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千葉俊胤 (1419-1430) |
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千田瀧楠(????-????)
『金沢文庫』に「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」とあり、千田孫太郎胤平の嫡男だろう。実名は不明だが、「瀧」と「胤」は字体が酷似しているため、『金沢文庫文書』を活字の本にした際に訳者が誤ったか誤植だろう。
父・胤平の死後、胤平の弟・千田胤継が胤平の遺領を継承したために諍いがおこったのだろう。「瀧楠」は「千葉介殿(千葉介貞胤)」と結んで千田庄に乱入した。『金沢文庫』(『某書状断簡』)によれば「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」が「千葉介殿と一味同心」して千田庄内の大島城(千葉県香取郡多古町船越)を攻める企てをした。このとき、千田庄内の千葉介家臣の竹元氏・岩部氏が、瀧楠に「定合力仕候」というように、千葉介が瀧楠に合力を約束して千田胤継の勢力を千田庄から追い出そうと謀っていたことがわかる。竹元氏は「(某年某月)二十一日、千田庄大原城に入り、軍勢を集めているが、いまだ大きな戦いにはなっていない」という内容が読みとれる。
しかし、千葉氏の諸系譜にも他の文書にも「瀧楠」という名を見ることはできない。『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■継 胤泰 胤基」と歴代が並べられているが、「直胤・胤直」の継承は文書では確認できない。「胤直」が「胤楠」のことかも? また、ここに見える「高胤」は某年8月13日に「肥前国小城郡東方内高胤手取内田地伍町」を「中山殿(下総国八幡庄中山本妙寺の日祐上人か)」に進上した「平高胤」のことで、胤平の兄にあたる人物と思われる。
ただし、胤貞から高胤に対しての譲状はなく、高胤は早世したか、何らかの理由で下総千田庄へ下っていたのかもしれない。一方、胤平は建武元(1334)年12月1日、父・胤貞から譲状をもって所領を継承している。しかしその後の胤平の活躍は見られず、『岩蔵寺過去帳』の胤平のあとにみえる「直胤」「胤直」についても活躍はないが、「直」は「貞」と誤記される傾向にあり、「貞胤」「胤貞」とすれば、胤平の死後、千葉介貞胤が地頭職を奪取し、さらにその直後、胤貞が取り戻したということになる。
「胤直」のあとの「■謎」は「胤継」のことと考えられ、そのあとの「胤泰」の甥にあたる(胤泰は胤貞弟で養子となった)。このうち「胤継」が胤貞の家督を継ぎ、下総国千田庄の千田千葉氏の祖となり、「胤泰」は九州にとどまって肥前千葉氏の祖となった。胤継は、観応元(1350)年7月11日、下総国千田庄内の土地を中山本妙寺(のちの法華経寺)に寄進しており、このころには胤継が千田庄の領主であったと考えられる。
◇『岩蔵寺過去帳』・『某書状断簡』・『千葉胤貞譲状』をもとにした想像系図
⇒千葉新介宗胤―+―胤貞――――+=日祐 +―直胤
∥ |(大隈守) |(本妙寺貫主)|
∥ | | |
明恵 +―胤泰 +―胤平――――+―胤直
(刑部大輔) |(孫太郎) (=瀧楠?)
|
+―高胤――――――胤親―――→《千田原氏》
|(原四郎?) (式部少輔)
|
+―胤継――――――胤氏―――→《千田千葉氏》
|(大隈守)
|
+=胤泰――――――胤基―――→《肥前千葉氏》
(刑部大輔) (右京大夫)
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千葉胤清(????-????)
肥前千葉氏の一族。官途名は右京大夫。下総千田庄の千葉胤清と同一人物か? もしくは同時代の千葉右京大夫胤基と同一人物か。
正平14(1359)年7月、征西将軍宮・懐良親王率いる南朝の大軍が大宰府に押し寄せた。このときの大宰府の少弐頼尚は諸将を率いてこれに対抗した。その交名の中に「千葉右京大夫胤清」の名が見える。また、懐良親王の麾下には「千葉刑部大輔」がおり、これは当時、南朝に荷担していたとみられる胤泰のことか?
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尼日音(????-????)
千葉胤泰の娘。
初代九州探題として九州に下向した今川了俊の弟・今川仲秋の妻となり、今川貞秋・国秋を産んだ。国秋の子孫は持永氏を称し、龍造寺氏の家臣となったのち、鍋島氏の家臣となった。
→千葉胤泰――日音 +―貞秋
∥ |
∥―――+―国秋
+―今川仲秋
|
+―今川貞世
(今川了俊)
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尼日光(????-????)
十代・千葉介胤朝の娘。千葉家の惣領代的存在になっていたか。
文明18(1486)年12月、千葉介胤朝の養嗣子に定められた大宰少弐教頼の子・千葉胤資に嫁ぐ。
明応6(1497)年4月8日、義兄・少弐政資が大内勢との戦いに敗れて、夫・千葉胤資の居城・晴気城に入った。4月13日には、従兄弟の千葉興常(胤棟が義興の一字を与えられて改名)が大内軍に参陣したため、晴気城内にも反少弐氏感情が高まってしまう。兄・政資の身を案じた胤資は、政資に多久の梶峯城へ移るよう勧め、18日未明に政資は晴気城を出て多久へ移った。しかし、翌19日にはすでに政資が多久に逃れた報が大内義興に届いており、義興は軍勢を梶峯城へも派遣している。
そしてその日の夜、もはや逃れられぬと悟った政資は、城下の泉称寺で自刃。弟・少弐高経は晴気から別行動をとっていたが、21日に市ノ川の山中で自害した。そして、晴気城に残って大内氏を迎え撃った夫・千葉胤資も19日、決死の出撃をして討死した。胤資二十四歳だった。
落城前、夫・千葉胤資によって嫡男・胤治とともに晴気城から脱出したため、難を逃れることができたが、しばらくは身を隠していたようだ。嫡男・胤治は文明18(1486)年生まれだが、胤資が千葉家に入った年が文明18(1486)年12月であることや、当時胤資は十三歳であることから、胤治は胤資の実子ではないこととなる。尼日光の連れ子の可能性もあるが、彼女も胤資とさほど年齢が変わらないとすれば、十代前半での出産となるため現実的ではない。胤治も少弐家または千葉家所縁の家から迎えた養子ではないだろうか。
胤資亡き後、十二歳の胤治を擁する晴気千葉家は存亡の危機を迎える。この危機に、尼日光はみずから惣領代的な立場に就いて、千葉家を支えたと思われる。
その後、大内勢が大友氏討伐戦に失敗して、その主力が豊前国から長門国に引き揚げるのを見届けると、身を隠していた尼日光、胤治らは晴気城の南東にあった小城郡甕調郷(小城市)の高田城に入った。
しかし、翌明応7(1498)年2月24日、大内方につく筑紫満門・東尚盛らが高田城に攻め寄せたため、尼日光、胤治らは城を捨てて佐嘉郡川副郷(佐賀市諸富町太田)に逃れた。尼日光、胤治らはここで龍造寺氏をはじめとする旧交の豪族たちに援けを求め、これに応じた龍造寺豊前守胤家が、援兵に反対する弟の龍造寺家和を振り切り、夜陰に紛れて成富胤秀・木塚直喜・太田和泉守らを語らって高田城へ急行し、川副郷太田で筑紫・東勢を打ち破った。
しかし、晴気千葉家の胤治(少弐方)と敵対する牛頭山城の千葉興常(大内方)が筑紫・東の援軍として駆けつけてきたため、晴気千葉・龍造寺勢は敗れ、尼日光、胤治らは龍造寺胤家とともに筑前国へ逃れていく。こうして牛頭山の興常が大内義興の後援を受けて肥前国守護代となる。
筑前へ逃れた龍造寺胤家は、外戚の小鳥居信元(大宰府官吏)のもとで肥前帰国を図っていたが、永正元(1504)年、三根郡西島(三養基郡みやき町)城主・横岳資貞に養育されていた少弐政資の遺児・少弐資元が大友頼治の後援を得て大内氏に反旗を翻した。この騒動の中で、胤家は肥前に戻り、弟・家和に迎えられて大財端城に入城した。尼日光たちも高田城に帰ったのだろう。
少弐資元は勢いに乗じて大内家に味方する肥前国神埼郡の勢福寺(神埼市城原)城主・江上興種を攻めて追放。さらに千葉氏と龍造寺氏の力を借りて九州探題・渋川尹繁を白虎山城に攻めて、尹繁を筑後へ放逐した。その後、資元は白虎山城に重臣・馬場頼経を入れて守らせ、尼日光らは高田城へ戻った。おそらくこの千葉家の流浪時期に、尼日光は二人の養子を取ったと思われる。一人は胤治の跡を継いだ胤繁、もう一人はその跡を継いだ胤勝(横岳家より)である。
少弐貞頼―+―少弐満貞――少弐教頼―+―少弐政資―+―少弐高経
|(太宰少弐)(太宰少弐)|(大宰少弐)|(大宰少弐)
| | |
| +―千葉胤資 +―少弐資元―――少弐冬尚
| (肥前守) (肥前守) (大宰少弐)
| ∥
| 千葉介胤朝―+―明胤―――+=千葉介胤繁
| |(尼日光) |(千葉介)
| | |
| +=千葉胤治 +=千葉介胤勝――千葉介胤連
| (満童丸) (千葉介)
|
+―横岳頼房――横岳資貞―+―横岳資誠
(孫次郎) (兵庫頭) |(讃岐守)
|
+―千葉介胤勝
(満童丸)
しかし、永正3(1506)年10月、筑紫満門・東尚盛らがふたたび高田城に攻め寄せてきたため、尼日光らは再び城を捨てて龍造寺氏を頼った。
翌永正4(1507)年3月、大内義興に庇護されていた前将軍・足利義尹が、義興に擁立されて上洛することになり、義興は義尹の命を受けて少弐資元と和睦した。さらに資元は肥前守となり、尼日光らも晴気への帰還が許されたという。こうして、後顧の憂いを絶った義興は、永正5(1508)年6月、足利義尹を奉じて上洛の途につき、少弐氏からは横岳資誠、興常、龍造寺家和らが将軍家の供奉として従った。この前将軍・義尹の上洛によって、現将軍・足利義澄は近江国に逃れ、足利義尹はふたたび将軍に返り咲いた。義尹はその後、名を義稙と改める。
しかし、大内義興が領国を留守にしたため、中国地方では尼子経久による侵略が起こるなど、大内家に対する反乱の火が各地で起こり始めた。おそらく肥前でも尼日光、胤治らは高田城を取り戻すべく兵を挙げたと思われる。彼らが挙兵した時期は不明ながら、永正7(1510)年3月13日、胤治が二十五歳の若さで高田城で討死を遂げている。
その跡は養子の胤繁が継いだが、翌永正8(1511)年9月25日、十八歳の若さで亡くなっている。大内家との戦いの最中であることから、討死の可能性がある。その跡はもう一人の養子・胤勝(横岳家より)が継いでいる。
尼日光がいつ亡くなったかは不明。法名は明胤。
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千葉俊胤(1419-1430)
千葉介胤鎮の嫡男。
永享2(1430)年8月、十二歳で病死した。
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千葉胤氏(????-????)
文明元(1469)年6月、兄の千葉介教胤と大村家親との戦いに従軍し、彼杵郡に向かって出陣したものの、大町江(杵島郡大町町)で嵐におそわれ、船が転覆。兄・教胤は溺死してしまった。胤氏は無事帰り着いたものの、敵対関係にあった叔父・千葉胤紹の系統から出た千葉胤朝が当主となり、胤氏の子・義胤は「徳嶋」を称して千葉氏の家臣となった。義胤の子としては「徳嶋胤秀」が見られる系図もある。
永禄6(1563)年3月、島原半島の名将・有馬晴純は龍造寺隆信・千葉介胤連との戦いで杵島郡まで攻め寄せた。千葉介胤連はただちに龍造寺隆信と連絡をとり、配下の鴨打胤忠(陸奥守)・徳島胤時(甲斐守)・持永盛秀らを率いて小城郡丹坂峠まで出陣した。
さらに天正4(1576)年、龍造寺隆信は、鍋島信房・信生兄弟をはじめ、犬塚鎮家、徳島信盛、横岳家実を率いて宿敵・有馬氏の東肥前の前線基地である藤津郡横造城を攻め落とした。攻めとった横造城は鍋島信房(鍋島直茂の兄)が守将となり、徳島信盛は藤津郡松丘城主となった。
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千葉政胤(????-1455)
文安2(1455)年8月17日に父・千葉胤紹とともに伯父・千葉介胤鎮に討たれた。
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千葉胤盛(????-1478)
八代・千葉介胤紹の三男。のち、肥前国小城郡牛頭山城主となった「祇園千葉氏」の祖。
兄の千葉介胤朝と家督をめぐって争い、胤朝に荷担する渋川教直・大内政弘らと争っていた文明10(1478)年10月27日、急死した。法名は日盛。
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千葉胤将(????-????)
八代・千葉介胤紹の四男。通称は次郎。十一代当主・千葉介胤朝の弟。
幼少時に佐嘉郡妙法院で出家していたが、千葉介胤朝と仲違いした家老・岩部常楽に擁立されて文明2(1470)年10月19日に還俗し、「胤将」を称した。その後は少弐政資の援けを得ながら、岩部軍の旗印として胤朝と戦火を交えた。そして胤将はついに胤朝を牛頭山城に追い込んだが、九州の戦乱を心配した将軍・足利義政が少弐政資に千葉家内訌を鎮めるよう命じ、政資から胤朝・胤将に停戦を命じたことから、やむなく胤将は胤朝と和睦し、城攻めは中止された。
しかし、12月には和睦を一方的に破った胤朝に攻められ、宗貞国とともに筑前国の山岳伝いに大宰府へ逃れて行った。胤将は怒って少弐政資に胤朝追討を請うが、政資は幕命を盾にこれを認めなかった。
これ以降、胤将はしばらく雌伏するが、文明18(1486)年10月3日、刺客を放って胤朝を暗殺した。この報を受けた少弐政資は激怒し、12月23日、胤将を謀反人として追討の兵を差し向けたが、いち早くこれを察知していた胤将はすでに大宰府から姿を消し、配下の諸将もこつぜんと姿を消した。以降の消息は不明。
~福岡藩士大宮家~
江戸時代、筑前国福岡藩に仕えていた千葉氏があり、名字は大宮氏と改めている。福岡城下に「大宮」という地名(福岡市中央区大宮)があり、ここと大宮千葉氏と何らかの関係があるのかもしれない。福岡藩の大宮氏は御用所吟味役などをつとめ、安永年中(1772~1781)の分限帳には「大宮六郎左衛門」「大宮武左衛門」が記されている。武左衛門は「定府」と記されており、江戸の赤坂にあった福岡藩上屋敷につめていたと考えられる。
文化年中(1804~1818)の分限帳には「定府」の「大宮平三郎」が、さらに安政年中(1854~1860)の分限帳に「定府・御馬廻」の「大宮幸助」が見える。幕末・明治期に「大宮」家は元来の「千葉」へ復氏。御馬廻組「千葉延胤」、城代組「千葉雅也」、三ノ銃士「千葉一胤」といった藩士がある。
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尼日住(????-????)
東千葉氏四代・千葉胤誠の娘。江上右京亮の妻となるが、のちに離別した。
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