千葉胤泰

肥前千葉氏

○肥前千葉氏の一族○

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千葉胤泰(1323-1406)

 肥前千葉氏5代。千葉新介宗胤の子で、実兄の千葉大隈守胤貞の養子となる。通称は次郎(『一色道猷感状』)。官途は刑部大輔

 父・宗胤胤泰が2歳のときに亡くなっており、兄・胤貞が養ったという(『千葉大系図』)。父・宗胤が没したのは『千葉大系図』によれば永仁2(1294)年とあるため、胤泰の生年は永仁元(1293)年ということになる。ただ、嘉暦2(1327)年4月の筑前宗像神社肥前円通寺の領地争いを調停した「千葉別駕宗胤」という人物があった(『歴代鎮西要略』)『徳嶋本千葉系図』の記述から胤泰の生年を逆算すると元亨3(1323)年となり、宗胤が宗像神社と円通寺との争いを調停した直後に没したとすれば、胤泰は5歳となり、『千葉大系図』の記述とは年齢こそ違え、その伝えるところのように兄の胤貞に養育されたとも思われる。

●胤泰の没年●

記録 没年および享年 法名 逆算した生年
『徳嶋系図』 応永13(1406)年7月10日、84歳。  堯胤 元亨3(1323)年
『千葉大系図』 永和3(1377)年7月10日、84歳。 正胤 永仁2(1294)年
『岩蔵寺過去帳』 永和10(1384)年7月10日、8□歳。 正胤 正安3(1301)年

●胤基の没年●

『徳嶋系図』 応永24(1417)年10月24日、55歳。 日胤
『岩蔵寺過去帳』 応永24(1417)年10月24日、55歳。 堯胤

 胤泰「興国元年正月十八日(1340)」肥前国於喜(小城)郡内の田地四町河上神社に寄進し、法華経転読料とした。そして翌「暦応四年正月十日(1341年)」にも河上社への寄進している。胤泰河上社の大宮司職に就任しており、その嫡流の子孫も代々河上神社大宮司を伝承していった形跡がある。 また、これらの寄進状に見える元号について、「興国」元号は南朝元号、「暦応」は北朝元号であり、この一年の間に胤泰南朝方から北朝方に鞍替えしたと思われる。

 年号不明の9月3日、「平胤泰」が下総国の中山本妙寺に対して、「依遼遠、就兵革、連々不申承之条」(遠く離れ、戦争もあったため音信が途絶えていた)ことを詫び、「山崎郷内田地」の寄進状某年9月3日『平胤泰寄進状』をしたため、「房胤」なる人物に届けさせている。この「房胤」がいかなる人物かは不明だが、「胤」という字からして千葉氏にゆかりの深い人物と思われる。

 寄進状が示しているように、九州と下総という離れた所領を管轄することは事実上不可能であり、肥前千葉氏は、胤貞の実子・千田胤継と養子の千葉胤泰がそれぞれ肥前と下総の所領を分割支配するようになったようである。胤継母が八幡庄の豪族・曾谷氏の娘であり、八幡庄・千田庄など下総に常住して肥前の経営にはまったく関わっていなかった様子がうかがわれる。

 千葉宗胤―+―千田胤貞―+―千田胤継―…→【千田千葉氏】
(千葉新介)|(大隈守) |(大隈守)
      |      |
      +―千葉胤泰⇒+=千葉胤泰―…→【肥前千葉氏】
              (刑部大輔) 

 建武4(1337)年5月15日、胤泰は幕府に命じられて宗像氏重領晴気庄内の土地の領有実否の調査をしており、千葉氏は小城郡において大きな支配力を持っていたことがわかる。また、建武4(1337)年7月21日、胤泰田中行祐(豊島家秀)へ小城郡内地頭職の宛行状を授けている。

 応永4(1345)年5月13日、胤泰京都四条堀川・油小路の屋敷地をめぐって小早川重景裁判を起こし権大納言四条隆蔭が裁定した裁判で敗訴している応永4(1345)年5月13日『別当宣』

●応永4(1345)年5月13日(『小早川文書』:『大日本史料』所収)

 小早河出雲四郎左衛門尉重景千葉大隅次郎胤泰、相論四条堀川同油小路敷地等事、
 任諸官評定文可令下知重景給候由、別当殿仰所候也、仍執達如件
  応永四年
    五月十三日          大蔵少輔重藤(花押)
  謹上   正親町博士太夫判官殿

●応永4(1345)年5月13日『別当宣』(『小早川文書』:『大日本史料』所収)

  四条堀河同油小路敷地等事、別当宣
   如此、早可令存知給、仍執達如件

  応永四年五月十三日   左衛門大尉(花押)
  進上   小早河出雲四郎左衛門尉殿

 正平6(1351)年12月、九州探題・一色範氏と合流。南朝方・足利直冬(足利尊氏の庶長子で足利直義の養子)が下松浦一族を率いて小城郡へ攻め寄せると、胤泰岩部・金原・中村氏など一族郎党を率いて直冬勢を撃退した。この戦いには、おそらく胤泰の部隊に「今村孫三郎」が加わっており、一色範氏は「千葉次郎胤泰」から今村孫三郎利広の戦功の報告を受けて12月20日、今村孫三郎に感状を発給している(『一色道猷感状』)

 正平10(1355)年8月、九州探題・一色範氏は懐良親王(後醍醐天皇皇子)が指揮する南朝軍に大敗し、範氏は中国地方へ逃れ、九州北部・中部域は南朝力によって平定されてしまった。実はこのときすでに、胤泰は南朝に降っていた可能性がある。同年9月ごろ、「依九州宮方放棄、大友式部太輔、宇都宮常陸前司、千葉之二郎以下輩、凶徒同心之由…」とある。この「千葉二郎」はおそらく「大隅次郎胤泰」と同一人物であろう。

 しかし、南朝の九州支配も長くは続かず、正平14(1359)年7月、南朝方だった少弐頼尚(肥前国守護)が大友氏時(豊後国守護)と語らい北朝方に通じて独立し、南朝勢力と筑後川で大激戦がおこなわれた(筑後川の戦い)。このとき、胤泰の動向については不明ながら、『新田氏根本史料』に懐良親王の麾下に「千葉刑部大輔」の名が見えることから、南朝方にあった可能性もある。この戦いは双方で数万人の死傷者を出す大激戦だったが、結局決着はつかず、少弐頼尚はいったん太宰府へ退却して守りを固め、大友氏時と語らってふたたび挙兵しようとしたが、正平16(1361)年8月、懐良親王・菊池武光は頼尚が守る太宰府に大軍で攻め寄せた。これを頼尚は支えることができず、大友氏時をたよって豊後に落ちた。

 こうして太宰府は懐良親王の御座所となり、北九州はふたたび南朝勢力に制圧された。胤泰も南朝方の一員となり、正平20(1365)年8月22日、南朝方人として「肥前小城郡砥川保内乙犬名田地三間智運東堂跡」を小城の光勝院料に安堵した。その安堵状が京都の日蓮宗寺院・頂妙寺に残されている。

 懐良親王の征西将軍府に対抗するため、正平15(1360)年3月、幕府は鎮西探題(のちの九州探題)として斯波氏経を派遣したが、失敗。正平20(1365)年5月には、渋川義行を派遣したが、中国地方で南朝勢力の抵抗にあって進むことができずにまたも失敗。

 繰り返しの派兵失敗に、幕府はついに名将といわれた引付頭人・今川貞世入道了俊「九州探題」として派遣した。了俊はまず、子息の今川義範を豊後に派遣して大友氏らを従えて足場を固め、弟・今川仲秋肥前国松浦に派遣し、自らは大手軍を率いて豊後国門司に陣を張って太宰府の将軍府と相対した。仲秋が上陸した肥前国松浦には北朝方の豪族が集まっており、松浦党の伊万里貞山代栄のほか、多久宗国・高木家直・馬渡経俊・後藤資明・龍造寺家治・安富直安・江上四郎らが仲秋に従った。これを期に胤泰南朝から北朝へと移ったのだろう。

 仲秋は翌応安5(1372)年2月13日、肥前に攻め込んできた南朝方の菊池武政を攻め滅ぼし、筑前にいた兄・了俊と合流した。胤泰は娘を仲秋の妻としており、胤泰は仲秋の指揮下にあって、菊池勢との戦いに活躍したのだろう。続いて8月、仲秋は菊池武安の軍勢と筑前で戦い、撃ち破った。一方、了俊も8月12日、太宰府を攻め落とし、懐良親王・菊池武光は筑後国高良山に落ち延びた。

 南朝方では菊池武光・武政父子が相次いで没し、武光の末子でわずか十二歳の菊池加賀丸が懐良親王を奉じて了俊の攻撃に対抗した。しかしながら高良山も耐えきれず、菊池氏の本拠地・肥後国菊池城へ逃れて逼塞した。

★九州今川氏略系図★

 南朝方を肥後に押し込めた今川了俊は論功行賞を行い、「千葉介胤泰」肥前国小城郡を安堵された。そのほか、豊後は大友氏継が、少資冬には筑後・肥前の両国が、日向は伊東祐煕が、大内義弘は周防・長門などに加えて豊前が、仲秋には肥前のうち佐嘉・杵島・高来三郡が、薩摩島津氏久が安堵された。

 明徳(1390~)以前に、家督を嫡男・胤基に譲って隠居したと思われる。応永13(1406)年7月10日に84歳で没した。法名は正胤堯胤

 依遼遠、就兵革、連々不申承之条、事与情令相違了、背本意候
 抑雖狭少之地候、為御時料、山崎郷内田地五十ヶ所内可所務給候、 
 其子細ハ房胤令申候、恐惶謹言
 
    九月三日         平 胤泰(花押)

  進上 中山殿御坊

◆胤継・胤泰の動向◆

年号 事件・書状の内容など 現れる名前 南朝or北朝
建武4(1337)年5月15日 幕命により宗像氏重領の晴気庄内の土地の領有実否の調査。 平 胤泰 北朝方
興国元(1340)年1月18日 肥前国小城郡内の田地を河上神社に寄進。 平 胤泰 南朝方
暦応4(1341)年1月10日 肥前国小城郡内の田地を河上神社に寄進。 平 胤泰 北朝方
興国6(1345)年5月13日 京都油小路の屋敷地をめぐって小早川重景に敗訴。 平 胤泰 南朝方へ?
観応元(1350)年7月11日 下総国千田庄内の土地を中山本妙寺に寄進 平 胤継 北朝方
正平6(1351)年12月 一色範氏と合流し、南朝・足利直冬を小城郡にやぶる。 平 胤泰 北朝方
観応3(1352)年1月25日 「亡父胤貞」寄進の八幡庄谷中郷の本妙寺領について。 平 胤継 北朝方
観応3(1352)年6月29日 八幡庄谷中郷一円を日祐に寄進した旨の寄進状を発給。 平 胤継 北朝方
正平10(1355)年8月 一色範氏、懐良親王に敗れて九州を脱出。 平 胤泰 南朝方に降伏?
正平14(1359)年7月 懐良親王と少弐頼尚・大友氏時が筑後川で戦う。 千葉刑部大輔 南朝方?
正平20(1365)年8月22日 小城郡砥川保内の土地を光勝院に安堵。 平 胤泰 南朝方
貞治6(1367)年12月15日 中山浄光寺へ寄進状発給。 平 胤継 北朝方
応安2(1369)年8月18日 弟・宗杲上座に筑前国曲村地頭職と公文職を譲与。 千葉前常陸介胤継 北朝方
応安5(1372)年2月13日 菊池武政との戦功によって今川了俊から小城郡を安堵。 千葉介胤泰 北朝方

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