜め、さらに「武芸は武士之職分故、演武城え罷出武術一芸は急度相嗜可候」とする直書を重役を通さず、側用人である與胤へ下し、 與胤はこれを写して重臣諸家へまわし、25日までに承服の者は姓名を記して藩庁へ差出し、異見の者は與胤まで意見書を提出するよう指示。二階堂下総、逸見丹波、大草仲、黒駒能登、渋川帯刀以下二十五名の人々が承服の返答を提出。與胤が写し取って各家へ配布した。そのうちの一人に「相馬隼人」の名が見えるが、子の相馬隼人音胤である。

 また、「相馬玄蕃允殿」は、藩の重臣で学者でもある大草仲筆子塾の塾生でもあり、安政5(1858)年8月の『出入筆子姓名帳』に名が見える。住所は「横町」とある。また、一族の「皆吉立碩殿」も塾生で馬場町に住んでいた。この皆吉立碩は大子村の郷医・皆吉家の末裔であるが、実名は不明。皆吉家の系譜には、皆吉立碩胤忠の孫にあたる皆吉胤誠「喜連川皆吉家」を継いだことが記されており、胤誠が「立碩」を称したとも考えられる。


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相馬音胤(1822-1850)

 相馬玄蕃允與胤の子。通称は友太郎、隼人。妹は一族の皆吉胤誠の妻となる。

 天保11(1840)年11月、藩公・翰林館に入校した。このとき「相馬友太郎」とあり、初名は友太郎を称していたと思われる。彼の前年に入校した二階堂主殿貞明は、のちに家老となり藩政を牛耳る。

 嘉永3(1850)年11月、二十九歳の若さで亡くなる。


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相馬正胤(????-????)

 相馬玄蕃允與胤の養子。通称は辰八、定之進、小次郎喜連川藩用人。明治期喜連川の名士である。

 嘉永7(1854)年2月末、相馬玄蕃允與胤の養子となり、3月9日、與胤とともに親類縁者はもとより知人などに挨拶回りをし、4月17日、「平正胤」と改めた。4月20日、出勤願いを提出、23日に登城して給人席に任じられ、「御見廻り」見習を仰せ付けられる。その後、「両君(喜連川煕氏、喜連川紀氏)」に初御目見えを果たした(「相馬家文書」:『喜連川町史』第六)。その後は、使者や奉行、目付等を勤めている。

 嘉永8(1855)年、嫡男・相馬熊太郎が誕生した。

 文久2(1862)年10月、正胤は病弱な主君・喜連川縄氏(水戸老公・徳川斉昭子で喜連川宜氏養子)を擁して実権を握っていた二階堂安芸貞明、二階堂主殿貞則らを糾弾して追放処分となった。しかし、この二階堂父子の専横は家中からも非難が強く、正胤は翌文久3(1863)年には帰参が認められた。文久4(1864)年2月、正胤は天保13年に認められた格式覚書を書写している。

 慶応3(1867)年、二階堂父子は隠居に追い込まれ、古河衆・大草仲が代わって家老職に就任。7月、二階堂父子が藩主・喜連川縄氏が会津藩と内通しているとして、密かに横山将監を官軍陣所へ遣わして訴え出たが、官軍の因幡鳥取藩隊長・高塩又四郎はもとは喜連川藩の出であり、学問を志して上方へ赴いた際に故あって因幡鳥取藩池田公の人数に加わって下向していた。

 7月11日、高塩又四郎は疑問を抱いて喜連川藩を調査するべく、同じく官軍の佐賀藩士・中島彦九郎を同道して7月15日、喜連川御所を訪れて殿中に重役一同を集め、二階堂父子の訴状を示して問いただしたところ、二階堂父子の讒訴が発覚。二階堂父子ほか企てに加わった者は8月13日、処刑された。このうち、計画を主導した二階堂主殿助貞明は梟首されている。

 慶応4(1868)年4月17日、塩谷郡大槻村矢板市大槻)と宿村(さくら市鷲宿)の人々が山林に集まって暴動を謀っているとの報が喜連川に寄せられた。これを受けた藩主・喜連川縄氏「相馬小次郎平正胤」大槻村に、「金崎内蔵源義比」鷲宿村にそれぞれ出兵を命じた。両名は大砲一門と銃卒十人を率いて近隣まで進軍し、空砲を放って示威した。これにより、集まっていた群集は逃散したため、金崎義比は翌18日に喜連川に帰還した。一方、正胤は夜、乙畑村(矢板市乙畑)に宿陣し、翌18日に鷲宿村に入る予定だったが、義比の帰還を知った暴徒がふたたび挙兵を企んだ。しかし、正胤は彼らの背後に出たため、暴徒はふたたび逃げ散った。これを受けて正胤も喜連川へ向った。

 明治に至り、養父亡藤内 相馬正胤 旧名小次郎」永世家禄米十三石を給わる(『喜連川居住士族明細書』:「喜連川町史 資料編4」)

 明治22(1889)年8月1日より喜連川区長(第三区)となる。


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●ご協力(ありがとうございます)

茨城県在住の方
皆吉様

●おもな参考資料●

『常総戦国誌 守屋城主相馬治胤川嶋 建著 崙書房出版
『取手市史』 取手市史編さん委員会
『千葉氏 室町・戦国編』 千野原靖方著 たけしま出版
『相馬岡田文書』 相馬文書収録 群書類従完成会
『我孫子市史』 我孫子市史編さん委員会
『沼南町史』 沼南町史編さん委員会
『沼南の歴史』 沼南町
『喜連川町史』 さくら市史編さん委員会
『我孫子市の歴史研究』 我孫子市
『中世相馬氏の基礎的研究』 岡田清一著
『千葉県東葛飾郡誌』
『寛政重収諸家譜』 第九巻
『相馬当系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『相馬左近太夫民部太夫系図』 取手市史収録 広瀬家所蔵
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳七』 彦根城博物館
『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳九』 彦根城博物館
『総和町史』
『猿島町史』資料編 原始・古代・中世
『北区市史研究』二
『群馬県史』資料編5中世1
『古河市史』
『鷲宮町史』
『境町の文化財を守る会』公誌15周年記念号
『諸家中等控』「笠間市史資料」第三集 笠間藩史料
『皆吉家譜』皆吉家蔵
『喜連川町史 第三巻 資料編三』
『喜連川町史 第四巻 資料編四』
『喜連川町史 第六巻 通史編』

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