平常長――+―平常家
(下総権介)|(坂太郎)
|
+―平常兼―――平常重――――千葉介常胤――千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤
|(下総権介)(下総権介) (下総権介) |
| |
| +―千葉常秀―――千葉秀胤
| (上総介) (上総権介)
|
+―平常晴―――平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
(上総権介)(上総権介)|(上総権介) (伊北庄司)
|
+―印東常茂
|(次郎)
|
+―平広常――――平能常
|(上総権介) (小権介)
|
+―相馬常清―――相馬貞常
(九郎) (上総権介?)
|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
(????~????)
上総権介広常の甥で、父は広常弟・相馬九郎常清。母は不明。通称は太郎。「定常」とも。能常の子ともされる(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』所収)。
彼が「上総権介」になったかどうかは、『吾妻鏡』にも記載がないため不明だが、『神代本千葉系図』によれば貞常は「上総介」とされ、『松羅館本千葉系図』では「左馬介」とされる。「左馬介」に関しては、『吾妻鏡』の別本『吉川本吾妻鏡』に「相馬介」と記されている。「相馬」という文字は、「左右馬」と記されることがあり、「左馬介=左馬助」ではなく「相馬介」と考えることもできる。
足利蔵人義兼が「上総介」に任じられたのが文治元(1185)年8月16日の小除目で、29日に除目が鎌倉へ到着している。なお、この小除目ではほかに山名伊豆守義範・大内相模守惟義・加賀美信濃守遠光・安田越後守義資・伊予守源義経が受領となっている。
しかし、古本『吉川本吾妻鏡』で「相馬介」の文言が見えるのは、文治2(1186)年6月11日の熊野山領上総国畔蒜庄の地頭職の件についてであり、この頃にはすでに足利義兼が上総介である。この件については、『吾妻鏡』には「於其地下者、上総介、和田太郎義盛、引募之處」とあるが、『吉川本吾妻鏡』では「上総介」の部分が「相馬介」となっている。ただし、和田義盛より上位にある人物であれば、足利義兼と考えるのが妥当であり、貞常ではないだろう。
貞常の子・角田太郎常親は、千葉介胤正の娘を娶って千葉宗家と縁続きになっている。おそらく千葉氏に従ったと思われ、常親は名を「胤親」に改めた。上総平氏の一族に過ぎない常親に千葉介胤正の娘が嫁いでいることは、おそらく貞常流相馬氏が上総平氏の宗家的な立場にあり、千葉氏は縁戚となって上総平氏惣領家を吸収したのだろう。
文明年中(1469~1489)初頭の諸大名の家紋集である『見聞諸家紋』によれば、「角田或人曰與上総介同紋云々」として、黒地に白抜き九曜紋が掲載されている。角田氏はこの貞常の末裔であり、「上総介」との関連を想像させる。
|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
copyright(c)1997-2009 chiba-ichizoku all rights reserved.