千葉胤資

肥前千葉氏

○肥前千葉氏の一族○

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千葉胤資(1474-1497)

 肥前千葉氏十二代。西千葉氏初代。実父は大宰少弐教頼。母は不明。妻は千葉介胤朝娘(尼日光明胤)。官途は肥前守

                   +―千葉元胤
                   |(千葉介)
                   |
 千葉胤泰――千葉胤基―+―千葉胤鎮―+―千葉教胤
(大隅次郎)(千葉介) |(千葉介)  (千葉介)
            |
            +―千葉胤紹―+―千葉胤将
             (右京大夫)|(次郎)
                   |       【東千葉家】
                   +―千葉胤盛―――千葉胤棟(興常)
                   |       (千葉介)   
                   |
                   +―千葉胤朝――――――――+―千葉胤治
                    (千葉介)  (尼日光)  |
                            ∥     |
                           【西千葉家】 +=千葉介胤繁
       少弐貞頼―+―少弐満貞―――少弐教頼―+―千葉胤資  |(千葉介)
            |(太宰少弐) (大宰少弐)|(肥前守)  |
            |             |       +=千葉介胤勝
            |             |        (千葉介)
            |             |
            |             +―少弐政尚――+―少弐高経
            |              (大宰少弐) |(大宰少弐)
            |                     |
            |                     +―少弐資元――少弐冬尚
            |                      (肥前守) (大宰少弐)
            |
            +―横岳頼房―――横岳資貞―+―横岳資誠
             (孫次郎)  (兵庫頭) |(讃岐守)
                          |
                          +―千葉介胤勝
                           (満童丸)

千葉胤資の花押 千葉興常の花押
胤資花押 胤棟花押

 文明18(1486)年10月、千葉家惣領・千葉介胤朝が弟の千葉次郎胤将に暗殺される事件が起こった。肥前に重きを為す千葉家の惣領が跡継ぎもないまま急死したとなれば、大混乱が起こることは必至だった。

 少弐政資はかつて胤朝と胤将に間に起こっていた騒乱を幕命によって和睦に導いた経緯があり、胤朝の暗殺が胤将主導で行われたことを知って激怒。胤将追討を画策したが、胤将はすでに肥前を逐電していた。千葉家嫡流の血をひく者は、胤朝の娘と甥の千葉胤棟(興常)のみだった。しかし、胤棟はすでに大内氏の手中にあったため、12月、政資は実弟を胤朝の娘と婚姻させて千葉胤資と名乗らせ、小城郡晴気城に入れた。

 一方、これに反抗したのが大内政弘に庇護されていた胤棟であった。当時、大内政弘少弐政資と北九州の覇権をかけて争っていたが、少弐氏が胤資を千葉家当主に据えたことで、小城郡周辺の勢力が少弐方につくことを惧れ、胤棟小城郡赤目城(小城市三日月町織敷赤司)に据えた。胤資は延徳3(1491)年、大内氏の後援を受ける胤棟と合戦した。その後、胤棟牛頭山城(かつての胤朝の居城)を攻め取られ、胤棟の居城となる。この胤棟の子孫は、牛頭山城が小城郡の東にあったことから「東千葉」、または牛頭山に因んで「祗園千葉」と呼ばれた。

●千葉胤資周辺系図●

千葉胤紹―+―千葉胤朝――尼日光
     |        ∥
     |        ∥
     |      【西千葉氏】 
     | 少弐教頼――千葉胤資 ――――千葉胤治
     |
     +―千葉胤将(胤朝を殺して逐電)
     |
     |      【東千葉氏】
     +―千葉胤盛――千葉胤棟~のち、大内義興の偏諱を受けて「興常」と改名する。

★肥前関係図10★

少弐氏 大内氏
少弐政資(頼忠・政尚) 大内政弘
千葉胤資(政資弟) 千葉胤棟(胤朝甥)
【小城郡晴気城=西千葉氏】→嫡流 【小城郡牛頭山城=東千葉氏】

 小城郡では大内氏の侵略を許したが、東肥前まで勢力を拡大していた政資は明応2(1493)年、大内家と結んでいた松浦郡伊万里・山代の九州探題渋川氏旧臣を討つべく、上松浦郡に出陣した。胤資龍造寺康家・高木家益らを率いて兄に従軍している。

 さらに政資は東松浦郡の波多氏家臣・留守永恒に言いがかりをつけて所領を没収したため、永恒は大内義興を頼って逃れていった。義興はこうした政資の横暴な振る舞いを逆手に利用し、将軍・足利義尹(義稙)に少弐氏追討を訴え、幕府もこれを認め、大内義興に少弐氏追討を命じた。

 大内家は前年に名太守・大内政弘が没していたが、跡を継いだ大内義興も政弘に劣らぬ非凡の太守であり、義興は幕命を奉じて明応5(1496)年12月に山口を出発し、翌年正月に中国・四国地方に陣触を出して自ら大将として筑前に上陸した。

 大内義興が幕命を受けて自ら出兵したと聞いた政資は驚き、筑前国高祖城に籠城したが、義興の老臣で名将と名高い陶興房が箱崎まで攻め寄せたため、支えきれないと見て高祖城を放棄。明応6(1497)年4月8日に胤資の居城・晴気城に逃れた。

★肥前関係図11★

少弐氏 大内氏
少弐政資・高経 大内義興
千葉胤資(政資弟) 千葉興常(旧名・胤棟)
龍造寺康家(少弐氏家臣) 陶興房(大内氏家宰)
高木家益(少弐氏家臣)

 4月13日、千葉興常(胤棟が義興の一字を与えられて改名)が大内軍に参陣したため、晴気城内にも反少弐氏感情が高まった。兄・政資の身を案じた胤資は、政資に多久の梶峯城へ移るよう勧め、18日未明に政資は晴気から逃亡した。しかし、19日には政資逃亡の報が大内義興に届いており、義興は軍勢を梶峯城へ派遣している。

 そしてその日の夜、もはや逃れられぬと悟った政資は、多久泉称寺で自刃。弟・高経は晴気から別行動をとっていたが、21日に市ノ川の山中で自害した。また、晴気城に残って大内氏を迎え撃った千葉胤資も19日、決死の出撃をして討ち取られた。二十四歳。法名は日善

 政資・高経は辞世の句を残したという(『北肥戦誌』)

政資、打額きながら、一首の辞世に斯く計り、

 花ぞ散る 思へば風の科ならず 時至りぬ春の夕暮れ

と打ち吟みて、静かに腹をぞ切られける

高経、今は遁がれぬ所よと、同廿一日、市川山中にて、とある木陰に立ち寄り、懐中より矢立を取り出し、辞世とおぼしくて、

 風吹けば 落椎拾ふ松の下 あらぬ方にて身をば捨てけり

と、一首の歌を書き付け、鎧脱ぎ捨て、腹掻き破って臥せけり

★肥前関係図12★―明応6(1497)年4月の多久の戦いー

少弐氏 大内氏
少弐政資→自刃 大内義興
千葉胤資(政資弟)→討死 千葉興常
少弐頼隆(政資嫡男)→自刃 陶興房(大内氏家宰)
少弐高経(政資次男)→討死
千葉胤治・胤繁(胤資子)→逃亡

★九州少弐氏略系図★―四角は少弐氏家督。丸長は少弐氏重臣。―


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