千葉胤平

肥前千葉氏

○肥前千葉氏の一族○

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千葉胤平(????-1335?)


 肥前千葉氏四代。千葉大隈守胤貞の二男。通称は孫太郎。鎌倉時代末期、兄の千葉高胤が肥前小城郡の地頭職を継承したが、おそらく早世したため胤貞が地を継承し、高胤の弟・胤平が嫡子とされた。

 『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(岩蔵寺過去帳)』という肥前国に関する古文書によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■謎 胤泰 胤基」と歴代が記載されている。

 建武元(1334)年12月1日、胤貞から小城郡・下総の所領を譲渡された(建武元(1334)年12月1日『千葉胤貞譲状』:『中山法華経寺文書』)。この書状の中には「そうりやう職」「嫡子」「孫太郎胤平に永代譲り渡すことが書かれている。胤平がこの当時どこにいたのかは不明だが、胤貞の下総の所領(八幡庄・千田庄)にいたのかもしれない。

 建武3(1336)年、畿内で敗れた足利尊氏が九州へ渡った際、父・胤貞も尊氏に同道し、肥前小城の館に入ったといわれている。このとき、田中行祐小城郡砥河保内得久名田地をめぐって争っていた納所三郎が、所領は自分の土地とする証拠の相伝文書を胤貞に見せている。小城郡地頭職は胤平に譲られたとはいえ、胤平が東国にいたため胤貞が地頭職の実務を行っていたと推測される。しかし、胤貞は同年11月、下総へ帰る途中の三河国で病死してしまった。

 翌建武4(1337)年、田中行祐はふたたび訴訟して地頭の千葉氏に訴状を挙げているが、このとき田中行祐が訴え出たのは、胤平ではなく「胤泰」であった。その後も肥前には次男である千葉胤泰の系統が領主として続き、子孫が肥前千葉氏となって発展した。一方、下総国八幡庄・千田庄を継承したのは、胤平の弟・胤継であった。

 康安元(1361)年9月17日『日祐筆文書目録』には、「孫大郎御労之時御寄進田ノ坪付一通」の書状について記載があるが、ここに記された「孫大郎」とは「孫太郎胤平」のことと思われ、胤平は「御労=病」となっており、その平癒を願って土地を寄進していたことがうかがえる。おそらく胤平も建武元(1334)年末から建武4(1337)年の間に亡くなっていたと推測される。

 病のために亡くなった胤平には瀧楠(胤■)」という子どもがあったものの、胤平が亡くなったときにはおそらく幼少であったため、故胤貞の妻(千葉ノ大方)胤継へ八幡庄・千田庄の譲状を渡していたのだろう。こうして胤継は下総千田氏の家督を継承したと推測され、のちに「瀧楠」は胤継(カ?)と千田庄内で紛争を起こしている。

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●胤平・直胤・胤直・瀧楠について

 『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(岩蔵寺過去帳)』という肥前国に関する古文書(現在は焼失)によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■継 胤泰 胤基」と歴代が記されている。ここに見える「高胤」は某年8月13日に「肥前国小城郡東方内高胤手取内田地伍町」「中山殿(下総国八幡庄中山本妙寺の日祐上人か)」に進上した平高胤のことと思われ、胤平の兄にあたる。ただし、胤貞から高胤に対しての譲状などはなく、高胤は早世したのだろう。

 胤平は建武元(1334)年12月1日、父・胤貞から所領を継承した。しかし、その後の胤平の活躍は見られない。これは胤平も早世したと見るべきか。胤平の跡は「直胤」「胤直」が見られるが、両名は系譜上でも見ることはできない。ただし「直」と「貞」は誤記される傾向が(15世紀初頭に先過去帳がまとめられた焼失前の史料によれば明確に字体が異なるが、先過去帳における際の誤写の可能性)ため、胤平死後は「貞胤(千葉介貞胤)」が地頭職を主張したものの、建武3(1336)年11月までに「胤貞」が取り戻し、その死後、「■継」が継いだ可能性もある。

 なお、「胤直」のあとの「■継」胤継のことと考えられ、そのあとの「胤泰」とともに胤貞の子である(胤泰は胤貞の弟だが、養子となる)。この両名は惣領家である胤継下総八幡庄・千田庄などの胤貞の本領を支配して下総千田氏の祖となり、庶流(次男家)の「胤泰」は肥前にとどまって肥前千葉氏の祖となった。胤継は観応元(1350)年7月11日、下総国千田庄内の土地を中山法華経寺に寄進しており、このころには胤継が八幡庄・千田庄を支配していたと考えられる。

 「胤平・直胤・胤直」の継承は文書では確認できないが、胤平の子と思われる瀧楠殿胤継(カ?)が下総千葉介を巻き込み、千田庄内で大紛争を演じていた形跡が残されている『某書状断簡』

 この文書によれば「千田孫太郎殿子息瀧楠殿「千葉介殿と一味同心」して千田庄内の大嶋城(香取郡多古町)を攻める企てをしている。「千田孫太郎殿」「孫太郎胤平」のことと思われ、瀧楠殿」はその子息ということになる。また、瀧楠殿」の「瀧」は「胤」であろうと思われ『岩蔵寺過去帳』にある「胤直」のことかもしれない。

◇『岩蔵寺過去帳』・『某書状断簡』・『千葉胤貞譲状』をもとにした想像系図

⇒千葉新介宗胤―+―胤貞――――+=日祐
   ∥    |(大隈守)  |(本妙寺貫主)
   ∥    |       |       
  明恵    +―胤泰    +―胤平――――胤■
         (刑部大輔) |(孫太郎) (瀧楠
                |
                +―高胤
                |
                |
                +―胤継――――胤氏―――→《千田千葉氏》
                |(大隈守) 
                |
                +=胤泰――――胤基―――→《肥前千葉氏》
                 (刑部大輔)(右京大夫)

●建武元(1334)年12月1日『千葉胤貞譲状』(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)

 ゆつりわたす所りやうの事

  右、ひせんの国小城郡下総国千田八幡両庄内知行分そうりやう職
  嫡子たるによりて孫太郎胤平に限、永代所譲渡也。庶子に分譲分ハ、
  かの状にまかせて、いらんあるへからす、乃譲状如件
     建武元年十二月朔日    胤 貞 (花押)

●康安元(1361)年9月17日『日祐筆文書目録』(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)

  文書等事
 
 一 故僧日高御譲状一通当寺等
 一 故殿胤貞御譲状一通外題安堵
 一 中山四至堺免田畠等一通  
 一 置文二通日常、日高
 一 故殿御契約之御譲状一通
 一 故僧譲状一通三谷堂免   日樹起請一通 同置文一通
 一 ■卿殿本尊被進状一通
 一 谷中郷一円御寄進状一通胤継 同御譲状一通
 一 御母状一通   日儀状一通付谷中御寄進事也、
 一 谷中徳重名蓮華院御寄進御状一通
 一 介殿御書下一通付中山安堵 竹光ノ宗兼状二紙付中山堂事、付茶薗事、
 一 ■山御下文一通胤貞并大方殿御両判有之、
 一 胤継御状一通永代不可有後背由事、
 一 胤継御状二通付谷中御寄進、   御母状二通同上
 一 谷中郷分三分一、二之分帳一通  三分二方ノ坪付等事一通
 一 谷中免田分帳二通    同百姓足等目安一通
 一 谷中郷三分二御寄進状一通初度也、
 一 鎮西御寄進状一通
 一 故僧御最後之時自殿御状一通御跡至子孫不可違由御誓言有之、
 一 ■■故僧可被思食由御状自故殿当身最初ニ給御状也、
    已上皮袋ニ入之了、

 一 中村妙見御神田御寄進状并御状 同坪付■■
 一 妙見座主如元事
 一 原郷妙見御神田事
 一 小城郡砥河保御神田御寄進状
 一 故殿本尊以下御願書五通鎮西ニ可有御寄合由事、
 一 鎮西妙見田可知行由御書一通
 一 孫大郎御労之時御寄進田ノ坪付一通
 一 さやまき進時替ノ御寄進之御状一通
 一 高胤御寄進状一通
 一 光勝寺御寄進状一通
 一 御立願之時御寄進田坪付一通五丁
 一 岩部太郎殿御状一通 鎮西御寄進田等不可有相違由事也、
 一 鎮西ノ帳一通
 一 公事如故殿御時御免之書下一通
    已上キンケウノ袋ニ入、千田、筑紫ト札付之、

 一 若宮戸御堂敷地事故殿  置文 日■
 一 次浦殿時若宮戸堂安堵事三通
 一 介殿御書下四通若宮戸  蓮一状二通貞家返事二通
 一 介殿御寄進状一通 若宮戸堂へ
 一 ■介殿若宮戸堂如元可渡之書下案一通
 一 ■田彈正返事一通
    已上カコノ布袋ニ入之、若宮戸ト札書付之、

 一 千葉ノ大方殿御状吉積ノ新三郎状 
 一のたいあやヽ御局ノ御文
 一 牛尾御寄進状一通  堂坪付等一通
 一 判初御状   
 一 千田庄内堂免可有御計由御状一通
 一 蘇谷卅番神御寄進田坪付
 一 日進御状一通
 一 向田入道本尊契約之状一通
 一 ■味■等注文一通  
 一 日運ノ譲状一通本尊聖教御堂
 一 胤泰御立願二通   
 一 檀世ノ尼御前ノ譲状一通
 一 胤泰、胤継御方への譲状一通 木積事
 一 自大方殿胤泰への譲状一通  
 一 胤泰御状一通 木積事
 一 座主改易不被知食由事胤泰御状也、
    已上シノフノ袋ニ入、雑々御状ト書付之、
 
 一 安久山御寄進状一通并具書六通  日樹ノ起請置文
 一 岩部御寄進状一通并具書五通  卿殿本尊被■
 一 ■殿御寄進状三通本尊、十羅刹妙見 中山ノ文■…
                     胤貞ノ御母儀■…
 
 一 紀平三名御書下一通  谷中坪付一通
 一 妙見座主職案正文ハ日明方へ遣之了、三谷堂御寄進、竹寿殿ノ御判
 一 為用意譲状等一結
    已上松ノ布袋ニ入之、岩部、安久山■■…書付之
 
      康安元年辛丑九月十七日記之、
 
     此外文書繁多之間、不及記之、

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