千葉胤貞

肥前千葉氏

○肥前千葉氏の一族○

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千葉胤貞(1288-1336)

 肥前千葉氏二代。千葉新介宗胤の嫡男。母は明意(明意大禅定尼)。通称は太郎。官途は従五位下・大隈守千田次郎泰胤より千葉惣領家が相伝してきた下総国千田庄・八幡庄に常住していたと思われる。

鎌倉小町の胤貞邸跡に建つ妙隆寺

 千葉宗家は肥前国小城郡に所領があり、文永8(1271)年、元寇に備えるため、幕府が九州に所領を持つ御家人を総動員した「異国警護番役」をうけ、胤貞の祖父にあたる千葉介頼胤が直臣を率いて九州へ赴いたことで、千葉宗家は小城郡に直接的に関わるようになった。

 頼胤は元寇のときに受けた矢傷がもとで建治元(1275)年8月16日、三十七歳という若さで亡くなったため、頼胤の嫡男で胤貞の父にあたる千葉新介宗胤が代わりに九州へ下ることとなった。

 宗胤に随って肥前へ下向した「供奉衆」として、

「平田、原、薗城寺、中村、鎰山、白井、岡崎、船岡、山崎、矢作、岩部、相原、平山、篠原、結篠、山口、福島、樋口、仁戸田、金原、小出、此外ニモ供奉衆有之」(『正東山古文書』)

 また、「千葉胤貞公」「御供之衆」として、

「原殿、円城寺殿、中村殿、あぎあま殿、平田、白井殿、岡崎殿、船岡殿、山崎殿、矢作殿、岩部殿、相原殿、平山殿、篠原殿、飯篠殿、山口殿、福島殿、ひ口殿、二戸田殿」(『妙見太刀神代家ヨリ献上ニ付而之記』)

 が見える。ほぼ同様の氏族名であるが、ここには岩部氏、中村氏、仁戸田氏、結篠氏、原氏、円城寺氏など、下総国千田庄を発祥とする千葉一族が随っている一方で、千葉六党ら有力千葉一族は随っていない。これは、千田庄の千葉一族は千葉介の「被官」であるが、千葉六党や近親らは幕府から「御家人」として遇されていて、「九州に所領を有する御家人・非御家人」に該当しなかったのだろう。千葉介頼胤宗胤は「被官」である岩部氏、円城寺氏らを随えて下っていったと思われる。

 その後の肥前千葉氏の家老として「千葉六老家」という家柄があったとされ、部、金原、円城寺、中村、結篠の六家であるという(『正東山古文書』)

 千葉新介宗胤が下総を留守にしている間、下総国の留守を任されていたのが、弟の胤宗(亀弥丸)であった。宗胤は正式に家督にはついていなかったようで(千葉新介)、元寇ののちも宗胤は幕命によって九州から戻れないため、胤宗が家督を継承したのかもしれない。胤宗の「宗」は、兄・宗胤と同じく執権・北条時宗からの偏諱と考えられることから、胤宗は時宗が亡くなる弘安7(1284)年4月までに元服して家督を継いだと思われる。

肥前千葉氏の下総の所領

 こういった複雑な背景の中、正応元(1288)年、胤貞は誕生した。胤貞が生まれた場所は不明だが、佐賀県小城郡小城町吉田圓明寺に伝わる元徳2(1330)年胤貞寄進の木造地蔵菩薩半跏像(佐賀県重要文化財)の背面銘に「常胤八代孫 胤貞 母儀明意 生■カ所建立也」とあり(『房総の郷土史』12:「九州千葉の祖 宗胤と明意のこと」淵上登美氏著)、胤貞が生まれた地に圓明寺が建立されたとすると、胤貞は肥前国小城郡生まれということになる。

 永仁2(1294)年1月16日、父・宗胤が三十歳で亡くなると、家督を継いだのだろう。胤貞は元服の際に得宗・北条貞時より一字を給わっているものと推測され、鎌倉に出仕していたと考えられる。つまり、元服の時期は北条貞時が執権職に就いていた弘安7年から正安3年(1284~1301)であると思われる。従弟にあたる千葉介貞胤もこの頃、同じように貞時から偏諱を受けて元服していると思われるが、貞胤が「貞」字を頭につけていることから、幕府は貞胤を惣領とし、胤貞の上に位置づけたのだろう。

 鎌倉にいた胤貞は、父・宗胤ゆかりの下総国八幡庄、千田庄を訪れるようになっていたと思われる。母親の明意はこの地方出身の女性であったのかもしれない。胤貞は日祐(のち本妙・法華寺三世。八幡庄曽谷村の豪族・曽谷氏の子とも)を幼少の頃から引き取って養子にしているが、所縁もない子供を突然養子にするとも思えず、胤貞とは何らかの親戚関係にあたる人物と思われる。日祐胤貞の母・明意と血縁関係にあったのかもしれない。日祐は永仁6(1298)年生まれであり、胤貞とはちょうど十歳離れている。

 家督を継いだ胤貞は鎌倉に出仕し、地頭職を有する八幡庄にも屋敷を構えたのだろう。この地には、父や祖父の被官であった富木常忍入道日常がおり、大田左衛門尉乗明がいた。

 元弘元(1331)年、胤貞は幕府の命により肥前国の反乱軍を討伐して功績があったと伝えられているが不明。元弘3(1333)年、足利尊氏が鎌倉幕府打倒の旗を揚げると、足利方に加わって倒幕に貢献し、後醍醐天皇が主導する「建武の新政」では新政府に仕えた。

 しかし、建武元(1334)年春、紫宸殿で執り行われた北条氏残党の調伏の儀式では、三浦介高継千葉介貞胤千葉介胤宗の嫡男)が御家人の最上位を占めており、胤貞は血統上は千葉家嫡流でありながら、庶流の立場におかれていたことをうかがわせる。胤貞の父は千葉介頼胤の嫡男・宗胤であり、本来であれば宗胤から胤貞へと千葉介が継承されていたであろうと推測されるが、元寇という不測の事態に遭遇して宗胤が九州へ赴いたため、下総国では宗胤の弟・千葉胤宗が「千葉介」を継承。結果として、胤宗から貞胤へそのまま千葉介が継がれていくこととなった。宗胤の嫡子・胤貞はこれに反発していたようで、南北朝の動乱期には千葉介貞胤の勢力と交戦している。

 千葉介頼胤―+―千葉新介宗胤――千田胤貞
(千葉介)  |(千葉新介)  (大隈守)
       |
       +―千葉介胤宗―――千葉介貞胤
        (千葉介)   (千葉介)

 宗胤異国警固番役のために九州へ下向し、元寇ののちも幕命により帰国ができなくなると、宗胤の弟・胤宗が千葉宗家の家督を継ぐこととなったが、八幡庄をはじめ、神保御厨(船橋市北東部)、千田庄(香取郡多古町周辺)は宗胤の私領として胤貞がこれらを継承した。また、胤貞自身も「千田胤貞」「曽谷胤貞」などと呼ばれており、胤貞が活動していた場所は九州ではなく、おもに八幡庄周辺であったことが推測される。祖父・頼胤の代に千葉宗家に仕えていた曽谷氏・富木氏、大田氏らが信仰していた日蓮宗を庇護し、曽谷氏の子ともいわれる日祐を猶子とし、富木氏・大田氏の屋敷跡に建てられていた本妙寺・法華寺(市川市中山)の三世としている。胤貞もみずから寺領を寄進するなど、下総日蓮宗のパトロンとなっていた。

●千葉宗家略系図
                     【千田千葉氏】
⇒千葉介頼胤―+―宗胤――――千田胤貞―+―胤継
(千葉介)  |(千葉新介)(大隈守) |
       |            |【肥前千葉氏】
       |            +―胤泰
       |
       |【下総千葉氏】
       +―胤宗――――貞胤―――――氏胤
        (千葉介) (千葉介)  (千葉介)

 建武元(1334)年9月27日、胤貞後醍醐天皇の加茂神社行幸に際して隨兵を勤め、また、「帯刀廿一番」の三番として随行した。

●『足利尊氏隨兵交名』(国立公文書館『朽木文書』)

一番 武田八郎次郎信明     十一番 小早川弥太郎 浅利太郎家継
二番 佐々木備中前司時綱     十二番 香川四郎五郎 二階堂丹後三郎
三番 千葉太郎胤貞 大高左衛門尉重成   十三番 香川左衛門尉頼行 何某
四番 佐々木源三左衛門尉秀綱 小笠原七郎頼氏   十四番 南部弥六政氏 三浦秋庭平三秀重
五番 野本能登四郎朝行 土肥佐渡次郎兵衛氏平   十五番 隠岐守兼行 海老名彦四郎秀家
六番 宇津宮遠江守貞泰 上椙蔵人朝定   十六番 萩原四郎基仲 萩原七郎三郎重仲
七番 二階堂信濃三郎左衛門行広 嶋津下野三郎師忠   十七番 日田次郎永敏 河野新左衛門尉通増
八番 三浦因幡前司貞連      十八番 足立安芸守遠宣 嶋津三郎左衛門尉
九番 小笠原七郎次郎頼長 田代豊前次郎   十九番 山名近江守兼義 土岐近江守貞経
十番 橘 佐渡弥八公好 小早川又四郎亮景   二十番 細川帯刀直俊 吉見三河守頼隆
        二十一番 富士名判官雅清 伊勢山城守元貞

 建武2(1335)年8月2日、足利尊氏が中先代の乱を鎮圧するために鎌倉へ下った際、胤貞も足利勢に加わった。8月9日の遠江国橋本の合戦で、「千田太郎、安保丹後権守等両人懸先高名之間、則浴恩賞了」(『足利尊氏関東下向宿次合戦注文』:『神奈川県史』史料編中世)とあり、胤貞安保丹後権守光泰とともに先駆けして高名を挙げたことがうかがえる。こののち、尊氏は京都への召還の勅命を無視して鎌倉に居座ったため、朝敵として追討されることとなり、11月、新田義貞を総大将とする尊氏追討軍が鎌倉に派遣された。

 胤貞は足利方=反朝廷方として活躍している一方で、千葉介貞胤は京都に残って新田義貞=朝廷方と行動をともにしており、両千葉家は敵対関係となっていた。建武2(1335)年中、「守護使」、つまり守護・千葉介貞胤の手勢が胤貞の所領である千田庄に乱入しており、『戒本見聞集』によれば、千田庄土橋(香取郡多古町)の東禅寺で行われていた講義の最中、にわかに守護使が乱入したという。

伝千葉家館跡(千葉地裁)

 11月下旬ごろ、「千田大隈守(胤貞)」が陸奥国行方郡の相馬一族・相馬孫次郎親胤とともに「千葉楯」に攻め寄せている。この「千葉楯」は千葉亥鼻城のことか、亥鼻城下にあった千葉家館か不明だが、このとき胤貞が下総国にあって千葉宗家の本拠地を衝いていることがわかる。かつての千葉宗家館は、現在の千葉地方裁判所の敷地であるといわれていて、明治時代まで四角に囲まれた土塁の跡が残されていた。

 12月、新田義貞を箱根竹之下に打ち破った尊氏は、そのまま京都に攻め上った。その中に胤貞がいたかどうかはわからないが、ともに千葉楯を攻めた相馬親胤「上洛」していたことが親胤の弟・相馬光胤の譲状からうかがうことができ(『相馬文書』)、胤貞も上洛していたと考えられる。

 上洛を果たした尊氏だったが、義貞とともに鎌倉を挟撃する予定だった北畠顕家(陸奥国司)が近江国坂本に逃れていた後醍醐天皇のもとに合流しており、建武3(1336)年1月、京都に攻め込んできた北畠顕家・楠木正成との戦いに敗れて京都を放棄。翌2月には追撃してきた新田・楠木軍摂津打出・豊島河原で戦って再び敗れ、瀬戸内海を通って九州へ逃れていった。しかし、翌3月には尊氏の陣に大友氏・少弐氏などの有力氏族が参陣し、筑前国多々良浜において肥後国の菊池武敏・阿蘇惟直ら九州の宮方の大軍と激戦を繰り広げた。これを多々良浜の戦いという。戦いは辛くも足利方の勝利に終わり、菊池武敏は討死した。

 一方、戦いに敗れた阿蘇惟直・惟成・惟澄兄弟は、阿蘇に逃れる際、胤貞の所領である肥前国小城郡を通ったため、小城の領民の攻撃にあって惟直・惟成は天山の山頂で自刃、末弟の惟澄のみが負傷しながらも14人を斬り伏せて阿蘇へ帰り着いた。

 3月3日、尊氏は太宰府に入り、九州の武士を召集した。肥前からは龍造寺善智・石志道覚・松浦斑島などが参陣しているが、胤貞は着到状に記載されておらず、つねに尊氏の側近として大宰府にあったのかもしれない。胤貞は尊氏とともに九州へ下っていたのは事実で、建武4年4月某日付『田中行祐申状』の中に「去年故殿鎮西御下向」という文言が見える。

 尊氏は3月8日から九州の宮方勢力掃討を開始し、わずか20日間で九州はほぼ足利方に平定され、薩摩国に島津貞久、大隅に畠山義顕、日向に伊東祐持・土持宣栄、肥後に相良長氏、豊後に大友氏泰(尊氏の猶子)・都甲信世、肥前に深堀時広、筑前に一色範氏・少弐頼尚、豊前に宇都宮冬綱を配置して、予定より5日遅れの4月3日に上洛軍を編成して九州を発った。

 尊氏は九州から京都へ向う中、播磨国において楠木正成・正季ら楠木一党を掃討し、さらに新田義貞の軍勢を破り、京都を奪還。後醍醐天皇・新田義貞らは近江坂本へ逃れ、尊氏は光厳上皇を擁立した。胤貞も尊氏の上洛軍に加わっていたものと考えられる。

光勝寺裏の伝胤貞墓所

 一方、これまで後醍醐天皇方の武将として活躍をしていた千葉介貞胤だったが、建武3(1336)年10月、新田義貞とともに越前へ入ったものの木芽峠で吹雪に遭い、足利一門・斯波高経の勧告を受け入れてついに降伏。胤貞が彼を鎌倉へ護送する役を命じられたが、胤貞は途中の三河において病に倒れ、11月19日、49歳で没した。法名は俊徳院日叡

 このときの状況が、金澤称名寺の沙門一乗から千田庄の東禅寺へ宛てられた年代不明12月13日の消息文に遺されている。「千葉介殿無子細、被参降人候之由、承及候之間、先悦入候、兼又、大隈殿災亡事、荒説に承候、実事候者、浅猿敷存候也」とあることから、千葉介貞胤の降伏の報告を受けたばかりであること、胤貞の死は荒説に過ぎないが本当であったら驚くべきことなどと、まだ確証が得られていないことがうかがわれ、胤貞が三河で亡くなった一か月後の建武3(1336)年12月13日の消息文であろうと推測される。

 胤貞の墓といわれる石塔が胤貞の猶子・日祐を開山とする松尾山光勝寺(小城市松尾)の裏手に遺されている。

鎌倉の千葉胤貞邸跡(妙隆寺)

 千葉胤貞の鎌倉における屋敷は、小町大路に面した一角にあり、現在の鎌倉市小町二丁目の日蓮辻説法跡の近く、叡昌山妙隆寺がその地とされている。胤貞が亡くなったのち、この屋敷が誰に相伝されたか不明だが、胤貞は日蓮宗に帰依していたこと、さらに同寺には、胤貞の猶子・日祐(中山法華寺三代)直筆の本尊が伝わっていることから、日祐が相伝した可能性がある。

 至徳2(1385)年、妙親院日英(中山法宣院主・日貞の弟子で、千葉氏所縁の埴谷重継の弟)は千葉邸跡に七堂伽藍を配置した広大な寺院・叡昌山妙隆寺を建立して開山となった。妙隆寺二代が、将軍・足利義教の政治を批判して、真っ赤に焼けた鉄鍋を被せさせられた久遠成院日親=鍋かむりの日親である。

◆中山法華経寺◆

中山法華経寺・祖師堂

 胤貞は日蓮宗の強力な庇護者(俗別当)で、下総の所領には胤貞がパトロンとなった日蓮宗の大寺院が現在も残り、中世下総の重要な日蓮宗の拠点となった。肥前千葉氏の祖となった胤貞は、本来千葉家の嫡々でありながら、叔父の胤宗の系統に「千葉介」が継承されていることに敵愾心を持っており、千葉介代々の信仰で、胤宗流が信仰していた真言宗とは別の宗教、新興の日蓮宗を庇護することによって、新たな道を開こうと考えていたか。

 千葉氏は千葉介頼胤(胤貞の祖父)のころ、千葉家=守護家の官僚として政務を担当していたと思われる富木常忍・曽谷教信らがおり、彼らはいずれも日蓮の説教に関心を示し、特に富木常忍は幕府からの迫害を受けた日蓮を庇護している。富木常忍はその後、「日常」として出家し、みずからの屋敷を「法華寺」に改めた。出家したのちも政務を見ており、あいかわらず千葉氏家臣としての側面も持ち合わせていたようである。

 日常の弟子となった大田乗明の子・日高(伊賀公)は、父・乗明の屋敷を「本妙寺」とし、その初代住持となった。千葉胤貞は日高の弟子として、猶子の日祐(大輔僧都。曽谷氏の子とも)を入門させ、寺領を安堵するなど、法華・本妙寺を盛り立て、日祐は日高の跡を継いで、法華寺・本妙寺の住持を兼ねる三代住持となった。こののちも、中山本妙寺・若宮法華寺は千葉氏の庇護を受けていくこととなる。

中山法華経寺・妙見堂

 室町時代に入ると、本妙・法華寺は原氏や千葉宗家の庇護を受けるようになり、室町時代後期になると、両寺は合併されて正中山法華経寺と号し、真間山弘法寺(市川市真間)と並んで下総日蓮宗の大本山となった。同寺に伝わっている中世の関東の歴史を伝える『中山法華経寺文書』は貴重な資料である。左の「妙見堂」の後ろに見える青い屋根は、法華経寺の前身・本妙寺の基となった法華堂(国重要文化財)である。

 法華堂のほか、同寺には祖師堂・四足門・五重塔といった国指定の重要文化財が遺されている。

 胤貞の九州での館は、小城郡甕調郷高田(三日月町高田)にあったといわれ、猶子の日祐は千葉家領内の小城郡松尾に日蓮宗の寺・松尾山光勝寺を創建。胤貞が開基となった。

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與
    下総国八幡庄谷中郷中山堂田地貳町在家屋敷事坪付有別紙

 右所者、為現世後生、大輔公日祐、自幼少養子として、ゆつり與所也、亡父名越殿遺骨を奉置候之間、殊しう心候、若於子孫中、い論のわつらいなす者出来候者、以此状上申、なかく不幸仁たるへく候、胤貞か跡において者、別子孫申可給候、仍為後譲状如件、
 
     元応二年十二月一日      平胤貞(花押)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞寄進状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  奉寄進

   妙見御神田合貳町事、下総国八幡庄谷中郷内奉寄進所也、仍状如件

    元応二年十二月一日  平 胤貞(花押)

●元応2(1320)年12月1日「千葉胤貞寄進状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  奉寄進
 
   十羅刹御神田壱町、下総国八幡庄谷中郷内田地、奉寄進候所也、仍状如件、
 
       元応二年十二月一日  平 胤貞(花押)

●正中元(1324)年10月13日「千葉胤貞置文案」(『肥前光勝寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

   胤貞之罪障深重候之間、條々申置事、
 
  一 於子孫、于本寺背申、不可為謗法事、
  一 家内謗法仁等、不可召仕事、
  一 於領中、他宗之寺社、不可為安置事、

  右、此條々、背於子孫者、法華経中之三宝妙見大菩薩之御罰を蒙候而、
  胤貞之跡、一分不可知行候、仍為末代、證状如件、

   正中元年甲子拾月十三日   平 胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與

  下総国千田庄原郷阿弥陀堂職田地七段、在家壱宇、
  同庄中村郷三谷堂職田地貳町五段、在家壱宇、
  同郷辻堂職田地五段、在家壱宇、同郷田地五段、
  在家壱宇、同庄金原郷内田地五段、在家壱宇、
  同国臼井庄嶋田村内又三郎名七段、在家壱宇、
  同真木野村神田五段、在家壱宇、同平戸村田地五段、
  在家壱宇、同古牟呂村以下、處々神田、
  同国八幡庄曾谷郷秋山村内田地貳町、在家壱宇、
  肥前国小城郡光勝寺職、同妙見座主職、
  同乙犬名坪付別紙在之、本妙寺職、所々注文別紙在之等事、

 右、所々田畠者、胤貞相伝私領也、然彼所々堂職等お、為中山堂免、師匠大輔阿闍梨日祐仁、永代奉譲處実也、天地長久御祈祷お、能々可被懸御心、代々殊者胤貞後生菩提お、可有御訪者也、若子々孫々中、致違乱競望、退伝法華経信心、違背中山者、為不孝仁、胤貞跡お壱分不可知行、仍為後日譲状如件、

    元徳三年九月四日    平 胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

 奉譲與

  師匠大輔阿闍梨日祐、所々田地坪付等事、

   下総国千田庄原、中村、金原参ヶ郷田在家、
   同国八幡庄曾谷郷秋山分、彼田地等載譲状、
   同国臼井庄嶋田、真木野、平戸、田地等譲状載之、
   同庄古牟呂村
     貳段  八幡神田
     六段  又四郎名
     四段  九郎三郎名
     一段小 又五郎名   本ハ壱町貳段尓
     一段  今下内    本ハ壱町五段尓
     三段半四十歩  うい内  本ハ壱町大尓
     四段  さき内
     参段  孫四郎入道名
  一 本妙寺職別紙在之

    元徳三年九月四日   平 胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月4日「千葉胤貞譲状」(『下総中山法華経寺文書』:『鎌倉遺文』所収)

  譲與所領事

    可令太輔公領知、下総国八幡庄内中山□□免事、

  右所者、太輔公譲與所也、代々、殊者胤貞後生ほたいを能々心にかけられるへし、
  いつれの子孫たりといふとも、彼所にいらんわつらいをなすへからす、仍為後日状如件

    元徳三年九月四日    平 胤貞(花押)

●元徳3(1331)年9月5日「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

  先帝遷幸叡山事、可防申之旨、已被下、院宣云々、仍為對治凶徒等、
  所被差進貞真、貞冬、高氏也、以此趣、可被申入西園寺家之状、依仰執達如件、

   元徳三年九月五日    右馬権頭(御判)
               相模守 (御判)
    越後守殿
    越後左近大夫将監殿
   被成御教書人々次第不同

  武蔵左近大夫将監       遠江入道
  江馬越前権守         遠江前司
  千葉介(貞胤)        小山判官
  河越三河入道         結城七郎左衛門尉
  長沼駿河権守         佐々木隠岐前司
  千葉太郎(胤貞)       佐々木近江前司
  小田尾張権守         佐々木備中前司
  土岐伯耆入道         小笠原彦五郎
  佐々木源太左衛門尉      狩野介入道
  佐々木佐渡大夫判官入道    讃岐国守護代駿河八郎
 
      以上廿人、暫可在京之由、被仰了
   島津上総入道        大和弥六左衛門尉

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

   楠木城   一手東 自宇治至于大和道
  陸奥守       河越参河入道
  小山判官      佐々木近江入道
  佐々木備中前司   千葉太郎(胤貞)
  武田三郎      小笠原彦五郎
  諏訪祝       高坂出羽権守
  島津上総入道    長崎四郎左衛門尉
  大和弥六左衛門尉  安保左衛門入道
  加地左衛門入道   吉野執行

   一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助     駿河八郎
  千葉介(貞胤)   長沼駿河権守
  小田人々      佐々木源太左衛門尉
  伊東大和入道    宇佐美摂津前司
  薩摩常陸前司    □野二郎左衛門尉
  湯浅人々      和泉国軍勢

  一手南西 自山崎至天王寺大路
  江馬越前入道    遠江前司
  武田伊豆守     三浦若狭判官
  渋谷遠江権守    狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道     信濃国軍勢

  一手 伊賀路
  足利治部大夫    結城七郎左衛門尉
  加藤丹後入道    加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道  美濃軍勢
  尾張軍勢

  同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
  同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

  大将軍
  陸奥守遠江国            武蔵右馬助伊勢国
  遠江守尾張国            武蔵左近大夫将監美濃国
  駿河左近大夫将監讃岐国       足利宮内大輔三河国
  足利上総三郎            千葉介(貞胤)一族并伊賀国
  長沼越前権守淡路国         宇都宮三河権守伊予国
  佐々木源太左衛門尉備前国      小笠原五郎阿波国
  越衆御手信濃国           小山大夫判官一族
  小田尾張権守一族          結城七郎左衛門尉一族
  武田三郎一族并甲斐国         小笠原信濃入道一族
  伊東大和入道一族          宇佐美摂津前司一族
  薩摩常陸前司一族          安保左衛門入道一族
  渋谷遠江権守一族          河越参河入道一族
  三浦若狭判官            高坂出羽権守
  佐々木隠岐前司一族         同備中前司
  千葉太郎(胤貞)

  勢多橋警護
  佐々木近江前司        同佐渡大夫判官入道

●建武元(1334)年12月1日『千葉胤貞譲状』(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)

 ゆつりわたす所りやうの事

   右、ひせんの国小城郡下総国千田八幡両庄内知行分のそうりやう職、
   嫡子たるによりて孫太郎胤平に限、永代所譲渡也。庶子に分譲分ハ、
   かの状にまかせて、いらんあるへからす、乃譲状如件

     建武元年十二月朔日    胤 貞 (花押)

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