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鍋島常治(1629-1680)
十八代千葉氏当主。十七代当主・鍋島玄蕃常貞の次男。母は鍋島胤信娘(心光妙観大禅定尼)(『千葉頼母親族帳』)。妻は鍋島志摩守茂里娘(桃源院壽林浄仙大姉)。通称は玄蕃。
勝屋茂為―――娘 石井賢成――+=石井賢胤―――石井賢次――+―千葉胤矩
(勘右衛門) (松寒院)(六郎左衛門)|(六郎左衛門)(六郎左衛門)|(舎人)
∥ | |
∥――――――――――+―千葉常輝 +―――――――娘
∥ (太郎介) ∥
∥ ∥ ∥
千葉介胤勝――千葉介胤連――鍋島胤信―――娘 +―千葉常成 +―娘――――――千葉常春 ∥
(千葉介) (千葉介) (右馬允) ∥ |(太郎介) |(永保院) (八左衛門) ∥
∥ | | ∥
∥ | 鍋島茂教―鍋島教澄――+―鍋島明実―――鍋島教令 ∥
∥ |(伝兵衛)(隼人) (将監) (伝兵衛) ∥
∥ | ∥ ∥
∥ | ∥―――――――千葉常以――千葉胤貞
∥ +―――――――――――――――――――――娘 (頼母) (太郎助)
∥ |
∥ |
∥―――+――――――――鍋島常治
鹿江茂次――鍋島常貞 (玄蕃)
(忠兵衛) (玄蕃) ∥
∥―――+―鍋島常範===鍋島胤貞
石井忠俊 石井信忠 ∥ |(玄蕃) (官右衛門)
(左衛門尉) (安芸守) ∥ |
∥ ∥――――+―鍋島茂里 ∥ +―鍋島常長―――千葉常安
∥――――――娘 |(主水佑) ∥ |(玄蕃) (忠右衛門)
石井常延―+―娘 (妙玉) | ∥ |
(兵部少輔)|(法性院) +―鍋島茂賢―+―千代松 ∥ +―娘
| (安芸守) | ∥ ∥ ∥
+―彦鶴 | ∥ ∥ ∥
(陽泰院) | ∥ ∥ +―岡部重政===岡部重師
∥―――+―鍋島勝茂 +―鍋島茂房 ∥ |(七之助) (権之助)
鍋島直茂 |(信濃守) |(縫殿助) ∥ |
(飛騨守) | | ∥ +―岡部重利―――岡部重師
+―娘 +―鍋島直賢 ∥ (宮内) (権之助)
∥ |(主馬允) ∥ ∥
∥ | ∥ ∥
∥ +―鍋島長賢 ∥ ∥
∥ |(頼母助) ∥ ∥
∥ | ∥ ∥
∥ +―伊勢福 ∥ ∥
∥ | ∥――――――娘 ∥ ∥
∥ | ∥ (鍋島茂春妻)∥ ∥
∥ | 岡部重利 ∥ ∥
∥ |(宮内) ∥ ∥
∥ | ∥ ∥
∥ +=石井茂紹 有田孝広 ∥ ∥
∥ |(掃部助) (主計允) ∥ ∥
∥ | ∥ ∥ ∥
∥ +―鍋島茂里 +―伊勢亀 ∥ ∥
∥ (志摩守) | ∥ ∥
∥ ∥ | ∥ ∥
∥ ∥――――+―――――――娘 ∥
∥ ∥ | (桃源院) ∥
∥ ∥ | ∥
∥――――+――――――――娘 +―鍋島茂春―――――――+=======娘
龍造寺家晴 ∥ | (志摩) | (鳥巣甚右衛門実娘)
(上総介) ∥ | |
∥―――――諫早直孝 +―諫早茂敬――諫早茂眞 +―鍋島茂明
∥ (石見守) |(豊前守) (豊前守) |(安芸)
千葉介胤繁―――娘 | |
(千葉介) +―彦宮 +―鍋島茂久
∥ |(志摩)
∥ |
鍋島常貞 +―鍋島胤貞
(玄蕃) (官右衛門)
寛永6(1629)年、常貞の二男として誕生した。成長したのち、次男でありながら千葉鍋島家の家督を相続している。次男である常治が家督を継いだのは、兄・千葉太郎助常成が正保4(1647)年、部屋住で御供番を務めていたが、白石御狩の節に供を怠った「無調法」により牢人となっていたためである。
万治2(1659)年4月11日、佐賀藩老臣として守るべき条項を遵守する旨の血判起請文を老臣二十六名が連署して提出したが、その中に「鍋島宗石」と並んで「鍋島玄蕃」があることから、万治2年の時点で常成はすでに家督を継いでいたことがわかる。
寛文5(1665)年、藩命により、これまでの屋敷(水ケ江一丁目)を大木知昌に譲り、常治は石井兵庫邸(松原一丁目)を賜った(『大木氏伝記』)。
寛文11(1671)年9月14日、鍋島茂治ら四十名が藩主・鍋島光茂・綱茂に対して忠節を誓い、他家に仕官することや徒党を組むことなどを禁じる旨の血判起請文を提出した。その中に「鍋島玄蕃(常治)」、「千葉大学(常成)」とその子「千葉頼母(常輝)」の名が見える。
●「鍋島志摩茂治外四十名連署起請文」
| 鍋島杢助 | 山崎久太夫 | 石井市佑 | 小川作兵衛 | 千葉頼母 | 大木左助 | 鍋島左太夫 |
| 鍋島源右衛門 | 木下五兵衛 | 多久勘助 | 百武伊織 | 中野九郎兵衛 | 多久縫殿 | 喜多嶋外記 |
| 小国十郎右衛門 | 山崎勘解由 | 石井修理 | 小川舎人 | 千葉大学 | 大木兵部 | 鍋島内記 |
| 中野数馬 | 鍋島采女 | 佐野主膳 | 鍋島十太夫 | 生野織部 | 多久兵庫 | 岡部七之助 |
| 有田内匠 | 鍋島喜左衛門 | 鍋島将監 | 鍋島玄蕃 | 岡部宮内 | 鍋島監物 | 有田主計 |
| 成富十右衛門 | 相良求馬 | 鍋島式部 | 鍋島主税 | 鍋島志摩 |
慶安~承応年中(1648-55)にかけて馬廻・中野数馬政利が小馬廻に移り、明暦8(1662)年、その跡をうけて小馬廻となった。さらに延宝8(1680)年、留守居組となった。以降、元禄年中まで留守居組頭を勤めている。
延宝9(1681)年6月5日、鍋島光茂・綱茂への血判状を提出した。
●「喜多嶋外記外十五名連署起請文」
| 田中源右衛門 | 鍋島伊織 | 深堀八左衛門 | 深堀新左衛門 | 中野将監 | 中野源次郎 | 中野三太夫 |
| 鍋島玄蕃 | 岡部権之佐 | 相良求馬 | 鍋島図書 | 鍋島七左衛門 | 鍋島市正 | 喜多嶋外記 |
元禄8(1695)年8月15日、ふたたび光茂、綱茂に対して忠誠を誓う血判起請文を提出している。
●「鍋島掃部外三十一名連署起請文」
| 深堀庄右衛門 | 本告久太夫 | 嬉野孫九郎 | 中嶋市佑 | 原田勘助 | 多久弾右衛門 | 千葉八左門 |
| 大木弥次郎 | 枝吉三郎右衛門 | 江副彦次郎 | 中嶋善太夫 | 多久修理 | 岡部治左衛門 | 佐野右衛門 |
| 大田庄右衛門 | 鍋島掃部 |
延宝8(1680)年6月15日、五十二歳で亡くなった。法名は忠岩道智大禅定門。
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| 円通寺の鍋島常治夫妻墓(右側) |
鍋島常範(1658-1689)
十九代千葉氏当主。通称は伊平太、玄蕃。十八代・鍋島玄蕃常治の長男。母は鍋島志摩茂里娘(桃源院)。前妻は相良求馬及真娘、後妻は鳥巣甚右衛門恵久娘。廟には「千葉玄蕃頭平常範」と刻まれている。藩祖・鍋島直茂の玄孫にあたる。
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| 円通寺の鍋島常範墓 |
常範には実子がなく、常範の妹が叔父の鍋島志摩守茂春の次男・千葉官右衛門胤貞と結婚し、養嗣子とした。
鍋島茂春―+―鍋島茂久
(志摩) |(志摩)
|
+―鍋島胤貞………千葉鍋島家を相続
(官右衛門)
∥
鍋島常治―+―娘
(玄蕃) |
+―鍋島常範===鍋島胤貞
|(玄蕃) (官右衛門)
|
+―鍋島常長………千葉忠右衛門家へ続く
(忠右衛門)
貞享3(1686)年、重代相伝の所領である晴気村にて物成八百石を召し上げられ、三根郡内に物成二百石を下された。
元禄2(1689)年9月24日に三十二歳で亡くなり、小城の円通寺に葬られた。法名は穐嶽浄霜大禅定門。
後妻の鳥巣氏は藩公・鍋島光茂の側室で、市姫(清楓院殿秋岳月影禅童女)を儲けている。市姫は元禄10(1697)年9月6日にわずか十三歳で亡くなり、乾亨院に葬られた。市姫が生まれたのは貞享2(1685)年であり、鳥巣氏は直後に常範の後室になったと思われる。常範が前妻・相良氏と離別したのは、この光茂側室である鳥巣氏を迎えるよう命じられたためであろう。相良氏は離別後は尼となり、宝永6(1709)年2月に亡くなった。
常範は元禄2(1689)年に亡くなっているので、鳥巣氏は常範の妻となって間もなく死別したのだろう。常範の死後、岡部権之助重師の妻となった。岡部氏はのち千葉氏から妻を迎えたりするなど所縁深くなるが、この鳥巣氏との関係があるのかもしれない。
【岸和田藩主】
+―岡部正綱――――岡部長盛―+―岡部宣勝――岡部行隆――岡部長泰――…
|(治郎右衛門) (内膳正) |(美濃守) (内膳正) (美濃守)
| |
| | 松平忠明――娘
| |(下総守) (恵照院)
| | ∥
| +―菊姫 ∥――――――――――鍋島光茂
| ∥―――――鍋島忠直 (丹後守)
| ∥ (肥前守) ∥
| 石井常延――――彦鶴 +―鍋島勝茂 ∥――――――――市姫
|(兵部少輔) ∥ |(信濃守) ∥ (清楓院殿秋岳月影禅童女)
| ∥ | 鳥巣恵久―――――――鳥巣氏
| ∥ | (甚右衛門) (鍋島茂春養女)
| ∥――――+―娘 ∥ ∥
| +=鍋島直茂 ∥―――+―娘 相良及真――――娘 ∥ ∥
| |(加賀守) ∥ | ∥ (求馬) ∥ ∥ ∥
| | ∥ | ∥ ∥ ∥ ∥
| | ∥ | ∥―――――娘 ∥ ∥ ∥
| | 諫早直孝| 鍋島茂里 (桃源院) ∥ ∥ ∥
| | (石見守)|(志摩守) ∥ ∥ ∥ ∥
| | | ∥ ∥ ∥ ∥
| | +―娘 ∥――+―鍋島常範 ∥
| | ∥ ∥ |(玄蕃) ∥
| | ∥ ∥ | ∥
| | 鹿江茂次――――――鍋島常貞 +―鍋島常治 +―娘 ∥
| |(忠兵衛) (玄蕃允) |(玄蕃) ∥ ∥
| | ∥ | ∥ ∥
| | ∥――――+―千葉常成 ∥ ∥
| 千葉介胤連―+―鍋島胤信――――――娘 (太郎助) ∥ ∥
|(千葉介) (忠兵衛) (心光妙観) ∥ ∥
| ∥ ∥
| 伊丹康直 ∥ ∥
|(大隅守) 【徳美藩主】 ∥ ∥
| ∥―――――+―伊丹康勝――――伊丹勝長――――伊丹勝政 ∥ ∥
| ∥ |(播磨守) (播磨守) (大隅守) ∥ ∥
+――妹 | ∥ ∥
| (長寿院) |【佐賀藩士】 ∥ ∥
| +―伊丹重好――+―岡部重利―――――――+=岡部重政―+=岡部重師――+―娘[多久安倫養女]
| |(豊永賢斎) |(宮内) |(岡部未休)|(善左衛門) | ∥
| | | | | | 佐野種近
| +―伊丹金十郎 +―豊永重時 +―娘 +―岡部利政 |(太郎兵衛)
| |(清左衛門) | ∥ |(治左衛門) |
| | | ∥ | +―岡部利欽――+―岡部利長
| | | 鍋島茂春 +―娘 |(七之助) |(蔵人)
| | |(志摩) | ∥ | |
| | | | 多久安通 +―娘 +―鍋島政惟
| | +―娘 |(修理) | ∥ |(喜兵衛)
| | | ∥ | | 水町俊明 |
| | | ∥ +―娘 |(卯右衛門) +―田原長興
| | | 石井伝兵衛| ∥ | |(善之丞)
| | | | 安達貞顕 +―久布白兼晁 |
| | +―娘 |(藤左衛門) (平助) +―娘
| | | ∥ | | ∥
| | | ∥ +―犬塚貞忠 | 鍋島武甫
| | | 鍋島正慶 |(隼人) |(又次郎)
| | |(喜兵衛) | |
| | | +―娘 | 千葉胤武娘
| | +―岡部重師 | ∥ | ∥
| | (善左衛門)| 多久安弘 +―岡部利徳
| | |(玄蕃) |(覚左衛門)
| |【小倉小笠原家重臣島村家】 | | ∥
| +―島村重長――… +―岡部利紀 | 坂部八郎養妹
| |(治左衛門) |(宮内) |
| | | +―田中英武
| +―岡部重政 +―岡部重比 |(東兵衛)
| (七之助) (清左衛門) |
| +―娘
| ∥
| 田原長恒
| (孫之丞)
|
+―岡部元信――+―娘 【久留里藩主】
(丹波守) | ∥―――――――土屋忠直――――――――+―土屋利直―+―土屋直樹――――…
| 土屋昌恒 (民部少輔) |(民部少輔)|(伊予守)
|(惣蔵) | |
| | |【中村藩主】
| | +―相馬忠胤 +―相馬貞胤
| | (長門守) |(出羽守)
| | ∥ |
| | ∥―――――+―相馬昌胤
| | 相馬義胤―――亀姫 (弾正少弼)
| |(大膳亮)
| |
| |【土浦藩主】
| +―土屋数直―――土屋政直――――…
| (但馬守) (相模守)
|
| 【久留里藩士】 【中村藩士】
+―岡部真堯――――岡部盛綱――――――――――岡部通綱―――岡部宗綱――――…
(丹波守) (求馬) (五郎左衛門)(兵庫)
・『千葉氏研究』4:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」淵上登美氏著
・『房総の郷土史』18:「葉隠の校注にみる肥前千葉氏の足跡」淵上登美氏著
・『佐賀県近世史料 第八編』(佐賀県立図書館)
・『千葉家系図』(鍋島文庫)
・『岡部家系図』(鍋島文庫)
・『衆臣家譜』(相馬市教育委員会)
鍋島胤貞(1673-1742)
二十代千葉氏当主。通称は権八郎、官右衛門、孫太郎。別名は栄胤。実父は深堀志摩茂春。妻は十八代・鍋島玄蕃常治娘。
はじめ、深堀家の庶子として深堀権八郎春時を称し、のち豊常と改めた。その後、鍋島玄蕃常範の養嗣子となり、家督を継いで鍋島官右衛門胤貞を称した。
しかし、家督相続後まもなく牢人となり、五十人扶持を下されたものの、病のため召し上げられ、深堀家に戻って剃髪。自宥と号した。千葉鍋島家の祭祀は叔父の遠藤忠右衛門常長が継承した。
寛保2(1742)年6月19日に亡くなった。法名は天瑞院貴祥徳胤。
●千葉鍋島氏系譜
大隈茂隆―+―大隈義辰―――大隈孝辰―――大隈安兵衛―大隈五大夫―大隈彦兵衛―大隈嘉一郎―大隈政辰―大隈満辰―大隈信保―大隈重信
(安芸守) |(喜右衛門) (嘉兵衛) (嘉兵衛)(彦兵衛)(与一郎)(八太郎)
|
| 石田実之
| (安左衛門)
| ∥――――――石田宣之
| +―娘 (安左衛門)
| |
+―大隈常明―+―大隈常的===大隈常清――大隈常久――大隈平常――大隈当久左衛門
(玄蕃) (嘉左衛門) (九太夫) (太郎助) (門兵衛)
↑
鍋島常貞―――鍋島常治 +――――――――大隈常清
(玄蕃) (玄蕃) | (九太夫)
∥ |
∥――――+―娘
鍋島茂里―+―娘 | ∥
(志摩) | | ∥
| | 岡部重政
| |(七之助)
| |
| +―娘
| | ∥――――――本告景太
| | ∥ (治部右衛門)
| | 本告景演
| |(七郎兵衛)
| |
| +―娘
| | ∥
| | ∥
| | 水町俊性
| |(弥太右衛門)
| |
| +―鍋島常範===鍋島胤貞
| |(玄蕃) (官右衛門)
| |
| +―鍋島常長―+―鍋島常安====鍋島常良――――鍋島常庸
| |(玄蕃) |(忠右衛門) (忠右衛門) (八助)
| | |
| +―娘 +―娘
| ∥ (模舎人妻)
| ∥
+―鍋島茂春―+―鍋島胤貞
(志摩) |(官右衛門)
|
+―鍋島茂久
(志摩)
・『佐賀県近世史料 第八編』(佐賀県立図書館)
・『千葉家系図』(鍋島文庫)
鍋島常長(1679-1756)
二十一代千葉氏当主。十八代・鍋島玄蕃常治の次男。通称は藤堂市郎右衛門、忠右衛門、平太夫、玄蕃。
はじめ義兄・岡部七之助重政の家臣だった藤堂市郎右衛門の養子となって藤堂市郎右衛門を称し、さらに大叔父・鍋島志摩茂春の養子となったようだ。しかし、理由は不明ながら碑文に「久流落民間」とあり、いったん藩士籍を失ったようだ。
その後、兄の鍋島玄蕃常範の養子となっていた鍋島官右衛門胤貞が病のために千葉鍋島家を去ったことから、享保17(1732)年、「玄蕃筋目之者」ということで、藩公・鍋島丹後守宗茂に召し出されて切米四十石を下され藤堂平太夫を称した(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。五十四歳のときだった。ただ、碑文には「新賜食邑百石」とある。
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| 円通寺の鍋島常長墓(右端) |
享保18(1733)年12月1日、藩財政悪化のため、知行取を廃止したり、寺社への支援の休止など財政改革を断行することとした。このとき、常長は福地甚左衛門とともに河川の代官を務めていた(『宗茂公御年譜』)。
元文5(1740)年、六十石を下され、寛保元(1741)年、六十三歳のときに物成二百石が加増となって、五百石高として幕末まで続く。これと時を同じくして、「鍋島」の名字が下賜されて「鍋島玄蕃」と称した。このときの加増についてと思われる寛保元(1741)年閏8月8日の「藤堂忠右衛門」宛判物が遺されている(『鍋島宗教判物』)。
●藤堂忠右衛門所領
| 所領 | 石高 | 現在地 |
| 三根郡東尾村 | 81.842 | 三養基郡みやき町大字東尾 |
| 三根郡西嶋村 | 88.158 | 三養基郡みやき町大字西島 |
| 三根郡大坂間村 | 30 | 三養基郡みやき町大字寄人 |
本家筋の千葉頼母家も三根郡内に所領を有している。
●千葉頼母所領
| 所領 | 石高 | 現在地 |
| 三根郡田嶋村 | 132.262 | 三養基郡みやき町大字西島田島 |
| 三根郡中津隈村 | 35 | 三養基郡みやき町大字中津隈 |
| 小城郡黒原村 | 102.738 | 小城市小城町晴気大字黒原 |
宝暦6(1756)年10月16日、亡くなった。享年七十八。法名は光澤院壽山常長居士。菩提寺の円通寺に葬られた。
・『佐賀県近世史料 第八編』(佐賀県立図書館)
・『千葉家系図』(鍋島文庫)
・『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』(鍋島文庫)
・『佐賀県近世史料 第四編』(佐賀県立図書館)
・『佐賀県史資料集成』(佐賀県立図書館)
千葉常安(????-????)
二十二代千葉氏当主。二十一代・鍋島玄蕃常長の嫡子。通称は忠右衛門。妻は横尾元忠娘。藩公の命により「鍋島」から「千葉」に復姓した。
宝暦8(1758)年から宝暦13(1763)年ごろまで、七代官の一つ、有田皿山代官を勤めた。
墓所は円通寺と思われるが、墓碑が比定できない。おそらく常長墓碑の後ろ側にある墓石群の右側が常安夫妻のものと思われる。
・『部類着到 九』(鍋島報佼会)
・『皿山代官旧記覚書』(鍋島報佼会)
・『有田町史』(有田町史編さん委員会)
千葉常良(1750-????)
二十三代千葉氏当主。二十二代・千葉忠右衛門常安の養嗣子。通称は八助(?)、忠右衛門。実は岡部善左衛門利旨の三男。妻は横尾長健娘。寛延3(1750)年に誕生。鍋島肥前守治茂の代に名跡を継いだ(『御親類同格御家老着座迄家々乃訳』)。妹は池田寛蔵利安妻(『池田家系譜』)。
千葉介胤連―――鍋島胤信===鍋島常貞――――鍋島常治―――鍋島常長――――千葉常安==========+―千葉常良
(右京大夫) (忠右衛門) (玄蕃) (玄蕃) (玄蕃) (忠右衛門) |(忠右衛門)
∥ |
∥―――――――娘 |
鍋島茂春―――娘 ∥ |
(志摩) ∥ |
【徳美藩主】 ∥ |
伊丹康直 +―伊丹康勝 +―岡部重政=+―岡部重師 |
(大隈守) |(播磨守) |(七之助) |(善左衛門) |
∥ | | | |
∥――――+―伊丹重好――+―岡部重利―+―岡部利政====岡部利紀―?――岡部利旨――+―岡部利宣
∥ (長作) (宮内) |(治左衛門) (宮内) (善左衛門) (十右衛門)
岡部正綱――+―娘 |
(次郎右衛門)| +―岡部利紀
|【大垣藩主】 【岸和田藩主】 (宮内)
+―岡部長盛―+―岡部宣勝
(内膳正) |(美濃守)
|
徳川家康=+―菊姫
(内大臣) (高源院)
∥――――――鍋島忠直――――鍋島光茂――――鍋島吉茂――――鍋島宗茂――――鍋島斉直
鍋島直茂―――鍋島勝茂 (肥前守) (丹後守) (丹後守) (飛騨守) (肥前守)
(加賀守) (信濃守)
実父・岡部善左衛門利旨は明和4(1767)年に浪人したが、子の十郎右衛門利宣は明和7(1770)年に帰参して二百五十石を与えられた。利宣は常良の兄である。
明和7(1770)年、「千葉八助」は鍋島弥平左衛門組に属している(『部類着到』九)。「千葉八助」は常良の子・常庸の通称であるが、彼はこのときわずか二歳であり、この「千葉八助」は二十一歳の常良が妥当か。常良の通称として伝わっているのは忠右衛門だが、それ以前は八助を称していたか。
明和8(1771)年7月、鹿児島藩主・島津薩摩守重豪が参勤交代の途次、佐賀藩領内を通過した際、治茂は重豪が旅宿とした轟木、神埼、牛津、小田、塚崎、栄昌、矢上の各宿場に各役人を派遣して接待しているが、このとき神埼宿を差配したのが「千葉八助」であった。
安永元(1772)年9月、治茂の藩政改革につき、定法改正が藩重役に示されることとなり、小城、蓮池、鹿島の三家以下、御親類、同格、御家老中、大組頭、外様諸役侍中にいたるまで残らず登城すべき命が下った。しかし、鍋島加賀守直愈(小城)、鍋島摂津守直寛(蓮池)は病気と称して登城せず、鍋島守三郎直宜(鹿島)は参勤交代で江戸にいて不在のため登城できなかった。さらに、御親類、同格なども不快を称して名代派遣に留まる者がほとんどであった。その中で、「千葉八助」は「御目附」として列している。
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| 千葉忠右衛門奉納灯籠(右奥) |
安永9(1780)年2月2日、藩公・鍋島丹後守宗教が六十三歳で亡くなった。法名は光徳院殿瑞章良麟大居士。これにつき、高伝寺の墓前に「千葉忠右衛門」が石川清九郎らとともに石灯籠を寄進している。
天明5(1785)年8月12日、海量院殿(鍋島宗茂)の二男・鍋島主膳直良が亡くなった。8月28日に葬礼が行なわれ、29日の御中陰払につき、「圓諦院様(田安宗武長女。鍋島重茂室)」の名代として「千葉忠右衛門」が参堂している。
天明7(1787)年4月末より長崎御番として鍋島志摩を筆頭に、番頭として多久弾右衛門、千葉忠右衛門らが派遣されることとなった。文化5(1808)年当時には、別家の千葉三郎右衛門胤明が番頭であったが、これは忠右衛門との血縁関係によるものかは不明。
寛政2(1790)年4月6日、藩主・鍋島治茂が参勤交代で佐賀へ帰城。留守居の千葉忠右衛門が江戸へ御帰国御礼の使者として差し向けられた(『泰國院様御年譜地取』)。
池田利安
(寛蔵)
∥―――――池田利睦―――池田利紀―?―娘
千葉常安―+―妹 (半九郎) (伸一郎) ∥
(忠右衛門)| ∥ ∥
| ∥ ∥
+=千葉常良――千葉常庸―+―娘 +―千葉常清
(忠右衛門)(八助) | |(小次郎)
| |
+=千葉胤繁―+―千葉源六
(八助)
墓所は円通寺と思われるが、墓碑が比定できない。おそらく常長墓碑の後ろ側にある墓石群の右から二つ目が常良夫妻のものと思われる。
千葉常庸(1769-????)
二十四代千葉氏当主。二十三代・千葉忠右衛門常良の長男。通称は八助。明和6(1769)年に誕生した。
文化2(1806)年、「千葉八助」は鍋島匠組に属している(『部類着到』十)。
跡を継ぐ男子がなく、草場忠左衛門経正の二男を長女の婿に迎え、胤繁と名乗らせて養嗣子とした。常庸の長女も養嗣子・胤繁もともに享和2(1802)年生まれの同い年である。
墓所は円通寺と思われるが、墓碑が比定できない。おそらく常長墓碑の後ろ側に並ぶ墓石群の右から三つ目が常庸のものか。
千葉胤繁(1802-1872)
二十五代千葉氏当主。二十四代・千葉八助常庸の養嗣子。実は草場忠左衛門経正の次男。通称は八助。妻は千葉八助常庸嫡女(節操院貞林妙松大姉)。
安政3(1856)年12月改の『石高帳』によれば、「物成弐百石 八幡小路 千葉八助 五十五」とあり、享和2(1802)年の生まれとなり、妻の常庸娘と同年生まれである。文政10(1827)年には嫡男・小次郎常清が生まれているため、縁組をしたのは文政9(1826)年以前ということになる。
「千葉八助」は鍋島斉正代に大組頭の家柄の一家に数えられている。天保元(1830)年、「千葉八助」は鍋島大隈組に属していた(部類着到 十二)。
●鍋島斉正代の大組頭(『鍋島直正公伝』)
| 水町弥太右衛門 | 二百三十五石 | 「侍頭高頭」の家柄で番頭となる家柄ではないが、列記されている |
| 深堀官兵衛賢時 | 二百三十石 | 深堀右馬助茂賢の三男・頼母長賢の末裔 |
| 小山平五左衛門 | 二百十石 | 龍造寺家庶流 |
| 多久縫殿安美 | 二百石 | 多久美作茂辰の四男・安美の末裔 |
| 千葉八助 | 二百石 | 千葉家二男の系統ながら惣領家 |
| 成松万兵衛 | 二百石 | 成松遠江守信勝の末裔 |
| 生野織部時好 | 二百石 | 豊後浪人ののち鍋島光茂に召し出された家柄 |
| 犬塚惣兵衛 | 二百石 | 蒲池党犬塚家続の末裔 |
| 中野杢之助 | 二百石 | 龍造寺家家老土橋家の末裔 |
| 竹田八右衛門 | 二百石 | 中野家庶流 |
| 池田半九郎利睦 | 二百石 | 池田弥市左衛門正利の末裔 |
| 相良五兵衛 | 二百石 | 相良求馬及真の妻・鶴氏の末裔 |
天保9(1838)年頃、「千葉八助」は三根郡内において二百石を領している。
●千葉八助所領
| 所領 | 石高 | 現在地 |
| 三根郡東尾村 | 81.842 | 三養基郡みやき町大字東尾 |
| 三根郡西嶋村 | 88.158 | 三養基郡みやき町大字西島 |
| 三根郡大坂間村 | 30 | 三養基郡みやき町大字寄人 |
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| 千葉胤繁夫妻・常清(奥)廟 |
嘉永4(1852)年当時の『分限着到』によれば、「千葉八助」は鍋島左馬助組に属し、知行五百石、物成二百石を有していた。
嫡男の千葉小次郎常清は武芸に秀で、鉄砲術を室節氏に学び、剣術は相良氏を師としてタイ捨流剣術を極めた人物だった。池田氏娘を娶るが、死別したため、深堀太夫娘を後妻に娶る。しかし、安政5(1858)年11月7日、若くして病死してしまった。法名は雄心院弧峰宗秀居士。安政3(1856)年12月改の『石高帳』によれば「千葉小次郎 三十」とあるため、文政10(1827)年の生まれとなる。享年は三十二となり、常清の墓碑と一致する。
次男・某も相次いで亡くなったため、胤繁妻(常庸娘)は大田太夫の二男を千葉家の養子に迎え、孫娘(三浦氏)をその妻とした。この胤繁妻は延元元(1860)年11月27日に五十九歳で急死し、圓通寺に葬られた。
元治元(1864)年当時、「八助」は足軽二十五人与頭であった(『佐賀藩拾六組侍着到』)。慶応3(1867)年夏における『惣番秩禄』には「千葉八助」は物成二百石とある。
明治5(1872)年8月14日卒。享年七十一。千葉家菩提寺・小城の圓通寺に葬られた。
千葉胤廣(1845-1887)
明治の千葉家当主。胤廣が千葉源六と同一人物であれば、千葉八助胤繁の養子。実父は大田太夫か。妻は三浦氏(胤繁孫娘)。
弘化2(1845)年生まれ。慶応元(1868)年12月12日、長崎五島町に建てられた佐賀藩立の英学校・蕃学稽古所(のちの致遠館)に入学した。このとき千葉源六は「弐拾三才」(『請御書』)。
●慶応3(1867)年12月 蕃学稽古所(『請御意』) ※緑は千葉氏と同族関係
| 氏名 | |
| 舎長(校長) | 副島次郎(副島種臣) |
| 舎長助(副校長) | 大隈八太郎(大隈重信) |
| 執法(教授) | 中野剛太郎(中野健明)、中山嘉源太(中山信彬)、堤喜六、副島要作、中島秀五郎(中島永元) |
| 詰方(生徒) | 千葉源六、鍋島道太郎、津田市之助、渋谷秀太郎、野田助太郎、大園文之進、横山勲蔵、円城寺権市、牧幸兵衛、徳島要次郎、六角丈之進、石井岩五郎、八戸佐五郎、古川晋五郎、相良小太郎、大庭権之助、深町恒六、横尾平太、香月徳一郎、丹羽雄七、中野源四郎、江口三郎助、伊東大助、志波洪平、大塚雄次郎、丹羽龍之助、今泉才吉郎、関順蔵、江副廉蔵 |
蕃学稽古所(致遠館)は副島種臣や大隈重信の尽力で建てられた英学校で、大隈によれば「余等三十余人を選抜して長崎に遊はしめ」といい(『大隈伯昔日譚』)、源六も選抜された一人だったことがうかがえる。長崎英語伝習所で勤務していたフルベッキを雇い入れ、彼の「諸取締之ため士官壱人学頭、句読師等被仰付候様」という意見を容れて、舎長に「副島次郎(種臣)」、舎長助に「大隈八太郎(重信)」が就任した。フルベッキは英語などの語学はもちろん、政治学や経済学、憲法、法学、宗教学(聖書)なども教えており、のちの明治維新の立役者となる大隈や副島はその直接的な弟子でもあった。大隈は「余等か内外に向つて種々の運動を為すの根拠と為せし所は、実に此の学舎にてありしなり」と述べている(『大隈伯昔日譚』)。千葉源六もここで様々な知識を身につけたのだろう。
元治元(1864)年当時、「八助倅 千葉源六」は鍋島鷹之助組に属していた(『佐賀藩拾六組侍着到』)。そして、幕府と朝廷(薩長主体)の直接戦火を交えた走りで戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」直後の慶応4(1868)年2月16日、前藩主・鍋島閑叟(鍋島斉正)は朝命を受けて上京することとなった。鷹之助隊はその随従組の三番に定められ、組士五百九十二名を率いて上洛することと定められた。この組士のなかに源六もいたと思われる。しかし、結局この護衛編成は大幅に見直され、鷹之助組は後発となる。
佐賀藩はこののち朝廷方の軍勢に加わることとなるが、閏4月11日昼九ツ、鷹之助は朝廷の奥羽鎮撫総督府に加わるために組士四百名余りを率いて佐賀を出立、翌12日に伊万里の久原でイギリス船に乗り、閏4月15日、兵庫港に到着。そして閏4月22日夜八ツ半、横浜港に到着した。鷹之助組足軽は別働で、閏4月27日に横浜に到着した(『佐賀藩戊辰戦史』)。源六の父・千葉八助胤繁は足軽二十五人組頭であることから、源六が横浜についたのは、27日だったのかもしれない。
5月3日、佐賀藩は「下ノ総野へん」に賊徒(旧幕府兵)が出没していたことから、その鎮撫が命じられた。これを受けて同日、横浜に駐屯していた鍋島鷹之助組と撒兵隊に下野国宇都宮への出陣が命じられ、千葉源六は鷹之助組の斥候侍士として加わっている。同役には渋谷源吾、横尾平太、伊東嘉右衛門が見える(『佐賀藩戊辰戦史』)。
5月3日夜は神奈川宿で宿陣し、翌5月4日は川崎宿に泊まった。しかし、翌5月5日は風雨が強く川崎宿に滞陣し、5月6日夕方に江戸の桜田藩邸に入った。5月7日は千住宿に宿陣し、続けて草加宿、大沢宿、幸手宿、栗橋宿、古河城下、小金井宿を経て、5月14日に宇都宮の城下に入った。そして、翌15日には宇都宮を出て、今市宿へ移り、ここを守っていた土佐藩兵と警衛を交代した。佐賀藩隊は老公・鍋島閑叟(3月14日、斉正→直正と改名)の意向である「戦炎を煽りたりし従来の態度を改め、つとめて関東を鎮撫する趣旨」(『佐賀藩戊辰戦史』)を奉じて進軍している。
5月17日、藩侯・鍋島直大(3月14日、茂実→直大と改名)の下野出陣に従うため、鍋島監物組、鍋島左馬之助組、小城藩兵、多久与兵衛隊合わせて千四百五十名の出兵が命じられ、それぞれ調達した軍艦に乗船して出立。軍艦の調達に手間取るなど、それぞれ江戸の到着はずれているが、8月まで佐賀を出立できなかった小城藩兵を除き、6月までにすべて下野に集結した。
6月19日、今市宿に駐屯していた鍋島鷹之助組は、旧幕府軍を率いていた大鳥圭介が大原から南下して高徳へ進んだとの情報を得たため、鷹之助は八番隊長・小代兵右衛門を大沢に駐屯していた鍋島監物のもとに派遣し打ち合わせをさせたが同意を得られなかった。その後、兵右衛門は古川喜平次を伴って、宇都宮の多久与兵衛茂族を訪ねて軍議を開き、6月23日には監物も同意の上と思われるが、作戦が決定されて各組に伝達された。
6月25日、大鳥圭介隊を叩くべく、鍋島監物組は手明槍隊および鷹之助に付けられていた撒兵隊を伴い鬼怒川を渡って宇都宮藩兵と合流し、鬼怒川東岸を進んで高徳に向かった。一方、鍋島鷹之助組は深夜に今市を出陣して北上し、鬼怒川西岸を北に進んだ。そして小百まで来たときに、砲声が轟いたため、急ぎ軍を進めると東岸の鍋島監物隊が大鳥隊と交戦している。鷹之助は対岸から砲撃を命じ、監物隊の善戦もあって大鳥隊は高徳を撤退した。
しかし、佐賀藩隊の間で決まっていた作戦はここまでで、翌26日以降どのようにするかは、まだ決定されていなかった。そのため、鷹之助は26日未明、目付の伊東嘉右衛門を監物の陣に派遣し、本隊である監物組と宇都宮藩兵はそのまま進軍すべきと主張したが、監物は昨日の合戦での兵士の疲労、雨中の合戦での弾薬の濡れ、天険の要害を攻めるためには綿密な作戦が重要であるとの理由で、今日の進軍は見合わせたいと返答するが、鷹之助は千葉源六を監物のもとへ遣わして、監物が不同意であれば鷹之助組のみで進軍すると伝えた。鷹之助の強情な要請を聞いた軍監の伊東外記は、鷹之助一隊での進軍に心もとなさを感じ、監物に対して高徳への出兵を依頼。監物もやむなくこれを了承し、26日午後、高徳へ兵を進めた。
鷹之助は隊を二手に分け、庄島清左衛門に百名あまりを付けて別動隊とし、鷹之助は本隊を率いて下滝へ向けて進軍した。千葉源六がどちらの部隊に加わったかは定かではないが、庄島清左衛門は平士隊を率いているので、源六もこちらの別動隊に加わった可能性が高いと思われる。別動隊は小佐越(日光市小佐越)を経て、大原(日光市鬼怒川温泉大原)へ向かった。ここで大鳥勢の陣地を打ち破ることに成功。下滝を経て上滝まで進んでいた鷹之助本隊と大鳥勢を挟撃し、大鳥隊を山上まで追ったが、鷹之助組別動隊は人数が少なく、さらに鷹之助本隊は急流の鬼怒川の対岸にあり、増援に駆けつけることができない。そのような状況で大鳥隊は援兵を得て勢いを取り戻したため、鷹之助組は苦戦を強いられ、ついに総勢を小佐越まで退却させた。
一方で、鍋島監物は馬渡源八を斥候に遣わして、下滝での苦戦を知るや、援兵を大原に派遣させた。しかし、その途中で退却してくる鷹之助組と遭遇したため、監物隊も高徳に戻った。
小佐越に兵を戻した鷹之助は、その後、今市(日光市今市)まで兵を引く。他の佐賀藩兵も軍監・伊東外記の退却命令を受けて、大渡(日光市大渡)まで兵を引いた。この戦いで佐賀藩兵は、鷹之助組小隊長・嬉野弥平次を含め七名の戦死者と十六人の重軽傷者を出す散々な敗戦となった。
7月17日、佐賀藩は大総督府より下ノ総野鎮撫を免じられたが、駐屯している藩兵はそのまま賊徒鎮圧のために駐屯を続けるよう命じられた。しかし、藩侯・鍋島直大はこのまま無為に駐屯するより、会津白河口への出兵を願いたいと請願。これを受けて、大総督府は7月25日、下野駐屯の佐賀藩兵を白河口へ応援に差し向けるべく命を発し、白河口へ佐賀藩兵の多くが派遣された。
8月19日、鷹之助と監物は「軍監兼鎮撫方」に任じられ、精兵三百名を以って藤原口の守衛を命じられた。しかし、鷹之助は「病気ニ付」、守衛を免じられた。ただし、『牟田日記』によれば、「御断り」したという。その後、鷹之助組は大原へ陣を引き払い、江戸にもどったのち、老人や病人などを佐賀へ送るため、東海道を西に向かった。
しかし10月1日、水戸城内で幕末より続く改革派と保守派の対立による紛争が勃発。会津に逃れていた保守派の元家老・市川三左衛門以下が水戸城三ノ丸の藩校・弘道館に立て籠もり、水戸城留守居の山野辺義芸と壮絶な銃撃戦を演じた。これを受けた大総督府は直ちに天皇の江戸東下の供奉をしていた長州藩兵を水戸に派遣したため、10月5日、下向途中で岡部宿にあった鷹之助組が「右代り」として「臨時供奉」を命じられた(『家老鍋島鷹之助兵隊臨時供奉被仰付ノ件』)。
10月13日、天皇は江戸城に到着。10月16日、鷹之助隊に御祝いの酒肴が下された。千葉源六もこの酒肴に預かったと思われる。
10月27日、鍋島鷹之助(惣隊長)、田中五郎左衛門・多久縫殿(惣隊長助)、平田助大夫・小代兵右衛門・江口国助(軍事掛)、渋谷十郎兵衛(軍監)に対し、恩賞が下賜された(『家老鍋島鷹之助外六名ニ御品物下賜ノ件』)。多久家の文書によれば、このほか副島謙助(軍監)、野田浅一郎、石井久四郎の名が見え、役職も若干異なっている(『佐賀藩戊辰戦史』)。こののちの千葉源六の動向は不明。
「千葉源六」はかつて長崎の致遠館において英語のほか法学、政治学等も学んでいたことから、そうした知識を以って法曹界に身を投じた可能性もある。「千葉胤廣」が明治時代に東京裁判所の判事補となっていることからも、「千葉源六」の後身が「千葉胤廣」なのかもしれない。
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| 佐賀松原神社の胤広等寄進石灯籠 |
藩祖・鍋島直茂を祀る佐賀城下の松原神社に、明治6(1873)年8月、神代直寶、鍋島茂彬、鍋島茂朝、鍋島茂文、鍋島文武、鍋島吉達、田中政維、高木武雅、鍋島政定らとともに「千葉胤廣」が石灯籠二基を寄進している。これらの燈篭は、大組頭を務めた鍋島一族らと連名での奉納であり、明治期においても千葉家の家格が高かったことがうかがわれる。
松原神社には他にも旧藩士が寄進した石灯籠が遺っているが、胤廣はその中の一つにも名が見える。他に大隈重信や中牟田倉之助など幕末の名士の名も刻まれている。
松原神社本殿南側灯籠の寄進者(記念館への道を挟んで東西に配置)
| 寄進者 | 灯籠の位置 | 父 | 幕末の前名 | 幕末の役職 |
| 神代直寶 | 西 | 鍋島弾馬賢在(鍋島直正兄) | 鍋島大炊助直寶 | 川久保邑主 |
| 鍋島茂彬 | 西 | 鍋島丹波守直永(鍋島直正兄) | 鍋島安芸茂彬 | 大組頭 |
| 鍋島茂朝 | 西 | 鍋島安房茂真(鍋島直正兄) | 鍋島伊豆茂朝 | 大組頭 |
| 鍋島茂文 | 西 | ? | 鍋島孫四郎茂文 | 大組頭 |
| 鍋島文武 | 西 | 鍋島肥前守斉直。鍋島志摩茂敬養子 | 鍋島大隈文武 | 大組頭 |
| 鍋島吉達 | 西 | 鍋島安房茂真。鍋島市佑保脩養子 | 鍋島市佑吉達 | 大組頭 |
| 田中政維 | 西 | ? | ? | |
| 高木武雅 | 西 | ? | ? | |
| 千葉胤廣 | 西 | 千葉八助胤繁? | 千葉源六? | 大組頭(八助) |
| 鍋島政定 | 西 | 窪田鍋島家? | ? | |
| 鍋島保脩 | 東 | 納富十右衛門昭純。鍋島市佑周熈養子 | 鍋島市佑保脩(慶応元年4月28日隠居) | 大組頭 |
| 中野匡明 | 東 | 中野数馬匡明 | ||
| 原田弼種 | 東 | 原田小四郎弼種 | 手明鑓頭 | |
| 本島松蔭 | 東 | 本島藤太夫方道 | 手明鑓頭 | |
| 千住健任 | 東 | 千住代之助健任 | 御側頭 |
胤廣はその後、東京へ移り住んだ。旧藩主家とも関わりを持ち続けたのだろう。貫属は「長崎」「佐賀」のみが記録に残るが、おそらく佐賀県→伊万里県→佐賀県→三潴県→長崎県となっていると思われる。
胤廣は明治14(1881)年1月、東京裁判所検事局に十四等出仕となり、翌2月に東京裁判所十四等出仕に異動。このころの胤廣は「長崎」県貫属士族だった。当時、佐賀県は存在せず、長崎県に併合されていたためである。明治14(1881)年8月、十三等出仕となり、翌9月に判事補となった。同僚に旧島原藩主・松平忠和(徳川慶喜弟)がいる。そして明治15(1882)年3月、芝治安裁判所の判事補長となる。この頃の同僚には、旧麻生藩主・新庄直陳がいた。その後、明治17(1884)年10月までは芝治安裁判所で判事補長として活躍していたことがうかがえる(『改正官員録』)。
明治20(1887)年2月19日に亡くなり、佐賀藩主菩提寺である麻布の賢崇寺に葬られた。享 年は不明だが、千葉源六と同一人物とすれば四十三。墓所には小城千葉家代々の十一曜紋が刻まれている。
●参考文献
・『佐賀県近世資料』
・『大小配分石高帳』(鍋島報佼会)
・『部類着到 十二』(鍋島報佼会)
・『佐賀藩戊辰戦史』(宮田幸太郎著/佐賀藩戊辰戦史刊行会)
・『改正官員録』(国立公文書館)
・『請御書』(鍋島報佼会)
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